法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第30号<2005年6月発行>
 
 

「今、いのちがあなたを生きている」
            (親鸞聖人750回御遠忌テーマ)
 

「どくさいスイッチ」

 子供たちに大人気のTVアニメに『ドラえもん』(テレビ朝日系/藤子・F・不二夫原作)があります。

 主人公は野比のび太(通称「のび太くん」)。
 勉強、スポーツ共に苦手な小学生。
 のんびり屋でおっちょこちょい。
 「あやとり」「昼寝」以外に取り柄はなく、ガキ大将のジャイアンやスネ夫にいつもいじめられています。

 そんなのび太のピンチを助けるのが22世紀からやって来たロボット「ドラえもん」。

 お腹のポケットからいろんな道具(未来科学の産物)を出して彼を助けるのですが、調子に乗ったのび太が使い方を誤って最後は手痛いしっぺ返しを食う、というのが典型的なお話のパターンです。

 優れた科学技術も結局は使う人間次第というメッセージなのでしょうが、先日「どくさいスイッチ」(4月29日)という回が放送されました。

 ストーリーはいつものように、のび太がジャイアンにいじめられるところから始まります。

 野球の試合で失敗したのび太は、怒ったジャイアンから「負けたのはお前のせいだ!」と追いかけ回されます。
 「下手なんだから練習しよう」と励ますドラえもんにのび太は

「ジャイアンさえいなくなればいいんだ」

とつぶやきます。
 それを聞いたドラえもんが取り出したのが「どくさいスイッチ」。

 それは未来の独裁者が作らせた道具で、スイッチを押すだけで邪魔な人間を消すことができるという恐ろしいものなのです。

 その説明を聞いて最初は使うことをためらっていたのび太でしたが、またしてもジャイアンに追いかけられ、とっさにスイッチを押してしまいます。
 次の瞬間、ジャイアンは忽然と消え、真っ青になったのび太ですが、友達も先生も、ジャイアンのお母さんさえもが 、「誰それ?そんな子いた?」
 どうやら最初からいなかったことになっているらしいのです。

 いじめっ子のジャイアンがいなくなってのび太にとって快適な世界になったかと思えば、今度はスネ夫が、スネ夫が消えてもまた別の子が、のび太を責め立てます。

 走って家に逃げ込めば「宿題もしないで遊んでばかりいて!」というお母さんのお説教が……。

 2度と使うまいと誓ったのび太でしたが、昼寝をしようと目をつぶった途端、自分を責めるみんなの声が頭の中をかけめぐって……。

「うるさい、うるさい。みんないなくなってしまえ〜」

 こう叫んだ拍子にスイッチに手が当たって……。

 家の中を探してもドラえもんもお母さんもいない。
 町中を探しても人っ子1人いない。
 のび太は叫びます。

「世界中の人をみんな消しちゃった!!」
 

 共命鳥(ぐみょうちょう) 

 阿弥陀如来のおられる西方極楽浄土を描いた『阿弥陀経』に次のような記述があります。

 極楽浄土には白鶴、孔雀、鸚鵡などの色美しい鳥が昼に夜に妙なる声でさえずっており、その声を聞く者は皆仏法を求める心を起こさずにいられない、と。

 それらの鳥の中に「共命鳥」という鳥がいるのですが、その鳥は1つの体に人間の顔をした頭が2つあると言われています。

 2つの頭が1つの体、つまり命を共有しているという意味で「共命鳥」と呼ばれるのですが、この2つの頭は実はあまり仲が良くありません。
 距離が近過ぎると気に食わないことも多くなるものですが体は1つなので離れることもできない。鬱陶しさが高じてついには殺したいとまで思うようになります。

