寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第27号<2002年6月発行> |
6 月 8
日 に 憶 う こ と
高名な哲学者和辻哲郎(1889〜1960)に、「土下座」(大正9年・1920)という短編があります。 炎天下に墓地脇の空き地で行なわれた葬儀も終りに近づいた頃、喪主である父親と和辻さんの2人は会葬者への挨拶のため、墓地の出入り口まで移動したそうです。 後年、京都帝大教授、東京帝大教授などを歴任、博士号を取り、『鎖国』『風土』などの著作を著わした和辻さんも当時はまだ31歳。
と、プライドが著しく傷ついたに違いありません。
と、自分を嘲笑っているようにも見えたのではないでしょうか。 しかし、見えるのは会葬者の腰から下だけという土下座の最中、それらの足の持ち主がどんな顔をして自分の前を通って行くのかが、やがて和辻さんにもわかってきたそうです。 その時、和辻さん自身にも思いがけないことに、会葬の人々に対する深い感謝の念が沸き起こってきたのだそうです。
最初は体だけ、形だけのものだった土下座が、最後には身も心も土下座することとなったのです。 いったい和辻さんに何が起こったのでしょうか。 私なりに和辻さんの胸中を推測してみると、次のようになります。
このことは文中の「現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました」という1文からも察せられます。 和辻さんは「銅色の足」に頭を下げながら、言わば「故郷」そのものに対して土下座をし、土下座しているその自分がまたそのまま「故郷」に包まれている、といった感覚を味わっていたのではないでしょうか。
宗祖の著書『教行信証』には、
という文が引かれています。 「慙愧」とは、恥じる心、自分自身を恥ずかしいと思う心です。 この文は、自分を恥じる心があって初めてお前は「自分は人間だ」と言えるのだ。 「人」とは文字通り「人間」、間柄を生きる存在です。 この人間同士の「正当な心の交通」があってこそ「人」は「人」でいられるのであり、それを欠けばそれこそ人の皮をかぶった「ケダモノ」に成り下がる、というのが「畜生」という語の意味なのでしょう。 本来仏教の言葉は自分自身に向けられるべきものです。自分自身を省み、戒めるためにこそ用いられるべきであって、けっして人を罵倒し貶めるためのものではありません。 「偽の名刺」「元妻への慰謝料請求の裁判」「精神病院への偽装入院」……。 しかし、源信僧都はこの「畜生」を、
として、たえず不平不満をこぼして恥じることのない一方、弱肉強食の世界の中、傷つけられることの不安にいつも脅えている存在だと教えてくださっています。 彼の行動原理はおそらくただ一つ。
ちっぽけな自分、空っぽの自分を隠し、守るためにいつも虚勢を張って生きなければならないその姿は、まるで「ハリネズミ」のようです。 おそらく彼には「故郷」と呼べるものがなかったのでしょう。 幼い頃から現在まで、彼がどんな言葉の中で育ってきたか私には想像がつく気がします。
それゆえ彼自身、最後まで自分を受け入れることも愛することもできなかったのではないでしょうか。 最後に父親に発したSOS(金の無心)の電話も冷たく切られ、鬱積した怨念(不遇感)を暴発させた彼は、自分より力の弱い者に対して凶刃を振るったのです。
歌人石川啄木(1886〜1912)にこんな歌があります。
貧困と不遇のうちに若くして世を去った彼もまた「故郷」を失った人でした。 彼は岩手県の禅宗寺院の長男として生まれましたが、彼が18歳の時、父は住職を罷免され、数年後、彼自身も尋常小学校代用教員の職を追われて出奔。
しかし、啄木が切実に帰りたいと願った故郷「渋民村」は「追憶」の中のそれであり、現実の故郷は彼を「石もて追い」、彼の望郷の念をよそに刻々と変貌し続けていることも、彼自身充分に承知していました。 故郷の山河大地とそこに住む心優しき人たちを懐かしむという形で、実は私たちは皆その奥にある「魂の故郷」を願い求めているのではないでしょうか。 石川啄木が「渋民村」に求めたもの、和辻哲郎が「銅色の足」を通して出遇い土下座したもの、そして宅間守が心の奥底で本当は求めていたもの。それこそが私たちが真に帰りたいと願う「故郷」ではないでしょうか。 自分を産み、愛し、育んでくれた「ふるさと」。 そして私たち真宗門徒は、その「魂の故郷」を「阿弥陀の本願」あるいは「浄土」と呼んできたのです。 善導大師はまさしく「弥陀の本国四十八願」(『観経序分義』)と説き、その浄土を「善友あい見て慶楽すること已(や)むことなからんがごと」き場所(『観経散善義』)として、
と勧めておられます。 この「故郷」に出遇えなければ、私たちは、孤独の中で精一杯背伸びをし、周囲の評価に一喜一憂しては、時に驕り高ぶり、時に周囲を恨み呪いながら一生を生きねばならないのではないでしょうか。 (『西念寺だより 専修』第27号〈2002年6月発行〉掲載) 〈参考文献〉 |
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