法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2023年1月~12月分)
 
 
 


 

親鸞聖人と吉水時代の朋輩との交流!?

 
親鸞聖人の生涯の「謎」部分に関する「妄想」(その2)
 
 
弥陀智願の海水に
 われらが信水いりぬれば
 真実報土のならいにて
 煩悩菩提一味なり(大圓寺蔵・異本「浄土和讃」断簡)
下の画像は、令和元年(2019)度に滋賀県近江八幡市が市史編纂のために行った文化財調査の際に、市内安土町内野・大圓寺(真宗大谷派)で発見された親鸞聖人真蹟の異本「浄土和讃」断簡一葉(以下、「大圓寺断簡」)です。
直近では今年の7月19日付『読売新聞』ウェブ版にニュースとして取り上げられました。(遅!!)
これと文言が酷似した和讃が、三重県専修寺蔵の草稿本『正像末法和讃』・顕智書写本『正像末法和讃』にも収められていますが、いずれも門弟が後に書写したものです。
 
 
 
 【 大圓寺蔵・親鸞真蹟「浄土和讃」(断簡)】 
 
 
現在、親鸞聖人御制作の『正像末和讃』は、
⑴ 康元2年(1257、聖人85歳)2月9日の「夢告讃」(同年正嘉元年閏3月1日に書き入れ)を中途に含む全41首からなる専修寺蔵国宝『正像末法和讃』(以下、「草稿本」)。
第1首から第9首までは聖人御真筆でそれ以降は別人の筆。
⑵翌正嘉2年(1258、86歳)9月24日に脱稿した聖人真蹟本(現存せず)を、正応3年(1290)9月25日に顕智上人が書写した専修寺蔵『正像末法和讃』(以下、「顕智本」)。
⑶ 文明5年(1473)3月、蓮如上人によって開版された文明開版本『正像末和讃』(「文明版」)。
が現存しています。
常盤井和子氏「正像末和讃の成立に関する試論」(『高田学報』70、1981年)に拠れば、専修寺所蔵の初稿本『浄土和讃』『浄土高僧和讃』が宝治2年(1248、親鸞聖人76歳)に成立した後、正嘉2年(1258、86歳)に『正像末法和讃』を脱稿(顕智本奥書)するまでの間、聖人は新たに制作した「別和讃」を一首ごとの断簡、あるいは冊子の形態で東国に送り、それらは門弟間で見写・流布され、一方聖人の手元でそれらがさらに改訂・編集され、また東国に送られて門弟に見写・流布されるという繰り返しがなされていたと言われます。
ちなみに「大圓寺断簡」のこの和讃は、85歳時の「草稿本」(第21首目)では、
弥陀智願の海水に
 他力の信水いりぬれば  (「われらが」→「他力の」)
 真実報土のならひにて  (「なら」→「なら」)
 煩悩菩提一味なり   
86歳時の「顕智本」(第24首目)では、
弥陀智願の海水に
 他力の信水いりぬれば
 真実報土のならひには  (「に」→「に」)
 煩悩菩提一味なり
そして、蓮如上人開版の「文明版」(第24首目)では、
弥陀智願の海水に
 他力の信水いりぬれば
 真実報土のならひにて  (「に」→再び「に」)
 煩悩菩提一味なり
といった改訂(聖人の苦慮・試行錯誤)の痕跡が見受けられます。
『近江八幡市史』掲載の津田徹英氏のコラム(下画像参照)に拠れば、「大圓寺断簡」はこれらの諸本に先行する康元元年(1256、聖人84歳)の成立と言われます。
 
 
 
 
 【『近江八幡市史』コラム「新出 親鸞真蹟「浄土和讃」断簡」】
 
 
なぜ「大圓寺断簡」が聖人84歳時のものとわかるかというと、現在大谷大学図書館には、明治43年(1910)に山田文昭師によって影写された、「浄土和讃」13首・『大無量寿経』を始めとする諸経典の要文抜書・『往相回向還相回向文類』からなる『宗祖御筆蹟集』(影写本)が所蔵されているのですが、その中にはこの一首も含まれており、奥書から、康元元年(1256)、聖人84歳の時の撰述であることが知られるそうです。
 
 

 
 
