法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第36号<2011年6月発行>
 
 

親鸞聖人750回御遠忌に想うこと
         ― 「寛喜の内省」私考
 

今年、平成23年(2011)は、弘長2年(1262)に亡くなられた宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌にあたり、本山東本願寺においては本年3月19日より盛大に御遠忌法要が営まれることが予定されておりました。

遠忌開催を目前にした去る3月11日、東北・関東地方を未曾有の巨大地震と津波が襲い、多くの人命が喪われましたが、福島第一原発 では今なお予断を許さない状況が続いています。

震災直後、報道された現地の状況を目にした多くの心ある人たちは皆、

「何か自分にできることはないか。してあげられることはないのか。」

と自問自答しておられたことと思います。

あれから3ヵ月が経った今、私はあらためて

「親鸞聖人なら、どうなさっただろうか。」

と考えています。
親鸞聖人ならばどう考え、どう行動し、どんな言葉を発せられたのか、と。

聖人の生きられた時代(1173―1262)は、大きな飢饉に繰り返し見舞われた時代でありました。
聖人が59歳(寛喜3年・1231)の年、日本中が大飢饉に見舞われました。
(いわゆる「寛喜の大飢饉」です。)

前年の冷夏による農作物の不作の影響で3月から多くの人々が餓死し、時の政府(幕府)も種々施策を講じたもの「焼け石に水」。
多くの遺体がいたるところに放置されていたそうです。

そんな飢饉のさ中の4月上旬、聖人は病いの床に伏せっておられました。
『恵信尼消息』が伝えるところによれば、高熱にうなされて朦朧とした意識の中で聖人はひたすら『大無量寿経』を読んでおられたそうです。※1

当時、飢饉などの災厄に見舞われた際には、時の政府が多くの寺社・僧侶に天候の回復と飢饉の終息を祈願して読経するよう命じていたものでした。
(現代からすれば非科学的に見える行為でしょうが、当時は言わばそれが最先端の「科学」であり、「政府による対策措置」だったのです。)

病臥される前、聖人が餓死していく人々に対して具体的に何をなさっていたのかはわかりません。しかしその発病は、おそらくは「何とかしてあげたい」という思いと「何もできない自分」の現実との板ばさみに疲労困憊した末のことではなかったか、と思われます。
斃れていく人たちへの思いが聖人をして高熱の中で『大経』を読ましめていたのでしょう。

今回の震災に対しても、何がしかの義捐金を納め、報道を目にする時こそ胸の痛みを覚えるものの、日常の食事や電力消費に何の心配もなく、 夜ともなればたっぷりの湯につかり、柔らかい寝床に入る。
挙句の果ては「今、東京電力の株を買えば儲かるかも……」とまで考えてしまう私たちと何という違いでしょうか。

しかし、病臥して8日目の朝、聖人は「まはさてあらん(今はこうしよう)」との言葉と共にその読経を打ち切られます。

『恵信尼消息』はその時の聖人の御述懐を次のように伝えています。※2

床に臥せって2日目あたりからひたすら『大経』を読んでいた。
目を閉じると目の前にくっきりと経の文字が浮かんでくる。

これは何事だろうかと考えてみると、今から17、8年前、やはり飢饉の時に「衆生利益」(天候の回復・飢饉の終息の祈願)のために『浄土三部経』を千部読もうと思い立ち、数日間は実行したものの、

「本願の念仏をみずからが信じ、また人にも教えて信じさせることこそが本当の意味で人々を助け、また仏様の恩にも報いる道であると信じながら、いったい何が不足で自分は経を読もうとしているのであろうか。
読経という善根を積んでその功徳を衆生利益のために振り向けるということ自体が、あたかも自分の読経が衆生に利益をもたらし得るほどの善行である、言い換えれば自分が善を行じることできる者である、という自分と自分の行為への過信(「自力の執心」)ではないのか。」

と思い返して止めたことがあった。

しかし、今回の大飢饉を前にして、人々を無為に死なせたくないと思うあまり、知らず知らずのうちにまたしても自分は読経の力にすがろうとしていたのであろう。

だが、持戒堅固・一生不犯の清僧が読経するのならばいざ知らず、自分は妻をもち魚肉をも食する煩悩まみれの無力な一人の念仏者でしかない。
このような自分の読経に何の効力もない。

法然上人の教えに従い、

「共に念仏して、阿弥陀さまの大悲を憶念しながら、一緒にこの世の苦しみに堪えていこう。」

こう語り続けることしか自分にはないではないか、「今はこうしよう」とそう決着した時、経を読むことも自然に止まったのだ、と。

「寛喜の内省」として知られる親鸞聖人59歳のエピソードをこのように理解する時、聖人の「念仏申せ」「南無阿弥陀仏をとなうべし」との仰せを私たちは、「上から目線」、「高み」からの教えとしてではなく、

「おまえは一人ぼっちではない。
 見ていてくださる方・悲しんでくださる方(阿弥陀仏)が必ずいる。
 だからそれを信じて一緒に生きて行こう。
 共に人生の過酷さに堪えていこう。
 そして、共に死んでいこう。」

という温かな呼びかけとして受け止めて行くことができるのではないでしょうか。

(『西念寺だより 専修』第36号〈2011年6月発行〉掲載)
 

※1.2『恵信尼消息』第5通

善信の御房(筆者注・親鸞聖人のこと)、寛喜三年四月十四日(実際には「四月四日」)午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。
頭のうたせ給う事もなのめならず。
さて、臥して四日(実際には「八日」、四月十一日)と申すあか月、苦しさに、

「今(ま)はさてあらん」

と仰せらるれば、

「何事ぞ、たわごととかや申す事か」

と申せば、

「たわごとにてもなし。
臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。
たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。
さて、これこそ心得ぬ事なれ。
念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。
人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。
さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」

と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。

『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年(建保二年・1214)、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。


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