法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第26号<2001年6月発行>
 
 

お じ い ち ゃ ん は ど こ に ?

 先日ある方の葬儀の後で、お孫さんたちからこんな質問を受けました。
 「お祖父ちゃんは、今、何処らへんにいるんでしょうか?」
 「何処に往ったと考えればいいんでしょうか?」

 浄土真宗の根本経典である『大無量寿経』に拠れば、今生に阿弥陀仏の本願を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏した人は、命終われば必ず阿弥陀仏の浄土である西方極楽世界に生まれて仏となると説かれていますから、「西方極楽浄土」と答えておけば、教義の上では一応正解になります。

 しかし、私はそこで詰まってしまったのです。
 と言うのは、何もその方の葬儀に限ったことではないのですが、お葬式の時には実にいろいろな死後の世界を表す言葉が飛び交うのです。
 曰く、「天国から見守っていて下さい」。
 曰く、「ご冥福(死後の幸福)を祈ります」。
 曰く「誰それも草葉の陰で喜んで……」等々。

 若干の説明を加えれば、「天国」とはキリスト教でいう神の国で、そこに生まれたものは神や天使の祝福を受け、罪人は「煉獄(れんごく・地獄)」に堕ちるとされています。

 「冥福」とは、冥(くら)く光のない死後の世界、つまり、死者の霊魂がさ迷い行く「冥途・冥土(めいど)」での幸福を意味します。
 また十王信仰によれば、死者はまず死出の山もしくは三途の川を越えて、その後7日ごとに閻魔(えんま)大王を始めとする冥官(みょうかん)の審判を受けて現世での罪を裁かれ、次に生まれ変わる境涯を決定されるとされています。

 「草葉の陰」とは読んで字のごとく草の葉の下、つまりはお墓の下、転じてあの世という意味です。

 これらの言葉は、それぞれそれなりの文化的・宗教的背景をもった言葉ですが、いずれも霊魂の存在を前提とした死後の世界、あの世を意味します。

 ただ現在の日本において、例えば「天国」の語がキリスト教徒の専売特許というわけでないように、それらの言葉の背景をほとんど意識せずに使っていますから、その結果実にさまざまな言葉が葬儀場に飛び交うわけで、宗教に厳密な人、例えば外国人から見ると奇怪極まりない光景ではないかと思います。
 質問して下さったのはまだ若い方でしたから、おそらくは混乱なさったのでしょう。

 そんな状況の中で「西方極楽浄土」とだけ答えても、それはただ死後の世界を仏教的・浄土教的な呼び名で言い換えたに過ぎないことになります。

 確かに仏教では古来より「六道」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)として死後の輪廻転生を説いてきました。
 殺人等の大罪を犯した人は次の生では地獄に、貪欲(とんよく・むさぼり)の煩悩に振り回されて一生を送った人は餓鬼道に、愚癡(ぐち・不平、不満)の煩悩にとらわれた人は畜生道に、瞋恚(しんに・いかり)の一生を送った人は修羅道(戦いの鬼)に、善根を積んだ人は人間界や天上界にそれぞれ生まれ変わるのだ、と。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、死後の世界を説いているからといって、それがそのまま死後の世界や霊魂の実在を説くことを目的としているのではない、ということです。
 ここで問題とされているのは、来世の果報よりもむしろその人の現世での人生の内容なのです。つまりその人が死後何処に生まれるかを問うことは、霊魂がどこに行くかという問題ではなくて、実はその人の人生の意味が問われているのだということです。死後を問うという形で、実は現世の生きざまが問われているのです。

 宮戸道雄先生の『仏に遇うということ』(樹心社・1996)にこんな話が紹介されていました。

 本山での研修会での出来事です。
「最初の夜の座談ですから、順番に自己紹介から始めたのですが、あるご婦人が、主人が戦死して苦労したという話の後に、主人の命日には毎月欠かさずお墓へお花とローソクを上げてお参りし、これを20何年も欠かしたことがないとおっしゃるんです。引率のご住職も、なかなかできないことをよくやられて感心な方ですワ、と言葉を添えて、おほめになったのです。

 そのときです。講師のI先生がね、「フーン、なんてまた馬鹿なことを」とおっしゃったものですから、座談会の空気が一瞬シーンとして、血の気がスーッと引くような、異様な空気に変わってしまいました。

 例のご婦人は、みるみる顔がこわばってくるのが分かりました。しばらくして不気味な沈黙を破って、そのご婦人が、「亡くなった主人の墓に、残された妻がお参りを欠かさずにする、それがなぜ馬鹿なことなのですか」
 と、つかみかからんばかりの勢いです。

 ところが、I先生はケロッとして、そのご婦人に向かっておっしゃったのです。
「あー、馬鹿なことと言っては駄目でしたか、そうですか。それではお尋ねしますがね、おくさん、あなたのお亡くなりになったご主人さまは、どこにおいでになりますか。お墓の下ですか、天国ですか、靖国神社ですか、お浄土ですか、さあどこか教えてください」
 ところが、おくさんは答えられないのです。真剣勝負のような気迫でした。
「どこにおられるのか分からないのですか、分からないのに、どうして毎月お墓なのですか、なぜですか」

