住職日記   真宗大谷派 西念寺
 

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住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)

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多屋頼俊先生鑽仰

 
 
今年11月13日に三十三回忌を迎えられ、遺弟石橋義秀先生によって記念誌『大悲無倦常照我』が発行される故・多屋頼俊先生(1902~1990)。
大谷大学名誉教授・文学博士であり、昭和62年(1987年)には勲四等旭日小綬章を受章された国文学の碩学であられます。
『歎異抄新註』の著者としてお名前だけは存じ上げていたものの、専門分野も違い、ご生前には一面識もなかったのですが、思わぬところでその余沢に与らせていただく機会がありました。
 

   
       
 
現存する親鸞聖人の真蹟「書簡」を見ると、聖人が関東の門弟衆に「書簡」を認める際、「書簡」末尾に年号の無い「日付」、日下(にっか、日付の真下)に署名(実名「親鸞」)もしくは押署(花押)、改行して「宛名」を日付より高い位置から書き始めるといった具合に、当時の書札礼(文書の書式)からいえば、「目上の相手に送る私信」の様式に則っておられます。
この書札礼一つをとってみても、「いなかのひとびと」を「われら」と呼び、「ともの同朋」「とも同行」と尊重された聖人の「弟子一人ももたず」の信念がうかがわれます。
 
   
       
【建長8年5月28日付・覚信房宛】   【正嘉元年10月6日付・「しのぶの御房」宛】   【正嘉元年10月21日付・浄信房宛】
         
(いずれも三重県・専修寺所蔵。『親鸞聖人真蹟集成』第4巻より)
 
ところが、文応元年(1260年、親鸞88歳)11月に乗信房宛に出された「返書」(『末灯鈔』第6通)だけは、「書簡」末尾が、
>  文応元年十一月十三日   善信八十八歳
>乗信御房
と、日付に年号あり、「善信」の署名、年齢入りという親鸞聖人の他の「書簡」にはない書式となっているのです。
当時、日付に年号まで入れるのは「公文書」の場合であり、親鸞聖人関係で言えば、寛元元年(1243年、71歳)12月21日付の「いや女譲状」、恵信尼から覚信尼に宛てた建長8年(1256年)7月9日付・9月15日付の「下人譲状」2通がそうなっています。
また、建長7年(1255年、83歳)10月3日付の「かさま(笠間)の念仏者のうたが(疑)ひと(問)われたる事」との標題のある「書簡」(建長8年4月13日付「念仏する人々の中よりうたがひとわるゝ事」題の同文の古写「書簡」あり)には、末尾の年号入り日付の後に「愚禿親鸞八十三歳書之」(建長8年4月13日付古写「書簡」では「愚禿親鸞八十四歳尅作」)とあり、聖人がこれらの「書簡」を「公文書」、すなわち「聖教」と見做しておられたことが窺われます。
これに対して、建長8年5月29日付の善鸞宛「義絶状」・性信宛「義絶披露状」、弘長2年(1262年)11月11日付「いまごぜん(今御前)のはゝ(母)」宛・12日付「ひたち(常陸)の人々」宛の「書簡」2通は、それぞれ義絶状(起請文)、遺言状(置文)としての内容(性格)をもちながら、日付に年号はなく、あくまで「私信」の体裁を採っています。
つまりこの乗信房宛「書簡」の末尾は、親鸞聖人の通常の「私信」の書き様から見ても、当時一般の書札礼から見ても、特異な事例なのです。
 
 
【文応元年11月13日付・乗信房宛(『定本親鸞聖人全集』第3巻・書簡篇より)】
 
 
そして、この「文応元年十一月十三日   善信八十八歳」の日付・署名は、文明5年(1473年)の蓮如上人開版本「正像末法和讃」の
>正像末浄土和讃
>        愚禿善信集
>>已上二十三首仏不思議の弥陀の御ちかいをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり

>        愚禿善信作
>皇太子聖徳奉讃
>親鸞八十八歳御筆
といった記述(撰号)と併せて、
「親鸞は晩年のこの時期、『善信』に回帰した」
「このことから元久2年(1205年、親鸞33歳)の改名は『善信』に、であると判断できる」
として、いわゆる「善信」改名説の論拠となっていました。
しかし、多屋先生は、「末灯鈔の成立について」(『真宗研究」9、1964年)「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』」(『大谷学報』47―2、1967年)、安居講本『親鸞聖人全消息序説』(真宗大谷派宗務所、1974年)等において、愛知県岡崎市浄光寺蔵『親鸞聖人御消息』(全21通、室町時代中期の成立。以下、「浄光寺本」)の存在を明らかにされました。
多屋先生は、
浄光寺本御消息の原初の本と末燈紗の従覚本と、何方が先に成立したかと考えてみると、浄光寺本御消息の系統の本の方が先に成立しているように考えられる。……末燈紗わ浄光寺本御消息系統の本お第一資料にし、これお年月日の順に編集しなおし、これに他の資料によって四通の消息お加えたものであると言うことができよう。

