住職日記   真宗大谷派 西念寺
 

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住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)

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「慈信房善鸞義絶状」をめぐって

親鸞聖人の生涯の「謎」部分に関する「妄想」(その5)
 
真宗高田派の本山・専修寺(三重県津市一身田町)には建長8年(1256、聖人84歳)5月29日、親鸞聖人が息子慈信房善鸞宛に義絶を通告し、聖人の直弟である顕智(高田門徒の棟梁)が嘉元3年(1305)7月27日にそれを書写した「書簡」、いわゆる「善鸞義絶状」(『真宗聖典 第二版』P 748~750)が現存しています。
 
 
 
【顕智書写「善鸞義絶状」(三重県・専修寺蔵)】
 
大正10年(1921)に発見された この文書ですが、発見直後からその真偽をめぐって激しい論争が展開されました。
善鸞は当初、当時関東で流行していたいわゆる「造悪無碍(ぞうあくむげ)」の異義を制止するため、聖人の名代として関東に派遣されものの、「父(親鸞)が夜密かに自分だけに教えた」と称して、聖人の教えとは似て非なる自説を喧伝し、聖人の直弟達から門徒を奪うなどして激しく対立、ついには鎌倉幕府に門弟達を誣告までしたと言います。
その結果善鸞は父聖人の怒りに触れ、
「いま(今)は、おや(親)ということあるべからず、こ(子)とおも(思)うことおも(思)いきりたり。三宝・神明に、もう(申)しきりおわ(終)りぬ。……
   五月二十九日      在判
 慈信房御返事
  同六月二十七日到来
  建長八年六月二十七日註之
     嘉元三年七月二十七日書写了」(「善鸞義絶状」)
と、建長8年5月29日付の「書簡」(「義絶状」)をもって聖人から義絶(父子の縁を切る、勘当)を言い渡され、その同日、
「自今已後は、慈信におきては、子の儀、おも(思)いきりてそうろ(候)うなり。……
このふみ(文)を人々にもみ(見)せさせたま(給)うべし。あなかしこ、あなかしこ。
   五月二十九日     親鸞
 性信房 御返事」(「善鸞義絶披露状」)
と、義絶の事実を門弟達に周知させるよう命じた性信房宛「書簡」(「善鸞義絶披露状」、『血脈文集』第二通)も併せて聖人の手で認められたのでした。
この「義絶状」がなぜ、「偽作」と見做されたかについてはいくつかの理由があるのですが、偽作説の最大の論拠は、
「なぜ、「慈信房御返事」と善鸞に宛てて送られたはずの「義絶状」が、その敵方である高田門徒の顕智の手元にあるのか?」(つまりは顕智による偽造ではないのか?)
という点だったのですが、この点について平雅行先生は、
中世文書には「文書の宛先と受給者との乖離」という原則があり、宛先が「慈信御房」とあっても直接善鸞の元に届けられたわけではない。
当時善鸞と性信らは係争中であり、善鸞に直接「義絶状」を渡せば証拠隠滅の危惧すらあった。
親鸞は5月29日に性信に「義絶披露状」とともに「義絶状」を送り、6月27日に二通とも性信の元に到着し、性信が「義絶状」に到着の日付等を記した。(「義絶状」末尾の注記「同六月二十七日到来/建長八年六月二十七日註」を参照)
性信は裁判に証拠として「義絶状」の原本(正文)を示し、善鸞には写し(案文)を渡した。
性信の手元に残った原本は善鸞の義絶を周知させるため真仏ら関東門弟に回覧され、そこでも写しがとられた。
その写しを嘉元3年7月に顕智が書写したものが専修寺に伝来する「善鸞義絶状」である。
 (『歴史のなかに見る親鸞』(法藏館、2011年)P 171184参照)
と述べておられます。
聖人は義絶の理由について、善鸞は、「世間的のこと」(聖人一家の私的な問題?)についてもいろいろと「不可思議のそらごと(虚言)」「おそ(恐)ろしきもう(申)しごと(事)ども」を言い触らしていると述べておられますが、「出世間」のこと(仏法)について言えば、
「善鸞が主張している法門(「法文」)を私(親鸞)は聞いたことも学んだこともない。
当然それらを善鸞(慈信)に伝えるはずもないし、ましてそれらを他の者に隠して、善鸞一人に特別な法門として教えることなどあり得ない。」
と断言しておられます。
「まず、慈信がもう(申)しそうろ(候)う法文の様、名目をもき(聞)かず。
いわんや、なら(習)いたることもそうら(候)わねば、慈信にひそ(密)かにおし(教)うべき様もそうら(候)わず。
また、よる(夜)もひる(昼)も、慈信一人に、人にはかく(隠)して法文おし(教)えたることそうら(候)わず。
もしこのこと、慈信にもう(申)しながら、そらごと(虚言)をももう(申)しかく(隠)して、人にもし(知)らせずしておし(教)えたることそうら(候)わば、三宝を本として、三界の諸天善神、四海の龍神八部、閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身にことごと(悉)くかぶ(被)りそうろ(候)うべし。」
「なかにも、この法文の様き(聞)きそうろ(候)うに、こころ(心)もおよ(及)ばぬもう(申)しごと(事)にてそうろ(候)う。
つやつや、親鸞が身には、き(聞)きもせず、なら(習)わぬことにてそうろ(候)う。
かえすがえすあさ(浅)ましゅう、こころう(心憂)くそうろ(候)う。」(以上、「義絶披露状」)
ここで問題となるのが「慈信(善鸞)が申し候う法文」の具体的な内容なのですが、「義絶状」には、
「往生極楽の大事をい(言)いまど(惑)わして、ひたち(常陸)・しもつけ(下野)の念仏者をまど(惑)わし、おや(親)にそらごと(虚言)をい(言)いつけたること、こころ(心)う(憂)きことなり。
第十八の本願をば、しぼ(萎)めるはな(花)にたと(喩)えて、人ごとにみな(皆)す(捨)てまいらせたりとき(聞)こゆること、まことにほうぼう(謗法)のとが(科)、
又、五逆のつみ(罪)をこの(好)みて、人をそん(損)じまど(惑)わさるること、かな(悲)しきことなり。
ことに、破僧罪ともう(申)すつみ(罪)は、五逆のその一なり。
親鸞にそらごと(虚言)をもう(申)しつけたるは、ちち(父)をころ(殺)すなり。
五逆のその一なり。」
とあることから、善鸞の「異義」は「第十八の本願をば萎める花に喩えた」ものであることが知られます。
善鸞の主張した「異義」の詳細は不明ですが、当初「造悪無碍」の風潮を諌めるために遣わされたとも言われる(従覚『慕帰絵詞』・乗専『最須敬重絵詞』)ことから「専修賢善」的なもの、「慈信一人に、よる(夜)親鸞がおし(教)えたるなりと、人に慈信房もう(申)されてそうろ(候)う」(「義絶状」)との記述から「秘事法門」的なもの、後年覚如上人に薬として呪符を飲ませようとしたり、巫覡の集団と行動を共にしている姿を目撃されたりしていること(『慕帰絵詞』・『最須敬重絵詞』)から呪術的な念仏ではなかったか、などと言われているのですが、「第十八願を萎める花に喩えた」という文言から、いずれにせよ本願の念仏という親鸞聖人の信念の根幹を否定するものであったと考えられてきました。
ところが、善鸞が用いた「萎める花」という語句にはきちんとした典拠があり、必ずしも第十八願を否定したものではなかったにもかかわらず、善鸞と対立した関東門弟達が善鸞の意図を歪曲し、親鸞聖人の没後に、これが「善鸞が主張した異義」だと称して「善鸞義絶状」「義絶披露状」等を偽作した、という主旨の論考が発表されたのです。
それが、
藤井淳「慈信房善鸞上人義絶問題について」
   (『駒澤大學佛教學部研究紀要』71、2013年3月)
です。
藤井氏に拠れば、この「萎める花」の典拠は『古今和歌集』仮名序(和文の序、紀貫之(きのつらゆき)の作)にある在原業平(825~880)作の和歌に対する評価の文
「在原業平は、その心余りて言葉たらず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし。」(『古今和歌集』仮名序)
であると言います。
『古今集』には真名序(漢文の序、紀淑望(きのもちよし)の作)もあり、真名序では、
