寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第31号<2006年6月発行> |
「言葉の力」 外国人による日本語再発見 昨今、日本においてあまり使われなくなった言葉、それこそ死語になりつつある言葉の素晴しさが外国人によって再発見され、逆輸入されるといった事例をいくつか目にします。 ケニアの環境副大臣でありノーベル平和賞の受賞者であるワンガリ・マータイ女史が、来日した折「もったいない」という言葉に感動してこれを環境保護のスローガン(合言葉)にしようと国連の会議、その他の場所で繰り返し提唱していらっしゃいます。 またその他にも、マータイ女史ほどマスコミに取り上げられてはいませんが、桐蔭横浜大学法学部教授、チベット文化研究所名誉所長ペマ・ギャルポ氏が「おかげさまで」という言葉の復活を提唱しておられます。 中国共産党のチベット侵攻を逃れて氏が来日した1960年代半ば、日本人は実に頻繁に「おかげさまで」という言葉を使っていたそうです。 来日当初、外国人の氏にとってこの言葉は
と、大変にひっかかる言葉だったそうです。 そしてそれだけに、後年オリンピックでメダルを獲得した選手が発したコメント
には正直耳を疑ったそうです。
今の日本人が傲慢で、昔の日本人が謙虚だったと言いたいわけではありません。 プロ野球『楽天イーグルス』野村克也監督の著書(『野村ノート』)に『おかげさまで』という詩が紹介されています。
「我執(がしゅう)」という仏教語が示すように人はもともと「自分が自分が」という生き物であります。
「我」というものの特質は「主」(自他に対する所有欲)と「宰」(支配欲)であると言われます。 その結果、自分や他人、環境を自分の自由に、思い通りにしたいと思い、折角手にしたものでも役に立たなくなれば振り返りもしなくなるわけです。 しかし、そんな人間を「野放し」にしておけば、いつまでたってもそれこそ愚痴・不平不満と責任転嫁しか生み出しません。 そんな人間を
と戒め、教育してきた言葉、それが「おかげさまで」だったのではないでしょうか。
「おかげさまで」の反対語は何でしょう。 でも、世の中、「自分一人の頑張り」だけで達成できるものなど一つもありません。 また、私たちは本当の意味での「おかげ」―自分を支え励ましてくれている陰(かげ)の部分が見えているのでしょうか。 お参り先でちょっとした質問をしたことがあります。
大概は「いいえ」という答えが返ってきます。
「自分一人のために作るなんて面倒臭い」というのがおそらくその理由でしょう。 もしかすると人間は存外自分のためだけには働かない生き物なのかも知れません。 そうすると、その人に、たとえば「主婦業」という「役割」(生きる意味)を与え、頑張らせてくれているのは「家族」ということになります。 自らの努力に執(とらわ)れ、それを過大評価して全体が見えなくなる。 とかく傲慢になりがちなこの私たちに、
と痛棒を食らわせ、「謙虚さと感謝を忘れるな」と教えてくれる言葉、それが「おかげさまで」ではなかったのでしょうか。 「おかげさまで」も、マータイ女史提唱の「もったいない」(MOTTAINAI)も、私たちが食事の前後に必ず言う「いただきます」「ごちそうさま」も、もともとはそういった類の言葉ではなかったのでしょうか。 深い智慧を秘めた言葉が消えていく。 目先の感情と欲得のみに走って、人生に対する正しい「思想」、「哲学」を持たない現代の日本人。 かつての日本人が生活の指標(しるべ)として大切にしてきた言葉とその意味を、もう一度深く考えてみたいと思います。 (『西念寺だより 専修』第31号〈2006年7月発行〉掲載) 〈参考文献〉 |
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