       (「末灯鈔の成立について」、『真宗研究』9、92~3頁)
として、「浄光寺本」系「祖本」(写本系統の最初の本)は内容的に『末灯鈔』に先行すると考えておられますが、現存の「浄光寺本」自体は、従覚上人(覚如上人の次男)が編集して正慶2年(1333年、親鸞没後72年)4月に成立した『末灯鈔』よりは成立が新しいとされています。                   
「浄光寺本」には、問題の『末灯鈔』第6通と同文の「書簡」が第10通に収められており、多屋先生の翻刻に拠れば、その文末は、
>  十一月十六日    親鸞
>乗信ノ御房
>文応元年十一月十六日  善信八十八歳
(「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』〔附浄光寺本『親鸞聖人御消息』翻刻〕」、
『大谷学報』47―2、33頁)
となっているそうです。
『末灯鈔』の日付が「11月13日」であるのに比して「浄光寺本」が「11月16日」となっている点について多屋先生は、
十三日か 十六日かお 決定すべき 資料が無いが、写本の 場合、「六」お「三」と 見誤つて いる ことわ あるが、その逆の 例わ 知らない。……
「十六日」の 方が 正しいのかも しれない。
(『親鸞聖人全消息序説』74~5頁)
と流伝の過程における「誤写」の可能性を示唆し、専修寺系の写本『消息集』ではいずれも「11月13日」になっていることを指摘しておられます。(『親鸞聖人全消息序説』66~8頁、109~14頁参照)
多屋先生のご教示を承けて私は次のように推論しました。
(1)文応元年(1260年)に乗信房のもとに届いた親鸞聖人直筆の「書簡」の末尾は、聖人の通常の書札礼の通り、
> 十一月十六日    親鸞
>乗信御房
となっていた。
(2)到着後、いつの時点かは不明であるが、おそらくは文中に「まず『善信』が身には……」とあることを承けて、「善信」が親鸞聖人の房号であることを示すための註記「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」が、本来の「十一月十六日 親鸞/乗信御房」(年号無しの日付、実名による署名/宛名)の後の「書簡」の奥(紙の左端)に直接書き入れられる、もしくは別紙を貼付される(例:建長8年5月28日付・覚信房宛「返書」)かして添えられた。
> 十一月十六日    親鸞
>乗信御房

文応元年十一月十六日 善信八十八歳
(3)上記の形状の聖人直筆の乗信房宛「書簡」が現在の「浄光寺本」所収「書簡」の「祖本」(写本系統の最初の本)として成立し、以後書写・流伝の末、室町中期に現存の「浄光寺本」が成立した。
(4)聖人直筆「書簡」が、「浄光寺本」系統とはまた別の書写・流伝の過程で、本来の日付・署名である「十一月十六日 親鸞」が欠失して「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」だけが残り、「十一月十六日」も「十三日」と誤写されて、「坂東下野国おほうちの庄高田」(専修寺)の「この御消息の正本」(『末灯鈔』第6通の「底本」)が成立した。
(5)従覚上人(覚如上人の次男)が正慶2年、専修寺所蔵の「正本」を写して『末灯鈔』に収録し、「書簡」の末尾が
>文応元年十一月十三日   善信八十八歳
>乗信御房
となった『『末灯鈔』の「書簡」が一般に知られるようになり、「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」が本来の日付・署名と誤解されるに到った。
 《以上のまとめ》
親鸞聖人直筆の文応元年11月付乗信房宛「書簡」は、「書簡」末尾に「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」の註記を付した形態で書写・流伝が始まり、原型を残したままの系統が「浄光寺本」となり、原型を喪失した系統として現存の専修寺系『御消息集』諸本・『末灯鈔』系諸本が成立した。

つまり、『末灯鈔』第6通は流伝の過程で親鸞「書簡」としての原初態を喪失しており、「善信」改名説の論拠とはなり得ない、というのが拙著『親鸞改名の研究』にも述べた私の推論なのです。

……ただ、問題は、多屋先生のこれらの研究成果が現在の真宗学には継承されていなかったという点です。
私にしても、たまたま自坊に所蔵されていた安居講本『親鸞聖人全消息序説』を繙いて当該の記述に出会っただけで、多屋先生の膨大な研究成果の一端に接したにすぎません。
「これからの真宗学は歴史学や書誌学等と積極的に交流してその成果を取り入れていかねばならない」
とは30数年に真宗学の某教授がおっしゃっていたお言葉ですが、まだまだ「言うは易し、行うは難し」ではないでしょうか?
……ガンバレ、後輩諸兄!!

