「住職日記」(2022年7月~12月分) | |||
尊長法印と「承元の法難」 |
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去る12月18日(日)、今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が最終回を迎えました。 承久の乱(承久3年・1221年)後も逃亡を続けて謀反を企図していたところ、6年後の嘉禄3年(12月に改元して安貞元年 、1227年)6月7日朝、潜伏先の肥後房宅を管十郎左衛門周則らに襲撃され、2人を傷つけた後自害を図るも死にきれずに捕縛され、翌日収監先の六波羅探題で死亡した、と『吾妻鏡』同月14日条には記されています。 また、藤原定家の日記『明月記』安貞元年(嘉禄3年・1227年、12月に安貞に改元)6月11日条には、車で六波羅探題に運び込まれた際に尊長が、>只(ただ)、早(はや)頸(くび)をきれ。と口走ったとあり、これが貞応3年(11月に改元して元仁元年、1224年)6月13日に卒去(死去)した幕府第2代執権・北条義時の死因は後妻・伊賀の方による毒殺であったとする“北条義時毒殺説”の根拠となっているのです。 ちなみに、義時の死の直後に起きた「伊賀氏の変」で、伊賀の方とその兄伊賀光宗が三寅(後の九条頼経)に代る将軍として擁立しようと企て、結果鎌倉を追放された一条実雅(伊賀の方の娘婿)は、尊長の異母兄(父は同じ一条能保)に当たります。 |
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ところでこの尊長、実は建永2年(10月に改元して承元元年、1207年)2月の「承元の法難」にも深く関わっているのです。 蓮如書写本『歎異抄』掉尾の「流罪記録」には、 後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。 一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。 聖人は土佐国番田という所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。 として流罪・死罪に処された法然上人及び門弟の名が列挙されているのですが、その最後に「二位法印尊長の沙汰なり」とあります。 |
【『歎異抄』蓮如書写本「流罪記録」(西本願寺藏)】 |
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【親鸞聖人『教行信証』「後序」(真蹟坂東本)】 | |
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多屋頼俊先生鑽仰 |
今年11月13日に三十三回忌を迎えられ、遺弟石橋義秀先生によって記念誌『大悲無倦常照我』が発行される故・多屋頼俊先生(1902~1990)。 大谷大学名誉教授・文学博士であり、昭和62年(1987年)には勲四等旭日小綬章を受章された国文学の碩学であられます。 |
現存する親鸞聖人の真蹟書簡を見ると、聖人が関東の門弟衆に書簡を認める際、書簡末尾に年号の無い「日付」、日下(にっか、日付の真下)に署名(実名「親鸞」)もしくは押署(花押)、改行して「宛名」を日付より高い位置から書き始めるといった具合に、当時の書札礼(文書の書式)からいえば、「目上の相手に送る私信」の様式に則っておられます。 この書札礼一つをとってみても、「いなかのひとびと」を「われら」と呼び、「ともの同朋」「とも同行」と尊重された聖人の「弟子一人ももたず」の信念がうかがわれます。 |
【建長8年5月28日付・覚信房宛】 | 【正嘉元年10月6日付・「しのぶの御房」宛】 | 【正嘉元年10月21日付・浄信房宛】 | ||
(いずれも三重県・専修寺所蔵。『親鸞聖人真蹟集成』第4巻より) | ||||
ところが、文応元年(1260年、親鸞88歳)11月に乗信房宛に出された「返書」(『末灯鈔』第6通)だけは、書簡末尾が、> 文応元年十一月十三日 善信八十八歳
