「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓いに あうと思えば」(良寛禅師)
〔意訳〕
私は自分が愚かな身であることがかえってうれしい。
愚かだからこそ私は阿弥陀仏の「必ずお前を助ける」という誓いに気づくことができたのだから。)
念仏者良寛さん
江戸時代の禅僧良寛(1758―1831)は、越後出雲崎(現新潟県三島郡)の名主山本家の長男(幼名栄蔵)として生まれました。
18歳の年(3月)に父の跡を継ぐべく「名主見習」となりましたが、早や7月には生家を出て近郷の禅宗寺院光照寺に入ります。
4年後、22歳の時、光照寺を訪れた備中玉島(現岡山県倉敷市)の円通寺住職国仙和尚に入門、得度して正式に僧侶となり、34歳まで円通寺で修行します。
33歳の時、師国仙より「印可の偈」(いんかのげ・仏道の悟りを得た証明)を受け、翌年、師の死を見送った後諸国行脚の旅に出、5年後に郷里に帰ります。
それ以降は郷里越後の地で小さな草庵に独り住み、一寺の住職となることもせず、托鉢によって日々の糧を得るという貧しい暮らしを続け、74歳で亡くなります。
冒頭の短歌からも知られるように、良寛さんは禅宗の僧侶でありながら宗派の垣根にこだわることがなく―ある人はこれを「雑炊宗」(ぞうすいしゅう・、つまりはごった煮)と呼んでからかったそうですが―、阿弥陀仏に対する深い信仰(念仏の信)の持ち主でした。
(ちなみに良寛さんの墓は三島郡和島村島崎の浄土真宗隆泉寺にあります。)
この他にも、
「我ながら うれしくもあるか 弥陀仏の
いますみ国に 往くと思えば」
「草の庵に 寝てもさめても もうすこと
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
「良寛に 辞世はあるかと 人問わば
南無阿弥陀仏と いうと答えよ」
といった数多くの念仏歌を残しています。
愚かなるわが身
― 無力な自分に涙する ―
自らを「大愚(たいぐ)」と号し、冒頭の短歌でも自分を「愚か」と呼んだ良寛さんですが、この愚かとはどう意味なのでしょうか。
私はこの「愚」は「愚鈍」と言うよりむしろ「愚直」と言う意味だろうと思います。
あまりにも愚直―まっすぐで正直であったがために世間からドロップアウトせざるを得なかった人、それが「大愚良寛」という人ではなかったのでしょうか。
良寛さんが読んだ漢詩にこんなものがあります。
「少年捨父走他国 少年より父を捨てて他国に走り
辛苦画虎猫不成 辛苦 虎を画いて猫にも成らず
有人若問箇中意 人あってもし箇中(こちゅう)の意(こころ)を問わば
箇是従来栄蔵生 これはこれ従来の栄蔵生」
〔意訳〕
名家の跡取りとして家業を盛り立て両親に孝行を尽くすべき長男でありながら、私はその義務も何一つ果たせないまま出奔して仏門に入った。
そうまでして僧侶の道を選んで長年修行を積んだのにその甲斐もなく、虎どころか猫にもなれず、「お前の境地はどんなものか」と問われるなら、出家前の危なっかしい栄蔵(良寛の俗名)と何も変っていない。
世の中の厳しい現実の前でただオロオロと嘆いているばかり私である。
ある時良寛さんは、生家山本家を継いだ甥(弟の息子)の放蕩ぶりに手を焼いた母親(義妹)から頼まれ、甥に意見するため生家を訪ねます。
何か言おうと思ってもどうしても言葉が出ない。
どうでもいい話でお茶を濁しながら三日ほど滞在した後、出発する段になって玄関でわらじを履きかけた良寛さんは、ふとその手を止めて、甥にわらじの紐を結んでくれるよう頼みます。
甥が「伯父さん、何か小言を言うつもりだな」と身構えながら紐を結んでいると、首筋にぽたりと冷たいものが落ちました。
びっくりして見上げると良寛さんの目からは涙が……
良寛さんは無言のままでしたが、甥は良寛さんのひざに抱きつき、それまでの自分を深く恥じたそうです。
心すさんでいく甥。
傾いていく生家。
そしてその現実に対して何もできない、何もしてやれない自分の無力さ、ふがいなさ。
涙する良寛さんの胸中にはおそらくそれらの思い、悲しみが激しく渦巻いていたのでしょう。
良寛さんの「愚かなる身」の述懐にはそんな背景があったわけですが、ではなぜそれが「かえってうれしいこと」のでしょうか。
「神や仏は泣いている」
― 黒澤明「乱」―
私がまだ学生だった1985(昭和60)年、黒澤明監督(1910―1998)の映画「乱」が上映されました。
戦国時代のある国を舞台に、一族の激しい内部抗争の果てに主要登場人物がすべて殺されていく、というはなはだ救いのないストーリーなのですが、その中に私がいまだに忘れることのできないセリフがあります。
映画も終了近く、主人公とその息子の死を目の当たりにしたある登場人物が天に向かって泣きながら叫ぶのです。
「神や仏はいないのか、
畜生!