「在原中将之歌、其情有余、其詞不足。如萎花雖少彩色而有薫香。」(『古今和歌集』真名序)
となっています。
在原業平が主人公とされる『伊勢物語』には東国へ流離する「東下り」の挿話もあり、聖人によって関東に派遣された善鸞が、基礎的な教養及び関東滞在のための情報として、業平の事績や『古今和歌集』仮名序について知っていた可能性は充分にある。
おそらく善鸞はこの「萎める花」の譬喩を、阿弥陀如来の「法性法身・方便法身」の解説として用いたのであろう、と氏は推定されています。
「法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれず、ことばもたえたり。
この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまえり。……
尽十方无碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらい悪業にさえられず、このゆえに无碍光ともうすなり。 」(『唯信鈔文意』)
「まず仏に大小の分量をさだめんこと、あるべからずそうろうか。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてそうろうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや」( 『歎異抄』第18章)
これらの文章から氏は、善鸞が『古今和歌集』仮名序に基づいて「色もな」く「萎める花」を「いろもな」い抽象的な「法性法身」に譬え、「方便法身」を「におい残れる」としたならば、方便法身の働きを認めていることになり、聖人がこの「萎める花」という語を聞いた際にも、日野家の出身であり比叡山の教養ある僧侶としての前身を持つことから、まず『古今集』仮名序を思いうかべたであろうから、弥陀の本願を貶める否定的な譬喩であると〝激怒〟したとは考えにくい。
それゆえ、この「萎める花」の語句は、善鸞と対立した関東門弟が、その典拠を知らない者(関東門弟の弟子達)に向けて善鸞が語った「譬説」「仏法の説き方には、古来、法説・譬説・因縁という三周説法というものがある。(中略)「譬説」は譬喩によってその教説の内容を分かりやすくするもの」(藤井前掲論文・P164)を故意に曲解して、聖人没後に善鸞を貶めるべく展開したネガティヴキャンペーン(親鸞書簡の改変・偽造等)において否定的な意味で用いたものであると考えられる、と主張されます。
しかし、藤井氏の主張は、そもそもが『古今集』仮名序がそこまでポピュラー(一般的)であって、聖人も善鸞もそれを熟知していたというのが前提であり、果たして仮名序を典拠と断定できるのか?という点で疑問符が付くのですが、たとえ「萎める花」の典拠が仮名序であったとしても、「善鸞義絶状」「義絶披露状」が偽作である証拠にはなり得ない、というのが私の考えなのです。
藤井氏は「萎める花」は阿弥陀如来の「法性法身・方便法身」の解釈に対する善鸞の「譬説」であるとしていますが果たしてそうでしょうか。別の解釈は成り立たないのでしょうか。
法性法身の「いろ(色)もなし」の「色(いろ)」は、色彩の「色」という意味ももちろんあるでしょうが、仏教教理の上から見ればむしろ「色」(しき、物質)の意であって、法性法身は「色身」(しきしん、物質としての身・肉体)とは異なり、「かたち〈形態〉もま(在)しまさ」ないのです。
人間の認識の対象たり得ない「言亡慮絶」(ごんもうりょぜつ)「こころ〈思慮〉もおよ(及)ばれず、ことば(言葉)もた(絶)えたり」(人間が言葉で表現することもできず、その思慮分別をも超絶している)の絶対の悟りの境地・世界を、あえて言葉で表現しているのが「法性」「法身」「一如」といった語であるわけです。
これに対して、「萎める花の色(いろ)なくて」の「色」は、真名序にあるようにあくまで花の「彩色」(「色彩」の色)であって、萎んで色褪せてはいるものの少なくとも花〈物質〉自体は残っているし、 眼根によって姿形〈形態〉を認識することもできます。
つまり藤井氏は、物質でもなく対象として認識することもできない法性法身を語る際の「いろ(色)もなし」と、物質であり対象として認識もできる花の「色〈色彩〉なし」という、意味の異なる二つの「色」(いろ)の語を安易に同じに扱っているわけです。
藤井氏は
「慈信房が『古今和歌集』仮名序に基づいて「色もな」く「萎める花」を「いろもな」い抽象的な「法性法身」に譬え、「方便法身」を「におい残れる」としたならば、方便法身の働きを認めていることになり、この比喩は教理上、著しい逸脱とまでは言えないであろう。」(「慈信房善鸞上人義絶問題について」『駒澤大學佛教學部研究紀要』71・P164)
と言われるものの、「色(色彩)もなく」実際には全くないわけではないではあっても実体はある「萎める花」を「いろ(色身、実体)もな」い抽象的な「法性法身」に譬えているわけですし、、「いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれず、ことばもたえた」る「この一如よりかたちをあらわして」「御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまう御かたち」である「方便法身」のそれこそ具体的な働きを、「におい花よりもむしろこちらの方が眼にも見えず抽象的では?残れる」と譬えるのは譬えとして適切であるとは思えません。
藤井氏自身
「ただ、「比喩は一分」と言われるように、比喩が教説を完全に表しているかどうか、また通俗に流れていないかという問題は常にあり、慈信房の譬説の場合も教理的な面からその妥当性は検討される必要があろう。」(同上・P164~165)
と言われていますが、以上のように教理的な面から検討してみれば、『浄土論註』下巻・浄入願心章に           
浄入願心は、「又向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。此の三種の成就は願心の荘厳したまえるなりと知る応しと。
「応知」というは、此の三種の荘厳成就は、本、四十八願等の清浄の願心の荘厳せる所なるに由て、因浄なるが故に果浄なり、因無くして他の因の有るには非ざるなりと知る応しとなり。
「略説して一法句に入るが故に」(論)とのたまえり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを「広」と為す。入一法句を「略」と為すなり。
何が故にか広略相入を示現したまうとなれば、諸仏、菩薩に二種の法身有します。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由て方便法身を生ず。方便法身に由て法性法身を出す。此の二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。是の故に広略相入して、統ずるに法の名を以てす。菩薩若し広略相入を知らざれば則ち自利利他に能わじ。
と説かれる「諸仏、菩薩」の(法性・方便)二種の法身の「広略相入」の関係を、「萎れた花」の色と匂いとで説明するのは、いくら「譬喩は一分」と言っても、「譬説」として妥当ではない、稚拙なものと言わざるを得ません。
また、藤井氏の論考は、「萎める花」の典拠を発見したと強調する余り、典拠とされる『古今和歌集』の文そのものの検討がなされていないように私には思われます。
『古今和歌集』仮名序の文に目を移してみましょう。
既に紹介した通り、これは六歌仙の一人在原業平の和歌に対する『古今集』の編者紀貫之の評です。
「在原業平は、その心余りて言葉たらず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし。」
紀淑望作の真名序にはこうあります。
「在原の中将の歌は、その情余り有りて、その詞足らず。萎める花の、彩色少なしと雖(いえど)も、薫香有るが如し。(在原中将之歌、其情有余、其詞不足。如萎花雖少彩色、而有薫香。)」
これらの文から知られることは、「しぼめる花の色なくて、にほひ残れる」(「如萎花雖少彩色、而有薫香」)とは、あくまで業平の和歌が「その心余りて言葉たらず」(「其情有余、其詞不足」)であることの喩えであることです。(藤井氏の論考にはこの視点が欠落しています。)
