住職日記   真宗大谷派 西念寺
 

TOPに戻ります

西念寺の紹介 真宗豆知識 今月の法語・行事 今月の法話 法話ライブラリー
視聴覚ライブラリー お知らせ 掲示板 メールはこちらから リンク集です
 
 
住職日記
  ~ご院家さんのひとり言(不定期更新)

 2017年1~12月分  2018年1~12月分  2019年1~12月分


 
 

教如上人関東下向の「謎」

            「英雄たちの決断」「その時、歴史が動いた」?!


東本願寺の実質的な初代(創設者)である本願寺第12代法主教如上人(1558~1614)。
 
 
 

若き日には織田信長と対峙して石山本願寺に籠城(~天正8年・1580年8月2日)し、後年の関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年9 月15日)では、開戦前に下野国小山に滞陣中の徳川家康(東軍)を尋ねて自ら上方(西軍・石田三成方)の情勢を伝えた程の「豪傑」なんですが……
なぜこの時教如上人は、道中の危険をかえりみず、わざわざ自ら小山まで赴いたんでしょうか?
手紙や部下の派遣ではダメだったのでしょうか?
周囲は断固止めなかったんでしょうか?
文禄2年(1593年)閏9月に豊臣秀吉によって本願寺法主から隠退させられたとはいえ、教如上人をリーダー(事実上の法主)と仰ぐグループはいまだ存在しており(因みに西念寺開基の教専もその一人)、その身の安否はもはや上人一個人の意思や感情でどうこうできるほど軽いものではなかったはずなのですが……
(実際、関東からの帰路、石田方の探索をに受け、「もはやこれまでか?」と死を覚悟した場面もあったとか。)
そうまでして家康に会わなければならない切迫した「事情」があったのでしょうか?
西軍(石田三成方)が勝てば自分たち(教如側門徒)に未来がない、と考えたのか。
(上場顕雄氏によれば教如上人はかつて豊臣秀吉政権下で豊臣秀長・千利休らの、石田三成と対立するグループに属し、文禄2年の上人の隠退の背後には三成の暗躍があったと推測されています。)
書状で知らせるにしても使者が小山までたどり着けない恐れがあるし、万一その書状が敵方に渡ったら今度こそ逃げ場のない窮地に追い込まれる、とでも考えられたのでしょうか。
理由はどうあれ、この折の関東下向が、教如上人自らと門徒衆の未来を賭けた「乾坤一擲」の行動であったことは疑えないのではないでしょうか。
>慶長5年(1600年)6月、教如は大津御坊を完成させて遷仏法要を行うと、突如、下野国小山にいる徳川家康に会いに東国に向かっている。
教如はこの際に石田三成の手の者の襲撃を受けたとされ、後に護衛にあたった美濃国安八郡の門徒らに対して感謝の礼状を送っている。
関ヶ原の合戦後の920日、教如は家康を大津に迎えている。
                      (Wikipedia「教如」より)
この「突如、東国に向かった」とあるあたり、「敵を欺くにはまず味方から」-周囲に反対する暇すら与えない「計画的犯行」の匂いがプンプンするのですが。
 
 (2月4日)

 
謹 賀 新 年



「学然後知不足、教然後知困。」(『礼記』


学びて然る後足らざるを知り、教えて然る後に困(くる)しむを知る。 


(学んでみて、初めて自分の知識や経験がいかに足りないかを知り、
人に教えてみて、初めて自分の未熟さや理解の曖昧さを思い知る。)
               
 
 
 
 
 旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 
【2020年1月1日)
 
 
 
2017年1~12月分  2018年1~12月分  2019年1~12月分
 

Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.