※なお、前掲の「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』」「親鸞聖人全消息序説」等は『多屋頼俊著作集』(全5巻、法藏館)の第3巻『親鸞書簡の研究』に収められていますが、第3巻は現在全くの品切れ状態(重版未定)となっているそうです。(残念!!)
 
(10月13日)

 

新発見!! ……だけど、正直困ってます。

 
 
え~、私が3年前、令和元年(2019年)6月に拙著『親鸞改名の研究』を出版したことを覚えて下さっている方もあるかと思います。
当時は、「一刻も早く出版したい。自説を世に問いたい」の一念で出版したのですが、早くも「改訂新版」を出したい気持ちになっています。
正直、わずか3年でこんなにも不備不満が見つかるものかな、と。
もちろん事実誤認や誤植、校正漏れも多々あるのですが、むしろ出版後に新たな「発見」があったことの方が大きい……それもいくつもです。
数年前に観たNHKの正月時代劇ドラマ「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」(みなもと太郎原作・三谷幸喜脚本)で、オランダ語の解剖医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の出版を巡って、
「こんな中途半端なものを世に出す訳にはいかない」
という意見の前野良沢(演:片岡愛之助)と
「たとえ未完成であっても、今、世に出すことが重要だ」
という意見の杉田玄白(演:新納慎也)が対立し、結局翻訳を担当した前野良沢の名前を載せない形で安永3年(1774年)、『解体新書』初版が刊行された、というエピソードが紹介されていましたが、前野良沢の気持ちが今になってよく分かるという……当時は杉田玄白派だったんですけどね。
今回、ご紹介するのも拙著で展開した「親鸞は元久2年(1205年、親鸞33歳)、それまでの実名「綽空」を「親鸞」(通説では「善信」)に改名した」(=「親鸞」改名説)に関する新発見です。
 
 
 
 
親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)「顕浄土方便化身土文類」(「化身土巻」)の掉尾、『教行信証』撰述の事由を語ったいわゆる「後序」には元久2年閏7月29日の「改名」の記事が次のように記されています。
>また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
これまで幾度となく眼にしてきた文ですが、今日これを読んだ時、私はふと気がついたのです。
「この文には、法然上人が『何に』親鸞聖人の新しい名を書いたかが記されていない!!」
 

 
【『教行信証』『後序」(該当部分)】
 
この文の直前には
>同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。
(また夢の告によって……)」
(私は元久2年閏7月29日に、法然上人の真影(肖像画)に銘文として、上人の直筆で「南無阿弥陀仏」の名号と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」との善導大師の『往生礼讃』の文を書いていただいた)
といういわゆる「真影図画」(しんえいずえ)の記事があり、文章の流れから見て、新しい「名の字」も当然「真影」に、と思い込んでいたのですが、
「そもそも『真影』に名を書き込むってどこに書いたんだろう?
『銘文』の続きのはずは無いし、紙背(紙の裏側)?表装の裏側?
この時の『真影』だと伝わる『選択相伝の御影』(愛知県岡崎市・妙源寺所蔵)にも残っていないらしいんだよなぁ。
……でも、何で残っていないんだろう?
剥落?
表装を替えた際に紛失?でも表装替えなら切り取ってそのまま元の場所に貼り直すだろうし……
残っていたならば論争も一発で解決するのに……」
といった疑問はずっと残っていました。
 
 
 
【「選択相伝の御影」(愛知県・妙源寺蔵)】
 
 
 
【「選択相伝の御影」(銘文部分)】
 
しかし、法然上人が「何に」親鸞聖人の新しい名を書いたのかが「改名」の記事に記されていないことに気づいた途端、私は閃いたのです。
「法然上人が新しい名を書いたのは『真影』にではなかったのではないか?」
……では、何の、どこに?
>綽空の『字』を改めて、……名の『字』を書かしめたまい畢りぬ。
……「綽空の『名』を改めて」ではなくて、「綽空の『字』」を改めて、新しい「名の『字』」を書く。
「後序」のいわゆる「真影図画」の記事の前には、
>元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
という元久2年4月14日の、いわゆる「選択付属」(せんじゃくふぞく)の記事があります。
……ここに「綽空の『字』」がありました。
 
 
 
 【『選択本源念仏集』廬山寺本(冒頭部分)】
 
 
「『選択本願念仏集』の内題の字、ならびに『南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(もしくは「念仏為先」)』」が法然上人の直筆で書かれているのは、京都市・盧山寺所蔵の「選択集」初稿本にも見られますから、法然上人は特に許した弟子が書写した『選択集』に内題と「標宗の文」を書き入れることを慣例としておられたのでしょう。
また、「『釈の綽空』の字と……書かしめたまいき」とは、法然上人が親鸞聖人の写した『選択集』の表紙(外題の左下)に「釈の綽空」と書いたことを指すと思われます。
法然上人は『選択集』を託すに値すると認めた弟子の名を、写本の「所持者」として、自らの筆で記入していたのでしょう。
後年、親鸞聖人が自身の制作・書写した聖教を門弟に授与した際に同様の行為を行ったとみられる事例が多々あります。(『親鸞聖人真蹟集成』参照)
これも親鸞聖人が法然上人から受け継いだ、いわば「師資相承の儀礼」なのでしょう。
 