>乗信御房と、日付に年号あり、「善信」の署名、年齢入りという親鸞聖人の他の「書簡」にはない書式となっているのです。当時、日付に年号まで入れるのは「公文書」の場合であり、親鸞聖人関係で言えば、寛元元年(1243年、71歳)12月21日付の「いや女譲状」、恵信尼から覚信尼に宛てた建長8年(1256年)7月9日付・9月15日付の「下人譲状」2通がそうなっています。また、建長7年(1255年、83歳)10月3日付の「かさま(笠間)の念仏者のうたが(疑)ひと(問)われたる事」との標題のある「書簡」(建長8年4月13日付「念仏する人々の中よりうたがひとわるゝ事」題の同文の古写「書簡」あり)には、末尾の年号入り日付の後に「愚禿親鸞八十三歳書之」(建長8年4月13日付古写「書簡」では「愚禿親鸞八十四歳尅作」)とあり、聖人がこれらの「書簡」を「公文書」、すなわち「聖教」と見做しておられたことが窺われます。これに対して、建長8年5月29日付の善鸞宛「義絶状」・性信宛「義絶披露状」、弘長2年(1262年)11月11日付「いまごぜん(今御前)のはゝ(母)」宛・12日付「ひたち(常陸)の人々」宛の「書簡」2通は、それぞれ義絶状(起請文)、遺言状(置文)としての内容(性格)をもちながら、日付に年号はなく、あくまで「私信」の体裁を採っています。つまりこの乗信房宛「書簡」の末尾は、親鸞聖人の通常の「私信」の書き様から見ても、当時一般の書札礼から見ても、特異な事例なのです。【文応元年11月13日付・乗信房宛(『定本親鸞聖人全集』第3巻・書簡篇より)】 そして、この「文応元年十一月十三日 善信八十八歳」の日付・署名は、文明5年(1473年)の蓮如上人開版本「正像末法和讃」の>正像末浄土和讃
> 愚禿善信集>>已上二十三首仏不思議の弥陀の御ちかいをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり
>
> 愚禿善信作
>皇太子聖徳奉讃
>親鸞八十八歳御筆といった記述(撰号)と併せて、「親鸞は晩年のこの時期、『善信』に回帰した」
「このことから元久2年(1205年、親鸞33歳)の改名は『善信』に、であると判断できる」として、いわゆる「善信」改名説の論拠となっていました。しかし、多屋先生は、「末灯鈔の成立について」(『真宗研究」9、1964年)、「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』」(『大谷学報』47―2、1967年)、安居講本『親鸞聖人全消息序説』(真宗大谷派宗務所、1974年)等において、愛知県岡崎市浄光寺蔵『親鸞聖人御消息』(全21通、室町時代中期の成立。以下、「浄光寺本」)の存在を明らかにされました。
多屋先生は、浄光寺本御消息の原初の本と末燈紗の従覚本と、何方が先に成立したかと考えてみると、浄光寺本御消息の系統の本の方が先に成立しているように考えられる。……末燈紗わ浄光寺本御消息系統の本お第一資料にし、これお年月日の順に編集しなおし、これに他の資料によって四通の消息お加えたものであると言うことができよう。 (「末灯鈔の成立について」、『真宗研究』9、92~3頁)として、「浄光寺本」系「祖本」(写本系統の最初の本)は内容的に『末灯鈔』に先行すると考えておられますが、現存の「浄光寺本」自体は、従覚上人(覚如上人の次男)が編集して正慶2年(1333年、親鸞没後72年)4月に成立した『末灯鈔』よりは成立が新しいとされています。「浄光寺本」には、問題の『末灯鈔』第6通と同文の「書簡」が第10通に収められており、多屋先生の翻刻に拠れば、その文末は、> 十一月十六日 親鸞となっているそうです。
>乗信ノ御房
>文応元年十一月十六日 善信八十八歳
(「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』〔附浄光寺本『親鸞聖人御消息』翻刻〕」、
