法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2024年1月~6月分)
 
 
 


中世日本の女性の漢文教養とは?

果たして覚信尼は「漢文」が読めたのか?
 
某氏による「覚信尼(女性)が漢文を読めなかったとは限らない」との言を受けて、漢文が読めた女性の代表格である紫式部・清少納言についてググってみたところ、こんな記事に行き着きました。
「紫式部」超秀才なのに能力を隠し続けた切ない訳
紫式部(藤式部、生没年不明)と言えば、歌人にして漢学者であった父藤原為時(949頃~1029頃)を「お前が男であったならば」と歎かせたほど幼少期から漢詩や漢文が得意だったという話がありますが、別に父親から直接手ほどきを受けたという訳ではなく、弟惟規(のぶのり)への漢籍の講義を脇で聴いていただけだったんだとか。
……まさに「門前の小僧、習わぬ経を読む」でしょうか?
 
 
 
【 紫式部(藤式部 )】(伝谷文晁筆「紫式部図」・部分))
 
 
清少納言(966頃~1025頃)の『枕草子』第299段には、
「香炉峰の雪いかならむ」
という主・定子(976~1001、一条天皇の中宮)の問いかけに対して、清少納言が格子と御簾を上げさせて庭の雪景色を皆で眺めたという、白居易の漢詩「香炉峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」の一節
「香炉峰雪撥簾看」(香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る)
を題材としたエピソードが紹介され、定子主従の漢籍に対する素養の深さが窺われるものとなっています。
 
 
 
【 清 少 納 言 】 (土佐光起筆「清少納言図」・部分)
 
 
【 清 原 元 輔 】(「宣房本三十六歌仙絵 清原元輔」) 
 
 
ただ、清少納言にしても、『後撰和歌集』の撰者(梨壺の五人)であり三十六歌仙にも選ばれた歌人・清原元輔(908~990)の娘ですし、定子の母で漢詩の名手と謳われた高階貴子(不明~996)は藤原為時と同様に文章生に選抜され大学寮で紀伝道(中国史と漢文学)を修めた高階成忠(923~998)の娘と、女子向けの学校教育なんぞ無い時代、文人公家の娘という、本人の意欲次第で充分な漢籍教育を受けられた、きわめて「恵まれた」家庭環境にあった人たちなわけですが……
関東の親鸞聖人宅〈草庵〉に生まれた覚信尼は果たしてどうだったのでしょうか?
父である聖人は、『親鸞伝絵(御伝鈔)』に「弼宰相(ひつのさいしょう)有国卿」として登場し、紫式部の父藤原為時と同時代人でもあった従二位・参議日野有国(943~1011)以来、儒学者の家系ではありますが、父有範はほとんど無名。
卑賤の出と蔑まれながらも稀代の学者として従三位非参議・式部大輔にまで昇った日野宗業(1142~不明)を伯父としてもつものの、聖人自身はわずか9歳で出家しています。
また、東国時代の聖人はそれこそ布教に次ぐ布教であったはずで、はたして子供達の教育に、それも女子への漢文教育に、どれほどのエネルギーを注げたか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。
 
 
 
 
 【 高階貴子(高内侍(こうのないし)、儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 】
 
 
 
【 中 宮 ・ 藤 原 定 子 】
 
 
覚信尼(俗名:王御前)は最初の夫日野広綱と結婚する前、従一位太政大臣・久我通光(こが・みちてる、1187~1248)に女房として仕えていたと言われますが、東国育ちの覚信尼に女房勤めに必要な教養や技術を教えたのはおそらく母恵信尼でしょう。
恵信尼の出自は越後介(えちごのすけ)・三善為則(為教)の娘であるという説(今井雅晴氏)と越後の在庁官人の娘であるという説(平雅行氏)とがありますが、覚信尼に女房教育を施せた以上、恵信尼にも京都での女房勤めの経験があった(つまりは在京貴族の娘であった)かと思われます。
……では、その生家である三善家が、藤原為時・清原元輔・高階成忠のように娘に漢文教育を施せるほどの文人の家系であったのでしょうか。
 
 
 
