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         「よきひと」との出遇い

「人間は何からできていますか。」

突然こんな質問をされたとしたら、皆さんならどうお答えになりますか。

試しにインターネットで検索したところ、

「無数の細胞からできている」
「体重のおよそ3分の2が水分、 次に多いのはタンパク質、その次が炭水化物、脂肪、その他ミネラル」
「アミノ酸から……」
「いろいろな元素から……」

等々の「回答」がありました。
ただ、これらの答えはいずれも身体を構成するものを科学的な視点から分析したものです。

これらの回答を、

「私たちの身体は、今まで食べてきた食べ物、つまりはいろいろな命からできている。」
と言い換えることもできるでしょう。

では、人の心、精神は何からできているのでしょう。
現代の科学的見地からすれば「脳の働き」「神経の電気信号」といった答えになるのでしょうか。

もちろん「正解」は一つではありません。

ただ、仏教という教え、殊に浄土真宗という教えの眼を通して考えてみた時、その答えは、
「人間(私)は無数の人たちとの出遇いによってできている。」

ということになるのではないでしょうか。

『雑阿含経』にこんな一節があります。

ある時、釈尊(お釈迦さま)に、お弟子で侍者の阿難(あなん・アーナンダ)尊者が尋ねられました。

「大徳(釈尊)よ、わたしどもが善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊をもつことは、この聖なる修行のなかばにもひとしいと思うのですが、いかがでありましょうか。」

それに対して釈尊はこうお答えになりました。

「アーナンダよ、そのように言ってはいけない。
 アーナンダよ、そのように言ってはいけない。
 アーナンダよ、善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである。」

釈尊はさらに言葉を続けられました。

「善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有する者は、聖なる修行を修め成就することを、もはや約束されている。」
「みんなは、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができる。
病まねばならぬ身でありながら、病に勝つことができる。
あるいはまた、死なねばならぬ身でありながら、死の怖れから免れることができる。
アーナンダよ、このことを考えてみても、善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊をもつことは、この聖なる修行のすべてである、という意味が解るであろう。」

釈尊の言われる「修行の道」を「人生」に置き換えることも可能でしょう。

「人生においてどんな師、どんな仲間と出遇えるかは、その人の人生の全てを決めてしまうほどの意味を持つものだ。」
こう考えた時、私は親鸞聖人のご生涯を想い起さずにはいられませんでした。

私たちは当たり前に親鸞聖人と呼んでいますが、実はそのご生涯についてはほとんどわかっていません。
ご自身がお手紙の最後に書かれた年月日と年齢、奥様(恵信尼公)のお手紙の記述などから生没年(承安3年・1173―弘長2年・1263)、青年時代は比叡山で修行され、壮年期には関東で伝道活動に励んでおられたことなどはわかりますが、どこで生まれたとか、両親は何という名前か、子供は何人いたのかといった私的な事柄はご自身の口では一切語っておられず、例えば越後に流刑になった後なぜ関東に行かれたのか、関東で充分な生活基盤もできていたはずなのになぜ60歳台になって故郷の京都に戻られたのかなど、わからないことだらけなのです。

その聖人が唯一ご著書で書き遺しておられるのが、自分は29歳で法然上人の弟子となって、33歳で「自分の教えを間違いなく受け止めている」と師から認めて頂いたが、35歳の時はからずも共に流罪となり、その後赦免されたものの二度とお会いすることのないまま、私が40歳の時に上人は亡くなられた、という「師との出遇いと別れ」なのです。


親鸞聖人は自分を師と慕う人々の前で、
「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。(自分は一人の弟子も持っていない)」(『歎異抄』第6章)
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(私は師の教えを聞いて信じることの他には何もない)」(同上・第2章)
と語り続けられました。

つまり聖人は生涯「法然上人の一弟子」であり続けた方であり、師の教えを明らかにすること、師の教えを人々に伝えることにのみ自分の「人生の意味」「存在価値」を見出した方だと言えるのです。

聖人にとってその出遇いがいかに大きな、その後の人生を決定づける出来事であったかが知られます。

自分自身の人生を振り返ってみても、「あの時のあれが人生のターニングポイント(分岐点)だった」といった重要な出遇いもあれば、そうではない、記憶にさえ残らないもの、あるいは逆に「あんな奴と遭いさえしなければ」といったものまであります。

ただ、どんな出遇いにも別れが付きものです。別れのない出遇いはありません。
「もし上人に出遭わなかったならば、自分は終生暗い迷いの中を彷徨ったまま、愚痴と後悔と怨みをまき散らしながら虚しく野垂れ死んだに違いない。
 それを思えば私はこの命を懸けてでも……」
先師法然上人のお仕事を受け継ぐ。
聖人のご一生はこの一念に貫かれたものではなかったでしょうか。

先にご紹介した阿難尊者ですが、釈尊との死別の際には号泣して周囲の顰蹙を買ったりしたものの、その後阿羅漢の悟りを開き、釈尊の言葉を集成する編集会議(仏典結集)では、釈尊の侍者であった経歴とその類い稀な記憶力を発揮して中心的役割を果たします。
私たちが釈尊の言行を知ることができるのはひとえにこの「多聞第一」と讃えられた阿難尊者の功績によるものです。


人は忘れられない人との出遇いと別れを通して、その人の人生を背負って生きていきます。
その人との出遇いの意味を生かすも殺すも、その人と別れた後の自分の生き方にかかってくるのだと言えましょう。



※親鸞『教行信証文類」後序
ここをもって興福寺の学徒、
太上天皇 
諱尊成
今上 
諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。
予はその一なり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに「禿」の字をもって姓とす。
空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
皇帝
諱守成聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。
同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。
奇瑞称計すべからず。
『別伝』に見えたり。
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。
また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。
『選択本願念仏集』は……

(『西念寺婦人会だより』2017年3月号に掲載)

【参考文献】
増谷文雄『阿含経典(2)』 (ちくま学芸文庫、2012年)

            

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