ちなみに仮名序では「しぼめる花」は「色なく」ですが、真名序では「彩色少なし」とあって、法性法身のようにまったく色が「無い」のではなく「少ない」、つまり「色褪せている」と取るべきであることが知られます。
「心余りて言葉たらず」とは、業平の歌はその有り余る心(歌情)に較べて言葉が足りない。言葉が歌情を表現し切れていないと評しているのではないでしょうか。
「にほひ」(薫香)が眼に見えない「(歌の)心」(情)を表し、「花」が「言葉」(詞)を表す。
花の「にほひ(匂い)」(「薫香」)、歌に込められた「心」(「情」)は「残っている」(「有ル」)、つまり編者には伝わっている、感じ取れるけれども、その「心」(「情」)に比して「言葉」(「詞」)がいかにも「足らない」、追いついていない。言うなれば、「萎んだ花」の色が褪せていて「足りない」(「彩色が少ない」)ような状態である。
これが真名序・仮名序で語られる在原業平の歌の評価ですが、仮名序には「その心余りて言葉たらず」の実例として業平の歌三首
「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
        わが身ひとつは もとの身にして
 おほかたは 月をもめでじ これぞこの
        積もれば人の 老いとなるもの
 ねぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
        いやはかなにも なりまさるかな」
が挙げられているそうです。
このように考えれば、「第十八の本願をば萎める花に喩えた」善鸞の言葉も次のように了解できます。
「第十八の本願(の文)は『萎める花』の如く『言葉足らず』である。」
(第十八願の文言はその本意(心、情)を充分に表現できていない。)
つまり、
「第十八願を『念仏往生の願』と言葉通りに捉えるのは正しい理解ではない。
文面上に現れるよりももっと深い別の意味があるのだ。」
(そして私は、その正しい第十八願理解を、父親鸞から夜密かに受け継いだただ一人の人間である)
これが善鸞の主張ではなかったのでしょうか。
「第十八願とは、阿弥陀如来因位の法蔵菩薩が諸行を捨てて称名念仏を往生の行と選び取った『選択本願』『王本願』である。」
これが師法然上人から教え授けられ、親鸞聖人のそれまでの人生を貫いてきたいわば〝根幹〟の思想(本願理解)な訳ですから、善鸞の主張を聞いた聖人が〝激怒〟されてもひとつも不思議ではありません。
また、「第十八願は『選択本願』『念仏往生の願』称名念仏こそを往生の行とすると誓った願ではない」とする主張は別に善鸞の〝専売特許〟ではありません。
解脱房貞慶(1155~1213)起筆の『興福寺奏状』(元久2年・1205)は、
「かの一願に付きて、「乃至十念」とは、その最下を挙ぐるなり。
観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、……その導き易く生じ易きは、観念なり、多念なり。……
既に称名の外に念仏の言あり、知りぬ、その念仏は、是れ心念なり、観念なり。
かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取らんや。……
観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘(こしら)うるの方便なり。」(「第七に念仏を誤る失」)
「しかるに近代の人、あまつさえ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧(なん)ぞ仏意に叶(かな)わんや。」(「第六に浄土に暗き失」)
と述べ、第十八願の「乃至十念」(=十声の称名念仏)とは観念・口称とある念仏の中でも「下機を誘(こしら)うるの方便」として説かれた「最下」(劣)の行であり、多念、さらには観念(勝)へと進んでいくための言わば初歩の初歩であって、それをもって唯一の往生の行とするのは仏法を誤解すること甚だしい、と法然とその門流を批難しています。
善鸞がもともとは蔓延する「造悪無碍」念仏を称えてさえいればどんな悪行を犯しても往生の妨げにはならないとする異義を諫止するために関東に来たのだとすれば、彼の主張が「称名念仏だけでは足りない」からと悪を慎み善を促す「専修賢善」的なもの、あるいは「諸行往生」的なものとなっていったとしても不思議ではありません。
ただ「専修賢善」や「諸行往生」を勧める教えは既に関東にも存在していたでしょうし、「善鸞義絶披露状」には、
「慈信がもう(申)しそうろう(候)法文の様、名目をもき(聞)かず。
いわんや、なら(習)いたることもそうら(候)わねば、」
とありますから、それらのバリエーション(発展型)だったとしても、善鸞の異義はかなり新規かつ特異なものであったと想像されます。
「義絶披露状」には
弥陀の本願をす(捨)てまいらせてそうろ(候)うことに、人々のつ(付)きて、親鸞をもそらごと(虚言)もう(申)したるもの(者)になしてそうろ(候)う。……
慈信が法文によりて、おお(多)くの念仏者達の、弥陀の本願をす(捨)てまいらせお(合)うてそうろう(候)らんこと、もう(申)すばかりなくそうら(候)えば、……
なおなお、よくよく念仏者達の信心は一定とそうら(候)いしことは、みな御そらごと(虚言)どもにてそうら(候)いけり。これほどに第十八の本願をす(捨)てまいらせお(合)うてそうろ(候)う人々の御ことば(言葉)を、たの(頼)みまいらせてとしごろ(年頃)そうら(候)いけるこそ、あさ(浅)ましゅうそうろ(候)う。」
といった聖人の言葉が綴られていますが、「弥陀の本願を捨てる」「第十八の本願を捨てる」という表現を私は「(念仏往生の願としての)本願を捨てる」、具体的には往生の行としての「(専修)念仏を捨てる」という意味だと考えます。
〔推定:建長7年・1255、聖人83歳〕11月9日付の善鸞宛「書簡」の
「いなか(田舎)のひとびと(人々)、みな(皆)としごろ(年頃)念仏せしは、いたずら(徒)にてありけりとて、かたがた(方々)、ひとびと(人々)、ようよう(様々)にもう(申)すなることこそ、かえ(返)すがえ(返)す不便のことにてき(聞)こえそうら(候)え。
慈信坊(善鸞)のくだ(下)りて、わ(我)がき(聞)きたる法文こそ、まこと(真実)にてはあれ、ひごろ(日頃)の念仏は、みないたずらごと(徒事)なりとそうら(候)えばとて、おおぶの中太郎のかたのひとびと(人々)は、九十なん(何)人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をす(捨)てたるとかや、き(聞)きそうろ(候)う。いかなるようにて、さよう(左様)にはそうろ(候)うぞ。詮ずるところ信心のさだ(定)まらざりけるとき(聞)きそうろ(候)う。」(『親鸞聖人御消息集(広本)』第11通)
善鸞の教化によって皆が「日常的な念仏は『いたずらごと』(無意味なこと、くだらないこと)である」と考えるようになって、念仏を勧めていた「おおぶの中太郎入道」から離れた(つまりは念仏を捨てた)、という文面からもそのことが窺えます。
そのような、善鸞の異義に大勢の人々(関東門弟の弟子達)がたやすく「すかされた」(欺されて誘われた)現象の原因を、〔推定:建長8年・1256、聖人84歳〕正月9日付の真浄宛「書簡」に
「奥郡のひとびと(人々)、慈信坊にすかされて、信心みなう(浮)かれお(合)うておわしましそうろ(候)うなること、かえ(返)すがえ(返)すあわ(哀)れにかな(悲)しゅうおぼ(憶)えそうろ(候)う。
これ〔私・親鸞〕もひとびと(人々)をすかしもう(申)したるようにき(聞)こえそうろ(候)うこと、かえ(返)すがえ(返)すあさ(浅)ましくおぼ(憶)えそうろ(候)う。
それも日ごろ(頃)ひとびと(人々)の信の、さだ(定)まらずそうら(候)いけることの、あらわれてき(聞)こえそうろ(候)う。かえ(返)すがえ(返)す、不便にそうら(候)いけり。
