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住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)
 
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日々これ妄想。

浄土真宗の所依の経典は、ご存じのように

『仏説無量寿経』(通称・大経)、康僧鎧(こうそうがい)訳。...
『仏説観無量寿経』(通称・観経、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳。
『仏説阿弥陀経』(通称・小経)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。

のいわゆる「浄土三部経」で、法要の際にはこれらの内一つ、あるいはすべてを勤める(読誦する)のですが、自分はつねづね

(どういうわけかは知らんが、他の二経に較べて『観経』はあげて(読経して)いてどうもシンドイ、疲れる、長さから言えば『大経』の方が大分長いはずなのに……)

と思っていました。
(あ、もちろん『昭和法要式』でのお勤めの話ですよ。)

ところが先日、同業者3人で呑んだ際にその話題になって、他の2人も同様に

「『観経』は難しい。詰まる」

と話すのを聞いて、自分一人の感想ではないことを知りました。

「なぜなんだろう?」と考えた末に思い当たったのは、

(もしかしたらこれは『漢訳』の仕方に関係があるのではないか?)

ということでした。

つまり経典が原語(サンスクリット語等)から中国語に翻訳される際に、同じ意味の言葉をただ変換しただけではなく、「テンポよくリズミカルに読める」という読誦のしやすさまでも考慮に入れて訳されたのではないか。
「意味が理解しやすい」という点と併せて「音読しやすい」という要素まで視野に入れてなされた翻訳がいわゆる「良い訳」で、原文自体の晦渋さや翻訳者の中国語の習熟度等の問題で上手くいかなかったものが「悪い訳」ということではないのか、と。
その点からしたら『観経』はあまり「良い訳」ではなくて、それゆえ読誦しにくく、途中でよく詰まってしまうから「読経していて疲れる」のではないか、と。

確かに『小経』はテンポよくスラスラと勤められます。なるほど、鳩摩羅什訳が「名訳」として後世に残ったのも道理なのかも知れません。

もちろん読経法にも呉音・漢音等【註】があるように、翻訳当時の中国語の発音まで考えると一概にそうとは言えないのかも知れませんが。

……ご同業の皆さんなら、どうお考えになられますか?

(6月19日)

【追記】

自分がそのように考えたのには、最近、『仏教はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき―』(船山徹著・岩波書店)を読んだことが大きな要因なのですが、この本にも、
「仏教散文の基本は四拍子」
とありました。
この本に拠れば、漢訳が始まってかなり早い時期から四字句(一句四言)が散文スタイルの主流になっていったそうです。
その理由・原因についてはこの本では特に論及されていませんが、もしかしたら、私の言うように、「読んでみて読みやすい。リズミカルである」ことが関係しているのかも知れません。
(……とは言うものの、「自明」の事だからあえて記さなかった可能性の方が高いかな。(;^_^A)                             (6月20日)
【註】
《呉音・ごおん》
日本の漢字音の一種。「漢音」以前に日本に伝えられた字音で,中国語の揚子江下流方面の南方方言からであろうと推定されている。仏教経典の読み方に多く用いられた。もと、「和音」とよばれていたが、平安中期以後、「呉音」ともよばれるようになった。時代は「漢音」よりも古いとされる。六朝時代呉と交流のあった朝鮮の百済を通じて伝来したと伝える。対馬音(つしまおん)とも言う。(コトバンク「呉音」の項、参照)
《漢音・かんおん》
日本の漢字音の一つ。呉音に次いで,隋唐時代に遣唐使や留学僧などにより日本に伝えられたもの。平安時代には学習・教授すべき正規の音と定められたため,「正音」ともいう。おもに洛陽や長安 (現西安) などの西北方言に基づいている。(コトバンク「漢音」の項、参照)
【例】
「仏説阿弥陀経。如是我聞。一時仏、在舍衛国、祇樹給孤独園……」
(仏説阿弥陀経。かくのごとき、我聞きたまえき。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして……)
《呉音》
「ぶっせつあみだきょう。にょぜがもん。いちじぶつ、ざいしゃえいこく、ぎじゅぎっこどくおん……」
《漢音》
「ふせあみだけ。じょしがぶん。いしふ、さいしゃえいけき、きしゅきことくえん……」
 
