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2017年6月の法話
 仏弟子阿難の物語

亡き人からの「宿題」

今から10数年前、とある会館での葬儀の後、喪主さんが控室に挨拶にみえました。日頃都会で暮らしておられる喪主さん故人の息子さんは、葬儀の御礼を述べられた後、こう続けられました。

「母が突然に亡くなったことで、何か一杯宿題をいただいたような気分です。」

この言葉に感銘を受けた私は、当時、歌人中城ふみ子(本名・野江富美子、1922―1954)の

「遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ」

という歌、

「人の死、ことに肉親の死という出来事は、時として人に自分の人生そのもの、生き様そのものに対する「問い」を突きつけてくるもののようです。」

という私自身のコメントと共に、西念寺のウェブサイトに「遺族の言葉」の一つとして載せさせていただきました。

今、私なり考えてみますと、この亡き人からの「宿題」とは、
「私が亡くなった後、お前はこの世の中を独り生きていかなければならない。
 お前は私のいないこの世を、これからどう生きていくのか。何者として生きていくのか。」
という問いかけではないかと思います。



【歌人・中城ふみ子】
   
不肖の弟子阿難
釈尊(しゃくそん・お釈迦様。「釈迦牟尼仏世尊」の略)はその在世中、多くの弟子を育てられましたが、その中にアーナンダ(阿難・あなん、阿難陀・あなんだ)というお弟子がおられました。

阿難は釈尊の従弟に当たり、釈尊の成道の夜に生まれたとも言われ、常随昵近
(じょうずい・じっきん)の弟子として、釈尊が80歳で亡くなるまでの晩年25年間をその侍者として仕えた方です。
老齢に達した釈尊の身辺のお世話をする傍ら、あらゆる釈尊の会座(
えざ・説法の場所)に連なり、そのすべてを記憶していたと言われ、「多聞第一」(たもん・だいいち)の弟子と伝えられています。
あらゆる経典は、冒頭の「如是我聞」(
にょぜ・がもん、かくのごとく我聞けり)の一句から始まりますが、この「我」とはこの阿難のことだと言われています。

このように阿難は釈尊の十大弟子 の一人に数えられる有名な弟子なのですが、釈尊の在世中には「阿羅漢果」
(あらかん・か)全ての煩悩が滅した覚りを得ることがなく、また、同輩からは賞賛されるよりもむしろ批難されがちな、師匠である釈尊から見れば「可愛いけれど、どうにも頼りない、心配な弟子」であったようです。

そうは言っても彼が不真面目で、不品行な弟子であったというわけではありません。
釈尊を深く尊敬しており、また、侍者に選ばれるほどですから細やかな心遣いのできる人であったと思われます。

ただ、阿難は大変に眉目秀麗、美男であり、女性に大変人気があったと伝えられています。
また、気持ちが優しく、情にもろい人でもあったようです。

釈尊の継母マハーパジャパティー(摩訶波闍波提
・まかはじゃはだい)が入門出家を求めた時、女性を教団に加えれば比丘(びく・男性の出家修行者)の妨げになりかねない、と釈尊が拒んだにもかかわらず、阿難の再三の懇請によってそれが認められたという出来事がありました。

また、阿難の兄デーバダッタ(提婆達多
・だいばだった)が釈尊への叛逆を試みて種々の悪事を犯した際、提婆達多はまず神通力をもってマガダ国の王子アジャータシャトル(阿闍世・あじゃせ)に近づこうとしました。
その折、阿難は兄の本心に気づくことなく、むしろ歓んでその神通力の習得に力を貸してしまいます。

また、釈尊の葬儀の折、在家の女性信者の哀願に負けて積み上げられた薪の中にある釈尊の遺体を見せ、浄められていた釈尊の足が彼女らの涙で汚され、後にそれを知った高弟マハーカサッパ(摩訶迦葉
・まかかしょう)は大変憤ったと言います。

このように阿難は、情に流されやすく、頼まれれば嫌とは言えず、長老格の弟子達から見れば「軽率」「思慮が浅過ぎる」と言わざるを得ない言動を繰り返していました。

また釈尊が自身の余命は後三ヵ月と語るのを聞いて泣いていた時、「私は再三お前に『形あるものは必ず壊れていく(諸行無常)』と教えたはずだ」と釈尊から諫められたにもかかわらず、その臨終に際して、他の高弟達が悲しみを堪えているのに対して、入門間もない若い未熟な弟子達と共に全身を震わせて号泣したと言います。
 
 