いるなら聞け!
お前らは気まぐれないたずら小僧だ!
天上の退屈しのぎに人を殺して喜んでやがる。
やい!
人間が泣き叫ぶのがそんなに面白いか!」
天を呪うその声を同じ場に居合わせたもう一人がこういさめます。
「言うな!
神や仏を罵るな!
神や仏は泣いているのだ。
いつの世にも繰り返すこの人間の悪行、殺しあわねば生きていけぬ人間の愚かさは、神や仏も救う術はないのだ。」
そしてこの映画は最後に、荒れ城に打ち捨てられた一枚の仏画「阿弥陀如来像」のアップ(大写し)で終わっていくのです。
黒澤監督は製作発表の折、
「天の視点から、人間のやっていることを腑瞰の目で見て描きたい。」
と語ったそうですが、黒澤監督語るこの「天の視点」「俯瞰の目」とは、もしかしたら「人間の悪行・愚行を見て泣いている神仏」、それも最後の仏画のシーンに象徴される「阿弥陀仏
」の視点だったのかも知れません。
作家高史明(コ・サミョン)氏は、人間は誰もが、その胸底に本人にもそれと意識されない「一粒の涙」を抱いていると言います。
どんな人の胸にも、人として生れ落ちた時、その胸底にふるえる滴のように置かれた涙があり、その涙は、人が悲しみや苦しみに襲われ言葉を失くして泣く時、涙を流すその人のうちになって共に泣いてくれる涙である。
人がその涙と向かい合うことができた時、人の生と死をともに包み込んでくれる力がおのずから人のうちに湧きだしてくるのだとも言われます。
高氏語るところのその「一粒の涙」とは、おそらくは人間を救う術もなく涙する「神仏」、つまりは「阿弥陀」の悲しみの「涙」ではないでしょうか。
人は自らの愚かさに涙する時、この愚かな私を悲しんで涙する仏と出遇うのです。
(「愚か」だからこそ出遇えるのです。)
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に南無せよ)とは、この私に届けられた仏さまの「涙」、もしくは涙ながら「言葉」なのではないでしょうか。
この仏の「涙」にふれる時、自らの無力さに泣いた良寛さんの涙がはからずもすさみ強張った甥の心を溶かしたように、人は自分の存在を、人生を、愚かさも罪深さも、生も死も、全部含めて受け容れて、その分際を尽くして生きていく勇気と力とを与えられるのではないでしょうか。
良寛さんの念仏歌をもう一首紹介します。
「不可思議の 弥陀の誓いの なかりせば
何をこの世の 思い出にせん」
〔意訳〕
もし、私が阿弥陀仏の誓い(この涙)に出遇うことがなければ、私は自分の人生に何の意味も見出せないまま、この世に何のうれしい思い出もなく、ただ苦しみと後悔、自責だけの人生を終わってしまったことだろう……。
(『西念寺だより 専修』第34号〈2009年7月発行〉掲載)
〈参考文献〉 吉野秀雄『東洋文庫 良寛歌集』(平凡社・1992)
安藤英男『良寛 ―逸話でつづる生涯―』(すずき出版・1986)
高史明『生きることの意味 ―ある少年の生い立ち―』(筑摩書房・1974)
〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
「良寛記念館」
「黒澤明デジタルアーカイブ」 |