【 絹本着色・覚信尼像(上越市福因寺蔵)】
 
 
話を紫式部に戻しますと、王朝文学華やかなりし当時とは言え、男でさえ「漢才」(からざえ、漢学に通じ詩文をよく作る才能)をひけらかす者は嫌われたようで、まして女の漢才は……、ということで、その教養によって藤原道長・源倫子夫妻にスカウトされたはずの紫式部が、自らの才を隠すために漢字の「一」すら書かないようにしていたのだそうです。
にもかかわらず、『源氏物語』が一条帝の目に触れた結果、他の女房(左衛門の内侍)から「日本紀(にほんぎ)の御局(みつぼね)」という嬉しくない渾名を付けられたり、中宮彰子(道長・倫子の娘)に頼まれて『白氏文集』「新楽府(しんがふ)」を進講する際にも、他の女房たちの目を盗んで密かに行ったりしたんだとか。
……式部さん、いろいろと苦労していたんですね。(;^_^A
今も昔も、「すまじきものは宮仕え」、もしくは「女の敵は女」なんでしょうか???
 
 (4月30日)
 


 

専修寺蔵「三夢記」の真偽について

 
拙論「『三夢記』考」に対する反論が発表されました
 
 
今から15年ほど前、私は故古田武彦氏(1926~2015)による“専修寺蔵「三夢記」親鸞真作説”
「三重県専修寺(真宗高田派本山)に伝来し、従来親鸞没後に制作された「偽作」と見られてきた通称「三夢記」(古田「建長二年文書」)建長2年(1250)に親鸞(当時78歳)が、末娘覚信尼(当時27歳)に自身が吉水入門(建仁元年・1201、29歳)以前に見た3つの「夢告」(「磯長(しなが)の太子廟夢告」「大乗院の夢告」「六角堂・女犯の夢告」の偈文)を記して与えたとされる古文書を、古田武彦氏が『親鸞思想―その史料批判』(冨山房、1975年)等において、
①文中に「睿南旡動寺大乗院在り」と鎌倉中期以前の日本語に特徴的な助詞「に」の重複使用(ニの畳用)が見られる。
②文末の自署名が「愚禿親鸞」と、74歳から84歳の10年間(釈の十年)の4例に限られる「釈」の字を含んだ親鸞の署名形式が用いられている。
③文末に「建長第二」との制作年時表記があり、奥書に「宝治第二」と同様の年時表記形式を持つ『高僧和讃』の制作時期(宝治2年・1248、親鸞76歳)と近接している。
の3点から見て、親鸞の「真作」を伝えるものとした説」
を批判してその“偽作説”を主張した論文
「「三夢記」考」(『宗教研究』84-3、2010年12月)
を発表しました。
ちなみに、古田先生が挙げられた3点について拙論には、
①原文には「睿南旡動寺在大乗院」とあるだけで振り仮名がなく、これが「ニの畳用」であるとは断定できない。
②親鸞の73歳以前・85歳以後にも「釈」を使用した署名(「釈の十年」からの逸脱例)が多数確認でき、「釈の十年」という区切り自体が成り立たない。
③正治2年(1200、親鸞28歳)時の「大乗院夢告」の記事にも「正治第二」の記述があり、この形式の年時記載の使用がこの時期に限ったものとは言えないし、そもそも『高僧和讃』の記述は「宝治第二戊申」ではなく「宝治第二戊申」(元号+第○+干支+)であって、「建長第二庚戌」「正治第二庚申」(元号+第○+干支)という形式での年時記載様式は親鸞にはない。
といった反論を載せています。
その後、当サイトにその加筆・訂正版
http://www.sainenji.net/kiyou005.htm
をアップし、それを更に加筆・訂正して拙著『親鸞改名の研究』(法藏館、2019年)に収録しました。
これに対する反論が今回古田史学会のWebサイトにアップされました。
日野智貴「覚信尼と「三夢記」についての考察〜豅弘信論文への感想〜」
    
