「住職日記」(2024年1月~6月分) | |||
中世日本の女性の漢文教養とは? |
||
|
某氏による「覚信尼(女性)が漢文を読めなかったとは限らない」との言を受けて、漢文が読めた女性の代表格である紫式部・清少納言についてググってみたところ、こんな記事に行き着きました。 > 「紫式部」超秀才なのに能力を隠し続けた切ない訳 紫式部(藤式部、生没年不明)と言えば、歌人にして漢学者であった父藤原為時(949頃~1029頃)を「お前が男であったならば」と歎かせたほど幼少期から漢詩や漢文が得意だったという話がありますが、別に父親から直接手ほどきを受けたという訳ではなく、弟惟規(のぶのり)への漢籍の講義を脇で聴いていただけだったんだとか。 ……まさに「門前の小僧、習わぬ経を読む」でしょうか? |
【 紫式部(藤式部 )】(伝谷文晁筆「紫式部図」・部分)) |
清少納言(966頃~1025頃)の『枕草子』第299段には、 「香炉峰の雪いかならむ」 という主・定子(976~1001、一条天皇の中宮)の問いかけに対して、清少納言が格子と御簾を上げさせて庭の雪景色を皆で眺めたという、白居易の漢詩「香炉峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」の一節 「香炉峰雪撥簾看」(香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る) を題材としたエピソードが紹介され、定子主従の漢籍に対する素養の深さが窺われるものとなっています。 |
【 清 少 納 言 】 (土佐光起筆「清少納言図」・部分) |
【 清 原 元 輔 】(「宣房本三十六歌仙絵 清原元輔」) |
ただ、清少納言にしても、『後撰和歌集』の撰者(梨壺の五人)であり三十六歌仙にも選ばれた歌人・清原元輔(908~990)の娘ですし、定子の母で漢詩の名手と謳われた高階貴子(不明~996)は藤原為時と同様に文章生に選抜され大学寮で紀伝道(中国史と漢文学)を修めた高階成忠(923~998)の娘と、女子向けの学校教育なんぞ無い時代、文人公家の娘という、本人の意欲次第で充分な漢籍教育を受けられた、きわめて「恵まれた」家庭環境にあった人たちなわけですが…… 関東の親鸞聖人宅〈草庵〉に生まれた覚信尼は果たしてどうだったのでしょうか? 父である聖人は、『親鸞伝絵(御伝鈔)』に「弼宰相(ひつのさいしょう)有国卿」として登場し、紫式部の父藤原為時と同時代人でもあった従二位・参議日野有国(943~1011)以来、儒学者の家系ではありますが、父有範はほとんど無名。 また、東国時代の聖人はそれこそ布教に次ぐ布教であったはずで、はたして子供達の教育に、それも女子への漢文教育に、どれほどのエネルギーを注げたか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。 |
【 高階貴子(高内侍(こうのないし)、儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 】 |
【 中 宮 ・ 藤 原 定 子 】 |
覚信尼(俗名:王御前)は最初の夫日野広綱と結婚する前、従一位太政大臣・久我通光(こが・みちてる、1187~1248)に女房として仕えていたと言われますが、東国育ちの覚信尼に女房勤めに必要な教養や技術を教えたのはおそらく母恵信尼でしょう。恵信尼の出自は越後介(えちごのすけ)・三善為則(為教)の娘であるという説(今井雅晴氏)と越後の在庁官人の娘であるという説(平雅行氏)とがありますが、覚信尼に女房教育を施せた以上、恵信尼にも京都での女房勤めの経験があった(つまりは在京貴族の娘であった)かと思われます。……では、その生家である三善家が、藤原為時・清原元輔・高階成忠のように娘に漢文教育を施せるほどの文人の家系であったのでしょうか。 |
【 絹本着色・覚信尼像(上越市福因寺蔵)】 | ||
|
||
専修寺蔵「三夢記」の真偽について |
||||
|
(4月19日) |
親鸞聖人の三部経千部読誦について |
|
親鸞聖人の内室恵信尼公が遺された『恵信尼消息』によれば、建保2年(1214、聖人42歳)、越後国(新潟県)から常陸国(茨城県)へ移住する旅の途上にあった聖人が、上野国佐貫の地で「すざうりやく」(衆生利益)のために『三部経』を千部(千回)読もうと思い立たれたものの、4、5日で中止して常陸に向けて出発なさったという出来事があったそうです。 寛喜3年(1231、聖人59歳)4月4日に高熱で病臥された聖人が、伏して8日目の4月11日の「あか月」に、「今はさてあらん」と呟かれたことを「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と尋ねられた恵信尼公に対して、その理由を返答された折のエピソードを、聖人の没後、末娘覚信尼公に伝えられた「書簡」(弘長3年・1263年2月10日付)にそれは登場します。 「幼く、御身〔=覚信尼〕の八にておわしまし候いし年〔=寛喜3年〕の四月十四日※1より、風邪大事におわしまし候いし時の事どもを、書きしるして候う也。」(『恵信尼消息』第4通)
「自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして」 という聖人の発言から見て、この「衆生利益」は、専修念仏の布教ではなく、当時その地方を襲った天災の終息を願っての読経ではなかったかと思われます。
「親鸞と上野国(1)三部経千部読誦の研究(特集テーマ 関東伝道)」
「 ① 誰だか分からない僧侶がいきなり来て、行を修することが出来たのか?との疑問点を挙げられました。 そのうち①について橋本氏は、建保2年(1214 )当時の上野国の知行国主※7を日野氏の本流である日野資実が務め、聖人の従兄弟である日野信綱(法名:尊蓮。『教行信証』を最初に書写した人物とされる)が聖人一家の上野国訪問の前年建保元年(1213)まで上野国介(受領)※8であった事実を指摘され、 「①『誰だか分からない僧侶がいきなり来て、行を修することが出来たのか?』という問題は、親鸞の親戚が上野国の官職であった、ということで解決するのではなかろうか。 とされています。