『大谷学報』47―2、33頁)『末灯鈔』の日付が「11月13日」であるのに比して「浄光寺本」が「11月16日」となっている点について多屋先生は、十三日か 十六日かお 決定すべき 資料が無いが、写本の 場合、「六」お「三」と 見誤つて いる ことわ あるが、その逆の 例わ 知らない。……と流伝の過程における「誤写」の可能性を示唆し、専修寺系の写本『消息集』ではいずれも「11月13日」になっていることを指摘しておられます。(『親鸞聖人全消息序説』66~8頁、109~14頁参照)
「十六日」の 方が 正しいのかも しれない。 (『親鸞聖人全消息序説』74~5頁)多屋先生のご教示を承けて私は次のように推論しました。(1)文応元年(1260年)に乗信房のもとに届いた親鸞聖人直筆の「書簡」の末尾は、聖人の通常の書札礼の通り、> 十一月十六日 親鸞
>乗信御房となっていた。(2)到着後、いつの時点かは不明であるが、おそらくは文中に「まず『善信』が身には……」とあることを承けて、「善信」が親鸞聖人の房号であることを示すための註記「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」が、本来の「十一月十六日 親鸞/乗信御房」(年号無しの日付、実名による署名/宛名)の後の「書簡」の奥(紙の左端)に直接書き入れられる、もしくは別紙を貼付される(例:建長8年5月28日付・覚信房宛「返書」)かして添えられた。> 十一月十六日 親鸞
>乗信御房
>文応元年十一月十六日 善信八十八歳(3)上記の形状の聖人直筆の乗信房宛「書簡」が現在の「浄光寺本」所収「書簡」の「祖本」(写本系統の最初の本)として成立し、以後書写・流伝の末、室町中期に現存の「浄光寺本」が成立した。(4)聖人直筆「書簡」が、「浄光寺本」系統とはまた別の書写・流伝の過程で、本来の日付・署名である「十一月十六日 親鸞」が欠失して「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」だけが残り、「十一月十六日」も「十三日」と誤写されて、「坂東下野国おほうちの庄高田」(専修寺)の「この御消息の正本」(『末灯鈔』第6通の「底本」)が成立した。(5)従覚上人(覚如上人の次男)が正慶2年、専修寺所蔵の「正本」を写して『末灯鈔』に収録し、「書簡」の末尾が>文応元年十一月十三日 善信八十八歳
>乗信御房《以上まとめ》となった『『末灯鈔』の「書簡」が一般に知られるようになり、「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」が本来の日付・署名と誤解されるに到った。親鸞聖人直筆の文応元年11月付乗信房宛「書簡」は、「書簡」末尾に「文応元年十一月十六日 善信八十八歳」の註記を付した形態で書写・流伝が始まり、原型を残したままの系統が「浄光寺本」となり、原型を喪失した系統として現存の専修寺系『御消息集』諸本・『末灯鈔』系諸本が成立した。
つまり、『末灯鈔』第6通は流伝の過程で親鸞「書簡」としての原初態を喪失しており、「善信」改名説の論拠とはなり得ない、というのが拙著『親鸞改名の研究』にも述べた私の推論なのです。……ただ、問題は、多屋先生のこれらの研究成果が現在の真宗学には継承されていなかったという点です。私にしても、たまたま自坊に所蔵されていた安居講本『親鸞聖人全消息序説』を繙いて当該の記述に出会っただけで、多屋先生の膨大な研究成果の一端に接したにすぎません。「これからの真宗学は歴史学や書誌学等と積極的に交流してその成果を取り入れていかねばならない」とは30数年に真宗学の某教授がおっしゃっていたお言葉ですが、まだまだ「言うは易し、行うは難し」ではないでしょうか?
……ガンバレ、後輩諸兄!!
※なお、前掲の「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』」「親鸞聖人全消息序説」等は『多屋頼俊著作集』(全5巻、法藏館)の第3巻『親鸞書簡の研究』に収められていますが、第3巻は現在全くの品切れ状態(重版未定)となっているそうです。(残念!!)