「私は再三お前に『形あるものは必ず壊れていく(諸行無常)』と教えたはずだ」
  と釈尊から諫められたにもかかわらず、その臨終に際して、他の高弟達が悲しみを堪えているのに対して、入門間もない若い未熟な弟子達と共に全身を震わせて号泣したと言います。
   


【釈尊の入滅に号泣する仏弟子達】
(法隆寺五重塔内塑像)
 
   

それらのこともあって彼は、釈尊の死後、摩訶迦葉の発議で開かれることになった「仏典結集」(ぶってん・けつじゅう)釈尊の教説を正しく伝えるための経典の編集会議への参加を拒否されてしまいます。

この屈辱的な扱いに阿難は

「25年間、釈尊にお仕えしてきたがこれほどの苦しみを味わったことはない。
仏はいつも慈悲深く私を容認して下さっていたのに。
(釈尊さえご存命であったならば私はこんな目に遭わなかっただろうに)」

と悔し涙にくれるのですが、阿難はこの時すでに45歳。
大の男が吐く言葉としてはいささか女々しいと思わざるを得ませんし、生前の釈尊がいかに「防波堤」となって阿難を庇っていたかが窺い知れる発言でもあります。

しかし、

「あなたは侍者としての仕事が忙しく、集中して修行にいそしむ時間などなかったでしょう」

という同輩の忠告を受けて、静かな林で独り禅定(瞑想)に入ります。

しかし、なかなか覚りを得ることができず、疲れ果てて横になろうと枕に頭をつけたその瞬間、忽然と覚ったと言われます。

こうして阿羅漢となった阿難は仏典結集に参加し、侍者としてあらゆる会座に参加した経験と並外れた記憶力を駆使して会議をリードします。

阿難「私はかつて○○の地で釈尊が◇◇に対してこう説かれるのを聞いた。……」
摩訶迦葉「今阿難が語った内容に何か間違いはないか」
大衆「いささかの間違いもありません」
摩訶迦葉「ならば、これを正しいブッダの経説として確定しよう」
もし、阿難が居なければ、
「私はこう聞いた」
「いや、私が聞いたのはそうではなかった」
と弟子達の意見が対立し、終いには会議が空中分解したかも知れません。
その結果、釈尊の教えは雲散霧消してしまったか、あるいは伝わったとしても現在とはかなり違ったものになっていたかも知れません。

こうして阿難は、仏教の歴史において欠かすことのできない弟子となったのです。
   


【阿難陀像(千本釈迦堂)】
   
「語り部」としての決意
ここからは私の想像の話です。

釈尊の在世中、阿難はその弟子であること、その侍者であることに満足してしまっていた。
「諸行無常」の教説を耳にしてはいても、それを自分のこととして頷くこと、咀嚼して腹に据えるということがなかったのではないでしょうか。

ところが心の支えであり「庇護者」でもあった釈尊が亡くなり、周囲からの批難の只中を彼は生きなければならなくなった。
師の死という「無常」の事実に打ちのめされながら、「無常」の中を独り生きなければならなくなったその時、阿難は初めて釈尊の言葉と本当に向き合ったのではないでしょうか。

師亡き後、自分がどう生きるのか、何者として生きていくかを考えた時、阿難は自分は残りの人生を「語り部」として生きていこうと「覚悟」を決めたのではないでしょうか。

釈尊のように真理の法を新しく発見することも、聴衆一人一人に適した説法を自在に行うこと(対機説法・たいきせっぽう)も自分にはできないが、「語り部」にならなれる。 結集の場に現れた阿難は、釈尊の生前に犯した過失を摩訶迦葉から糾弾されます。
阿難からすればいろいろと弁解したい点もあったでしょうが、彼はこの時ひたすら頭を下げて陳謝します。

その時、彼の胸中にあったものは
「釈尊の教言を後世に正しく伝えなければならない。
そのためには自分は何としてもこの結集に参加しなければならない」
の一念ではなかったでしょうか。

人はその人生においていくつかのかけがえのない出会いを体験します。
しかし、その出会いを本当にかけがえのないものにできるかどうかはむしろその人と別れた後にかかっているのではないでしょうか。
自分がどう生き、その人との出逢いと別れをどう活かしていくのか。
それこそが大切な人と別れた私達に課せられた大きな「宿題」なのではないでしょうか。


(『西念寺婦人会だより』2017年5月号に掲載)

《参考文献》
中村元訳『ブッダ最後の旅〜大パリニッバーナ経〜』(岩波文庫)
兵頭一夫「仏弟子たちと第一結集」(『仏教伝来Part1』、大谷大学、1995年所収)

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