   
       
 
しかし、そもそも改名した後に、いくら法然上人の直筆であるとはいえ、旧名「綽空」を所持者名としてそのままにしておくものでしょうか?
……今後、誰かに貸与する機会があるかも知れないのに。
実際、法然上人在世中の「元久元年(1204年)11月28日に書写した」との奥書をもつ奈良県葛城市・當麻寺奥院所蔵の『選択集』(往生院本)冒頭の「内題」及び「標宗の文」は、法然上人の筆ではなく(「選」の字が「撰」)、法然上人の手沢本からの書写ではなく、誰かが写した写本からの再写(あるいは再々写)本であることが窺われます。
 
 
 
 【『撰択本源念仏集』往生院本(冒頭部分)】
 
 
法然上人は元久2年閏7月29日に、親鸞書写本『選択集』表紙の、既にあった「釈の『綽空』」の「『綽空』の字を改めて」(=抹消して)、新しい「『名』の字」(=親鸞)をその脇に書いたのではないでしょうか?
親鸞聖人書写本『選択集』の表紙には「釈■■」、そしてその「■■」の脇に「親鸞」、つまり「釈(の)親鸞」と書かれていた、と。
それまで何も書かれていなかった「真影」に新たに名を書き入れるのであれば、「綽空の『字』を改めて」と記す必要はありません。
「改名」の記事は同時に、元久2年親鸞聖人書写本『選択集』の「改訂」記事でもあったわけです。
自ら直すことにはさすがに抵抗を感じざるを得ないであろう法然上人直筆の「釈の綽空」の字も、上人ご本人に訂正していただくのであれば何も問題はありません。
この時親鸞聖人が書写した真蹟『選択集』は現存していません建長7年(1225年、親鸞83歳)12月に親鸞は火災に遭い焼け出されているので、その時に焼失したのでは、という説もありますから、物証(史料)としては望むべくもありませんが、皆様、いかがなものでしょう?
「後序」は、元久2年(1205年)の“師資相承”の記録として、
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう
>また夢の告に依って、「綽空」の字を改めて、同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ
>本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。
4月14日に私・親鸞は法然上人ご制作の『選択集』に『内題』及び『標宗の文』、そして『釈の綽空』の名を法然上人の直筆で書いていただいた」といういわゆる「選択付属」と「閏7月29日に私・親鸞は法然上人の御真影に『銘文』を法然上人の直筆で書いていただいた」といういわゆる「真影図画」のみならず、「同じく閏7月29日に私・親鸞は『選択集』表紙に『釈の親鸞』という新たな名を法然上人の直筆で書いていただいた」という三つの出来事を、それぞれに日付を付し、法然上人の年齢まで明記した上で、挙げていたのでした。
以上が今回の私の「新発見」なのですが、「真影」に新しい名が書かれたと思い込んでいたのはまさか私だけじゃありませんよね?
さて、「元久2年に『親鸞』と改名した」という自説の骨子は変わらないとはいえ、拙著……大幅改訂の予感???ヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァ!!
へ、編集長〜〜!#法藏館#戸城三千代 さああん 。どうしましょう……(__*)
 

(10月4日)


 

令和4(2022)年度報恩講の御案内

 
 
 
 
 
 (9月25日)


“玉日伝説”の問題点!?

 
 
親鸞聖人が九条兼実公の娘玉日姫(玉日の前)と結婚したといういわゆる“玉日伝説”。
覚如上人製作『親鸞聖人伝絵』に先行する親鸞聖人伝『親鸞聖人御因縁』(鎌倉末期〜室町初期に成立)に初登場以来、江戸中期に出版された伝存覚作『親鸞聖人正明伝』、五天良空作『高田開山親鸞聖人正統伝』等の談義本系の聖人伝にまで登場し、当時はもちろん史実と考えられており、現在でもなお「あれは史実」と主張される研究者(故梅原猛、佐々木正、西山深草、松尾剛次、他)もおられるのですが、あれってよく読むと、『人権的に』すご〜く問題のあるストーリーなんですよね。(^-^;A
 
 
 
 【九条兼実公(1149~1207、 『天子摂関御影』より)】
 
 
法然上人に深く帰依した九条兼実公がある時上人に、
「上人は念仏ひとつで往生するとお説きになるが、あれは上人のような持戒堅固な清僧ならではのお話で、私どものような罪深い在家者には当てはまらないのでは?」
と尋ねた。
「そんなことはありません。誰でも念仏ひとつで往生できます」
と答える上人に兼実公は、
「それならばその証拠に、お弟子の中から持戒堅固な清僧を一人選んで私の娘(玉日姫)と結婚させてください」
と迫った。
 
