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 「可哀想は時に人を傷つける」
                  ― 「上から目線」の「レッテル貼り」

先日、インターネットをぼんやりと眺めていたところ、ある記事にであいました。
それは、とある新聞に載った次の「投書」が大層話題になっている、との記事でした。

「可哀想は時に人を傷つける(会社員、(44歳・静岡県)
足をけがした6歳の息子が
「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」
といった。
片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから
「あんな足で歩かせて可哀想に」
という会話が聞こえてきた。
息子に妹ができ、おむつを買いに行った。
「僕が持つよ。
 お兄ちゃんだから」
と頼もしいことを言ってくれた。
任せたら
「あんな小さな子供に荷物を持たせて。
 可哀想に」
と他人から非難された。
息子の頑張りが「可哀想に」という一言で全否定された気がした。
「可哀想に」と言う人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。
しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。
そのことを知ってほしい。」
この投書を読んだとき、私は以前お勤めしたある少年の葬儀を思い出しました。

その少年は先天性の疾患によって、産まれてすぐに医師から
「この子は10歳まで生きられません」
と宣告されていたそうです。
誰かの見舞いで大学病院の病棟を尋ねた際、偶然「院内在学級」(長期入院の子供たちが勉強する場所)の部屋から飛び出してきたその子と出逢ったこともありました。
たまに街で見かけることもありましたが、目の下に文字通り「真っ黒」な隈が出来ていたりで、
「あんまり良い調子じゃないな」
と思ったりもしていました。

そして、ある日寺にお父さんがその子の葬儀を依頼にみえました。
中学2年生でした。

葬儀の終りにお父さんが喪主として挨拶され、体調が悪い中にも
「将来お金持ちになって、お父さんお母さんに楽させてあげる」
と言って励ましてくれた、等々の在りし日のエピソードを語られ、最後にこう締めくくられました。
「息子は可哀想な子ではありません。
 立派な子です」
今にして思えばあの時のお父さんの言葉は 、
(一生懸命に頑張って生きた息子の人生を、「可哀想」のひと言で終えてくれるな。
生まれながらの病気で入退院を繰り返して、学校にもろくに行けず、友達ともろくに遊べず、わずか中学2年生で死んでいかなければならなかった「可哀想な子」、そんな安直なレッテルでこの子のことをわかったような気にならないでくれ)
といった「叫び」であったようにも思えます。

冒頭の「投書」を読んだ時には投稿者のお父さんに肩入れをして、
「ああ、こんな人、いるいる」
「なまじっか「良いことしてる」つもりの分だけ、『善意の第三者』ってのは本当に厄介だよな」
などと思ったりもしたのですが、何のことはない、それと気が付かないだけで、どこかで似たようなことを私も結構やってしまっているのではないでしょうか。

私たちのこういった知らず知らずの振る舞いは、当節風の言い方をすれば、「上から目線」の「レッテル貼り」とでも言えるのでしょうか。

例えば、私たちは折々に亡き人を偲びながら仏前で手を合わせ、お勤めをします。
でももしかしたら、そんなお仏事の場においてさえも、私たちはこの「可哀想」という「上から目線のレッテル貼り」をやってしまっているのかも知れません。

幼い息子を亡くしたあるお父さんが毎日、お仏壇でお勤めをしていたそうです。
そのお勤めの中には
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず。
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。」
といった、人の命のはかなさ、無常さを詠った蓮如上人の「白骨の御文」もありました。
ある日お父さんの目がこの「御文」の中の、
「我やさき、人やさき」
の一句にとまったそうです。
その時、このお父さんは、亡くなった息子さんから
「お父さん、あなたは僕のことを可哀想だと思ってお勤めしてくれているんでしょうけれど、お父さん、もしかしたら人の命は無常だというのを、あなたは僕のこと、僕だけのことだと思っているのではありませんか。
人の命がもろく儚い、それは他でもないあなたのことでもあるんですよ。
そのことがわかっていますか。
わかって生きていますか。
わかった上でどう生きていこうとしていますか。」
と、こう問いかけられているような気がしてきたそうです。

お父さんは亡くなった子供を「可哀想」に思い、その子のためにとお勤めしていたのですが、実は拝読しているそのお聖教(しょうぎょう)の方から、他ならぬお父さん自身が問われていたのです。

私たちは亡き人のためと思って仏事を営みますが、その仏事を通して実は私たちが亡き人から思われ、仏さまから思われ、お聖教の言葉から問われているのです。

妙好人・讃岐の庄松と呼ばれた谷口庄松(1799―1871)さんが、京都の本山で帰敬式(おかみそり)を受けていた折、突然ご法主の衣の袖を掴んで、
「兄貴、覚悟はよいか」
と尋ねたそうです。
余りの無礼さに周りにのみんなは大層驚き、慌てふためきましたが、ご法主に呼ばれて訳を尋ねられた庄松さんは、
「立派な緋の衣を着ていても地獄を逃れることはできないので、後生(ごしょう)の覚悟を聞いてみたまでのこと」
と答えたそうです。

この「後生の覚悟」とは、言葉を換えれば「死の覚悟」でしょう。
「長いように思っていても人生は短い。
 最期の時になって、
『自分の人生は失敗だった。
こんなはずじゃなかった。
もう一回やり直させてくれ』
などという、みっともない『愚痴』をふりまかないでもいいように、今をしっかりと生きていますか」
ということにでもなりましょうか。

さてみなさん、お互いいつなんどき果てるとも知れぬこの身。
お覚悟はよろしいでしょうか?

(『西念寺婦人会だより』2017年9月号に掲載)

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