        (『古田史学会報』178、2023年10月)
これに先立って、「古田史学の会」代表のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」では、
>先日、日野智貴さん(古田史学の会・会員)から論文が届きました。
>古田先生の親鸞研究「三夢記」真偽論争に関する論文です。
>未発表論文のようですので内容には触れませんが、立派な論考でした。
>日野さんは古田学派で親鸞研究の論文を書ける数少ない研究者の一人です。……
>親鸞研究でも、日野さんに続く古田先生の後継者が出ることを願っています。
>>>(第3092話 2023年8月13日)
>この日野論文については「洛中洛外日記」(第3092話)で紹介しましたが、豅さんの批判はいずれも偽作と断定できるような証明力はないことを明らかにされ、親鸞と末娘の覚信尼の関係性についても考察されたものです。……
>日野さんのような若き学究が現れ、冥界の先生も喜んでおられることと思います。
>>>(第3135話 2023年10月12日)
と激賞されていたものですから、内心楽しみに、というか、手ぐすねを引いて(笑)アップを待ちわびていました。
日野氏は、私が覚信尼がおそらくは「漢文」(「漢字」ではありません)が読めなかったであろうと述べた点や、親鸞の臨終に遇いながらその往生を疑ったことから彼女が必ずしも父の現生正定聚の思想を正確に理解できていなかったであろうとした点についてあれこれ反論してはおられますが、肝心の
「建長2年時点の覚信尼が、親鸞から『四十八願文』や「三夢記」といった漢文聖教(単なる「かたみ」ではない)を「付属」(ふぞく)するに値するほどの専修念仏者であったのか?」
という問題提起に的確に応答してはおられません。
はっきり申し上げて「的外れ」でしかありません。
「付属」とは単に著書を書き与えた、あるいは書写を許したというだけのことではありません。
ふ‐ぞく【付属/附属】
読み方:ふぞく[名](スル)
 主になるものに付き従っていること。また、そのもの。「会社に—する研究所」
 「付属学校」の略。「—の生徒」
 (「付嘱」とも書く)仏語。師が弟子に教えを授け、さらに後世に伝えるよう託すること付法
                    (デジタル大辞泉)               
苛烈な「法難」が幾度となく繰り返される中を、師法然興隆の選択本願念仏の仏法を正しく受け止め、守り抜き、後世に伝えてくれることを聖教の授与と共に託するのですから、当然付属する人間が「誰でもいい」というわけにはいきせん。
親鸞が「我が子を含む弟子たちをその理解の程度によって差別したりはしなかった」ということと「教法を付属する」こととは別次元の問題です。
「ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえ(微笑)ませたまいし」(『末燈鈔』第6通)と、いかなる人に対しても差別なく「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』第2章)と「生死いずべき道」(『恵信尼消息』第3通)を説き続けた法然は、その主著『選択本願念仏集』を誰にでも見せ、写させたでしょうか。
……っていうか、覚信尼ってそもそも親鸞の「弟子」だったんですか?
しかも「三夢記」に添えられた親鸞の「書状」には
「いきて候へは、また対面候てしかしか申まいらすへく候」
とあって、当時親鸞と覚信尼は遠く離れ離れで暮らしているという「設定」になっています。
寡婦となる前の覚信尼は当然夫日野広綱・息子覚恵と同居していたでしょうし、その前は久我通光邸で「王御前」の名で女房務めをしていたはずです。
覚信尼はいったいいつ、親鸞から専修念仏の教義を詳しく学んだのでしょうかね。
日野氏の論文はそのタイトルに「感想」とあるように、
「「三夢記」を偽作と主張する論証の一つ一つが真作説を否定するには弱い、決定的とは思えない」
と繰り返しておられるに過ぎず、私の主張(偽作説)を明確に否定できる材料を提示してはおられません。
>漢文は読むよりも書くことの方が難しい文章であり、書かないからと言って読めない訳ではないことは、歴史研究者の多くが漢文を読めはするが書けはしないことからでも明白である。
とおっしゃるのは確かにその通りですが、親鸞の「書状」には
「かたみと御望候ゆへ四十八の御願文、いにしへの夢の御文ともを、書てまいらせ候」
とあり、覚信尼は「三夢記」と共に『大経』「四十八願文」(漢文)の授与も懇望していたことが窺われます。
これに拠れば、27歳の覚信尼は漢文、しかも専門用語の頻出する仏教漢文を自在に読みこなしていたことになりますが、この点を日野氏はいかがお考えなのでしょうか。
日野氏は
>私は基本的にある文書が「偽作」かどうかの判断は慎重になる必要があると考える。
と言われています。
古田史学会の方々からすれば、「三夢記」が親鸞の真作であることはもはや動かしがたい「既成事実」なのかも知れませんが、私に言わせれば、「真作」と主張する側も同様に「判断は慎重になる必要がある」べきだと思いますし、それこそ「三夢記」のように疑問点が多々指摘されている文書を安易に真作扱いすることの方がよほど問題だと思います。
そもそも、古田先生が覚信尼が建長2年時に既に「覚信尼」であった寡婦であり、出家して「覚信尼」の法名を持っていたとされた根拠は、『恵信尼書簡』が西本願寺から発見される以前の江戸時代の文献である玄智(1734~1794)の『大谷本願寺通紀』(18世紀後半成立)でしかありません。
『本願寺通紀』は「覚信尼=いや女」説を採っていますし、覚信尼の生没年も間違っており、現代の目(研究成果)から見れば、その記述をそのまま信用することはできません。
そしてその『本願寺通紀』ですら、覚信尼は二度目の夫である小野宮禅念との死別後に薙髪したと記しており、最初の夫日野広綱と死別後に出家したという証拠はどこにもありません。
覚信尼に宛てた文書がなぜ専修寺にだけあって本願寺には残っていないのか、との疑問に対して、古田先生は「覚信尼が火事に遭った時に原本は焼けて、それ以前に写されていたものが専修寺に伝わった」と答えられたそうですが、「かたみ」として残しておきたいほどの文書であれば、もう一度書いてもらえばよかったはずです。
親鸞の晩年、覚信尼は父と同居してその最期を看取っていますから、それぐらいの時間的余裕は充分にあったはずです。
実際、親鸞が遺言状として弘長2年(1262)11月に記した「今御前の母」宛・「常陸の人々」宛の「書簡」2通は今も西本願寺に伝わっています。
火事の後の建長8年(1256,親鸞84歳)冬に顕智・専信らと共に京都の親鸞を訪ねた高田派の祖真仏がなぜ「行者宿報偈」(真仏『経釈文聞書』所収、「浄肉文」紙背)のみを写したのかも不思議と言えば不思議です。
既に高田専修寺に「三夢記」があったのなら新たに写させてもらう必要はないはずですし、写す際になぜ他の二つの夢記を写さなかったのでしょうか?
日野氏はまた、
>全く荒唐無稽な文書であるならばともかく、「三夢記」のように一定のリアリティのある文書を安易に偽作扱いする訳にはいかないであろう。
「三夢記」を「一定のリアリティのある文書」と言われますが、偽作者だってそれなりの「動機」(利得)があって万人を騙そうとするんだから、当然リアリティは最大限追求して作っているはずですよね。(笑)
しかも、制作されたのは親鸞の真蹟が数多く伝わる専修寺内部でと思われますから、それこそ国宝本『高僧和讃』を初め参考史料には事欠かないはずです。
また専修寺には、表紙に「四十八大願/釈覚信(覚信尼とは別人)と記された建長8年(1256)4月真仏書写の親鸞作『四十八誓願(四十八大願)』(漢文)が伝わっているのですが、覚信尼によって「三夢記」と共に「四十八の御願文」が所望されていることと何か関係があるのかも知れませんね。
上手(偽作者)の手からはからずも漏れ落ちた水(真実)を見破るのが「学問・研究」というものではないのでしょうかね。
………皆さん、どうぞ、2つの論文を読み比べてみて下さい。
 