 
 
【法然上人像(兵庫県念仏寺蔵「月輪(つきのわ)の御影」)】
 
 
法然上人は当時清僧であった親鸞聖人を選び、必死に拒む親鸞聖人に、聖人が入門前に六角堂での夢の中で見て誰にも語ったことがなかった
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

(行者、宿報によりて女犯を設くとも、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん)
の偈文を示して
「この告命の通りに即座に落堕(=破戒、つまりは結婚)せよ」
とお命じになった。
泣く泣く承諾せざるを得なくなった親鸞聖人はその日のうちに九条兼実邸へと連れ帰られ(当時は妻問婚、つまりは入り婿)、親鸞聖人と玉日姫は結婚した。
3日後、晴れて夫婦となった2人は牛車に乗って法然上人の元に挨拶に赴き、玉日姫をご覧になった上人は
「良き坊守かな」
とおっしゃったというのが一連のストーリー。
 
 
 
 
【親鸞の正妻・恵信尼公(玉日姫のモデルと思われる)】
 
しかしこの間、玉日姫自身の意思はただの一度も確認されていません。
いくら師匠と父親(摂政関白)の命令とはいえ、随分と強引な話だと思いません?
法然上人の所に出かけていたはずの父親が見も知らぬ聖(官僧から遁世した僧、黒衣墨袈裟)を連れて戻ったと思ったら、いきなり
「これがお前の婿だ!」
だなんて。(……正気ですか、お父上!?)
「人権」という言葉こそなかったにしろ、当時は女性も自分自身の財産・所領を持つなど、黙って男性に従っているだけの時代ではなかったはずなんですけれどねぇ。
今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時なんぞは、源頼朝の大倉御所勤めの美貌の女房「姫の前」(比企朝宗の娘)に懸想し、1年あまりもの間姫の前に恋文を送ったものの姫の前は一向になびかず、見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の間を取り持ったという話もあるくらいで。(^-^;A
……それとも京の公家社会での父娘関係はまた違っていたのかしら?
同じ兼実公の娘任子は後鳥羽天皇に入内して中宮にまでなっています(ただし当時は父兼実公の政治的失脚によって既に内裏を退出し「宜秋門院」となっていた)し、
「なぜ、(姉上と違って)私(だけ)が一介の念仏聖の、しかも身分卑しき日野氏の出の者などの妻に?」
とは思わなかったのでしょうか?
平雅行氏に拠れば、親鸞の出自は同じ藤原氏でも傍流の日野氏のさらに傍流。
儒学者・漢学者として英才の誉れ高く、非参議・従三位式部大輔にまで出世した伯父日野宗業(むねなり)でさえ、当の九条兼実公から「凡卑の者」(『玉葉』)、その孫道家公からは「下品(げぼん)のもの」(玉蘂』)と身分出自の低さを指摘されているそうです。(『歴史のなかに見る親鸞』、法藏館、2011年、11~21頁参照)
……あ、もちろん私は“玉日伝説”が史実だなどとは考えておりませんが。(^-^;A。
 

(9月9日)


 

寺川俊昭先生の遺されたもの

 
 
故寺川俊昭先生の学問的業績は、文栄堂書店より発行された『寺川俊昭選集』(全11巻+別巻)を始めとする多くの御著書によって公開されていますが、学術雑誌に掲載されながら『選集』には収録されなかったものもあり、中には親鸞思想研究上、決して見落としてはならないと思われるものがいくつかあります。
今回は先生が今から40年近く前に発表された、親鸞が最晩年に到達した宗教的境地とされる「自然法爾」(じねん・ほうに)思想に関する論文2編をご紹介します。
「自然法爾考」(『大谷学報』65―1、1985年)
いわゆる「自然法爾」を、「親鸞が最後に到達した仏智不思議の世界」1「晩年の円熟した境地」2であり、「すべてのはからいをすてておのずからしからしむる境地」3「如来のはからいにまかせて、よからんともあしからんともおもわぬ」境地と見る理解が現在でも一般的ですが、先生は正嘉2年(1258年、親鸞86歳)12月、顕智聞書の『獲得自然法爾御書』を読み解くことを通して、そのような理解は親鸞思想を正確に捉えたものではないことを指摘しておられます。
1.石田慶和『信楽の世界現代と親鸞の思想』46頁(1970年、法藏館)。2.『同』39頁。3.4.『同』47頁。
「親鸞における自然法爾の思想(昭和60年度〔大谷学会〕春季公開講演要旨)」(『大谷学報』65―3、1986年)
上記のような誤った「自然法爾」理解を招いた要因としては、「獲得名号」の文言とその解説を欠落させた『末灯鈔』第5通に拠ったことが大きい、と指摘された講演の要旨です。
先生のご見解は、直近の『親鸞教学』第114号掲載の山田恵文氏「『獲得名号自然法爾御書』の考察」においても論考の下敷きとされ、論文末の註記⑷でこれらの論文名が挙げられています。
近年、中島岳志氏が『親鸞と日本主義』(2017年、新潮選書)等で「戦前の超国家主義者と親鸞思想の接続」の原因の一つとして、超国家主義者たちが親鸞思想における「絶対他力」や「自然法爾」を上記のごとく理解したことを指摘しておられます。
中島氏は彼らの「絶対他力」「自然法爾」理解が親鸞のそれと同一であるとは言っておられないようですが、本の帯のキャッチコピーには「戦前、最も危険な右翼の核心に据えられた思想は、『絶対他力』だった。」とあり、親鸞思想そのものに問題があったかのようにも読めます。
戦前の超国家主義者が中島氏の言うような形で「絶対他力」「自然法爾」を自ら思索することを停止・放棄して、自らが構築した「如来」や「大御心」(おおみこころ)といった権威や大義に盲従して、結局はその威を借りて自らの主義・主張を絶対化・正当化していくことを勧めるものとして理解していたのだとしたら、当時いったいどんな親鸞理解、「絶対他力」「自然法爾」が語られていたのか、そしてそれは正しい理解と言えるのか、と疑問に思わざるを得ません。
 
