法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第28号<2003年6月発行>
 
 

「おかげさま」再発見

自分が自分になった背景を知る、
それが恩を知るという意味である。
                 (安田理深)

運動靴に「お疲れさま」

 今、私の目の前に1枚のイラストがあります。
 そこには真っ黒に汚れてくたびれた運動靴の片方が描かれてあり、それに次のようなコメントが添えられています。

「あるいたり
 走ったりしておつかれ!!
 ガンバッテくれてありがとう  山下あやか」

 このイラストの作者はあの「神戸少年A事件」で土師(はせ)淳くんとともに犠牲になった山下彩花ちゃんであり、その遺作であるこのイラストは、お母さんの京子さんが娘さんを偲んで執筆された本の表紙を飾っているものなのです。

 足が大きくなってサイズが合わなくなってしまったのか、充分に使い込んでボロボロになってしまったのか、役割を終えて後は捨てられるばかりとなった自分の運動靴への、彼女なりのねぎらいと感謝の言葉が綴られているのです。

 このイラスト1枚で、私はこの子がどんな子で、どんな家庭に育ったのかが理解できたような気がしますし、このまま大きくなっていたらどんなに立派な大人になってくれただろうと残念でなりません。
 そして、まだ幼い自分の子供たちが将来、たとえば自分の運動靴にお礼が言えるような、優しい人間に育ってくれることを願わずにはいられません。
 

物が豊かになると子育てが難しくなる

 臨床心理学者の河合隼雄さんによれば、「物が豊かになると子育てが難しくなる」そうです。

 物が無いから、社会が貧しいからこそ、逆にお土産ひとつ、オモチャひとつでも、それを通してそれを買ってくれた親の苦労や愛情が子供に確実に伝わったのだけれど、今は物があり余っている分だけ逆に伝わりにくくなっているのだそうです。
 親が多少無理してそれを買ってやっているのに、その苦労がなかなか子どもに伝わらない。
 それどころか、あまりに簡単に買ってくれるものだから、親は本当に自分を愛してくれているのだろうかと疑心暗鬼になって、前よりも高いものが欲しいと言い出す、という悪循環が生じてしまう。
 あるいはまた買わなければ買わないで今度は、「買ってもらえて当然」のはずなのに―お友達の誰々ちゃんは買ってもらえたのに―、なぜ僕だけ買ってもらえないんだろう。僕のこと愛してくれてないんだろうか、とこれまた疑心暗鬼に陥ってしまうのだそうです。

 昨今、家族で食事に出かければ、どこのファミリーレストランでも必ず、「お1人ひとつずつどうぞ」とおまけのオモチャを子供に選ばせてくれます。
 「将を射んと欲せばまず馬を射よ」よろしく、親の財布の紐をゆるませるためにはまず子供を篭絡、というわけです。
 その時は確かにうれしそうに、目を輝かせている子供たちですが、2、3日たてばそれらは必ずオモチャ箱の中でホコリをかぶることになります。

 このような大量生産・大量消費に慣らされた子供たちが、はたして将来、「物」に託された人の想い、愛情を感じ取れる人間になっていけるのか、正直不安を覚えずにはいられません。
 

「おかげさま」を忘れた日本人

 河合先生は、現代の子どもは昔の子に比べて「察する」能力がない、つまりは「鈍感」だとおっしゃいます。
 しかし、どうもこれは子どもだけの問題ではなくて大人も、日本人全体がそうなっているのではないかという気がします。

 有森裕子さんというマラソンランナーがいらっしゃいます。

 あの方がアトランタ五輪で銅メダルを獲得したレースのゴール直後、報道陣のマイクに向って確かこう言われました。

「ここまでがんばった自分を初めてほめてやりたいと思います。」

 バルセロナ大会の銀に続いて2大会連続でメダルを獲得することがどれほど凄いことなのか、その影にどれほどの苦しみと努力があったのか、素人の私には想像が付きません。
 その年の流行語にもなったこの「自分をほめてやりたい」という言葉も、なるほど彼女なら言う資格がある、と納得もしました。

