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「天命じて人事くす」 清沢満之
   
清沢満之先生の言葉

この「天命に安んじて人事を尽くす」というのは、明治時代の真宗大谷派の学僧・清沢満之(1864~1903)師の言葉です。

当時流行していた

「人事を尽くして天命を待つ」

という言葉に対して、

「自分はあえてこう言いたい。
 そもそも天命に安んずることがなくして人事を尽くすことなどできるものであろうか」

と発せられた言葉だそうです。

「人事を尽くして天命を待つ」とは、中国南宋初期の儒学者・胡寅(こいん、1098~1156)がその著『読史管見』(とくしかんけん)に記した

「盡人事聴天命(人事を盡[つく]して天命に聴[まか]す)」

から来たものですが、この場合の「人事」とは、「人事部」「人事異動」といった場合に用いられる「官公庁、学校、会社などで、人の採用、転任、退職や身分、職務、能力などに関する事柄」という意味ではなく、「人間の力でできる事柄。人間が行う事柄」という意味です。

したがって、「人事を尽くして天命を待つ」という文の意味は

「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」

という意味になります。

この言葉から、

「いたずらに結果ばかりを気にするのではなく、今自分のできることを精一杯やりなさい」

といった教訓を読み取ることも可能です。

これに対して「天命に安んじて人事を尽くす」とはどういうことでしょうか。

辞書によれば、 「天命」には次のような意味があります。

①天の命令。天が人間に与えた使命。「人事を尽くして天命を待つ」
②人の力で変えることのできない運命。宿命。
③天の定めた寿命。天寿。「天命を全うする」「天命が尽きる」
④天の与える罰。天罰。

清沢先生の日記『臘扇記』には、

「天命いずれの処(ところ)にか在(あ)る。
 自分の稟受(ひんじゅ)においてこれを見る。
 自分の稟受は、天命の表顕(ひょうけん)なり」

という一節があります。

「天命・天の意思とはどこで知ることができるであろうか。
 自分の稟受(=受けたもの、授かったもの)によって知ることができる。
 自分が今受けているもの・授かったもの、つまり今ある自分自身と置かれているその境遇こそが天の意思の表れである。」

というのがその意味です。

しかし、ここで私は思うのです。

今の自分とその境遇がたとえ天の意思によるものであって、人の力ではどうすることもできない、変えられないものであったとしても、人はそう簡単にそれに納得することができるでしょうか。
「仕方がないことだ」「これも天命だ」(天とは何と無慈悲なものだ)とあきらめることはあっても、「これが私の天命だ」と「安んずる」こと、さらには「ここに自分が天から与えられた尊い使命がある」と立ち向かっていくことはそう簡単ではないのではないでしょうか


   
 
   
 

【清沢満之(18641903)

   
 

  ある禅僧の回顧

そう考えていた折、昔耳にしたとある禅僧の懐旧談を思い出しました。

その方は、宗門の中枢に位置するほどの傑物でありましたが、生家が大変に貧しく、いわゆる「口減らし」家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子(里子)にやったりして、養うべき家族の人数を減らすのために幼くして寺の小僧に出され、そこから苦労してその地位まで上り詰めた方であったそうです。

将来の高僧であるその少年がいよいよ家を離れるというその日、まだ幼さの残る息子を前にした母親は、何も言えなかったそうです。
言わば「捨てる」ように我が子を手放さなければならない自分自身の不甲斐なさ、息子への申し訳無さ、この子がこれから一人でどう生きていくのかという不安、そんな様々な思いがない交ぜとなって、「何かひと言」と思いこそすれど、何一つ言葉が出てこない。

そんな母親の様子を察したのか、その子は自ら、
「お母さん、しっかり勉強して、修行して立派なお坊さんになります。」

と声をかけたそうです。

それを聞いた時、それまで何も言えなかった母親の口から滑り出てきたのは、

「そんなに無理しなくても良い。
 一生懸命に励んで、それでも駄目だったら、いつでも帰って来なさい」

という言葉だったそうです。

その言葉を聞いた時、

「自分は失敗できない。
 たとえ駄目になっても、もう二度とこの家に帰って来ることはできない」

と張りつめていた少年の心はふっと緩み

「それからの自分は安心して、一生懸命修行に励むことができた」

のだそうです。

少年にとっての「天命」生家の貧しさ、口減らしのための入寺は決して優しいものではありませんでした。
しかし、母親の言葉を通して
「帰って来られる場所がある」
「失敗した自分、駄目な自分をも迎え入れてくれる心がある」
そのことに気づかされた時、少年にとっては不遇の象徴であった禅寺を、こここそが自分が全力を尽くすべき場所、人として生まれた自分がその使命・役割を果たすべき場所として受け入れることができた。、まさしく「天命に安んじて人事を尽くす」べき場所とすることができたのではないでしょうか。

