住職日記   真宗大谷派 西念寺
 

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住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)

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親鸞聖人のご先祖と紫式部の接点

 
― 寛弘5年大晦日の宮中盗賊事件―
 
『紫式部日記』※1に拠れば、寛弘5年(1008年)12月30日(旧暦)の深更、宮中に賊が入り、女房二人が装束を強奪されるという事件が起きたそうです。
事件が起きたのは大晦日の追儺(ついな※2の儀式が行われた後で、警備の侍たちも既に帰宅し、料理人も出払っていて、男性不在の状況で女房衆が不安におののく中、「式部丞資業」が参上して所々の灯火を一人で点けて回ったのだそうです。
この時現場に駆けつけた「式部丞資業」とは当時六位蔵人※3くろうど)の藤原資業すけなり、藤原道長の側近・参議日野有国の七男、当時21歳)。
「殿上に兵部丞といふ蔵人、呼べ呼べ」
 (殿上の間に兵部丞と言う蔵人がおりますので、呼んで呼んで)
と紫式部に声を上げさせながら、既に帰宅した後で、大いに姉をがっかりさせた弟藤原惟規(のぶのり)と同じ蔵人所※4くろうどどころ)に属する蔵人、つまり弟の同僚でした。
この資業から始まるのが、後世、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画(正中の変)に加わって流罪、後に処刑された日野資朝(すけとも)、室町幕府第8代将軍足利義政の正室日野富子(とみこ)とその兄日野勝光(かつみつ)らを輩出する日野氏嫡流(日野家)で、その傍流である日野経尹(つねまさ)の三男有範(更に傍流)の長男として生まれたのが親鸞聖人です。
つまり、『源氏物語』の作者紫式部と親鸞聖人のご先祖様とは宮中で「接点」があったとになります。
まあ、それはそれで非常に興味深い話ではあるのですが、このエピソードで私が最も皮肉に感じたのは、折角「追儺」の儀式によって目に見えない悪鬼や疫神を宮中から追い出したと思った途端、最速で侵入して来たのが生身の人間の盗賊だったという……
……本当に厄介なのは「生きた人間」だった、というオチでしょうかね?(苦笑)
   「渡り鳥」       
  いちばん恐ろしいのは
  やはり人間ですと
  この北国からの
  渡り鳥が云いました (榎本栄一)

………こうして見ると「日本史」ってホント、面白いですね~~。

 【 註 】
※1『紫式部日記』寛弘5年(1008年)12月30日条
つごもりの夜、追儺はいと疾く果てぬれば、歯黒めつけなど、はかなきつくろひどもすとて、うちとけゐたるに、弁の内侍来て、物語りして臥したまへり。
内匠の蔵人は長押の下にゐて、あてきが縫ふ物の、重ねひねり教へなど、つくづくとしゐたるに、御前のかたにいみじくののしる。
内侍起こせど、とみにも起きず。
人の泣き騒ぐ音の聞こゆるに、いとゆゆしくものもおぼえず。
火かと思へど、さにはあらず。
「内匠の君、いざいざ。」
と先におし立てて、
「ともかうも、宮、下におはします。
 まづ参りて見たてまつらむ。」
と、内侍をあららかにつきおどろかして、三人ふるふふるふ、足も空にて参りたれば、裸なる人ぞ二人ゐたる。
靫負、小兵部なりけり。
かくなりけりと見るに、いよいよむくつけし。
御厨子所の人もみな出で、宮の侍も滝口も儺やらひ果てけるままに、みなまかでにけり。
手をたたきののしれど、いらへする人もなし。
御膳宿りの刀自を呼び出でくたるに、
「殿上に兵部丞といふ蔵人、呼べ呼べ。」
と、恥も忘れて口づから言ひたれば、たづねけれど、まかでにけり。
つらきこと限りなし。
式部丞資業ぞ参りて、所々のさし油ども、ただ一人さし入れられてありく。
人びとものおぼえず、向かひゐたるもあり。
主上より御使ひなどあり。
いみじう恐ろしうこそはべりしか。
納殿にある御衣取り出でさせて、この人びとにたまふ。
朔日の装束は盗らざりければ、さりげもなくてあれど、裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず。
※2 追儺(ついな)
朝廷の年中行事の一つ。大晦日の夜、悪鬼を追いはらうための儀式。疫病その他の災難を追放しようとするもの。鬼に扮した舎人(とねり)を殿上人(てんじょうびと)が桃の弓、葦の矢、桃の杖で追いかけて逃走させる。鬼やらい、なやらいなどともいう。
※3 蔵人(くろうど・くらんど)
蔵人所の職員。もと皇室の文書や道具類を管理する役であったが、蔵人所が設置されて以後は、朝廷の機密文書の保管や詔勅の伝達、宮中の行事・事務のすべてに関係するようになった。
※4 蔵人所(くろうど-どころ・くらうど-どころ)
平安初期に設置された令外(りょうげ)の官。天皇と天皇家に関する私的な要件の処理や宮中の物資の調達や警備などをつかさどった。平安中期以後に職制が整い、別当・蔵人頭(くろうどのとう)・蔵人・出納・小舎人(こどねり)・非蔵人・雑色(ぞうしき)などの職員がいた。
 