慈信坊がもう(申)すことによりて、ひとびと(人々)の日ごろ(頃)の信の、たじろきおうておわしましそうろ(候)うも、詮ずるところは、ひとびと(人々)の信心の、まこと(真実)ならぬことの、あらわ(現れ)てそうろ(候)う。よきことにてそうろ(候)う。」(『同』第12通)
とあるように、詰まるところ人々(関東門弟の弟子達)の信心が確固たるもの、真実信心ではなかったことにあると聖人は考えられたのでした。
多くの念仏者達が念仏を捨ててしまった。
「念仏往生の願」としての第十八願を信じる信心、「本願を信じて念仏申さば仏になる」と信じる信心がたやすく動転「たじろく」(ひるむ、しりごみする、後退する、衰える、傾く、よろめく)してしまった。(そもそもその信心が不確かなものでしかなかった。)
そしてそのような現実を聖人に突きつけたのは息子善鸞であり、聖人が生涯をかけて説き続けた本願念仏の道、末法濁世の凡夫に開かれた唯一無二の救い(往生浄土)の門は、他ならぬ息子の手によって閉ざされてしまったわけです。
聖人の「悲歎」「慟哭」は察するに余りあります。
「おおかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世ものがたりのききがき』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おお(多)くの念仏者達の、弥陀の本願をす(捨)てまいらせお(合)うてそうろ(候)うらんこと、もう(申)すばかりなくそうら(候)えば、かようの御ふみ(文)ども、これよりのち(後)にはおお(仰)せらるべからずそうろ(候)う。……
なおなお、よくよく念仏者達の信心は一定とそうら(候)いしことは、みな御そらごと(虚言)どもにてそうら(候)いけり。
これほどに第十八の本願をす(捨)てまいらせお(合)うてそうろ(候)う人々の御ことば(言葉)を、たの(頼)みまいらせてとしごろ(年頃)そうら(候)いけるこそ、あさ(浅)ましゅうそうろ(候)う。」(「義絶披露状」)
この中の「『唯信抄』・『自力他力の文』……かようの御ふみども、これより後には仰せらるべからず候う」との文を根拠に、
親鸞はこの時点で文書による教化伝道を断念している。
ところが実際には親鸞はその後も聖教の書写・改訂と送付を繰り返している。
現実と矛盾したこの「書簡」の記述は怪しい。
(「義絶披露状」にはやはり偽作の疑いがある。)
とする方もありますが、 私はそうは思いません。
一種自暴自棄とも取れる聖人のこの言葉は、建保2年(1214、聖人42歳)以来、帰洛後も含めれば40年以上にわたった関東行化の営為が「水泡に帰した」ことを知った聖人が思わず漏らした「絶望」の叫びであったと思いますし、むしろその後、この事件をバネとして84歳の老人が一層の著述活動に邁進されたことに聖人の尋常ならざる一面があるのではないでしょうか。
以上の点から、私は「義絶状」を本物(真作)と考えているのですが、偽作説の立場を採る方の中には、聖人の曽孫覚如上人(1271~1351)の子従覚の『慕帰絵詞』、弟子乗専の『最須敬重絵詞』が伝える覚如上人の目撃談として、多くの人々(関東門弟の弟子達)に念仏を捨てさせたはずの善鸞が後年、多勢の巫覡の集団と共に在った時、
「他の本尊をばもち(用)いず、無碍光如来の名号ばかりをか(掛)けて、一心に念仏せられける」(『慕帰絵詞』)
「聖人よりたまわ(賜)られける無碍光如来の名号のいつも身をはなたれぬを頸にか(掛)け、馬上にても他事なく念仏せられけり。……
本尊の随身といい羇中の称名といい、関東の行儀にすこ(少)しもたが(違)わず」(『最須敬重絵詞』)
という行動をとっていたことから、実際には義絶はなかったのではないか。巫覡と行動を共にしたのもあくまで教化の一環であり、内面は父聖人と変わらぬ念仏の信心を保持していたのではないかと見る見方もあります。
実際、両書には、
「彼の慈信房おおよそは聖人の使節として坂東へ差し向けたてまつられけるに、真俗につけて、門流の義にちが(違)いてこそ振舞われけれども、神子・巫女の主領となりしかば、かかる業ふか(深)きもの(者)にちか(近)づきて、かれ(彼)らをたす(助)けんとにや、あや(怪)しみおも(思)うものなり。」(『慕帰絵詞』)
「〔筆者注;善鸞の振る舞いが〕関東の〔専修念仏教団の〕行儀にすこ(少)しもたが(違)わず、両度ともにとお(通)りあ(会)いて御覧じ給いければ、心中の帰法は外儀の軽忽にはたが(違)われたるにや、とぞ〔覚如上人は〕の給いし」(『最須敬重絵詞』)
とありますし、顕智の目撃談として、ある冬の日に五条西洞院の禅房で聖人と善鸞が顔を寄せ合って(「御顔と顔とさしあわせ、御手と手ととりくみ、御額を指し合わせて」(『慕帰絵詞』)、「互いに御額を合わせて」(『最須敬重絵詞』)密談しており、顕智の姿を見て慌てて離れたという記述も載っています。
これらの記述によれば、覚如上人は「夜密かに自分に特別に法を説いた」という善鸞の発言はあながち荒唐無稽なものではなかったかも知れないし、外見上はともかく善鸞は内心では本願の念仏に帰依していたのではないか、と考えていたことになります。
(ただし、これは覚如上人が法然―親鸞―如信(そして自分)の三大伝持・血脈相承を主張し、善鸞を父親に持つ如信上人を本願寺の第二世と位置づけていることと決して無関係ではないでしょう。)
しかし、そんな善鸞に好意的な両書でさえ、
「おおかた門流において聖人の御義に順ぜず。あまさえ堅固あらぬさま(様)に邪道をこと(縡)とする御子になられて、別解・別行の人にてましますうえは……
この慈信房は安心などこそ師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ……」(『慕帰絵詞』)
「ここに慈信大徳と申す人おわしけり、如信上人には厳考〔筆者注:父親〕、本願寺聖人〔親鸞〕の御弟子なり。
初は聖人の御使として坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなわり給いけるが、後には法文の義理をあらため、あまさえ巫女の輩に交わりて、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておわしければ、聖人も御余塵の一列におぼしめさず」(『最須敬重絵詞』)
と、善鸞が異義を主張したことについては疑いのない「事実」であると見ています。
(ただしこれらの文面には、善鸞が父聖人から「義絶」されたという表現はなく、「門流において聖人の御義に順ぜず」「安心などこそ師範と一味ならぬ」「聖人も御余塵の一列におぼしめさず」と、、善鸞が異義を説いて「破門」になったことまでが読み取れる文面となっています。
おそらく覚如上人は善鸞が義絶されたことを知った上でこう語られ、それが『慕帰絵詞』『最須敬重絵詞』の記述として残ったものと思われます。
こういった両書の細部にも、如信上人の父が善鸞であることへの覚如上人の「配慮」は及んでいるのかも知れません)
後世の覚如上人までもが善鸞の異義を事実と認識していた点について藤井氏は、前掲の「『萎める花』を抽象的な『法性法身』に譬え、『方便法身』を『におい残れる』としたとする見解に立って、
藤井淳「親鸞書簡の信憑性の再検討」
    (『駒沢大学佛教学部論集』44、2013年10月)
において、「善鸞義絶状」「善鸞義絶披露状」(以下、義絶関連書簡)のみならず、現存の『親鸞聖人御消息集(広本)』所収の親鸞書簡もまた、聖人没後に善鸞と対立した性信ら関東門弟達によって、善鸞の権威を貶めるためにあるものは新たに作成され、あるものは語彙が改変され、『御消息集(広本)』そのものも同じ目的で集成されたとしておられます。
確かにこれならば覚如上人が義絶を史実と見ていたこととも辻褄は合いますが、偽造・改変の確かな物証がある訳でもなく、根拠と思しきものは「この『書簡』のこの表現は怪しい」とするご本人の主観のみであって、正直善鸞の義絶を無かったことにとしたい余りの「勇み足」(牽強附会)という印象しかありません。
藤井氏のこの論考に対して、私は一点だけ反論したく思います。
藤井氏は義絶関連書簡(「義絶状」「義絶披露状」)に