本人の自覚はどうあれ、この少年は母親の言葉を通して、阿弥陀如来の摂取不捨の心に出遇ったのではないかと私は思います。


   
 
   
  【竹中智秀師揮毫
   
 

「ここにいていい」

京都市山科区に真宗大谷派の教師育成機関「大谷専修学院」があります。

ある卒院生によると、そこでは一年間を通して聞き飽きるほど、それこそ耳にタコができるほど、元学院長竹中智秀(1232~2006)師の
「阿弥陀仏のはたらきを摂取不捨と言います」
「摂取不捨とはえらばず・きらわず・見すてずということです」

という言葉を耳にしたそうです。

そんな折、当時の学院長先生が、

「えらばず・きらわず・見すてずということは、私なりに言い換えますと〝ここにいていい〟ということです」

と言われ、初めて聞くフレーズに興味を持ったと同時に、「その程度のことなのか」とも思ったそうです。

その翌日、同じ院生の前で日頃感じていることを話す3分間の「感話」当番が当たったその院生は、学院長の話を思い出して、

「自分も早く〝ここにいていい〟というような場所を見つけたいです」

と話したそうです。

ところがその日の昼、一人でいたその院生の所にある先生が近づいて来て、

「〝ここにいていい〟というのは、あなたが今いる〝ここ〟が、〝ここにいていい〟ということですよ」

と言われたそうです。

その院生は、それまで、自分を満足させ、安心させてくれ、自分自身を認めてくれる場所がどこかにあると考えて、それを探し求める、あるいは作り上げるもの(「承認欲求」の満足)であり、院長先生のお話も結局はそういった類いだと考えていたのでした。

心理学の分野にはアブラハム・マズロー(米国、1908~1970)が提唱した「欲求五段階説」という理論があるそうです。
それに拠れば、人間の欲求には五つの段階があって、まず

①生理的欲求(食事や睡眠など生きるために必要となる本能的な欲求)

があり、それが満足されると

②安全欲求(他者に脅かされることなく、安全に暮らしたい)、

それが満足されると

③社会的欲求(集団に属したい)、

その次は

④承認欲求(他者から認められ尊敬されたいという欲求)、

最後に

⑤自己実現欲求(自分の能力を最大限に引き出して目標を達成したい)

が生じるといった具合に、欲求が一つ満たされるごとにより高次の段階の欲求を生じてくるそうですから、この院生が院長先生のお話を「承認欲求の満足」を求める話と勘違いしたのも無理からぬところではあります。

しかし〝ここにいていい〟の〝ここ〟とは、他でもない私が今いる〝今〟〝ここ〟であって、今ここにいるこの私にこそ阿弥陀仏のえらばず・きらわず・見すてない資格を問わない、無条件の摂取不捨の心が働いている。呼びかけている。
だからこそ自分は〝今〟〝ここ〟を、たとえそれが容易には受け入れ難いもの・場所であっても、自分がこの世での自分の役割・使命を果たすべき場所とする、という意味ではないでしょうか。

この卒院生は院長先生の〝ここにいていい〟を今、次のように受けとめているそうです。

「私が私一人の力でどこかに安心や私の存在を認めてくれるものを欲して、求めるのではない。
 私のこれまでを支え、認めてくれて、そうして私が生きることの出来た背景や大地のような存在を尋ねていくことだ。
 私は、私の知っている背景だけでなく、それ以上の計り知れない背景から支えられている。
 そしてそのような背景から響いてくる〝ここにいていい〟という呼びかけは、私が生きている今、そして未来にもずっと「ここでしっかりと生きなさい」と呼びかけ続けているのだ、と。
 認められるということは、自分の都合が満たされることではなく、私が生まれるずっと前から私の思いを超えて「ここにいていい、生きなさい」と願い続けられていることに気づくこと。
 その願いを阿弥陀仏のはたらきと言うのではないでしょうか。」

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
  摂取してすてざれば 阿弥陀となずけたてまつる
                             (親鸞聖人)
【現代語訳】
あらゆる世界に生きる念仏する人びとを阿弥陀仏はご覧になり、おさめとってすてないので、阿弥陀と名付けお呼びするのです。
  (『書いて学ぶ 親鸞のことば―和讃』(東本願寺出版)

 

   
  (『西念寺だより 専修』第49号に掲載)
 
  《参考ウェブサイト》
真宗大谷派(東本願寺)青少年文化センター/法話ブック/
5.認めてくれること(九州教区 草野萌

 

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