【『宗祖御筆蹟集(影印)』表紙 】 【 内表紙・袖書(影印)】 【 第1首(影印)】

 
 ※画像は細川行信・小山正文『大無量寿経三願文』(1990年)掲載のもの。
 
 
かつて西本願寺に所蔵されていた聖人真蹟の「原本」を、大坂本願寺以来の坊官であった下間頼廉(しもつま ・らいれん1537~1626)が致仕の際に持ち出し、その後解体されて散逸したうちの一葉が、今回発見された「大圓寺断簡」だったわけです。
これに対して、聖人真蹟の「原本」を散逸前にある人物が忠実に影写し(「第一影写本」)、「第一影写本」を正徳3年(1713)に恵空が再影写し(「第二影写本」)、その「第二影写本」を明治43年(1910)に三度影写した「第三影写本」が大谷大学蔵の『宗祖御筆蹟集』なのだそうです。

今回発見の「大圓寺断簡」と『宗祖御筆蹟集』の該当部部との比較を通して、「大圓寺断簡」がまごうことなき「原本」の一部であることが判明したそうです。
『読売新聞』の記事では、「 眞(しん) 」の字の2画目の横線が長いのが聖人の筆癖であるとしていますが、『宗祖御筆蹟集』の「内表紙」の題号「浄土和讃」の左下の袖書「釈善蓮」の「善」の字も、「菩薩」「菩提」の「菩」の字と似ているという聖人80歳代の筆跡の特徴をよく伝えています。
(下画像は専修寺蔵・真仏上人書写の「親鸞夢記」。「善信」の「善」に注目)
 

 
【 専修寺蔵「親鸞夢記」(部分)】 
 
 
ただし、今回私が取り上げるのは、親鸞聖人の筆跡についてではなく、「大圓寺断簡」を含む『宗祖御筆蹟集』の「原本」が与えられた「釈善蓮」についてです。
この「善蓮」ですが、元久元年(1204)11月、聖人32歳の折のいわゆる「元久の法難」の際に吉水教団から比叡山延暦寺に提出された『七箇条制誡』に、当時「綽空」と名のっていた聖人のすぐ後ろに「僧善蓮」として署名している人物と同じ名なのです。
また、聖人の6人前の「僧尊蓮」の署名ですが、聖人が寛元5年(1247、75歳)に『教行信証』を書写させた人物の名もやはり「尊蓮」なのです。
(聖人を含む8名はいずれも「僧○○」と署名しており、この8名は当時何らかのグループを形成していたのではないか、とみる説もあります。)
大谷大学蔵の室町時代の『教行信証』写本(「顕真実信文類三本」)の奥書には、
本云
 寛元五年二月五日 以善信聖人御真筆秘本 加書写校合訖 隠倫尊蓮六十六歳
  文義字訓等重委註了 今年聖人七十五載(ママ)也
(⁅注:尊蓮書写]本に云わく。
 寛元五年二月五日、善信聖人御真筆の秘本を以て書写・校合を加え訖(おわ)りぬ。 隠倫尊蓮六十六歳
 文義・字訓等、重ねて委(くわ)しく註し了(おわ)りぬ。今年聖人七十五歳なり。)
とあります。
この奥書から、親鸞聖人が寛元元年(1247)、尊蓮に『教行信証』の書写を許したことが知られ、『教行信証』はこの時点で一応の完成を見たことが窺われます。
通説ではこの「尊蓮」は、『親鸞聖人門侶交名牒』に洛中の弟子「沙弥尊蓮 範綱息信綱」とある聖人の従弟日野信綱(伯父範綱の子)であるとされていますが、『教行信証』のその高度な思想性・専門性から見て、青・壮年期は公家として朝廷に伺候し老年になってから剃髪出家した「沙弥(しゃみ)」に与えるより、若年に出家して官僧として専門的な修学を積み、やがて遁世して「聖(ひじり)」となった吉水時代以来の朋輩(隠倫=隠遁のともがら)に授けたというのが、教法の付属(ふぞく・後代への流通るづうを託す)という点からみても妥当ではないかと思われます。
一時期“架空人物説”まで囁かれるほど当時の文献(法然門流のものを含む)に名前が登場しないことから、聖人は流罪以降吉水時代の知己とは没交渉であったように考えられがちですが、帰洛後の聖人はかつての朋輩と、歳下の尊蓮には『教行信証』を書写せしめ、善蓮には、「浄土和讃」『往相回向還相回向文類』等の自作の著述を手ずから筆を染めて贈呈するなど、40年50年の時を超えた「法友」「同朋」としての温かい交流を持っていらっしゃったのではないでしょうか。
そう考えると、どことなくほっこりとした気分になるのは私だけでしょうか。
 
