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亡き人たちに導かれて

「人は皆、誰かの『忘れ形見』。

 その人を想い、

 その人を背負って、

  この世を歩く。

(住職作


「一期一会」という言葉

みなさんは「一期一会」(いちご・いちえ)という言葉をご存じでしょうか。

「一期」を「いちご」と読むと、人が生まれてから死ぬまでの間、つまり「一生涯」という意味になります。
「一会」とは「ただ一度の機会、ただ一度の出会い」という意味です。
つまり「一期一会」とは「一生にただ一度の出会い」という意味の言葉で、さらに言えば、
「人と出会う時には、
『今この場所でのこの出会いが、実は一生でただ一度の機会かも知れない。
 ここで別れたらもう二度と会うことがないかも知れない。』
と考えて、その出会いを大切にしなさい。」

という教え、戒めの言葉になります。

もともとは茶道の世界で大切にされた言葉で、
「茶会に臨む際は、どんな茶会でも、たとえそれが毎回同じような顔ぶれであったとしても、一生に一度の機会、一生に一度の出会いと心得て、主客ともに 誠心誠意を尽くしてその場に臨むべきである。」

という「心得」、あるいは「覚悟」を表すものだったのだそうです。※1

   
   
 
   
 

茶室掛け「一期一会

   
 

  同級生との別離

私がこの「一期一会」という言葉を強く意識するようになったのは、今から20年ほど前の中学校の同窓会での出来事がきっかけです。

久しぶりに懐かしい顔ぶれに会って賑やかに話している中で、一人異常なほどに騒がしい人が居たのです。
お酒も入った席ですから賑やかなのは当然としても、あまりにも騒々しいそのはしゃぎ様に周りはかなり引き気味で、
「何だ、あれは!?」
「ちょっと、いい加減にして!!」
との声が上がるほどでした。

最初のうちこそそんな声に同調していた私でしたが、そのうちに
「何か、おかしいぞ?」

と思い始めて、隣の人に

「あの人、何か病気したんじゃない?」 

と尋ねてみました。

その時は、
「でも、『治った』と言っていたよ。」

とのことでしたが、それから半年か1年か経った後、その人の訃報が伝わってきました。

(ああ、やっぱりそうだったか)

その後、別の同級生から、

「あの時、末期の癌だと言っていた。」
とも聞きました。

その人がどんな思いで同窓会に出席していたのか。

「懐かしい顔と会えるのもこれが最後だから……」
と思っていたのか、
「なぜ、自分だけがこんな病気に……」

と思っていたのか、それはわかりません。
いずれにしても「これが人生最後の同窓会」という思いであったことだけは確かでしょう。

それから何年か経って、私は今度は高校の同窓会に出席しました。

幹事さん達の尽力で私たちの期は5年毎に同窓会が開かれます。
(この話をすると「○○期はすごいですね」とみんな感心されます。)

ただ、そうは言っても卒業後は各地に散らばっていますから簡単に、誰とでも会える訳ではありません。
その日はたまたま1年生の時に同じクラスで、結構話もしていた友人と何十年ぶりかで言葉を交わすことができました。

近況を報告し合い、
「それじゃあ、また。元気でね。」

と別れたのですが、わずか数年後にはその友人の訃報が飛び込んできました。

これらの経験もあって私は、同窓会の知らせが届く度にこの「一期一会」という言葉を思い返すのです。

同窓会の喧噪の中で、ふと

「今日のこの同窓会に来られなかった人がいる。
 どんなに来たいと思っても絶対に来られない人(故人)がいる。」
「もしかしたら今回の出席者の中にも、一病を抱えて『これが最後』との覚悟で参加している人が居るかも知れない。」
「次の同窓会に元気で参加できる保証は誰にも無い。
 他ならぬ私自身にも。」

などと考えている自分がいます。

こんなことを言えば「縁起でも無い」と嫌われますので口にこそしませんが、こう考えるようになってからむしろ、私はこの同窓会という機会がより一層大事な、かけがえのない時間だと思えるようになってきました。

明日からはまた、皆それぞれに厳しい日常に帰って行かなければならない。
 だからこそせめて今日この場所は精一杯楽しく笑って、賑やかに過ごそう。」

念仏詩人と呼ばれた木村無相氏(1904~1984)には、

「一期一会の みんなかなしく なつかしく
みな死ぬる 人とおもえば なつかしき」

という句があるそうです。

 「『みんな死ぬ』―『諸行無常』の世を生きる悲しい身であるからこそ、『一期一会』のこの場(=同窓会)がこの上なく懐かしく愛おしく思えてならないのだ。

これが無相氏の句を読んだ私の、偽らざる実感なのです。

   
   
 
   
  【木村無相(1904-1984)】
   
 

   忘れ形見
           託されて生きる

そんな思いも手伝ってか、同窓会の出席率が非常に良い私ですが、そんな私たちの同窓会もいつしか物故者への「黙祷」から始まるようになり、ついには
「5年毎はさすがに長いから、3年毎にしよう。」

との声が出るようになりました。

そんな私が最近、「一期一会」と共に心惹かれている言葉に「忘れ形見」(わすれ‐がたみ)があります。

辞書に拠れば「忘れ形見」とは、


1.その人を忘れないように残しておく記念の品。
  《例文》「亡父の忘れ形見のパイプ」

2 .父が死んだとき、母の胎内にいた子。また、親の死んだあとに残された子。遺児。
  《例文》「兄夫婦の忘れ形見をひきとる」
  《類語》孤児・みなしご・遺児・捨て子
                      (『デジタル大辞泉』