《参考サイト》
 カクヨム・『紫式部日記』第113話・宮中盗賊事件(1)
 カクヨム・『紫式部日記』第114話・宮中盗賊事件(2)
ステラnet・「光る君へ」#37 内裏に盗賊が侵入!紫式部の“人生”を変えることになった事件
 
 
 (10月10日)
 


聖人の妻恵信尼公の出自について

親鸞聖人の生涯の「謎」部分に関する「妄想」(その4)
 
今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公まひろ(紫式部)の宮中出仕のシーンを見ていてふと思いついたことがあります。
劇中、まひろ(紫式部)は藤原道長・源倫子夫妻の仲介でその娘彰子(一条天皇の中宮)に仕えることになるわけですが、前夫日野広綱との結婚前、従一位太政大臣・久我通光(こが・みちてる、1187~1248)に女房(女房名:王御前わうごぜん)として仕えた親鸞聖人と恵信尼の末娘覚信尼は、いったいどのような伝手によって通光邸に入ったのでしょうか。
当時貴族に女房仕えするには身元を保証する紹介者・仲介者が必要だったはずです。
当時の女性が自分で履歴書やエントリーシートを書いて就職活動に歩いたわけではありませんからね(笑)
……一体誰が仲介したのでしょうね?
 
 
 
「彰子とまひろ(紫式部)」(「ステラnet」より)
 
 
父方で言うと、実父の親鸞聖人は越後流罪以降四半世紀も京都を留守にしていた一介の沙弥(赦免時に官僧への復帰を辞退)に過ぎませんから、高級貴族(五摂家に次ぐ清華家)である久我家と直接コネクションがあったとは思えません。
あるとすれば、後白河法皇の近臣であった伯父日野範綱の系統(息子信綱・法名尊蓮、孫広綱・覚信尼の夫)、あるいは儒学者として立身出世を果たした伯父宗業(むねなり)の系統(息子業成、孫業行)といったルートでしょうか。
それとも聖人終焉の地・善法院の住持であった尋有権少僧都(天台僧)を始めとする実弟達のルートでしょうか?
はたまた、遠い親戚筋である日野氏一門のどなたかでしょうか?
ちなみに日野氏一門は、前回言及した日野有国の子資業(すけなり、988~1080)を祖とする藤原北家真夏流(日野家)を嫡流としており、聖人の家系は資業の曽孫実光の弟宗光から始まる庶流で、聖人の父有範は範綱・宗業の弟ですから日野氏庶流の中でも更に庶流に当たりますが、伯父二人を含む親鸞一族は代々日野氏一門から様々な庇護を受けてきたそうです。(平雅行『歴史の中にみる親鸞』11~14頁参照)
 
 
 
【 恵 信 尼 像 】 (龍谷大学図書館蔵)
 
母恵信尼の出自は越後介(えちごのすけ)三善為教(為則)の娘という説(今井雅晴氏)と越後の在庁官人の娘という説(平雅行氏)とがありますが、東国育ちの覚信尼に女房勤めに必要な教養や技術を教えたのは母恵信尼でしょうし、それが出来た以上恵信尼にも京都での女房勤めの経験があった、つまりは在京貴族三善氏の娘であったと私は思うのですが……
ただ、恵信尼を三善氏の出身だと考えると、父三善為教(為則)は九条(藤原)兼実の家司を務めていますし、恵信尼も若い頃、兼実の娘で後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院任子の女房(女房名:筑前ちくぜん)を勤めるなど、九条家とは深い繋がりがあったことになります。
(「聖人が九条兼実の娘・玉日姫と結婚した」といういわゆる「玉日伝説」の起こりは、「九条兼実の娘の女房と結婚した」が伝聞の過程で「九条兼実の娘と結婚した」に変わってしまったのではないか?というのが今井雅晴先生の見解)
 
 
 
 
 【 源(土御門)通親 】
 
 
ところが覚信尼が仕えた久我通光の父土御門(源)通親は九条兼実の政治上のライバルで、「建久7年(1196)の政変」の際に兼実を関白の座から追い落とし、任子を宮中から退去させた張本人。
……いくらそれぞれの家が代替わりしているとは言え、主家の仇敵の家に孫娘(代替わりした三善家当主からすれば従姉妹?)を女房勤めさせるでしょうか?
覚信尼の女房勤めの線から、母恵信尼の出自が探れはしないかと考えてみたのですが……、

……なかなか難しそうですねえ。(;^_^A
 
(10月2日) 
 

 
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