 

 
 
【 京都市・二尊院蔵『七箇条制誡』(部分)】
 
 ※「僧綽空」が元久元年・1204年11月8日、親鸞聖人32歳当時の署名。
 
 
(9月12日)


 

親鸞聖人と証空上人の間接的交流!?

 
親鸞聖人の生涯の「謎」部分に関する「妄想」(その1)
 
 
>元久2年(1205)、北条時政とその妻牧の方の失脚に連座する形で出家を余儀なくされた[引用者注:宇都宮]頼綱(蓮生)は、承元2年(1209)冬、摂津勝尾寺にいた法然を訪ね、その薦めにしたがって法然の高弟である善恵房証空に師事することとなったという。
>蓮生は藤原定家が証空を「宇都宮随逐之師」と日記に書き記すほど証空を敬仰し(『明月記』安貞元年7月6日条)、弟の塩谷入道信生とともに、河内の叡福寺(磯長御廟寺)や摂津の浄橋寺などの寺院堂塔の造営事業を進めた証空を経済的に支援した。(3)
>また蓮生は、証空やその弟子たちを伴って何度か宇都宮に下向することもあった。(4)
 
 
 
【嘉禄の法難で専修念仏者たちを守る宇都宮頼綱(中央馬上)と塩谷朝業(その右。いずれも法体)】

(茨城県那珂市・常福寺蔵『拾遺古徳伝絵』)
 
 
>さて、東国に下った親鸞が二十年近くにわたって居を占めたのは常陸国笠間郡稲田の地であるが、その領主は宇都宮頼綱の弟朝業、すなわち後の塩谷入道信生であった。
>朝業は兵衛尉に任じ、兄の頼綱が出家した後は、宇都宮氏を代表して幕府に出仕していたが、承久元年(1219)将軍実朝の死を悲しんで出家をとげ、同2年、上洛して証空の弟子となり、信生と称したのである。
>彼の所領は下野国塩屋郡と常陸国笠間郡で、親鸞が笠間郡稲田郷に落ち着いたのは彼がまだ在俗中のことであった。
>したがって親鸞を笠間郷に招いたのは宇都宮(塩谷)朝業と考えるのが妥当であろう。(5)
>朝業は出家の後しばらく在京していたが、元仁元年(1225)春、東国へ旅立つ。
>その歌日記が『信生法師集』の前半部分である。
※元仁元年は西暦1224年。「元仁『元』年」は「『2』年」の誤りか?
 
 
 
 
 
【 塩谷朝業(上図の拡大)】
 
 
>注
>(3)小野一之「聖徳太子墓の展開と叡福寺の成立」(『日本史研究』第342号、1991年)。
>(4)山本隆志「関東武士の在京活動―宇都宮頼綱を中心に―」(『史潮』新60号、2006年)。
>(5)稲田の西念寺の伝によれば、親鸞がここに来たときの領主は頼綱の弟の頼重といい、同じ境内には彼の墓所も伝えられているが、その実在は確認できない。
 
 
 
 
 