 このI先生の問いかけに、おくさんは、汗は出てくるのですが、ひとことも返事ができないのです。I先生はさらに、たたみかけるように言われます。
「ね、どこか分からないのですか。じゃ、あなたご自身は、どこへ行かれるおつもりですか」

 しばらく張りつめた沈黙がつづきましたが、やがてその沈黙を破るかのように、そのおくさんが坐り直しておっしゃったのです。
「失礼しました。何もわかっていない私でした。一から聞かせてください」
 驚いたことには、奥さんの身体にみなぎっていたこわばりも、顔のひきつりも、もはやすっかり消えておりました。」

 この問答を単にご主人の霊魂の所在を尋ねるというようなオカルト的な問答ととってはいけません。
 ご主人がどこにいるのかわからないというのは、ご主人がどんな人であったのか、どんな人生であったか、つまりはどこに行くようなご一生であったかが分からないということではないでしょうか。
 I先生の問いかけに答えられないということは、つまり、このご婦人は「自分の夫がどんな人であったか分からない」と白状していることになります。
 20何年間、熱心に亡き夫の菩提を弔ってきて、しかもその行為を「立派な方で、できんことをなさる人だ」と誉めてくれる世間の評価を唯一の支えとし、自らも誇っているその自分が実は……、となるわけですから、このご婦人の苦渋たるや推して知るべしです。

 そして、ご主人の人生の行き先がどこか分からないということは結局は、このご婦人自身の人生の終着点がどこにあるのかも分からない、つまりは自分の人生の意義とか目的とかがまったく分かっていないということなのではないでしょうか。
 自分の人生がどこに向かっていくものなのか。悟りの世界である彼岸、お浄土に向かう人生なのか、それとも暗く寂しい迷いの世界である冥途へ向かう人生なのか。
 この問答を通して本当に問題とされているのは他ならぬご婦人自身の人生なのであり、このI先生の問いかけは私たちにも当然向けられているのです。

 ちなみに有名な妙好人讃岐の庄松(しょうま・1798〜1871)さんは、「あんたが死んだら立派な墓を建てて上げる」という友人の言葉に「わしは石の下にはおらんぞ」と返答したといいます。

 確かに骨は墓の下、土の中に埋まっているかもしれない。しかし、私はそこにはいない。(もっといえば骨は私ではない)では、どこかと言えば、間違いなく阿弥陀の国、極楽浄土に居る。なぜならば自分は、この身今生において、阿弥陀の本願―一切の有情、迷い苦しんで生きねばならない者をそこから救い出して、苦しみ迷いのない悟りの世界に生まれさせたいと願われた大悲の心を間違いなく聞き、頷き、念仏する身となっている。それゆえに自分の人生は間違いなく浄土に生まれるべきものとなっているのだ、という庄松さんの自信、宗教的信念がそこから伺われます。(『庄松ありのままの記』より)

 そして、自分自身の人生の意味がそのようにはっきりすれば、自分を取り巻く人々の人生の意味も、このご婦人にとってのご主人の人生の意義もおのずから明らかになってくるのではないでしょうか。

 西念寺の報恩講に何度か出講いただいた波北彰真先生は、11年前にクモ膜下出血で急逝なさった奥様の言葉を紹介していらっしゃいます。

「妻が倒れる10日前のことでした。お茶を飲みながら世間話を2人でしているうち、話題が「誠なるかなや、摂取不捨の真言」という阿弥陀如来さまのおはたらきのことに及びました。
 お念仏のみ教えに生きる人は、阿弥陀如来の摂取して捨てたまわぬ、まちがいのない救いのおはたらきのなかにつつまれている故に、現生に正定聚(しょうじょうじゅ・正しく浄土に往生して仏となることに定まった仲間)に入らせていただくのです。だから、いつどのようなことで今生を終えても、かならず浄土(無量光明土)に至り、仏にならせていただくことを、話しあっていました。
 そのとき、妻が深い感動をもって語っていたのが、「今が確かなのですネ。だから、先も確かなのですネ」ということばでした。」

 そして、
「先立たれた人びとをなつかしく偲ぶというだけではありません。(浄土真宗のみ教えの)味わいを通してほとばしり出たことばが、わたしを育ててくださいました。そして、今も彼岸から仏のはたらきをもって届いて、わたしに彼岸への人生を生きるのだよと導いてくださっていることを、ありがたく思います。」
と結んで下さっています。(以上、「いのちの言葉」より)

 お祖父ちゃんはどこに……
 ・お前は亡くなったあの人がどこに生まれたと考えるのか?
 ・お前はあの人の人生をどう受けとめているのか?
 ・お前はどこに向かって歩いているのか?
 ・お前はどんな人生を歩もうとしているのか?

 問いはいつもその人自身の、そして私自身の生き方へと返ってきます。

(『西念寺だより 専修』第26号〈2001年6月発行〉掲載)

〔参考文献〕
宮戸道雄『仏に遇うということ』(樹心社・1996)
楠恭『NHKライブラリー 妙好人を語る』(日本放送出版協会・2000)
波北彰真「いのちの言葉」(冊子『お彼岸とわたし』(本願寺出版社・1998))


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