「なに(何)よりは、あいみんぼう(哀愍房)とかやともう(申)すなる人の、京よりふみ(文)をえ(得)たるとかやともう(申)されそうろ(候)うなる、返す返すふしぎ(不思議)にそうろ(候)う。いまだ、かたち(貌)をもみ(見)ず、ふみ(文)一度もたま(賜)わりそうら(候)わず、これよりももう(申)すこともな(無)きに、京よりふみ(文)をえ(得)たるともう(申)すなる、あさ(浅)ましきことなり。」(「善鸞義絶状」)
「また、哀愍房とかやの、いまだみ(見)もせずそうろ(候)う。
また、ふみ(文)一度もまいらせたることもなし。くに(国)よりもふみ(文)た(賜)びたることもなし。親鸞がふみ(文)をえ(得)たると、もう(申)しそうろ(候)うなるは、おそ(恐)ろしきことなり。
この『唯信鈔』か(書)きたる様、あさ(浅)ましゅうそうら(候)えば、火にや(焼)きそうろ(候)うべし。かえ(返)すがえ(返)すこころう(心憂)くそうろ(候)う。」(「善鸞義絶披露状」)
といった哀愍房への言及が出現するのは「不自然」であるとされています。
藤井氏のこの指摘ですが、2013年3月発表の①「慈信房善鸞上人義絶問題について」と同年10月発表の②「親鸞書簡の信憑性の再検討」とでは「不自然さ」の内容に違いがあるように見受けられます。
前者①で指摘される不自然さとは、
①哀愍房が「京都の親鸞から「ふみ」を得た」と、親鸞からの「事実ではない」との手紙一通で事が露見してしまうような安直な嘘をついたことが不自然である。
というもので、これは前者の、
「この義絶状に対する疑問点は他に、冒頭の哀愍房の出現(とその主張:引用省略)にあるが、哀愍房が事実と異なって「親鸞から手紙を得ている」という主張は親鸞生前のものとしては不自然であると考えられるのと同様に、慈信房のこの〔「実の母親(恵信尼)が生きているにも関わらず、親鸞の自分(慈信房)に対する不信は継母の讒言に基づくもので、自分には非がない」とする〕主張も親鸞生前のものとは考えられない。慈信房の主張は、もし親鸞が生きているならば、このような手紙一通で虚偽が暴かれてしまうのであって、むしろ親鸞没後に門弟によって作成されたものと考えるべきである。」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』71・P162)
との文面から窺われます。
後者②においては、
②善鸞義絶を通告した善鸞宛・性信宛の「書簡」に、この件に関しては第三者であるはずの哀愍房に関する記述が唐突に登場するのが不自然である。
とされているように窺われます。これは後者の、
「慈信房は親鸞没後に発生した門弟との正統を巡る争い〔筆者注:いったんは沈静化した親鸞生存中の対立が再燃〕の中で、親鸞生存中に自身に宛てられた書簡〔筆者注:第1通~第6通、第10通~第12通〕を公開した。そこには〔筆者注:造悪無碍の輩としての〕信見房・善証坊・信願坊についての親鸞の批評が書かれていた。……これは親鸞書簡の一つの様式として認識され、門弟が義絶関係書簡(義絶状・義絶通告状)を作成する際に(文意としては極めて不自然であっても)哀愍房を合わせて挙げることになった。義絶関係の書簡における哀愍房出現の不自然さはこれで説明可能と考える。」(『駒沢大学佛教学部論集』44・P235)
というた文面の「文意としては極めて不自然である」との記述から窺われます。
藤井氏は、①②のいずれも、聖人没後に関東門弟達によって義絶関連書簡が偽造されたことに起因するものだとされています。
①に関する考察はひとまず措いて、まず②について考察していきます。
②に関していえば、義絶関連書簡が、藤井氏の言うような聖人が善鸞に宛てた「書簡」をもとに門弟達が作成したものであり、哀愍房の登場を「親鸞書簡の一つの様式」だと認識していたとしても、他でもない哀愍房が唐突に出現することの不自然さ、必然性の無さは解消されません。門弟達はなぜ「義絶関連書簡」に「哀愍房」を登場させたのでしょうか。
この問題については、哀愍房が善鸞の「与同」(よどう、味方、仲間、協力者)であったと考えれば簡単に説明がつきます。
哀愍房は善鸞の協力者・支持者の一人として、「自分は京都の親鸞聖人から「ふみ」(聖教、書簡)を頂戴した」と吹聴していたのでしょう。
聖人から書簡や聖教を与えられることは自分が聖人から正しく教えを受け継いだ弟子と認められたこと、親鸞聖人の正統な継承者であることの大きな証明となります。
「夜、父(聖人)から秘密の教えを授かった」と称して聖人の直弟達から門徒を奪った善鸞は、前掲の〔推定:建長8年・1256〕正月9日付の真浄宛「書簡」に
「慈信坊がもう(申)しそうろ(候)うことをたの(頼)みおぼしめ(思召)して、これ〔私・親鸞〕よりは余のひと(人)を強縁として念仏ひろめよともう(申)すこと、ゆめゆめもう(申)したることそうら(候)わず。きわまれるひがごと(僻事)にてそうろ(候)う。……
ようよう(様々)に慈信坊がもう(申)すことを、これ〔私・親鸞〕よりもう(申)しそうろ(候)うと御こころえ(心得)そうろ(候)う、ゆめゆめあるべからずそうろ(候)う。法門のよう(様)も、あらぬさま(様)にもうしなしてそうろ(候)うなり。御耳にき(聞)きい(入)れらるべからずそうろ(候)う。きわまれるひがごと(僻事)どものき(聞)こえそうろ(候)う。あさ(浅)ましくそうろ(候)う。
奥郡のひとびと(人々)、慈信坊にすかされて、信心みなう(浮)かれお(合)うておわしましそうろ(候)うなること、かえ(返)すがえ(返)すあわ(哀)れにかな(悲)しゅうおぼ(憶)えそうろ(候)う。これ〔私・親鸞〕もひとびと(人々)をすかしもう(申)したるようにき(聞)こえそうろ(候)うこと、かえ(返)すがえ(返)すあさ(浅)ましくおぼ(憶)えそうろ(候)う。」(『親鸞聖人御消息集(広本)』第12通)
と記された
「善鸞を信じてはならない。
「私(親鸞)が言った」と称する善鸞の言葉や法門は大嘘であり、決して耳を傾けてはいけない。
私(親鸞)が人々(関東門弟の弟子達)を騙したことになっているのは大変心外だ。」
といった聖人の「肉声」(真意)が関東に伝わるこの真浄宛「書簡」も関東門弟間で回覧され、性信や入信が訴えられた鎌倉での裁判にも「証拠」として提出されたと思われますにつれて形勢不利の状況に陥り、挙げ句には「『ままはは(継母)にい(言)いまど(惑)わされたる」「ままはは(継母)のあま(尼)の(言)いまど(惑)わせり」(父は継母の讒言によって変節した)」との「あさ(浅)ましきそらごと(虚言)」を、在京の「みぶ(壬生)の女房」にまで言い触らすまでになりました。(「善鸞義絶状」参照)
そんな善鸞にとって、「京よりふみ(文)をえ(得)たる」「親鸞がふみ(文)をえ(得)たる」(自分は聖人の有力な弟子であり、聖人の本意は自分達の方にこそある)と詐称する哀愍房は心強い味方だったはずです。
しかし聖人は、これに対しても
「哀愍房とかいう人に会ったこともないし、手紙のやりとりをしたこともない。
この(哀愍房が私から授かったと称した)『唯信鈔』(おそらく偽書)聖人は聖覚の『唯信鈔』を何度も書写して関東に送っていますのでその事実を悪用したのでしょうを読んだが、本物とは似ても似つかぬひどい内容で、こんなものはこの世に残しておくのも忍びない。即座に焼却すべきである。」
と〝一刀両断〟にしました。
おそらくはこの哀愍房の言動も、聖人が義絶を決断する上で、大きな要因の一つとなったのでしょう。
ここで藤井氏の言う不自然の①に戻ります。
なぜ哀愍房がすぐにばれるような嘘をついたのか、ですが、これに対する私の答えは
そもそも「嘘つき」の「心理」など理解できない。理解したくもない。
です。(笑)
ただ、あえて言うなら、
その時点の彼ら(善鸞、哀愍房)はそこまで、見え透いた嘘(親鸞からの「ふみ」、継母の讒言等)を吐かなければならないほど追い詰められていた。
ということではないでしょうか。
そして最後に、親鸞聖人の没後、関東門弟が善鸞を貶めるために一致協力して親鸞書簡(義絶関連書簡、『親鸞聖人御消息集(広本)』)を改変・偽作したとする藤井氏の論考に対する根本的な疑問を提示します。
いくら聖人没後とは言え、他でもない師の「書簡」(いわば「聖教」)の偽造を繰り返すなんて、関東門弟は師を師とも思わぬ「恥知らず」の集まりだったんでしょうかね?
そこに「良心の呵責」(師に対して恥ずかしいという想い)はなかったのでしょうか?
(3月26日)