 
 
 
また、平雅行氏も上記のような「自然法爾」理解に立って、
「親鸞もまた晩年、造悪無碍を批判し機の深信を放棄することによって自然法爾に向かっている。」(『日本中世の社会と仏教』318頁、1992年、塙書房)、
「……そのどん底の闇の中から、やがて絶対他力の世界が現出してきます。
 ……あらゆる計らいを放棄するだけでなく、計らいを放棄することさえも放棄する。
 これが自然法爾の世界です。
 単なる自力作善の否定ではありません。
 自力作善を否定しようとする想い、すなわち他力信心の世界すら放棄しようとしています。
 すべてを弥陀に委ねる、これが自然法爾の世界です。
 この絶対他力の世界を……」
       (『歴史のなかに見る親鸞』211頁、2011年、法藏館)
と述べ、「親鸞は晩年、世界に対する見通しを失っていた」とされています。
 
 
 
 
 
 
 
現在もなお一般的に理解されている「親鸞の自然法爾」思想は、実は親鸞のそれとは全く異なったものであり、親鸞自身の著述に即して「親鸞における自然法爾の思想」とはこうである、と40年近く前に先生が既に明示してくださっていたことに驚くとともに、諸先生方には是非とも先生の「隠れた業績」として顕彰していただきたいと思う次第であります。
 
 (3月28日)

 

『安慰の大道』の刊行について

 
 
3月19日の「偲ぶ会」(京都市北区・大谷大学講堂にて開催)に合わせて制作されました、
「寺川俊昭先生を偲ぶ会」編『安慰の大道」《価格1,000円(制作協力費)》
法藏館、文栄堂書店、真宗大谷派京都教務所、大阪教務所で頒布が始まりました。
 
 
 
(3月25日)

 

「寺川俊昭先生を偲ぶ会」

 
 
昨年9月28日にご逝去されました元大谷大学学長・名誉教授の寺川俊昭先生を「偲ぶ会」が去る3月19日、京都市北区・大谷大学講堂において開催されました。
40名ほどの大谷大学大学院修士ゼミOB・OGが参集し、口々に生前の先生のご遺徳、お人柄を語るという賑やかかつ楽しい会となりました。
しかし、当然のことながら、かつてこれらの方々の中心に居られた先生のお姿はなく、私たち門下生先生は「弟子」ではなく「学友」と呼んでくださいましたがは先生を偲びながらも、自分たちが喪ったものの大きさを改めて痛感し、
「皆さん、どうぞ与えられた業を存分にお果たし下さいますよう、お願いを申し上げます」
とのご遺訓を新たに心に刻んだ会であったように思います。
壇上には先生最後の直筆揮毫「大悲無倦常照我」(真宗大谷派広島別院蔵)が掛けられ、参加者にはプログラム等の他に、この日に合わせて作られた先生の講演録『安慰の大道』、ゼミ修了生の寄稿による追悼文集『同座・証誠護念の人 寺川俊昭先生』が配付されました。
式終了後、参加者は、まん延防止等重要対策下の京都の限られた時間ながら、それぞれに久闊を叙しておられました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【 真宗大谷派難波別院発行『南御堂』2022年4月号記事 】
 