(10月13日)
新発見!! ……だけど、正直困ってます。 |
え~、私が3年前、令和元年(2019年)6月に拙著『親鸞改名の研究』を出版したことを覚えて下さっている方もあるかと思います。 もちろん事実誤認や誤植、校正漏れも多々あるのですが、むしろ出版後に新たな「発見」があったことの方が大きい……それもいくつもです。 数年前に観たNHKの正月時代劇ドラマ「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」(みなもと太郎原作・三谷幸喜脚本)で、オランダ語の解剖医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の出版を巡って、 「こんな中途半端なものを世に出す訳にはいかない」 という意見の前野良沢(演:片岡愛之助)と 「たとえ未完成であっても、今、世に出すことが重要だ」 という意見の杉田玄白(演:新納慎也)が対立し、結局翻訳を担当した前野良沢の名前を載せない形で安永3年(1774年)、『解体新書』初版が刊行された、というエピソードが紹介されていましたが、前野良沢の気持ちが今になってよく分かるという……当時は杉田玄白派だったんですけどね。 今回、ご紹介するのも拙著で展開した「親鸞は元久2年(1205年、親鸞33歳)、それまでの実名「綽空」を「親鸞」(通説では「善信」)に改名した」(=「親鸞」改名説)に関する新発見です。 |
親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)「顕浄土方便化身土文類」(「化身土巻」)の掉尾、『教行信証』撰述の事由を語ったいわゆる「後序」には元久2年閏7月29日の「改名」の記事が次のように記されています。 >また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。 これまで幾度となく眼にしてきた文ですが、今日これを読んだ時、私はふと気がついたのです。 「この文には、法然上人が『何に』親鸞聖人の新しい名を書いたかが記されていない!!」 |
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【「選択相伝の御影」(銘文部分)】 | ||||||||||||||||
しかし、法然上人が「何に」親鸞聖人の新しい名を書いたのかが「改名」の記事に記されていないことに気づいた途端、私は閃いたのです。 「法然上人が新しい名を書いたのは『真影』にではなかったのではないか?」 ……では、何の、どこに?>綽空の『字』を改めて、……名の『字』を書かしめたまい畢りぬ。……「綽空の『名』を改めて」ではなくて、「綽空の『字』」を改めて、新しい「名の『字』」を書く。 「後序」のいわゆる「真影図画」の記事の前には、 >元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。 という元久2年4月14日の、いわゆる「選択付属」(せんじゃくふぞく)の記事があります。 ……ここに「綽空の『字』」がありました。 |
【『選択本源念仏集』廬山寺本(冒頭部分)】 |
「『選択本願念仏集』の内題の字、ならびに『南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(もしくは「念仏為先」)』」が法然上人の直筆で書かれているのは、京都市・盧山寺所蔵の「選択集」初稿本にも見られますから、法然上人は特に許した弟子が書写した『選択集』に内題と「標宗の文」を書き入れることを慣例としておられたのでしょう。 また、「『釈の綽空』の字と……書かしめたまいき」とは、法然上人が親鸞聖人の写した『選択集』の表紙(外題の左下)に「釈の綽空」と書いたことを指すと思われます。 法然上人は『選択集』を託すに値すると認めた弟子の名を、写本の「所持者」として、自らの筆で記入していたのでしょう。 後年、親鸞聖人が自身の制作・書写した聖教を門弟に授与した際に同様の行為を行ったとみられる事例が多々あります。(『親鸞聖人真蹟集成』参照) |
しかし、そもそも改名した後に、いくら法然上人の直筆であるとはいえ、旧名「綽空」を所持者名としてそのままにしておくものでしょうか? 実際、法然上人在世中の「元久元年(1204年)11月28日に書写した」との奥書をもつ奈良県葛城市・當麻寺奥院所蔵の『選択集』(往生院本)冒頭の「内題」及び「標宗の文」は、法然上人の筆ではなく(「選」の字が「撰」)、法然上人の手沢本からの書写ではなく、誰かが写した写本からの再写(あるいは再々写)本であることが窺われます。 |
【『撰択本源念仏集』往生院本(冒頭部分)】 |
