第39号2014年6月発行分 |
寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第41号<2016年7月発行> |
「ともかくも
そうは言うものの作者は誰なのか、どんな状況下で詠まれた句なのか気になって調べたところ、 「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」 等で有名な小林一茶(1763―1828)の句だとわかりました。
一茶の生涯 小林一茶(本名・弥太郎)は、宝暦13年(1763)、信濃北部の北国街道柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれました。 「我と来て遊べや親のない雀」 これは一茶が子供時分の母親のいない寂しさを詠んだ句です。 8歳で父が再婚。 江戸に出た一茶は、いつしか俳諧(俳句)に親しむようになり、この道で身を立てようと決意します。 29歳の時、14年ぶりで故郷に帰った折の紀行文『寛政三年紀行』の冒頭で、彼は 「西にうろたへ、東にさすらひ、一所不住の狂人有り。旦(あした)には上総に喰ひ、夕には武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶坊という」 と、自らを「一茶」―放浪の身で、茶の泡のように消えやすい者―と記しています。 ほどなく江戸に戻った一茶は、30歳の春から関西、中四国、九州地方を巡る6年間の旅に出て各地の俳人たちと交流し、また多くの句を作りました。 諸国行脚を終え、37歳で「二六庵」を襲名し一派の宗匠となった一茶は、39歳の春に再び帰郷しますが、その1ヵ月後に父が病気に倒れ、一茶の懸命の看護もむなしく亡くなります。(『父の終焉日記』) 死の直前、父は弟に対して一茶と財産を等分するよう遺言しましたが、自分たちが増やした財産を長年不在の、しかも江戸でそこそこ自活している兄に渡すのを嫌がった継母・異母弟と一茶は相続を巡ってその後、激しい争いを続けることとなります。 「古里やよるもさわるも茨(ばら)の花」 50歳の時、一茶は、故郷での定住を決意し、 「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」という句を残して江戸を引き払います。 翌年、父の十三回忌の折、菩提寺明専寺の住職の仲介で弟と和解。 ようやく父の財産(家、田畑、山林)を受け取ることができました。 「これがまあ終(つい)の栖(すみか)か雪五尺」 「不思議なり生まれた家で今日の月」 そしてその翌年52歳で、28歳の菊を妻に迎え結婚。 「五十聟(むこ)天窓(あたま)をかくす扇かな」 ところがここから一茶の不幸が再び始まります。 年下の妻との間に三男一女をもうけますがいずれも早世しました。 結婚の2年後に生まれた長男千太郎は生後数週間で死亡。 その翌年に生まれた長女さとも満1歳になった直後、疱瘡のため亡くなります。 さらにその翌年生まれた次男石太郎も3ヵ月で死亡します。 有名な 「やせ蛙まけるな一茶これにあり」 の句ですが、春の蛙の産卵時期に起こるオス同士によるメスの奪い合いを見て詠んだこの句の「やせ蛙まけるな」とは実は病弱な長男(生後数週間で死亡)に対する「死ぬな」とのメッセージだったと言います。 「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」 (ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、千太郎は小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ)という一茶の悲しみの句です。 また、数えの2歳になる正月には 「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」 と詠んで愛した長女の死に際しては、 「露の世は露の世ながらさりながら」 (この世は無常だと分ってはいるけれど、それでも……)と、その死を受け入れられない嘆きを詠んでいます。 次男の命名の際には、 「岩(いわお)にはとくなれさざれ石太郎」 とその健康な成長を願っていますが、それもかないませんでした。 一茶自身も58歳の時に脳卒中で半身不随になり、回復はしたものの63歳の時に再発、言語障害を起こしてしまいます。 一茶61歳の年、妻菊が37歳で病死。 前年生まれていた三男金三郎も同年に亡くなります。 翌年一茶は、2番目の妻雪と再婚しますが数ヵ月で離婚。 2年後3番目の妻やをと結婚するも翌文政10年(1828)、柏原宿を襲った大火で自宅が類焼。 焼け残った土蔵の中で身重の妻(翌年娘を出産)に看取られながらこの世を去りました。 行年65歳。 法名は釈一茶不退。 念仏者一茶 法名に「釈」とあることから知られるように一茶は浄土真宗の篤信の念仏者です。 彼が生まれた柏原宿は村民のほとんどが門徒という真宗の盛んな土地柄であり、彼の父も死を目前に一茶の手を取って、 「(一緒に阿弥陀如来の極楽浄土へ)いざ行かん、いざ行かん」 と語るほどの熱心な門徒でした。 彼自身、江戸に出た若き日から晩年まで寺に足を運び仏法聴聞にいそしんでいましたから、一茶が遺した俳句や文章の中には彼の信心の在り様が窺われるものが数多くあります。 冒頭の「ともかくもあなた任せのとしの暮」の句もその一つですが、この句は最愛の長女を喪った文政2年(1819、一茶・57歳)に詠まれました。 このことから知られるように、一茶の「あなた任せ」は何も泰然と悟り澄ました心情を表すものではありません。 甘受し難い人世の無常(「露の世」)に「露の世は露の世ながらさりながら」と懊悩し、遺産相続争いのさなかには、 「名月の御覧の通り屑家哉」 (満月の見事な月を見てご覧。その月光の下の我が家は何とご覧の通りの屑のようなぼろ家であることか)という句に、生家(=屑家・とるに足らないあばら家)の所有を争って口角泡飛ばし合う己の姿に自嘲しながら、それでも継母に対しては憎悪の虜となって「大蛇」と罵倒せざるを得ない。 (そうまでして取り戻した「終(つい)の栖(すみか)」もやがて大火で失われます) また、農家の出でありながら、これも係争の末獲得した田畑を自ら鍬を取って耕すこともせず、妻に丸投げして、ひたすら句作のみに耽る。 「春がすみ鍬とらぬ身のもつたいな」 そんな「地獄の種を今日(けふ)もまく」「おれがこころ」※1を見通し※2、その罪と苦しみを共に背負って生死の大海を渡さんと誓って下さった如来の悲願を信じ、念仏してその願力の「船筏(ふねいかだ)」※3に煩悩具足のこの身を托して、地獄一定の生きざまを生きる他はない、という悲しみに満ちた「覚悟」の表明、それが「あなた任せ」ではないでしょうか。 「あなた任せ」で悩まないのではありません。 とことん悩み苦しんで右往左往し、その「結果」については「あなた任せ」なのです。 (『西念寺だより 専修』第41号に掲載) 【参考文献】 早島鏡正「俳諧寺一茶の仏教観」(『近世の精神生活』 大倉精神文化研究所編集/続群書類従完成会刊・1996) ※1 「露散るや地獄の種をけふ(今日)もまく」 「はずかしやおれがこころと秋の空」 「春立つや愚の上に又愚に帰る」 ※2 |
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