 

なぜ、『教行信証』は親鸞の生前に公開されなかったのか。

昨今京都方面では、曾我量深先生・寺川俊昭先生らが提示された「親鸞聖人の往生論」理解に対して、小谷信千代先生が盛んに批判の筆を奮っておられるとのことで、今年届いた年賀状の何枚かにも「結構話題になってます」とふれられていました。

論争の中身については私なりに考えるところもあるのですが、今回はその話題ではなく、上記の「親鸞聖人のライフ・ワークである『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』はなぜその生前には公開・出版されなかったのか」、あるいは「なぜ、しなかったのか」という問題を取り上げてみたいと思います。

と言うのは、曾我先生・寺川先生らの説に対する小谷先生のご批判は、

「『往生』というのはインド・サンスクリット経典の原語以来、伝統的に『臨終後の他界(浄土)への転生』を示す仏教語であるのに、それを『現世での往生』だの『往生は生活』だのと解釈するのは言語道断、『往生』の原義や仏教教理史の伝統を無視した甚だしい歪曲である。」

といった、要するに、オーソドックスな仏教研究者(文献学者)ならではのご批判だとは思うのですが、しかし、これらの批判は曾我先生・寺川先生らに向けられるべきものではなく、むしろ親鸞聖人その人にこそ向けられるべきものである、と私には思われるのです。

つまり、曾我先生・寺川先生らの「親鸞聖人の往生論」理解が問題なのではなく、「親鸞聖人の往生論」そのものが、小谷先生の言われる「往生」の原義や仏教教理史の伝統から著しく逸脱しているのではないでしょうか。

 
 
 


親鸞聖人は、『大無量寿経」下巻の「本願成就の文」

「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」
ことに、「乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転」を、師法然聖人のように「念仏往生の願成就の文」として
「臨終の一声に至るまで称名念仏すれば、命終の時、来迎にあずかって即時に浄土に往生することを得て、浄土において不退転に住する。」
と読むのではなく、
「現生の、信の一念が発起するその時、即時に往生(=不退転に住する)を得る。」

と読んで、次のように注釈しています。

「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。
また即は、つくという。
そのくらいにさだまりつくということばなり。
「得」は、うべきことをえたりという。
真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。
「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。
おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。……
すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。
このくらいにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき、阿毘抜致にいたるとも、阿惟越致にいたるとも、ときたまう。
即時入必定とももうすなり。
この真実信楽は、他力横超の金剛心なり。
しかれば、念仏のひとをば『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。
弥勒は竪の金剛心の菩薩なり。
竪ともうすは、たたざまともうすことばなり。
これは聖道自力の難行道の人なり。
横は、よこさまに、というなり。
超は、こえてというなり。
これは仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり。
「次如弥勒」ともうすは、「次」は、ちかしという、つぎにという。
ちかしというは、弥勒は大涅槃にいたりたまうべきひとなり、このゆえに、弥勒のごとしと、のたまえり。
念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。
つぎにというは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚のくらいにいたりたまうべしとなり。
「如」は、ごとしという。
ごとしというは、他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。(『一念多念文意』)
『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまえり。
「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがえとなり。
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。
すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。
不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。
これを「即得往生」とはもうすなり。
「即」は、すなわちという。
すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬをいうなり。(『唯信鈔文意 』)

親鸞聖人はこれらの文で、「信心をうればすなわち往生することを得る」(未来の往生が約束される)ではなく、明らかに「信心をうればすなわち往生す」と訓んでいます。

これらの文は、親鸞聖人が兄弟子の聖覚法印の著作『唯信鈔』や隆寛律師の『一念多念分別事』に引かれた漢文の文を注釈して関東の門弟たちに送った和語聖教の中の文ですが、もし仮にこれらを当時の「南都北嶺のゆゆしき学生たち」(奈良の興福寺や比叡山の学僧たち)が読んだらどんな印象をもったでしょうか。