なぜ、原典(底本)と違う訓み方を用いるのか?

『真宗聖典 第二版』(東本願寺出版)所載『教行信証』の問題点
 
昨令和6年(2024)4月1日に東本願寺出版から『真宗聖典 第二版』が刊行されました。
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃記念事業の一環として刊行され、昭和54年(1979)4月の『初版』刊行から実に46年ぶりの改版とあって、YouTubeをはじめ、X(旧Twitter)、InstagramといったSNS上でも盛んに宣伝されています。
私も早速購入しました。
 
 
     
     
【 『真宗聖典 第二版』(東本願寺出版)】   【 『真宗聖典 初版』(東本願寺)】
     
     
 
ところがある日、調べ物のついでにこの『第二版』を繙いていたところ、親鸞聖人の「往生」理解に関わる箇所に重大な「問題」を発見してしまったのです。
それは、聖人の主著「顕浄土真実教行証文類』(通称『教行信証』)の「顕浄土真実行文類二」(通称「行巻」)に曇鸞『浄土論註』を引用した中のいわゆる「易行道」の文。
「易行道者 謂但以信仏因縁願生浄土 乗仏願力 便得往生彼清浄土 仏力住持即入大乗正定之聚 正定即是阿毘跋致」
その中の
「便得往生彼清浄土」
の訓みでした。
当該箇所は『初版』においては
「すなわ(便)ちか(彼)の清浄の土に往生を得しむ。」(『初版』P168)
と訓まれていたのですが、今回の『第二版』では、
「便(すなわ)ち彼(か)の清浄の土に往生することを得しむ。」(『第二版』P181)
と訓まれていたのです。
これがなぜ問題なのかと言えば、東本願寺所蔵の親鸞聖人真蹟本『教行信証』(以下、坂東本。『初版』『第二版』の底本)の当該箇所は
「便チ彼ノ清浄ノ土ニ往生ヲ得(エ)シム
であり、『第二版』よりも『初版』、つまり改訂前の方が坂東本の訓みに忠実であり、改訂によってむしろ坂東本の訓みとはかけ離れたものになってしまっているからです。(下部画像参照)
 
【坂東本(親鸞聖人真蹟本)】
 
   
   
