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![]() ~ご院家さんのひとり言(不定期更新) |
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2021年1~12月分 2022年1~6月分 2022年7~12月分 | ||
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『親鸞展図録』 ![]() ~巻末「参考文献」参照~ |
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本年(令和5年・2023年)、宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年を迎えるにあたり、真宗大谷派本山・東本願寺(真宗本廟)では3⽉25⽇から4月29日まで慶讃法要(きょうさんほうよう)が営まれ、京都国立博物館においては3月25日から5月21日まで「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞・生涯と名宝」(通称:親鸞展)が開催されました。 しかし、下記の事情(前住職の闘病・逝去)から、私個人はもちろん、西念寺としての団体参拝・拝観も叶いませんでした。 |
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(5月17日) |
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前住職逝去の御報告 ![]() |
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(5月7日) |
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善慧房証空上人のこと |
私、昨年の1月から、直七大学のZoom講義「証空思想の解明」(中村玲太講師)に参加させていただき、法然上人の弟子のお一人善慧房証空上人(浄土宗西山義の祖)の思想について教えていただいているのですが、これがまあ目からウロコ、従来抱いていた証空上人のイメージが大きく変わりました。 |
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【 善 慧 房 証 空 上 人】 |
……証空上人(1177~1247)って結構大胆、と言うか、ラディカルな思想家だったんですね。(^-^;A (まあ、承元の法難・嘉禄の法難の際にはあわや流罪、というスレスレまで行ってますから、考えてみれば、「穏健派」であるはずもないわけなんですが……) 「法然房は諸行の頸を切り、弟子の善慧房は諸行を生け捕りにす」(行観『選択本願念仏集秘抄』) だとか、覚如『口伝鈔』が伝える親鸞聖人吉水時代の「体失・不体失往生の論争」だとか、はたまた承元の法難(建永2年、改元して承元元年・1205年)の際には慈円僧正に泣きついて(注:あくまでも私の想像です。(^_^;))、嘉禄の法難(嘉禄3年・1227年)の際にも弁明書を提出して2度とも流罪を免れるなど、当時の貴顕とうまく結びついて、法然上人の教えを薄めて(=変質させて)浄土宗の延命を図った人、というイメージを持っていた(勝手に作り上げていた)のですが、盛大な勘違いだったかも。(;-ω-) 承元の法難の折、 「我、首を斬らるるとも、この事を言わずばあるべからず」(『法然上人伝記』)(たとえ斬首の目に遭おうとも、私は念仏による弥陀の救済を説かずにはおれない) と言い切った法然上人といい、 「しかるに一人の僧山臥云々ありて、ややもすれば、仏法に怨をなしつつ、結句害心を挿んで、聖人を時々うかがいたてまつる。…… と、自分を殺しに来たかも知れない山伏弁円の前にいとも無造作に姿を現した親鸞聖人といい、一宗一派の祖として名を残すような当時の仏教者はやはり「気骨」というか「肝っ玉」というか、「覚悟」が違いますね。 ……あ、証空上人も一応は武家の出、ということになるのかな?(村上源氏の加賀権守・源親季の長男、久我(源)通親の養子) |
(3月20日) |
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岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる(甲斐 和里子) |
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《ダイヤモンド大山(2022年10月14日ドローン空撮・©日本海新聞社)》 |
旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。 |
(2023年1月1日) |
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