ところで私、翌日の帰路車中で『安慰の大道』を紐解いたは良いものの、「没入」の余り乗り換え駅を完全にスルー。
車掌さんから
「○○駅はもう通過してしまいましたが……」
と聞かされて初めて自分の「やらかし」に気付いた始末。
……これが人生2回目のJR乗り越しか?
(ちなみに乗り遅れ、荷物の置き忘れも各2回のはず……たぶん)
……先生、「不肖(読みは「ポンコツ」)の弟子」は今日も元気に、大ボケをかましながら、生きております。。。
【 追 伸 】
  追悼文集『同座・証誠護念の人 寺川俊昭先生』に寄稿した拙文はコチラです。
「『仏者』寺川俊昭師を偲ぶ」(豅 弘信)
 
 (3月20日)

 

「愚禿釈親鸞」の名のりについて(続)

 
 
 
NHK大河「鎌倉殿の13人」(脚本:三谷幸喜)の第1話で、北条時政が自らを「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のったシーンに端を発した鎌倉時代の日本人の姓と名字の問題、『日本人のおなまえ・鎌倉殿の13人SP』でも採り上げられ、次のように説明されていました。
  
 
 
 
 
 
 
>姓とは天皇からもらった公的なもの。
>名字は自分で名乗っているもの。
>◯◯のと入っているのが姓です。
>源平の頃は姓と名字が入り乱れています。
https://www.facebook.com/groups/279754419873682/permalink/696014784914308/
ということであれば、『教行信証』「後序」の
>これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
>あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
>しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
>このゆえに「禿」の字をもって姓とす。
にある、承元の法難で還俗・流罪に処される際に朝廷から(すなわち天皇の名において)「賜」った「姓(名)」である「藤井」姓は、「天皇からもらった公的なもの」としての「姓」(「○○の」と後ろに「の」が付く)であって、赦免の際に自ら名のった「禿」(後ろに「の」が付かない)は、手続き上(「奏状」の書面上)は「(「藤井」に代えて「禿」を)『姓』とす」とは言ったものの、あくまで「名字」と考えていいのではないでしょうか。
罪人名「藤井善信」(ふじいよしざね)
赦免後「愚禿親鸞」(ぐとく・しんらん)
これに対して、『教行信証』『浄土文類聚鈔』「入出二門偈頌』等の漢文聖教に記された公的な名のりとしての「愚禿釈の親鸞」は、「禿」が名字、「釈(の)」が姓、「親鸞」が実名・諱と考えられるのではないでしょうか。
なぜなら「釈の親鸞」とは、元久2年(1205年)に師法然上人から『選択集』の書写と真影の模写を許された際に、
>元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
>同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
>本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。
外ならぬ「真宗興隆の大祖」、本師釈迦に等しき「本師聖人」と仰いだ師法然から賜「御筆をもって名の字を書かしめたまい畢」った姓・名に他ならないからです。
(『選択集』表紙の袖書の名が「釈の綽空」である以上、真影に記された名も当然「釈の親鸞」であるはずです。)
 
 (2月1日)

 

「愚禿釈親鸞」の名のりについて

 
 
今年のNHK大河「鎌倉殿の13人」(脚本:三谷幸喜)の第1話で、北条時政が源頼朝に自己紹介する際、「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のった
 
  
ことに対して、Twitter上では、
>歴史考証の誤り指摘(中略)早く三谷幸喜に氏(うじ)姓(かばね)を理解させて。
>氏と苗字の区別がついてないだろ!
との声が上がったようです。
というのは、日本人の姓には、その大元・ルーツを示す「氏うじ」(または「姓かばね」。いわゆる「源平藤橘」)とその在所・地名を表す「苗字(名字)」とがあり、氏には後ろに「の」が付き、「苗字」には付かない、というのが原則なのですが、姓が「平」(北条氏は坂東平氏)である北条時政が「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のったことから、脚本の三谷幸喜氏が「やらかした」、つまり歴史的な知識がないために大間違いを犯した、Twitter上でかなり話題にというか、騒ぎになってしまったのです。
 
 
ところが、 以下の細川重男氏『執権』(講談社学術文庫、2019年)の一節にも、
 
 
細川重男『執権』(講談社学術文庫、2019年)
豪士(@Gohshi77)氏のツイートより転載
 
>北条時政を例にしよう。
>北条氏は桓武平氏の一流であるから氏(うじ)は平(たいら)で時政の正式な名のりは平時政(たいらときまさ)であるが、通常の呼称は「北条四郎時政」(ほうじょうしろうときまさ)(俗に氏には「の」を付け、苗字〈名字〉には「の」は付けないで読むと言われるが、誤りである。昔の人は氏にも苗字にも「の」を付けて読んでいた)である。
>これを分解すると、北条が苗字、四郎が仮名(けみょう)、時政が実名(諱)である。
>苗字の北条は、時政の住所兼所領(しょりょう、支配地、ナワバリ)の地名である。>当時の武士は居住地名を苗字にすることが多かった。(以上、34頁)
とあるように、実際には苗字(=北条)の後ろに「の」がつく場合もあったようです。
ただし、同志社女子大学教授・山田邦和氏(@fzk06736)氏のツイート
 