 【『親鸞聖人真蹟集成1』P57】  【該当部分(拡大)】
 
 
「真宗大谷派 真宗聖典検索サイト」に拠れば、『第二版』には「往生することを得」という用例が上記の他に三例見受けられ、内二例(①②)は、
①〈「行巻」引用・善導『往生礼讃』)
「また『弥陀経』に云うがごとし、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終わらんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この人終わらん時、心顚倒せず、すなわちかの国に往生を得ん。」(『初版』P175~176)
「又『弥陀経』に云うが如し。「「若し衆生有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて、即ち名号を執持すべし。若しは一日、若しは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんと欲る時、阿弥陀仏、諸の聖衆と、現じて其の前に在さん。此の人、終らん時、心、顚倒せず、即ち彼の国に往生することを得ん。」(『第二版』P192)
と、
②〈「真仏土巻」引用・曇鸞『讃阿弥陀仏偈』〉
「願わくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、安楽に往生を得んと欲わん者、普くみな意のごとくして障碍なからしめん。」(『初版』P318)
「願わくは、十方の諸の有縁に聞かしめて、安楽に往生することを得んと欲わん者、普く皆、意の如くして障碍無からしめん。」(『第二版』P368)
と、『初版』の「往生を得ん」をわざわざ「往生することを得ん」に改訂しているのですが、坂東本では①「即彼ノ国ニ往生ヲ得ム」(『親鸞聖人真蹟集成1』P81~82)②「安楽二往生ヲ得ムト欲(オモ)ハム者(ノ)」(『同2』P451)といずれも「往生ヲ得ム」となっています。(下部画像参照)
これに対して、残りの一例(③)は
③〈「信巻」引用・曇鸞『浄土論註』〉
「かくのごとき心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することを得て、すなわち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん。」(『初版』P274)
「是くの如き、心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足すれば、便ち安楽浄土に往生することを得て、即ち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん。」(『第二版』P312)
とあるように、『初版』『第二版』とも「往生することを得て」となっているのですが、坂東本では③「便安楽浄土二往生ヲ得(エ)テ」(『親鸞聖人真蹟集成1』P320)となっています。(下部画像参照)

①             
            




② 
        ③    
         
             
  【『真蹟集成1』P81~82】    【『同2』P451】   【『同1』P320】   
これらの用例からも明らかなように、聖人は『教行信証』において「得往生」という漢文に対しては、ほぼ例外なく、
「往生を得(得む・得しむ)」
と訓んで、
「往生することを得(得む・得しむ)」
とは訓んではいないことが知られます。
ちなみに『第二版』においても、以下の文等は「往生を得」と、坂東本に準拠した訓みになっています。
〈善導『往生礼讃』本願加減の文〉
「当に知るべし、本誓重願、虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得と。」
                  (「行巻」引用・『第二版』P192)
〈善導『往生礼讃』諸仏護念の文〉
次下に説きて云わく、「東方如恒河沙等の諸仏、南西北方及び上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏、各おの本国にして其の舌相を出だして、遍く三千大千世界に覆いて誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、皆、是の一切諸仏の護念したまう所の経を信ずべし。」」云何が「護念」と名づくると。若し衆生有りて、阿弥陀仏を称念せんこと、若しは七日、一日・下至一声・乃至十声・一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。此の事を証成せるが故に「護念経」と名づく。」(「行巻」引用・『第二版』P192)
〈『観無量寿経疏』「玄義分」六字釈の文〉
「「南無」と言うは、即ち是れ帰命なり、亦是れ発願回向の義なり。……斯の義を以ての故に、必ず往生を得」と。」(「行巻」引用・『第二版』P193)
〈『観念法門』摂生増上縁の文〉
「此れ即ち是れ、往生を願ずる行人、命終らんと欲る時、願力摂して往生を得しむ。故に「摂生増上縁」と名づく。」(「行巻」引用・『第二版』P193)
〈『観念法門』証生贈上縁の文〉
「善悪の凡夫、回心し起行して尽く往生を得しめんと欲す。此れ亦是れ証生増上縁なり。」(「行巻」引用・『第二版』P193~194)
〈曇鸞『浄土論註』三願的証の文〉
「願に言わく、「設い我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん。若し生まれずは、正覚を取らじと。唯、五逆と誹謗正法とをば除く」と。仏願力に縁るが故に、十念念仏して便ち往生を得往生を得るが故に即ち三界輪転の事を勉る。輪転無き故に、所以に速やかなることを得る一の証なり。」(「行巻」引用・『第二版』P215~216)
〈『大無量寿経』本願成就の文〉
「彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。」
           (『信巻』引用・『第二版』P238、P264、P272)
〈「散善義」深心釈)
「決定して深く「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑無く慮無く、彼の願力に乗じて定んで往生を得」と信ず。」 (『信巻』引用・『第二版』P242)
〈『礼讃』深心釈〉
「今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心有ること無し。」
                  (『信巻』引用・『第二版』P251)
〈曇鸞『浄土論註』妙聲功徳の文〉
「『経』に言わく、「若し人、但、彼の国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、亦往生を得るものとは、即ち正定聚に入る。」此れは是れ国土の名字、仏事を為す。安んぞ思議すべきやと。」(『証巻』引用・『第二版』P321)
なぜ、私が「得往生」の訓みに拘るかといえば、聖人の訓み方である「往生を得」と、そうではない「往生することを得」とでは、明らかに「往生」の語の語る内容が違ってくるからです。
(つまり聖人がこの「往生を得」との訓みに、その独自の「往生」理解を込めていると考えられるからです。)
前掲の『大経』本願成就の文
「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転住。唯除五逆誹謗正法。」
を聖人が、
「諸有(あらゆる)衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。唯(ただ)五逆と誹謗正法とをば除く。」(『信巻』引用・『第二版』P238)
と訓まれたのに対して、同じ法然上人門下で、浄土宗鎮西派の祖である聖光房弁長上人(1162~1238)は、
「諸有(しょう)の衆生 其の名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念し、至心に回向して彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生することを得、不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗するをば除く。」(『浄土宗名目問答』引用・『浄土宗全書10』P399)
と訓まれています。
祖師それぞれの思想の特色は、聖教(漢文)の訓み一つにも自ずと現れるものなのです。
聖人独自の「往生」理解がどのようなものであるかはコチラでも言及していますし、今後詳しく論述する機会もあるかとは思いますが、万人が用いるテキストとして『真宗聖典 第二版』を改訂・出版されたのであれば、あくまでも原典(坂東本『教行信証』)の訓みに忠実であるべきであり、当該箇所の再改訂が急務であると私は考えます。
 
 (3月16日)
 
 
 【 追 記 ① 】
 
前稿で私は、『真宗聖典(初版)』『同(第二版)』に登場する『教行信証』における「得往生」の用例について、坂東本に照らして検証したのですが、今回はそれ以外の文献を各種繙いてみました。
私が前稿でまず取り上げたのは、親鸞聖人が『教行信証』「行巻」に引用された『浄土論註』の文でしたが、聖人は康元元年(1256、84歳)7月25日、『浄土論註』の版本に直筆で訓点を施しておられます。
その『論註』聖人加点本の当該箇所も、下部画像の通り、
 
 【『浄土論註』親鸞聖人加点本】
 
   
 
【『親鸞聖人真蹟集成7』P160】  【該当部分(拡大)】
 
 
「便チ彼ノ清浄ノ土二往生ヲ得(ウ)
とあって、坂東本と同様の訓みになっています。
また、建長7年(1255、聖人83歳)6月に門弟専信が坂東本を写した臨写本を後に真仏が書写した専修寺所蔵本(以下、専修寺本)、聖人没後の文永12年(1275、没後14年め)に坂東本から書写した西本願寺所蔵本(以下、西本願寺本)といった聖人と同時代の写本も、坂東本の訓みを忠実に受け継いでいます。(下部画像参照)
(ちなみにこの専修寺本・西本願寺本はいずれも、『初版』『第二版』とも底本(坂東本)に対する対校本として用いられています。)
 