(4月19日)
 


 

親鸞聖人の三部経千部読誦について

 
親鸞聖人の生涯の「謎」部分に関する「妄想」(その3)
 
 
親鸞聖人の内室恵信尼公が遺された『恵信尼消息』によれば、建保2年(1214、聖人42歳)、越後国(新潟県)から常陸国(茨城県)へ移住する旅の途上にあった聖人が、上野国佐貫の地で「すざうりやく」(衆生利益)のために『三部経』を千部(千回)読もうと思い立たれたものの、4、5日で中止して常陸に向けて出発なさったという出来事があったそうです。
寛喜3年(1231、聖人59歳)4月4日に高熱で病臥された聖人が、伏して8日目の4月11日の「あか月」に、「今はさてあらん」と呟かれたことを「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と尋ねられた恵信尼公に対して、その理由を返答された折のエピソードを、聖人の没後、末娘覚信尼公に伝えられた「書簡」(弘長3年・1263年2月10日付)にそれは登場します。
「幼く、御身〔=覚信尼〕の八にておわしまし候いし年〔=寛喜3年〕の四月十四日※1より、風邪大事におわしまし候いし時の事どもを、書きしるして候う也。」(『恵信尼消息』第4通)
「善信の御房〔=親鸞聖人の房号・通称〕、寛喜三年四月十四日※2午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。
 頭のうたせ給う事もなのめならず。
 さて、臥して四日※3と申すあか月、苦しさに、
『今はさてあらん』
と仰せらるれば、
『何事ぞ、たわごととかや申す事か』
と申せば、
『たわごとにてもなし。
 臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。
 たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。
 さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことのさればなおも少し残るところのありけるや。
 人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。』
 さて、臥して四日と申すあか月、『今はさてあらんとは申す也』と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。
 『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年〔=建保2年〕、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。
 信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。
  弘長三年二月十日     恵信」(『同』第5通)
「御文の中に、先年に、寛喜三年の四月四日※4より病ませ給いて候いし時の事、書きしるして、文の中に入れて候うに、その時の日記には、四月の十一日のあか月、「経読む事は、今はさてあらん」と、仰せ候いしは、やがて四月の十一日※5のあか月としるして候いけるに候う。
 それを数え候うには八日に当り候いける※6に候う。
 四月の四日よりは八日に当り候う※6也。」(『同』第6通)
【注記】