という意味だそうです。

それがモノであれ人であれ、いずれも個人が愛着を持ったり愛情を注いだりした対象であって、この世に残された人たちからすれば、それを見る度に故人が思い出される、故人を偲ぶ縁(よすが)となるものを指す言葉が「忘れ形見」なのでしょう。

私はこの語が示す「親の死後に残された子供。遺児」の意に注目したいのです。

私たちは皆、誰かがこの世に遺してくれた「忘れ形見」なのではないでしょうか。
たとえ今現在両親が存命であるとしてもです。

私はこの「忘れ形見」を「親の―」に限定する必要はないと思います。

それこそ、亡くなった恩師や若くして逝った先輩・後輩、友人たち。自分の人生において忘れることのできないその人たちからすれば、自分もまたその人たちがこの世に遺した「忘れ形見」とは言えないでしょうか。

大切な人との別れの際に、

(自分はこの人から「何か」を託された「忘れ形見」としてこの世を生きよう。)

そう誓って日々を生きている方もおられるのではないでしょうか。

韓国の作家・趙昌仁(チョ・チャンイン)の小説『カシコギ』には、

「あなたが虚しく生きた今日という日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日である。」

という一節があるそうです。

誰もが誰かの大切な「忘れ形見」として、「何か」を託され、「何か」を背負ってこの世を生きているのではないでしょうか。


  親鸞聖人の生き様


私は、宗祖親鸞聖人(1173~1262)の生き方は実はこの「忘れ形見」としてのそれではなかったのか、と考えています。

「誰の」忘れ形見かと言えば、師法然上人(1133~1212)の、です。

親鸞聖人はご自身の生涯についてほとんど語っておられません。
いつどこで誰の子として生まれ、どんな経歴を歩んで来られたのか……、
ご本人の著作や発言には残っていません。

これらがかろうじて知られるのは、周囲の人のお手紙(『恵信尼書簡』)や後代の伝記(覚如上人『親鸞聖人伝絵』)等を通してであって、ご本人の口を通して唯一語られたのは師法然上人との関わりのみです。

『歎異抄』には、

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然上人)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

という聖人の言葉が伝えられています。

聖人の著書『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい。通称『教行信証』(きょうぎょうしんしょう))の「後序」(ごじょ。制作の事由を語った「あとがき」)には

建仁元年(1201年、聖人29歳)

法然上人(69歳)の下に入門。

元久二年(1205年、33歳。法然上人73歳) 

法然上人の著書『選択本願念仏集(選択集)』の書写と肖像画(真影)の模写を許される。

法然上人の認可の下、「釈の親鸞」と改名

承元元年(1207年、35歳)

法然上人と共に流罪に処せられる。(法然上人は讃岐、聖人は越後へ)

建暦元年(1211年、39歳)11月17日

法然上人と共に罪を許される。
「愚禿」(ぐとく)の姓を用い始める。

建暦二年(1212年、40歳)正月25日

京都にて法然上人死去(80歳)。※2

と記されています。

(私・親鸞は、師との出会いと別れによって創られた者であり、師から教えられた「本願の念仏」によって救われ、師から与えられた「本願念仏の教えを説き広めよ」という課題に生涯を捧げる者である。
本来自分は師からの委託には値しない愚かな沙弥(しゃみ、僧形をとった在俗者)にすぎない(=愚禿・ぐとく)。
しかし、師命を賜った以上全霊を挙げてそれに応えていく他ないのだ。)

このような思いに促されて、90年にわたる著述と伝道教化の生涯をおくられたのが宗祖親鸞聖人ではなかったか、と私は考えるのです。


【註】

※1井伊直弼『茶湯一会集』
「抑(そもそも)茶湯の交會(こうかい)は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會(え)にふたゝびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の會なり。
 さるにより、主人は萬事に心を配り、聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう、深切(しんせつ)實意(じつい)を盡(つく)し、客にも此(この)會に又逢ひがたき事を辨(わきま)へ、亭主の趣向何一つもおろそかならぬを感心し、實意を以て交るべきなり。
 是(これ)を一期一會といふ。」
※2親鸞『教行信証』「後序」
「斯を以て、興福寺の学徒、
 太上天皇 諱尊成〔「後鳥羽院」と号す。〕
 今上 諱為仁〔「土御門院」と号す。〕
 聖暦承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
 茲れに因りて、真宗興隆の大祖源空法師、幷びに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。或いは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。
 予は其の一なり。爾れば已に僧に非ず俗に非ず。是の故に「禿」の字を以て姓とす。
 空(源空)師、幷びに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
 皇帝 諱守成 〔佐土院〕聖代建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、 勅免を蒙りて入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓・鳥部野の北の辺・大谷に居たまいき。
 同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞、称計すべからず。別伝に見えたり。
 然るに、愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、幷びに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈の綽空」の字と、空の真筆を以て之を書せしめたまいき。
 同じき日、空の真影、申し預かりて図画し奉る。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆を以て、「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書せしめたまう。
 又、夢の告に依りて「綽空」の字を改めて、同じき日、御筆を以て名の字を書かしめたまい畢りぬ。
 本師聖人(源空)、今年は七旬三の御歳なり。」

 

   
  (『西念寺だより 専修』第50号に掲載)
 

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