寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第28号<2003年6月発行> |
「おかげさま」再発見 自分が自分になった背景を知る、
今、私の目の前に1枚のイラストがあります。
このイラストの作者はあの「神戸少年A事件」で土師(はせ)淳くんとともに犠牲になった山下彩花ちゃんであり、その遺作であるこのイラストは、お母さんの京子さんが娘さんを偲んで執筆された本の表紙を飾っているものなのです。 足が大きくなってサイズが合わなくなってしまったのか、充分に使い込んでボロボロになってしまったのか、役割を終えて後は捨てられるばかりとなった自分の運動靴への、彼女なりのねぎらいと感謝の言葉が綴られているのです。 このイラスト1枚で、私はこの子がどんな子で、どんな家庭に育ったのかが理解できたような気がしますし、このまま大きくなっていたらどんなに立派な大人になってくれただろうと残念でなりません。
臨床心理学者の河合隼雄さんによれば、「物が豊かになると子育てが難しくなる」そうです。 物が無いから、社会が貧しいからこそ、逆にお土産ひとつ、オモチャひとつでも、それを通してそれを買ってくれた親の苦労や愛情が子供に確実に伝わったのだけれど、今は物があり余っている分だけ逆に伝わりにくくなっているのだそうです。 昨今、家族で食事に出かければ、どこのファミリーレストランでも必ず、「お1人ひとつずつどうぞ」とおまけのオモチャを子供に選ばせてくれます。 このような大量生産・大量消費に慣らされた子供たちが、はたして将来、「物」に託された人の想い、愛情を感じ取れる人間になっていけるのか、正直不安を覚えずにはいられません。
河合先生は、現代の子どもは昔の子に比べて「察する」能力がない、つまりは「鈍感」だとおっしゃいます。 有森裕子さんというマラソンランナーがいらっしゃいます。 あの方がアトランタ五輪で銅メダルを獲得したレースのゴール直後、報道陣のマイクに向って確かこう言われました。
バルセロナ大会の銀に続いて2大会連続でメダルを獲得することがどれほど凄いことなのか、その影にどれほどの苦しみと努力があったのか、素人の私には想像が付きません。 しかし、実は、彼女のこの言葉を聞いて大変なショックを受けた方がいらっしゃるのです。
このコメントをおっしゃったのは、チベット文化研究所の所長ペマ・ギャルポさんでした。 古来より国全体が深く仏教を信奉してきたチベットは第2次大戦後、中国共産党の武力侵攻を受けて併合され、その後も続く暴力的弾圧によって、ダライラマ14世を始め、多くの人たちが国外に脱出しておられます。 そんな亡命チベット人の1人であるこの所長さんがおっしゃるのには、
と、言わば現代日本の精神構造そのものに警鐘を鳴らしてくださっているのです。
私はこの「おかげさま」という言葉に、仏教、真宗が私たちの精神生活にもたらしてくれた智慧と、豊かさとが凝集されているように思います。 仏教は「縁起」を説きます。
それはあらゆる事物が互いに関係し合い、影響し合ってそれぞれが成り立っているという意味ですが、見方を換えればそれは、他でもないこの私自身が、実にさまざまな人やものに支えられ、その恩恵を受けて生きている、「生かされている」という知見に他なりません。 浄土真宗においてはその事実をより鮮明に「罪の身の自覚」として表現します。 2編の詩を紹介しましょう。
人が生きるということは本来悲しい、罪深いことなのではないでしょうか。 さまざまな人の想いやいのちの営みに支えられ、その犠牲の上に生きていながら、それを裏切り、押しのけ、踏みつけにし、その「事実」を「当たり前」だとして、思い起こそうともしないのがこの私なのでしょう。 宗祖親鸞聖人御制作の「正信偈」にある「邪見驕慢(じゃけん・きょうまん)の悪衆生(あく・しゅじょう)」とは、まさにそのような「恩知らず」の私を言い当てたものに他なりません。 しかし、こんな私をも許し、愛し、生かし育もうと包み込んでくれる深い深い慈愛がこの世界には満ち満ちているのです。 私たちのご先祖は総じてそれを「阿弥陀如来の大悲の本願」と呼び、それに励まされ、その「おかげ」に感謝して、自重の念いをもって懸命に生き抜いてきたのではないでしょうか。 私たち日本人が受け継いできた「おかげさま」という言葉。この言葉のたたえる深い智慧を、現代に生きる私たちはもう1度かみしめねばならないのではないでしょうか。 (『西念寺だより 専修』第28号〈2003年6月発行〉掲載) 〈参考文献〉 |
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