  事の発端はある時「カルダ(迦婁荼)」という名の片方の頭が「ウパカルダ(優波迦婁荼)」という名のもう一方の頭が眠っている間に美味しい木の実を食べたことから始まります。
 眼が覚めて満腹であることに気づいたウパカルダはカルダが独りで美味しい餌を食べたことを知り大変に怒り、妬み、「今度は自分が起きている時に独りで餌を食べてやる」と復讐を誓います。
 ある時、毒の実を眼にしたウパカルダは「これを食べればカルダを殺すことができる」と、毒と知りながらその実を口にします。
 ウパカルダの思惑通りカルダは死んでしまいますが、カルダを殺そうとたくらんだウパカルダ自身もやがて毒が回って死んでしまいます。 (以上、『仏本行集経』の記述による。)

 実は、この死んだ共命鳥の姿と一人ぼっちになったのび太の姿とが私には重なって見えるのです。 
 

共なる「いのち」 

 生きていくのに邪魔な障害物を取り除こうとする。
 それは私たちにとって別に珍しいことではありません。
 それどころか当然の発想でもあります。

 「あの人」さえいなければ、という思いを誰もが心に秘めて暮らし、友人や家族、親兄弟やわが子でさえ時として「その人」になることがあります。

「お前なんかうちの子じゃない。出て行きなさい!」
「お父さん、僕なんかいなくなればいいと思ってないか?」

 これは我が家で親子喧嘩の際に実際に飛び交った言葉です。

 「どくさいスイッチ」が私の手元にあったら、自分がそれを大切な人に向けて押さないという保証はありません。
 一瞬の怒りに我を忘れて押してしまう可能性の方がむしろ大きいかも知れません。

 昨年6月1日に、長崎県佐世保市 で小6の少女が同級生を校内で殺害するという事件が起きました。
 事件から丸1年ということで地元の小学校では先日命の大切さを見直そうと、いくつかのイベントも催されたようです。

 この事件について昨年の『専修』(第29号)にこう私は書きました。

 目の前に立ちふさがる重苦しい「異物」。
 それさえ取り除けば思い描いた通りの「未来」が訪れるとでも考えたのでしょうか。
 しかし、「一部分」のはずのそれを取り除いた時、彼女は自分を取り巻き支えてくれる世界の「全て」を失ったのです。

 私たちはそれぞれが個々別々の孤立した命を生きていると思っています。
 しかし仏様の目からすればそうは見えないのではないでしょうか。

 個々の命があたかも網の目のように(重々無尽に)関係し合い影響し合い支え合いながら、私たちは実は共に1つの「命」を生きているのではないでしょうか。
 だからこそ一部分を取り除いただけのはずの彼女ものび太も共命鳥も、世界の全てを失ってしまったのではないでしょうか。

 その「共同の命、共なる命」を象徴するのが、『経』の説く、複数の頭が1つの命を共有する共命鳥ではないでしょうか。

 「極楽浄土に共命鳥が(生きて)いる」とはつまり「死んではいない」「殺し合っていない」ということです。
 個別の思いの中で憎み合うのではなく、共なる命に目覚めて共存しているのです。

 先日6年後の親鸞聖人750回御遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決定しました。

 この「いのち」とはまず「私の―」「あなたの―」という所有物としての「いのち」ではなく、「私(我)」という思いに先立って私を生かしている「いのち」そのものと了解することができます。

 そしてより深く考えれば、この「いのち」とは「私の―」「あなたの―」という個別性を超えた「いのち」、私もあなたもその中で互いに生かし生かされ合いながらその「いのち」を生きているという、それこそ「共同の命、共なる命」を指していると受け取れるのではないでしょうか。

 この現実世界において私たちは互いに排除し合い傷つけ合う生き方を余儀なくされています。
 しかし、それはやはり真実の命の在り方(共なる命)に背いた在り方である。
 そのことに目覚め、それを当たり前とせず、悲しみ痛む心をこそ回復せよ。

 今回の御遠忌テーマを私はこのような「呼びかけ」として聞くことができるのです。

(『西念寺だより 専修』第30号〈2005年6月発行〉掲載)

〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
「テレビ朝日ドラえもんホームページ」
「真宗大谷派(東本願寺)-しんらんしょうにんホームページ」


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