  【宇都宮氏一族系図】
 
野口先生の論文に拠れば、親鸞聖人を常陸国笠間郡稲田郷に招いたその地の領主である宇都宮(塩谷)朝業(出家して「信生」)は、その兄宇都宮頼綱(出家して「蓮生」)と共に善恵房証空上人(浄土宗西山派の祖)の弟子として、証空上人の寺院堂塔造営事業を経済的に支援していたそうです。
塩谷朝業(出家して信生法師)が証空上人に師事・昵近したてのは承久2年(1220)2月から元仁2年(1225)2月までの5年間と決して短い時間ではありません。
そして彼が京都を離れて東国に帰った元仁2年以降には、親鸞聖人はいまだ稲田に滞在中。
そうであるならば、信生法師が領主として笠間郡稲田を訪れ、親鸞聖人と面談する機会もあったのではないでしょうか。
(ちなみに信生法師は翌嘉禄2年(1226)以降は下野国塩谷郷の川崎城に居住し、翌嘉禄3年(1227)の「嘉禄の法難」の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、兄蓮生(頼綱)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたっています。)
そしてその訪問の折に、専修念仏教団をめぐる京都の動勢や証空上人の説法の内容を伝え、その著述・講義録を手渡すという場面も、もしかしたらあったのではないでしょうか?
親鸞聖人は法然上人面授の直弟子であり、塩谷入道は没後の孫弟子ということで同門の先輩後輩に当たりますし、朝業の三男朝貞は26歳で出家(賢快、肥前法師)して親鸞聖人の弟子となった(※ただしWikipedia情報)とも言われます。
ということはつまり、親鸞聖人は証空上人の「思想」を、間接的とは言え、リアルタイムで知っていた可能性がある、というのは想像が過ぎますでしょうか?
つまり何が言いたいかと言うと、史料としては残っていないけれど、関東時代、あるいは帰洛後も親鸞聖人は吉水時代の知己とそれなりの交流をもっていたのではないかということです。
覚如上人の『口伝鈔』においては体失往生・不体失往生をめぐって意見が対立したとされる証空上人と親鸞聖人ですが、中村玲太先生の講義を拝聴する限りでは、よく似た問題意識を持たれ、その思想にも通底する部分が多いように思われます。
何より同世代のこのお二方、承元の法難(建永2年・1207、10月に「承元」に改元)の折、いずれも流罪の対象者として名前が挙がったという共通点があります。(証空上人は慈円僧正が身元預かり人となって流罪を免れてはいますが……)
承元の法難で処罰の対象とされたのは、死罪は風紀を著しく紊乱した者、流罪は思想犯、と処罰理由の性格が異なるのでは、とする説もあります。
(また近年では、死罪は後鳥羽院による私刑、流罪は律令の規定に基づいての処罰との説が有力のようです。)
 
 
     
     
善恵房証空上人(1177~1247)   善信房親鸞聖人(1173~1262)
 
越後時代の親鸞聖人に京都の情報をもたらしたという犬神人(いぬじにん)宝来(ほうらい)の伝説が示すように、関東時代の親鸞聖人が京都の社会的情勢や思想的な動向に鈍感であったはずはなく、むしろ積極的に情報収集に務めたとしても不思議ではないと私は思うのですが?
 
 
 
【犬神人(いぬじにん)(『親鸞聖人伝絵」より)】 
 
 
 (9月10日)



『親鸞展図録』
        ~巻末「参考文献」参照~
                 
 
 
 
 
 
 
本年(令和5年・2023年)、宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年を迎えるにあたり、真宗大谷派本山・東本願寺(真宗本廟)では3⽉25⽇から4月29日まで慶讃法要(きょうさんほうよう)が営まれ、京都国立博物館においては3月25日から5月21日まで「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞・生涯と名宝」(通称:親鸞展)が開催されました。
しかし、下記の事情(前住職の闘病・逝去)から、私個人はもちろん、西念寺としての団体参拝・拝観も叶いませんでした。
 
 

せめて親鸞展の『図録』だけでも、と事前に通販で入手しておいたそれを紐解いたところ……
 
 
 

巻末「参考文献」に並ぶ綺羅星の如き先行研究の中に、母が亡くなった4年前(2019年)に出版した拙著『親鸞改名の研究』が紹介されてありました。
 
 
 
【結願法要風景(『京都新聞』4月29日付記事より)】
 
 
 

生前の親不孝を慚愧せざるを得ぬ身としてはこのような「評価」は誠に忝(かたじけな)く、奇しくも慶讃法要・「結願」の日(4月29日)に亡くなった父への、せめてもの餞(はなむけ)にできたのではないかと、『図録』編集の皆様方には深く感謝申し上げる次第です。

……しかしまあ、いつまでも「過去の業績」に留まってばかりではいかんのですが、ねえ。(;^_^A
 
(5月17日) 



前住職逝去の御報告
                 
 
 