 『恵信尼消息』第4、5通(弘長3年2月10日付)には、「親鸞聖人は寛喜3年4月14日に発病した」※1、2「病臥して4日目※3の暁に『今はさてあらん』と口走られた」と記されているが、第6通(日付不明)では「前の手紙では寛喜3年4月4日に発病※4した時のことを記した」としている。
 これは、恵信尼公が実際には「寛喜3年4月14日」と第1信(第4、5通)に書いたのにもかかわらず、第2信(第6通)の時点で「第1信に『発病は寛喜3年4月4日』と書いた」と勘違いされていたことによるもので、この第2信で恵信尼公は、第1信では「親鸞聖人が病臥して4日目(4月4日から数えれば7日、14日からだと17日)の暁に『(経を読む事は)今はさてあらん』と口走られた※3」と記したのを、当時の日記で確認して、「病臥して8日目※6の4月11日の暁の出来事※5であった」と訂正されているのである。
この中に、「この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを……思いかえして、読まざりしこと」「『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり」とあるのが、親鸞聖人のいわゆる「三部経千部読誦」ですが、
「自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして」
という聖人の発言から見て、この「衆生利益」は、専修念仏の布教ではなく、当時その地方を襲った天災の終息を願っての読経ではなかったかと思われます。
この時聖人がお読みになった「三部経」とは、寛喜3年4月、病床にあった聖人が、
「臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。
 たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。」
と述懐されたこともあって、従来、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のいわゆる「浄土三部経」であると考えられていました。
この通説に対して、東国親鸞研究所の橋本順正氏は、
「親鸞と上野国(1)三部経千部読誦の研究(特集テーマ 関東伝道)」
 (『浄土真宗総合研究』11、教学伝道研究センター編、2017年9月)
において、聖人の三部経千部読誦について、
① 誰だか分からない僧侶がいきなり来て、行を修することが出来たのか?
 ② 由来(根拠)の分からない行を修することで、民衆は納得するのか?
 ③ 『恵信尼消息』にある「衆生利益」とは何を指すのか?」(62頁)
との疑問点を挙げられました。
そのうち①について橋本氏は、建保2年(1214 )当時の上野国の知行国主※7を日野氏の本流である日野資実が務め、聖人の従兄弟である日野信綱(法名:尊蓮。『教行信証』を最初に書写した人物とされる)が聖人一家の上野国訪問の前年建保元年(1213)まで上野国介(受領)※8であった事実を指摘され、
「①『誰だか分からない僧侶がいきなり来て、行を修することが出来たのか?』という問題は、親鸞の親戚が上野国の官職であった、ということで解決するのではなかろうか。
 当時の知行国主制の慣例から言えば、上野国の官職は日野氏とその周辺の信頼できる人物によって固められていたと考えられる。」(77頁)
とされています。

※7 守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の国司四等官の内、実際に現地に赴任して行政責任を負う筆頭者である「受領」(ずりょう)の推薦権を持ち、受領の俸料・得分を自らの経済的収益とすることが出来る者。
※8 上野国は親王任国(親王が国主)であって現地には赴任しない(遥任)ため、次官の介(すけ)及び権介(ごんのすけ)が受領となる。