③「『恵信尼消息』にある「衆生利益」とは何を指すのか?」については、建保2年に起きた天変地異を 「2月 7日 寅刻大地震(吾妻鑑) と列挙して、これらによる被害と「衆生利益」との関連性を指摘しておられます。 そして、②「由来(根拠)の分からない行を修することで、民衆は納得するのか?」については、
>法式に従って清浄に書写された経典や、それを安置し埋納する供養をさす。 とあり、「浄土三部経如法経次第」の項にも >伝法然撰。とあるように、経典を「書写」して功徳を積む法会・修法であり、「読誦」が主ではありません。 またその法会・修法の目的も、写経の功徳を「死者への追善供養」等のために回向すること―橋本氏自身も「衆生利益」を「疫病・飢餓・天候不順などによる死者への追善供養と見ている」(66頁)とのこと―であり、天変地異(旱魃、大地震、豪雨洪水)の頻発していた建保2年に、確かに大勢の死者が出たかも知れませんが、「死者への追善」がその時早急な実現が期待されていた「衆生利益」であったのか、という疑問を禁じ得ません。 前に列挙した建保2年の天災記事からは、この年の5月以降諸国が「炎旱」(旱魃)に見舞われたことが知られますが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、5月28日に鶴ヶ岡八幡宮での降雨祈願の祈祷が修され、6月3日には将軍源実朝の要請によって「葉上僧正」(栄西)が「祈雨の為に八戒を持ち、法華経を転読」し、北条義時以下「鎌倉中の緇素貴賤、心経を読誦」したこと、6月13日には秋の年貢の軽減が早々に布告されたことなどが記されています。 それゆえ私は、この時聖人が千部読誦を発願した「三部経」(『恵信尼消息』)とは、『無量寿経』・『阿弥陀経』・『観無量寿経』の「浄土三部経」ではなく、『法華経』『仁王経』『金光明経』の「護国三部経」(ごこくさんぶきょう。または「鎮護国家三部経」「鎮護国家の三部」)だったのではないか、と考えるのです。 法然上人の『選択本願念仏集』「第一教相章」にも 三部経の名その例一にあらず。とあり、三部経は何も「浄土三部経」に限ったものではありません。 聖人一家が滞在した上野国佐貫荘ですが、西岡芳文氏「初期真宗門流の展開」(『仏光寺の歴史と文化』、真宗仏光寺派、2011年5月)等に拠れば、昭和35年(1960)の調査で、聖徳太子の創建と伝えられる古刹宝福寺(真言宗豊山派、群馬県邑楽郡板倉町板倉)から聖人の高弟・性信房(横曽根門徒の頭目)の木像(延文6年・1361造)が発見されたことで、板倉の地がそれと比定されました。 この佐貫荘板倉は永仁元年(1293)に北条得宗家によって伊豆走湯山に寄進され、宝福寺もその支配下に入って伊豆山権現を勧請して山号を伊豆山と号していますが、聖人が流された越後国府に近い直江津の五智国分寺も走湯山領であり、東国に広く展開した走湯山の僧徒・修験を結ぶネットワークに運ばれて聖人が東国に誘われたとみるのも可能である、とのことですし、当の伊豆走湯山には、将軍家・三浦氏などの帰依を受けて説法や迎講を行って広く信者を集めていた法然上人面授の弟子源延や、その一向専修念仏の「勇猛精進」ぶりが讃えられた尼妙真房が居たと言われます。 |
【性信座像(群馬県・宝福寺)】 |
上野国から常陸国・下総国まで、聖人の移動した地域は当時水運交通や信仰のネットワークが密接に交流する先進地域であり、開府間もない鎌倉よりも文化的には優位であったそうです。 だとすれば、当時文化的先進地であった佐貫のいずれかの寺社において、天変地異の終息を祈願して「(鎮護国家の)『三部経』、げにげにしく(=もっともらしく、まことしやかに)、千部読まん」とする法会が開かれようとした折に、聖人も国衙・国府高官の縁戚として、また、比叡山の「堂僧」(声明僧。「堂僧」を比叡山のトップエリートだったとする説もあり)の前身を持つ聖(ひじり)として、請われて一度は参加したものの、それを「官僧・顕密仏教僧としての自力修善の『残滓』」と嫌って数日で離脱し、早々にその地を離れたのではないでしょうか。 当時まだ「浄土三部経」の呼称も修法も定着しておらず、「浄土三部経如法経」も必ずしもそれに該当すると思われない以上、「三部経」に対する「発想」自体を変えてみるしかないのでは?と私は考えるのですが…… ただ問題は、降雨祈願で栄西が『法華経』を転読した(前述)とか、恵心僧都(源信)が旱魃の際に弟子を遣わして『大般若経』を転読させ、自らは『最勝経』(『金光明最勝王経』)を読んだ(『古事談』3ノ21)とか、疫病退散のために法会(仁王会)を催して『仁王経』を読んだといった、護国の三部経をそれぞれ単独で読誦したという記録はあるのですが、三部経をまとめて、それもそれぞれ千部読誦する修法・法会が当時存在していたかどうか、史料的に確認できていないことなんですよね。 ……どなたか、詳しくご存じの方いらっしゃいませんでしょうか。(^_^;) |
(3月19日) |
地震お見舞い申し上げます |
元日の能登半島地震に罹災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。 |
【石川県珠洲市・見附島】 |
(1月2日) |
喪 中 欠 礼 |
(喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます。) |
人は皆 誰かの「忘れ形見」 亡き人を背負って この世を歩く(住職自作) |
旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。 |
(2024年1月1日) |
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.