  逝く父に 孫が供えし  薄茶かな
  逝く父と 娘手向けし  茶を喫す
  通夜過ぎて 遺影の父と  しばし語らう

当山前住職・豅 信雄(第14世)、去る4月29日に逝去(行年92歳)致し、5月1日通夜、翌2日に密葬、6日に本葬を、「門徒葬」にて執り行いました。
「西念寺前住職葬儀」(門徒葬)
【 通 夜 】 5月1日(月)午後5時~
【 密 葬 】 5月2日(火)午後12時30分~(近親者のみ)
【 会 場 】 西念寺本堂
【 導 師 】 乗蓮寺住職 徳野 明了 師
【 本 葬 】 5月6日(土)午後4時~
【 会 場 】 葬仙米子葬祭会館(米子市長砂町)
【 導 師 】  乗蓮寺住職 徳野 明了 師
【脇 導 師】 真光寺住職 藤原 順宣 師
         光徳寺住職 小早川 凡親 師
故人生前のご厚誼に深謝致し、慎んでここに御報告申し上げます。


喪主: 西念寺住職 豅 弘信(第15世)

(5月7日)


 

善慧房証空上人のこと

 
 
私、昨年の1月から、直七大学のZoom講義「証空思想の解明」(中村玲太講師)に参加させていただき、法然上人の弟子のお一人善慧房証空上人(浄土宗西山義の祖)の思想について教えていただいているのですが、これがまあ目からウロコ、従来抱いていた証空上人のイメージが大きく変わりました。

 
 
 【 善 慧 房 証 空 上 人】
 
“正像末の三時はいずれも末法”
“聖道門の悟りも他力無くしてはあり得ない”【注】……etc
……証空上人(1177~1247)って結構大胆、と言うか、ラディカルな思想家だったんですね。(^-^;A
(まあ、承元の法難・嘉禄の法難の際にはあわや流罪、というスレスレまで行ってますから、考えてみれば、「穏健派」であるはずもないわけなんですが……)
「法然房は諸行の頸を切り、弟子の善慧房は諸行を生け捕りにす」(行観『選択本願念仏集秘抄』)
だとか、覚如『口伝鈔』が伝える親鸞聖人吉水時代の「体失・不体失往生の論争」だとか、はたまた承元の法難(建永2年、改元して承元元年・1205年)の際には慈円僧正に泣きついて(注:あくまでも私の想像です。(^_^;))、嘉禄の法難(嘉禄3年・1227年)の際にも弁明書を提出して2度とも流罪を免れるなど、当時の貴顕とうまく結びついて、法然上人の教えを薄めて(=変質させて)浄土宗の延命を図った人、というイメージを持っていた(勝手に作り上げていた)のですが、盛大な勘違いだったかも。(;-ω-)
承元の法難の折、
「我、首を斬らるるとも、この事を言わずばあるべからず」(『法然上人伝記』)
(たとえ斬首の目に遭おうとも、私は念仏による弥陀の救済を説かずにはおれない)
と言い切った法然上人といい、
「しかるに一人の僧山臥云々ありて、ややもすれば、仏法に怨をなしつつ、結句害心を挿んで、聖人を時々うかがいたてまつる。……
聖人に謁せんとおもう心つきて禅室に行きて尋申すに、聖人左右なく出会いたまいにけり。……
ややしばらくありて、有のままに、日来の宿鬱を述すといえども聖人またおどろける色なし。」(『親鸞聖人伝絵』)
と、自分を殺しに来たかも知れない山伏弁円の前にいとも無造作に姿を現した親鸞聖人といい、一宗一派の祖として名を残すような当時の仏教者はやはり「気骨」というか「肝っ玉」というか、「覚悟」が違いますね。
……あ、証空上人も一応は武家の出、ということになるのかな?(村上源氏の加賀権守・源親季の長男、久我(源)通親の養子)

【注】証空『散善義自筆鈔」巻下
一代皆念仏ニシテ聖道ノ益モ他力ニアラズト云フ事ナシ
 故ニ、彼ノ教ノ信心実ノ如ク発ル人ハ、功ヲ仏ニ帰シテ、自力ヲ憑マズ」(『西叢』6、116頁)

 (3月20日)


 

謹 賀 新 年

 
 
岩もあり 木の根もあれど さらさらと
       たださらさらと 水の流るる
                  (甲斐 和里子)
 
 
 
 《ダイヤモンド大山(2022年10月14日ドローン空撮・©日本海新聞社)》
 
 
   旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 (2023年1月1日)

 
 


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