③「『恵信尼消息』にある「衆生利益」とは何を指すのか?」については、建保2年に起きた天変地異を
「2月 7日  寅刻大地震(吾妻鑑)
 3月14日  自夜甚雨、終日不止(明月記)
 4月 2日  自昨日夕大雨、辰三点雨休(後鳥羽院宸記)
     3日  今夜亥時地大震(百錬抄)
     〃    亥刻大地震(吾妻鑑)
 5月28日  霽。炎旱依渉旬。於鶴岳宮。被行祈雨御祈云々(吾妻鑑)
 6月 3日  霽。諸國愁炎旱(吾妻鑑)
     5日  始行神泉読経(東寺長者補任)
 8月 7日  甚雨洪水。大倉新御堂惣門顛倒(吾妻鑑)
    10日  雨降、大風吹、洛中舎屋破損顛倒、不可勝計、尊勝寺南大門顛倒(百錬抄)
 9月22日  霽。丑剋大地震(吾妻鑑)
10月 6日  晴。亥尅大地震(吾妻鑑)
    10日  霽。申刻。甚雨雷鳴(吾妻鑑)」 (65頁)
と列挙して、これらによる被害と「衆生利益」との関連性を指摘しておられます。
そして、②「由来(根拠)の分からない行を修することで、民衆は納得するのか?」については、
「そもそも浄土三部経が『無量寿経』・『阿弥陀経』・『観無量寿経』の三経典と定まったのは、法然の文治6年(1190)に行われたとされる東大寺講説『阿弥陀経釈』の中で説示されたのが初めてである。
 龍口氏の研究〔筆者注:龍口恭子「親鸞の千部読誦:平安時代の経典読誦との関連から」(『龍谷大学大学院研究紀要』第20号・1999年)〕を見ても分かるように、浄土三部経が読誦されたという例は無く、基本的には『法華経』である。……
 管見の限り、東密・台密の密教法・祈雨法などを見ても、浄土三部経の千部読誦という行は見つからない。
 つまり親鸞の佐貫での修法には、前例がないのである。」(69頁)
として従来の「浄土三部経」説に疑問を呈され、法然上人が制作した、浄土三部経を用いた儀礼の法則『浄土三部経如法経次第』(『漢語灯録』収録)によった修法(如法経)ではないか、とされています。
しかし、「如法経」とは、『新纂浄土宗大辞典』「如法経」の項に拠れば、
法式に従って清浄に書写された経典や、それを安置し埋納する供養をさす。
>経典は主として『法華経』であるが、「浄土三部経」も多い。
>経典書写による功徳を願ったり、末法による法滅を恐れて、弥勒菩薩の下生まで経典を伝えるために行われた。
>天長年間(824─834)に天台宗の円仁が、比叡山に『法華経』を安置したのが起源とされる。
>平安時代から江戸時代まで、山岳信仰とも結びついて全国的に行われ、近畿地方に多く見られる。
とあり、「浄土三部経如法経次第」の項にも
>伝法然撰。
>本書を所収する『漢語灯録』3の目録には、本書を「如法書写法則」とも題している。
>『四十八巻伝』10によると、元久元年(1204)は、後白河法皇の13回忌で、その年、大和入道見仏が、夢に法皇のお告げを受け、その夢のお告げについて法然と相談し、「浄土三部経を如法に書写する法式を行って、法皇の供養をすることになった。
>その次第を示したのが本書である。
とあるように、経典を「書写」して功徳を積む法会・修法であり、「読誦」が主ではありません。
またその法会・修法の目的も、写経の功徳を「死者への追善供養」等のために回向すること橋本氏自身も「衆生利益」を「疫病・飢餓・天候不順などによる死者への追善供養と見ている」(66頁)とのことであり、天変地異(旱魃、大地震、豪雨洪水)の頻発していた建保2年に、確かに大勢の死者が出たかも知れませんが、「死者への追善」がその時早急な実現が期待されていた「衆生利益」であったのか、という疑問を禁じ得ません。
前に列挙した建保2年の天災記事からは、この年の5月以降諸国が「炎旱」(旱魃)に見舞われたことが知られますが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、5月28日に鶴ヶ岡八幡宮での降雨祈願の祈祷が修され、6月3日には将軍源実朝の要請によって「葉上僧正」(栄西)が「祈雨の為に八戒を持ち、法華経を転読」し、北条義時以下「鎌倉中の緇素貴賤、心経を読誦」したこと、6月13日には秋の年貢の軽減が早々に布告されたことなどが記されています。
それゆえ私は、この時聖人が千部読誦を発願した「三部経」(『恵信尼消息』)とは、『無量寿経』・『阿弥陀経』・『観無量寿経』の「浄土三部経」ではなく、『法華経』『仁王経』『金光明経』の「護国三部経」(ごこくさんぶきょう。または「鎮護国家三部経」「鎮護国家の三部」)だったのではないか、と考えるのです。
法然上人の『選択本願念仏集』「第一教相章」にも
三部経の名その例一にあらず。
一には法華の三部、謂わく『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』是れなり。
二には大日の三部、謂わく『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』是れなり。
三には鎮護国家の三部、謂わく『法華経』・『仁王経』・『金光明経』是れなり。
四には弥勒の三部、謂わく『上生経』・『下生経』・『成仏経』是れなり。
今は唯だ是れ弥陀の三部なり。
故に浄土の三部経と名づく。
弥陀の三部は是れ浄土の正依経なり。
とあり、三部経は何も「浄土三部経」に限ったものではありません。
聖人一家が滞在した上野国佐貫荘ですが、西岡芳文氏「初期真宗門流の展開」(『仏光寺の歴史と文化』、真宗仏光寺派、2011年5月)等に拠れば、昭和35年(1960)の調査で、聖徳太子の創建と伝えられる古刹宝福寺(真言宗豊山派、群馬県邑楽郡板倉町板倉)から聖人の高弟・性信房(横曽根門徒の頭目)の木像(延文6年・1361造)が発見されたことで、板倉の地がそれと比定されました。
この佐貫荘板倉は永仁元年(1293)に北条得宗家によって伊豆走湯山に寄進され、宝福寺もその支配下に入って伊豆山権現を勧請して山号を伊豆山と号していますが、聖人が流された越後国府に近い直江津の五智国分寺も走湯山領であり、東国に広く展開した走湯山の僧徒・修験を結ぶネットワークに運ばれて聖人が東国に誘われたとみるのも可能である、とのことですし、当の伊豆走湯山には、将軍家・三浦氏などの帰依を受けて説法や迎講を行って広く信者を集めていた法然上人面授の弟子源延や、その一向専修念仏の「勇猛精進」ぶりが讃えられた尼妙真房が居たと言われます。
 
