住職日記   真宗大谷派 西念寺
 

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住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)

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マンガ動画「教専の道 ― 異伝・西念寺開山縁起 ―」公開

 
 
 
マンガ動画「教専の道 ― 異伝・西念寺開山縁起 ―
 
     製作・専修山西念寺
     企画・豅 弘信
     監修・豅 信雄
     題字・豅 弘信
     脚本/ナレーション/
     マンガ動画製作・松村宏
           (2025年8月製作)
 
(YouTube「真宗大谷派西念寺」チャンネルにて公開中)

 
当山・専修山西念寺(真宗大谷派)は、文禄元年(1592)、九州名護屋滞陣中の豊臣秀吉への陣中見舞いからの帰路、石見国大森銀山(現・島根県大田市大森町)に立ち寄られた本願寺第12世教如上人(1558~1614。当時新門)の弟子となった開基教専(敬専、生年不詳?~元和元年・1615没)が、翌文禄2年(1593)2月、伯耆国会見郡中間荘尾高村(現鳥・取県米子市尾高)に堂宇を建立したことをその嚆矢とします。
しかし江戸時代中期、隣寺よりの火事によって類焼したこともあって、当時の史料はほとんど残っていません。
わずかに、「慶長10年(1605)に教如上人より下付された」との裏書のある「宗祖親鸞聖人絵像」と奥付に教如上人の花押のある『御文』とが伝わっているばかりです。
また、明治時代に当時の住職が記した「由緒縁起」に拠れば、同時期に教如上人の父で前法主であった顕如上人の「絵像」を下付されたことが知られますが、その「顕如上人絵像」は現在行方不明です。)
 
 
 
 
 
 【慶長10年付「親鸞聖人絵像」(西念寺蔵)】
 
 
 