【専修寺本】 【西本願寺本】
 
 
 
【『専修寺本 顕浄土真実教行証文類・上』P58】 【『本願寺蔵 顕浄土真実教行証文類縮刷本上』P 73】
 
 
にもかかわらず、『第二版』に先立つ一昨年(令和5年・2023)5月に同じく東本願寺出版から発行された『宗祖親鸞聖人著作集1 顕浄土真実教行証文類〈坂東本〉』では、
「便チ彼ノ清浄ノ土ニ往生ヲ得エ)シム」(P36上段・原漢文)
とある坂東本の翻刻を載せながら、読み下し文は『第二版』と同じく
「便(すなわ)ち彼(か)の清浄の土に往生することを得しむ。」(P36下段)
と訓むという「おかしな」記述になっています。
 
 
 
 
 【『宗祖親鸞聖人著作集1』】 【 P36 】
 
 
ところがこれに対して、10数年前の平成24年(2012)12月に真宗大谷派出版部(東本願寺出版)から発行された『解読教行信証・上』の読み下し文では、
「すなわ(便)ちかの清浄の土に往生を得しむ。」(P48上段)
となっているのですから、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃を契機とした今回の出版で、真宗大谷派は当該箇所(及び①②)をあえて改訂したことになります。
 
 
 
 
 【 『解読教行信証・上』】 【 P48(上段) 】
 
 
ここで東本願寺出版並びに聖典編纂室に質問致します。
「旧出版物では底本(坂東本)に準拠していたものを、近年の出版物では、なぜ、底本に拠らない訓みに改変したのですか?」
『第二版』の巻末「校注」には、専修寺本・西本願寺本の他に、最古の延べ書き本としての東本願寺所蔵源覚延書本が対校本に挙げられています。もしかしたら『第二版』や『宗祖親鸞聖人著作集1』の読み下しがこれに拠っている可能性もありますが、その場合でも坂東本・専修寺本・西本願寺本の訓点よりもそちら(聖人以外の人物が後代に制作した延べ書き(読み下し文))を優先した「理由」が問題になります。
(ちなみに『初版』は対校本として専修寺本・西本願寺本と東本願寺所蔵貞和延書本を挙げていますが、この貞和延書本(『初版』対校本)と源覚延書本(『第二版』対校本)は同じもの(19冊からなる『貞和2年(1346)源覚書写延書本』(教行寺旧蔵))のようです。)
そして、もう一つ、
「私たちは今後、いったいどのテキストを信用すれば良いのか?」
という問題が残ります。
もし現行の『第二版』の文面に拠れとおっしゃるのならば、改訂の明確な「理由」、「得往生」を「往生することを得」と訓まねばならない積極的な「根拠」を是非ともお示しいただかなければならない、と私は強く思うのです。
 
(3月21日)
 
 

【 追 記② 】
 
さて、ここまで「日記」を読んで来られて、中には
「『聖典』を改版・刊行しようと思えばその作業量は膨大だろうし、人間のやることだから見落としがいくつかあっても別に不思議では無い。そんなに『鬼の首を取った』ように、向(む)きにならなくても……」
と思われた方もあるかも知れません。
私もそう思います。
しかし、私が「向(む)きになる」のには「向きになる」だけの「伏線」があるのです。
実は私、東本願寺出版サイトの「お問い合わせ」メールを用いて、昨年9月3日付で当該箇所の改訂理由について質問しているのです。
「●タイトル
「行巻」引用『浄土論註』の文の訓みについて
「●質問内容
『教行信証』「行巻」引用の『浄土論註』冒頭「易行道の文」の「便得往生彼清浄土」を、以前に出版した『解読教行信証』や『真宗聖典(初版)』では「すなわちかの清浄の土に往生を得しむ」と読んでいたのに、最近発行の『宗祖親鸞聖人著作集1』や『真宗聖典(第2版)』では「往生することを得しむ」と変更したのはなぜですか?(校正漏れですか?)
「往生を得」と読むか、「往生することを得」と読むかで、「現在」に往生を得るのか、「未来」に往生することを得るのか、文意が大きく変わってくるはずですが?
ちなみに真蹟・坂東本では「便(チ)得(シム)往生(ヲ)彼(ノ)清浄(ノ)土(二)」〈返り点は省略〉となっております。」
しかしながら、9月9日付で返信された回答は、
「聖教編纂室にて確認させていただき、その返答を下記いたしております。

と記した上で、

坂東本の訓点は現行漢文の送り仮名の付し方と異なり、送り仮名の全てではなく一部を省略して示す例がほとんどであり、その都度、読む際に補う必要がある。
例) 往生(ムト) 往生むと  往生(コト) 往生すること
   往生(テ)  往生
この度お問い合わせいただいた「得往生彼清浄土」は、漢文の語順から、順当と見られる読みを示している。
というものでした。
……私がいつ「漢文の語順」を問題にしたのでしょうか?
……坂東本の送り仮名を示すために「便(チ)得(シム)往生(ヲ)彼(ノ)清浄(ノ)土(二)」〈返り点は省略〉」と注記したのが誤解を生んだのでしょうか?(だとすれば、ずいぶんと読解力に難のある出版人だと思いますが)
私が質問したのはあくまで、「往生(ヲ)」を「すること」の送り仮名を省略して示した例だと判断し、読む際には「往生することを」と補う必要がある、としたその「理由・根拠」についてだったのですが。
いずれにしても東本願寺出版(聖典編纂室)からの回答は、「往生することを得」はミスではなく、あくまでも坂東本に拠った「順当な読み」だとするものでしたので、今度は質問を変えて、
「それでは、『第二版』には坂東本の「得往生」(往生(ヲ)得)を「すること」を補わずに「往生を得」と読んだ箇所〔筆者注:「3月16日投稿」参照〕が複数あるのに、「易行道の文」だけ〔注:実際にはあと三箇所あった〕を「往生することを得」と読んだのはなぜですか?」(取意)
というメールを9月10日に再度送信しましたが、これに対してはその後待てど暮らせど、今日に至るまで何の返信もありません。
1回目の質問に対してはそれこそ「木で鼻を括った」ような態度の回答しかなく、2回目の質問に対しては「梨の礫(つぶて)」、というのはさすがに不誠実と言うか、何と言うか………正直「舐めるんじゃねえぞ!!」と。
(もしかして私、東本願寺出版から「厄介なクレーマー」認定されてしまったのでしょうか?)
……果たして、その後、東本願寺出版や聖典編纂室の方で何かしら水面下の動きでもあるのでしょうか?
……もし「何もない」というなら、それこそが真に重大な「問題」だと思わざるを得ないのですが。
 
(3月23日)
 
 
 

謹 賀 新 年

 
 
  悲しみは 悲しみを知る
            悲しみに救われ
  涙は 涙にそそがれる
          涙にたすけらる
                 (金子大榮)
 
   旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 (2025年1月1日)

 
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