    
 
【性信座像(群馬県・宝福寺)】
 
上野国から常陸国・下総国まで、聖人の移動した地域は当時水運交通や信仰のネットワークが密接に交流する先進地域であり、開府間もない鎌倉よりも文化的には優位であったそうです。
だとすれば、当時文化的先進地であった佐貫のいずれかの寺社において、天変地異の終息を祈願して「(鎮護国家の)『三部経』、げにげにしく(=もっともらしく、まことしやかに)、千部読まん」とする法会が開かれようとした折に、聖人も国衙・国府高官の縁戚として、また、比叡山の「堂僧」(声明僧。「堂僧」を比叡山のトップエリートだったとする説もあり)の前身を持つ聖(ひじり)として、請われて一度は参加したものの、それを「官僧顕密仏教僧としての自力修善の『残滓』」と嫌って数日で離脱し、早々にその地を離れたのではないでしょうか。
当時まだ「浄土三部経」の呼称も修法も定着しておらず、「浄土三部経如法経」も必ずしもそれに該当すると思われない以上、「三部経」に対する「発想」自体を変えてみるしかないのでは?と私は考えるのですが……
ただ問題は、降雨祈願で栄西が『法華経』を転読した(前述)とか、恵心僧都(源信)が旱魃の際に弟子を遣わして『大般若経』を転読させ、自らは『最勝経』(『金光明最勝王経』)を読んだ(『古事談』3ノ21)とか、疫病退散のために法会(仁王会)を催して『仁王経』を読んだといった、護国の三部経をそれぞれ単独で読誦したという記録はあるのですが、三部経をまとめて、それもそれぞれ千部読誦する修法・法会が当時存在していたかどうか、史料的に確認できていないことなんですよね。
……どなたか、詳しくご存じの方いらっしゃいませんでしょうか。(^_^;)
 
(3月19日)
 


 

地震お見舞い申し上げます

 

元日の能登半島地震に罹災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
 
 
【石川県珠洲市・見附島】
 
 
 (1月2日)


 

喪 中 欠 礼

 
                     (喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます。)
 
 
人は皆 誰かの「忘れ形見」
     亡き人を背負って この世を歩く
                  (住職自作)
 
 
  旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 (2024年1月1日)
 

 
 


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