寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第32号<2007年7月発行> |
しょうじょうだいしょうじゅ・だいあんに NHKドラマ『純情きらり』 昨年の4月から9月までNHKの朝の連続テレビ小説で『純情きらり』(脚本・津島佑子)というドラマを放映していました。 昭和初期、3人姉妹の末っ娘として生まれ、終戦直後に結核のため若くして亡くなった女性の半生を描いたものでしたが、このドラマの中で私が大変印象に残った台詞がありました。
結婚に失敗し産婆(助産師)として再出発した彼女が初めて単独で赤ん坊を取り上げた直後のシーンです。
そう語る彼女からは初めて『居場所』を得た喜びと、苦労の末身につけた「技術・知識」によって自分にも人を幸せにすることができるのだという「自信」が滲み出てきているようでした。
しかし、「『居場所』を得る」ということと「誰かを幸せにする」ということとはいったいどんな関係があるのでしょうか。
その時に思い出したのが、かつて県立赤碕高校で高塚人志先生(現鳥取大学医学部助教授)を中心に行われていた「レクリエーション授業」の話でした。 赤崎高校「レク授業」とは、他者との良い関わり方を知らず、良い人間関係の築き方を知らない子供たちに、2年間(2、3年生)のカリキュラム―コミュニケーション・ゲームやグループワーク・トレーニング、保育所園児や高齢者施設利用者との長期にわたる交流、高校生と園児との運動会の企画運営などを通して人間関係体験を学習してもらおうという実践授業なのですが、私が思い出したのはその中の保育園児や高齢者の交流との中で起きた事柄です。 高塚先生の著書によれば、交流の開始にあたって生徒たちは、
という不安ととまどいを胸に、緊張して施設(保育園)を訪れます。
と心を揺さぶられ、
と実感します。
「こんな自分でも役に立てる」という『役立ち感』がやがて「こんなに自分の命って価値があるのか」「生きていて良かった」「自分を好きになれる」という『自己肯定感』(自尊感情)を育み、それが自信となって今度は他に対する「思いやり」や意欲を生んできます。
『純情きらり』に話を戻せば、自らの習得した技術によって他人を幸せにすることができ、自分の存在に「自信」が持てる。 では彼女が語ったもう一つのキーワード、『居場所』とはどういう意味なのでしょうか。
園児や高齢者などそばにいる人から喜ばれて生徒たちは『役立ち感』を覚える、と高塚先生はおっしゃいます。 この『役立ち感』とは実は『受け入れられ感』と言い換えることが出来るのではないでしょうか。
『受け入れられ感』。 そのことがこの上なくありがたくて嬉しくて、何とか応えよう、喜んでもらおうと結果、拙いながら精一杯に頑張る、という好循環が生まれたのではないでしょうか。 また『役立ち感』とは言っても、「自分が役に立つ・立たない」は実は自分で決められるものではないのではないでしょうか。 園児や高齢者が自分を、未熟なけれどそれなりに一生懸命な今のこの自分をそのまま受け入れてくれたからこそ、「自分の存在にも価値がある」と、自分で自分を受け入れることができたのではないでしょうか。 「役に立つ自分だから受け入れてもらえる」ではなく、「こんな自分でも受け入れてもらえる世界(場所)がある」から「その役に立ちたい」と思うのでしょう。
今の自分をそのまま受け入れてくれる場所、自分が自分であることに安んじていられる場所。それが『居場所』ということではないでしょうか。 「清浄大摂受・大安慰」 阿弥陀仏という仏さまは、まさしく私たちに対して、 「あなたに『居場所』を与えたい。 と呼びかけてくださっている仏さまではないか、と私は考えるのです。 今回のタイトルに挙げた「清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)」「大安慰(だいあんに)」という言葉は、いずれも曇鸞(どんらん)大師の『讃阿弥陀仏偈
(さんあみだぶつげ)』にある阿弥陀仏の「別名」です。 浄土とは必ずしも死後の世界を指すものではなく、念仏して阿弥陀の心(願い)に触れること、目が開くことを通して感じ取られてくるものではないでしょうか。 今、世界中の人間が「居場所」を求めています。誰もが社会の、会社(企業)の、学校の、あるいは家庭の「役に立つ誰か」であることばかりを要求され続けて、「素の自分を認めて欲しい」と悲鳴を上げ続けている気がしてなりません。
今年の4月16日、アメリカ合衆国バージニア工科大学で銃の乱射事件が起き、学生32名が死亡、容疑者の韓国人学生も直後に自殺したそうです。 「念仏よ、興れ。」(高史明) 今年もこう憶わずにはいられません。 (『西念寺だより 専修』第32号〈2007年7月発行〉掲載) 〈参考文献〉 |
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