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![]() ~ご院家さんのひとり言(不定期更新) |
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2021年1~12月分 2022年1~6月分 2022年7~12月分 | ||
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私、昨年の1月から、直七大学のZoom講義「証空思想の解明」(中村玲太講師)に参加させていただき、法然上人の弟子のお一人善慧房証空上人(浄土宗西山義の祖)の思想について教えていただいているのですが、これがまあ目からウロコ、従来抱いていた証空上人のイメージが大きく変わりました。 |
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【 善 慧 房 証 空 上 人】 |
……証空上人(1177~1247)って結構大胆、と言うか、ラディカルな思想家だったんですね。(^-^;A (まあ、承元の法難・嘉禄の法難の際にはあわや流罪、というスレスレまで行ってますから、考えてみれば、「穏健派」であるはずもないわけなんですが……) 「法然房は諸行の頸を切り、弟子の善慧房は諸行を生け捕りにす」(行観『選択本願念仏集秘抄』) だとか、覚如『口伝鈔』が伝える親鸞聖人吉水時代の「体失・不体失往生の論争」だとか、はたまた承元の法難(建永2年、改元して承元元年・1205年)の際には慈円僧正に泣きついて(注:あくまでも私の想像です。(^_^;))、嘉禄の法難(嘉禄3年・1227年)の際にも弁明書を提出して2度とも流罪を免れるなど、当時の貴顕とうまく結びついて、法然上人の教えを薄めて(=変質させて)浄土宗の延命を図った人、というイメージを持っていた(勝手に作り上げていた)のですが、盛大な勘違いだったかも。(;-ω-) 承元の法難の折、 「我、首を斬らるるとも、この事を言わずばあるべからず(たとえ斬首の目に遭おうとも、私は念仏による救済を説かずにはおれない)」(『法然上人伝記』) と言い切った法然上人といい、自分を殺しに来たかも知れない山伏弁円の前に 「左右なく出(いで)会いたまう(無造作に姿を現した)」(『親鸞聖人伝絵』) 親鸞聖人といい、一宗一派の祖として名を残すような当時の仏教者はやはり「気骨」というか「肝っ玉」というか、「覚悟」が違いますね。 ……あ、証空上人も一応は武家の出、ということになるのかな?(村上源氏の加賀権守・源親季の長男、久我(源)通親の養子) |
(3月20日) |
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岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる(甲斐 和里子) |
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《ダイヤモンド大山(2022年10月14日ドローン空撮・©日本海新聞社)》 |
旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。 |
(2023年1月1日) |
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