 
 【教如上人花押入り『御文』(西念寺藏)】
 
 
そこで今回、史料の乏しさを逆手にとって、想像力を大胆に駆使した「異伝」を制作することとしました。
※「異伝」(いでん)とは、歴史的現実とは異なる解釈や伝承、あるいは本筋とは別の側面を描いた物語や解説を指す言葉で、歴史上の人物や出来事に対して、公式の記録とは異なる、あるいはその裏に隠された情報を語る際に使われます。
尾高西念寺の発祥に関わる第一の疑問は、
「そもそも教専はなぜ尾高に移って来たのか?」
でした。
・当時石見銀山は活況を呈しており、経済的困窮による出奔とは思われない。
・本尊まで携えて来ている以上、不祥事による放逐もあり得ない。
そこで当時の伯耆国(鳥取県註・西部)の歴史的状況を鑑みると、
・当時伯耆国(現鳥取県中西部地区)は毛利家領内であり、文禄元年(1592)からは吉川広家による米子城の築城が開始されていた。
・毛利家は石山合戦元亀元年(1570)9月12日)から天正8年(1580)8月2日にかけて行われた浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いの折、兵糧を搬入して援助するなど本願寺と関係が深く、領内に多くの「門徒」(浄土真宗の信者)が居た。
であり、併せて、
・西念寺は伯耆国西部(現鳥取県西部地区)で最も古くに成立した真宗寺院である。
これらのことを考え合わせると、
「西念寺の尾高建立は、当時真宗寺院の無かった同地域(現鳥取県西部)の真宗門徒のための「拠点」作り、言葉を換えれば「開教」の先駆けとしての石見(現島根県西部)地方の門信徒を伴った入植であった。」
という推論が導き出されました。
動画中で言及される当時の歴史的事件を列挙すると以下のようになります。
天正8年(1580)閏3月:大坂本願寺、織田信長と講和(石山合戦終結)。
法主顕如上人は紀伊国鷺森御坊(現・和歌山県和歌山市)へと退去するも、長子教如上人は近臣と共に本願寺にて籠城を継続する〈大坂拘様〉。
同年8月:教如上人が大坂本願寺を退去。直後に本願寺は焼亡。
教如上人は父顕如上人が滞在中の鷺森御坊に赴くも、対面は許されず、顕如上人から義絶される。
天正10年(1582)6月:本能寺の変。織田信長死去。
教如上人、義絶を解かれる。
◇天正13年(1585)、羽柴秀吉(翌年に「豊臣」に改姓)と毛利輝元の和睦が成立。天正9年(1581)以来の秀吉による伯耆一円の支配が終わり、伯耆三郡が毛利領となる。
天正19年(1591):本願寺、豊臣秀吉より京都・七条堀川の地を与えられ移転。(現・西本願寺)
◇同年:吉川広家による米子城築城開始。
天正20・文禄元年(1592)4月:豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)開始。
◇吉川広家、朝鮮出兵に従軍。
同年11月:顕如上人死去(50歳)。教如上人が本願寺法主を継職。
※文禄2年(1592)2月:西念寺、伯耆国尾高村に堂宇を建立。
同年閏9月:教如上人、豊臣秀吉より退隠を命じられる。
慶長3年(1598)8月:豊臣秀吉死去(62歳)
◇吉川広家、帰国。米子城築城を再開。
慶長5年(1600)9月:関ヶ原の戦い。
◇吉川広家、西軍として出陣し、戦後周防・岩国に転封される。
◇同年11月:中村一忠、尾高城に入り、初代米子藩主となる(当時11歳)。
慶長7年 (1602)2月:徳川家康、教如上人に京都・烏丸七条の地を寄進する。(現・東本願寺)。
◇同年:中村一忠、米子城に入る。
◇慶長8年(1603)11月:中村一忠、家老横田村詮(内膳)を誅殺(米子城騒動)。
その後、出雲松江藩主・堀尾吉晴の加勢を受けて飯山に立て籠もる横田一族を鎮圧。 (横田村詮殺害の報に接した徳川家康は激怒し、首謀者数名を切腹させる。)
※慶長10年(1605):西念寺に「親鸞上人絵像」が下付される。
◇慶長14年(1609)5月:中村一忠急死(20歳)。中村家は改易(所領没収)となる。
◇慶長15年(1610):加藤貞泰が米子藩主となる。
慶長19年(1614)10月:教如上人死去(57歳)。
慶長19年11月~翌 20年(1615)5月:大坂冬・夏の陣(豊臣氏滅亡)。
※元和元年(1615):西念寺開基・教専死去。
※西念寺は慶長年間(1596~1615)に中村家の下屋敷(別荘)及び桧皮(ひわだ)葺き四脚門(よつあしもん)を賜り現在地に移転。これにより「中村山尾高院西念寺」と号したが、移転の正確な年時は不明。
………いやはや、なんとも凄まじい時代の変転ぶりですね。
西念寺は現在、鳥取県米子市という一地方都市の、寂れゆく旧中心市街に位置する一真宗寺院にすぎませんが、戦国時代末期(安土・桃山期)から江戸時代初期にかけてというまさしく激動・激変の時代を背景に創設され現在に到っています。
今回制作した動画をご覧になったある方から、
「史料の上では一行にも満たない記述の裏にもそれなりの人間ドラマがあるのですね。
 歴史って名も伝わらぬ無数の人々の人生から出来ているのですね。」
という感想を頂戴しましたが、まさにその通りだと思います。


  【追 記】

実は米子市内にはもう一つ、これも石見銀山から直接米子に移って来た(ただし、西念寺よりは後に)と伝わる真宗大谷派の寺院があるのですが、とある旧家の方(大原歳之氏)から、
「実はウチには、先祖は石見銀山の大原の出で、○○寺の寺侍としてご本尊を背負って一緒に米子にやって来た。吉川広家公の側室が真宗門徒で、○○寺は広家公から米子で布教するように命じられて移って来たのだ、という『言い伝え』がある。」
と聞きました。
この「言い伝え」を信用すれば、西念寺はまさしく米子開教の先駆け、第一陣としてまず尾高に入植した、という私たちの想像が裏付けられたことになります。

(12月13日)

 
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