 しかし、実は、彼女のこの言葉を聞いて大変なショックを受けた方がいらっしゃるのです。

「私は、有森さんの言葉を聞いたとき、自分の耳を疑った。
 とてもショックだった。」と。

 このコメントをおっしゃったのは、チベット文化研究所の所長ペマ・ギャルポさんでした。

 古来より国全体が深く仏教を信奉してきたチベットは第2次大戦後、中国共産党の武力侵攻を受けて併合され、その後も続く暴力的弾圧によって、ダライラマ14世を始め、多くの人たちが国外に脱出しておられます。

 そんな亡命チベット人の1人であるこの所長さんがおっしゃるのには、

「私は日本人からこういう言葉が出てくるというのが信じられなかった。
 自分は20年前に日本に来て、『おかげさま』という言葉を教わった。
 日本語で初めて教わった言葉が『おかげさま』という言葉だった。
 いろいろな人や環境といった要因があって、初めて今の自分があるんだということが『おかげさまで』ということだと。
 ですから、『自分をほめてやりたい』という言葉を聞いた時には、日本も違った人種が生まれつつあるなと思ったんです」

と、言わば現代日本の精神構造そのものに警鐘を鳴らしてくださっているのです。
 

仏教がもたらした智慧

 私はこの「おかげさま」という言葉に、仏教、真宗が私たちの精神生活にもたらしてくれた智慧と、豊かさとが凝集されているように思います。

 仏教は「縁起」を説きます。

「これ有るときかれ有り、これ生ずるよりかれ生ず。
これ無きときかれ無く、これ滅するよりかれ滅す。」(『ウダーナ』)

 それはあらゆる事物が互いに関係し合い、影響し合ってそれぞれが成り立っているという意味ですが、見方を換えればそれは、他でもないこの私自身が、実にさまざまな人やものに支えられ、その恩恵を受けて生きている、「生かされている」という知見に他なりません。

 浄土真宗においてはその事実をより鮮明に「罪の身の自覚」として表現します。

 2編の詩を紹介しましょう。
 1つは金子みすゞさんの「大漁」、もう1つは榎本栄一さんの「罪悪深重(じんじゅう)」という詩で、どちらも浄土真宗の人間洞察の伝統から生まれて来た詩です。

   大 漁

 朝やけ小やけだ
 大漁だ
 大ばいわしの
 大漁だ。

 はまは祭りの
 ようだけど
 海のなかでは
 何万の
 いわしのとむらい
 するだろう。

   罪悪深重

 私はこんにちまで
 海の 大地の
 無数の生きものを食べてきた
 私のつみのふかさは
 底しれず

 人が生きるということは本来悲しい、罪深いことなのではないでしょうか。

 さまざまな人の想いやいのちの営みに支えられ、その犠牲の上に生きていながら、それを裏切り、押しのけ、踏みつけにし、その「事実」を「当たり前」だとして、思い起こそうともしないのがこの私なのでしょう。

 宗祖親鸞聖人御制作の「正信偈」にある「邪見驕慢(じゃけん・きょうまん)の悪衆生(あく・しゅじょう)」とは、まさにそのような「恩知らず」の私を言い当てたものに他なりません。

 しかし、こんな私をも許し、愛し、生かし育もうと包み込んでくれる深い深い慈愛がこの世界には満ち満ちているのです。

 私たちのご先祖は総じてそれを「阿弥陀如来の大悲の本願」と呼び、それに励まされ、その「おかげ」に感謝して、自重の念いをもって懸命に生き抜いてきたのではないでしょうか。

 私たち日本人が受け継いできた「おかげさま」という言葉。この言葉のたたえる深い智慧を、現代に生きる私たちはもう1度かみしめねばならないのではないでしょうか。

(『西念寺だより 専修』第28号〈2003年6月発行〉掲載)

〈参考文献〉
山下京子『彩花へ 「生きる力」をありがとう』(河出書房新社・1998)
河合隼雄『こころの処方箋』(新潮社・1992)
『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』(JULA出版局・1984)
榎本栄一『詩集 煩悩林』(東本願寺難波別院・1978)

〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
『スカッと念仏』松本梶丸『本光寺ノート2善人とは暗い人・悪人とは明るい人』
『ノルブリンカ インスティテュート ジャパン〈チベット文化研究所〉
『ダライ・ラマ法王日本代表部事務所』


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