 
 
 
>要するに、「北条」は家名なので、そのあとに「の」をつけるかどうかは大した問題ではない。
>しかし、家名と諱を直結させるのはありえない。
>家名に連結できるのは通称(仮名)。
>だから「北条の時政」はありえないが、「北条の四郎」ならばおかしくない。
によれば、「家名(苗字)+の+通称(仮名)」ならあり得るが「家名(苗字)+の+実名(諱)」はあり得ないとのことで、 上掲の豪士(@Gohshi77)氏が紹介された史料
「足利尊氏近習馬廻衆一揆契状」(『越前島津家文書』
  
 
 
 
では、「いつみ五郎さへもん師忠(花押)」「むらかみかもんのすけ氏頼」等、「苗字++通称(字・あざな、職名)+実名(諱)・花押」になっているようですし、同じく豪士(@Gohshi77)氏が紹介された
 
 
 
 
でも、「かせ弥次郎」「つくい(津久井)七郎」等、「苗字++通称」になっています。
なぜ、私がこんなことを気にするかと言えば、外でもない親鸞聖人の正式な名のり、
「愚禿釈の親鸞」(ぐとく・しゃくの・しんらん)
の「禿」と「釈」の関係、というか位置づけが気になっているからなのです。
周知のごとく『教行信証』の「後序」には、
「これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
 あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す、予はその一なり。
 しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
 このゆえに『禿』の字をもって姓とす。」
とあって、『歎異抄』末尾の「流罪記録」
「親鸞、僧儀を改めて俗名を賜う、仍って僧に非ず俗に非ず。
 然る間、『禿』の字を以て姓と為し、奏問を経られ畢んぬ。
 彼の御申状、今に外記の庁に納まると云々。
 流罪以後、『愚禿親鸞』と書かしめ給う也。」
と併せて、「禿」が、還俗の上処された流刑から赦免される際、奏状を提出して、あえて僧籍への復帰を辞退した上で名のった「姓」であることが知られます。
では、「禿」が姓であるならば「釈」は何なのでしょうか。
みしろ「釈」こそが、中国の釈道安(314―385)が、当時中国仏教界で行われていた受戒の師の姓を承け継ぐという慣習を改め、「大師の本は釈迦より尊きは莫し」とそれに代わる共通の姓としての「釈氏」を提唱(慧皎『高僧伝』巻五参照)して以来の、伝統ある仏弟子共通の「姓」であります。
また、「姓」であれば「禿の」と「の」がつくはずなのですが、『教行信証』等を見ても「愚禿親鸞」であって「禿」の後に「の」は付かず、「愚禿釈の親鸞」とむしろ「釈」の後ろにこそ「の」が付きます。
このことから見て私は、「釈」(仏弟子)こそが親鸞にとっての(「源平藤橘」等に当たる)「氏・姓」であって、「禿」は末法濁世・粟散片州の無戒名字の比丘というその「末流」としての「名字・苗字」に当たるのではないか、と考えるのですが……
(しかし、そう考えるにしても「後序」の「『禿』の字をもってとす」の一節、殊に「姓」の一字がなあ……)
 (1月18日) 
 
【追記】
ところが、上掲の豪士(@Gohshi77)氏がその後投稿したツイートに拠れば、
慈円『愚管抄』巻四
 
 
 
には、「花山院の家忠」(=藤原家忠、藤原北家御堂流花山院家、1062-1136。別名「花山院左大臣」)といった「家名++実名(諱)」の例が、別のツイートに拠れば、同じく
『愚管抄』巻六
 
 
 
 
 
に「三浦の義村」(=三浦義村、桓武平氏良文流、1168?-1239。通称は「平六」、官位は右兵衛尉・三河守・三浦介)といった「苗字++実名(諱)」の例もあるようで、何とも……
豪士(@Gohshi77)氏によれば
>名字が確立する以前の状況だとは思いますが、
とのことですが……ヤレヤレ。(~_~;)
ちなみに『愚管抄』の成立は承久2年(1220年)頃だそうです。  
 
(1月21日)
 

謹 賀 新 年

 
 
つらくても おもくても 自分の荷は
  自分で背負って 生きさせてもらう
                (東井義雄)
 
 
   旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 
年頭に当たり、昨秋還浄なさった恩師が、私たち門下生一同に遺して下さった言葉、
皆様方、
それぞれの業をどうか存分にお果たし下さいますよう、あらためてお願い申し上げます。
優れた力を存分に発揮して、真宗のために奮発下さいますよう、お願い申し上げます。
                   (寺川俊昭)

への応答の意味を込めて、上記の東井先生の言葉を掲げさせていただきます。

 
 (2022年1月1日)
 
 
 
2019年1~12月分 2020年1~12月分  2021年1~12月分
 

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