現代の私たちは、言わば「耳慣れ雀」(『蓮如上人御一代記聞書』)で、これらの文章を見慣れているからこそ何とも思わないのですけれど、当時のオーソドックスな仏教学徒が読んだらおそらくは、
(こいつは狂人か?さもなくば、とんでもないホラ吹きのペテン師だ!!)
と大激怒したのではないでしょうか。
(しかも、そういった反応は、旧仏教側からばかりでなく、味方のはずの浄土宗側からも起きたかも知れません。)

「智慧第一の法然房」として僧俗の尊敬を集めていた師匠の法然上人に対してでさえ、生前は『興福寺奏状』、没後は『摧邪輪』『延暦寺大衆解』などによって

「本願や念仏を誤解している。」
「戒律を蔑ろにしている。」
「善導の真意を曲解している。」
「今はまだ『末法』の時機に入っていない。」

等々の思想的批難が浴びせられ、著書『選択本願念仏集』の版木が焼かれ、しかも墓まで暴かれかけたのに、ましてや「『下根劣機のための方便の行』に過ぎないはずの称名念仏一つで、破戒(肉食妻帯)し放題の凡夫が必ず大涅槃の覚りを開く」だの、「念仏の衆生は弥勒菩薩(56億7千万年後の仏)と等しい」だのと書かれた『教行信証』を迂闊に公開(出版)なんぞしていたらどんな恐ろしいことになったでしょう。

 
 
 

以下は、史料的裏付けも何もない私の勝手な想像なのですが……、

親鸞聖人は63歳の頃、すでに生活基盤も確立していたであろう関東を離れて京都に帰られます。
この帰洛の理由ははっきりしていませんが、有力な説の一つに「『教行信証』の完成のため」というものがあります。
完成のために必要な仏教典籍の蒐集のために文化の中心地・思想の坩堝である京都に帰ってきた、という説なのですが、もしかしたらそれは「完成のため」ではなく、むしろ「公開・出版のため」だったのではないでしょうか。
(真筆「坂東本」の親鸞聖人の一番古い筆跡(60歳頃)に拠れば、『教行信証』は関東でいったん脱稿(完成)したとみられていますし、『教行信証』は漢文で書かれていますから当然、漢文を理解できる知識階層(公家や学僧)を読者に想定しています。)

「完成したばかりの『教行信証』をもって京都の思想界・仏教界に殴り込みをかける。」

そんな意気軒高な気持ちで帰って来てはみたものの、実際の京都の情勢はそんな生易しいものではありませんでした。
(聖人の帰洛直前の天福2年(1234)にも教雅が流罪に処される等の専修念仏への弾圧がありました。)

周囲、それも聖覚法印あたりから、

「そんな危ない真似は絶対にやめろ。」

と必死で諌められて、やむなくあきらめ、

「当分時機を待とうか。
それじゃあ、その間に、関東では入手できなかった最新の情報(仏教文献)を集めようか。」

ということになったではないか、と私は想像するのです。

そして、聖人の生前、『教行信証」』は尊蓮・専信らの弟子によって書写され後世へと伝えられましたが、初めて出版されたのはその死から29年ほど経った正応4年(1291)、孫弟子性海(聖人の直弟子性信の弟子)の手によってだったそうです。

……さて今回の私のこの「妄想」、いかがだったでしょうか?


(今回のテーマ、ちょっと専門的過ぎたかなぁ?やっぱり……(-_-;))


(3月3日)

 
 


謹 賀 新 年


「生きる上で最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
 転ぶたびに起き上がり続けることにある。」

                 (ネルソン・マンデラ)


旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2017年1月1日)

 
 

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