法然上人は元久2年閏7月29日に、親鸞書写本『選択集』表紙の、既にあった「釈の『綽空』」の「『綽空』の字を改めて」(=抹消して)、新しい「『名』の字」(=親鸞)をその脇に書いたのではないでしょうか? それまで何も書かれていなかった「真影」に新たに名を書き入れるのであれば、「綽空の『字』を改めて」と記す必要はありません。 「改名」の記事は同時に、元久2年親鸞聖人書写本『選択集』の「改訂」記事でもあったわけです。 自ら直すことにはさすがに抵抗を感じざるを得ないであろう法然上人直筆の「釈の綽空」の字も、上人ご本人に訂正していただくのであれば何も問題はありません。 この時親鸞聖人が書写した真蹟『選択集』は現存していません―建長7年(1225年、親鸞83歳)12月に聖人は火災に遭い焼け出されているので、その時に焼失したのでは、という説もあります―から、物証(史料)としては望むべくもありませんが、皆様、いかがなものでしょう? 「後序」は、元久2年(1205年)の“師資相承”の記録として、 >同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。 >同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。 >また夢の告に依って、「綽空」の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。>本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。 「4月14日に私・親鸞は法然上人ご制作の『選択集』に『内題』及び『標宗の文』、そして『釈の綽空』の名を法然上人の直筆で書いていただいた」といういわゆる「選択付属」と「閏7月29日に私・親鸞は法然上人の御真影に『銘文』を法然上人の直筆で書いていただいた」といういわゆる「真影図画」のみならず、「同じく閏7月29日に私・親鸞は『選択集』表紙に『釈の親鸞』という新たな名を法然上人の直筆で書いていただいた」という三つの出来事を、それぞれに日付を付し、法然上人の年齢まで明記した上で、挙げていたのでした。 以上が今回の私の「新発見」なのですが、「真影」に新しい名が書かれたと思い込んでいたのはまさか私だけじゃありませんよね? さて、「元久2年に『親鸞』と改名した」という自説の骨子は変わらないとはいえ、拙著……大幅改訂の予感???ヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァ!! |
(10月4日) |
令和4(2022)年度報恩講の御案内 |
(9月25日) |
“玉日伝説”の問題点!? |
親鸞聖人が九条兼実公の娘玉日姫(玉日の前)と結婚したといういわゆる“玉日伝説”。 覚如上人製作『親鸞聖人伝絵』に先行する親鸞聖人伝『親鸞聖人御因縁』(鎌倉末期〜室町初期に成立)に初登場以来、江戸中期に出版された伝存覚作『親鸞聖人正明伝』、五天良空作『高田開山親鸞聖人正統伝』等の談義本系の聖人伝にまで登場し、当時はもちろん史実と考えられており、現在でもなお「あれは史実」と主張される研究者(故梅原猛、佐々木正、西山深草、松尾剛次、他)もおられるのですが、あれってよく読むと、『人権的に』すご〜く問題のあるストーリーなんですよね。(^-^;A |
【九条兼実公(1149~1207、 『天子摂関御影』より)】 |
法然上人に深く帰依した九条兼実公がある時上人に、 「上人は念仏ひとつで往生するとお説きになるが、あれは上人のような持戒堅固な清僧ならではのお話で、私どものような罪深い在家者には当てはまらないのでは?」 と尋ねた。 「そんなことはありません。誰でも念仏ひとつで往生できます」 と答える上人に兼実公は、 「それならばその証拠に、お弟子の中から持戒堅固な清僧を一人選んで私の娘(玉日姫)と結婚させてください」 と迫った。 |
【法然上人像(兵庫県念仏寺蔵「月輪(つきのわ)の御影」)】 |
法然上人は当時清僧であった親鸞聖人を選び、必死に拒む親鸞聖人に、聖人が入門前に六角堂での夢の中で見て誰にも語ったことがなかった 「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 の偈文を示して 「この告命の通りに即座に落堕(=破戒、つまりは結婚)せよ」 とお命じになった。 泣く泣く承諾せざるを得なくなった親鸞聖人はその日のうちに九条兼実邸へと連れ帰られ(当時は妻問婚、つまりは入り婿)、親鸞聖人と玉日姫は結婚した。 3日後、晴れて夫婦となった2人は牛車に乗って法然上人の元に挨拶に赴き、玉日姫をご覧になった上人は 「良き坊守かな」 とおっしゃったというのが一連のストーリー。 |
【親鸞の正妻・恵信尼公(玉日姫のモデルと思われる)】 |
しかしこの間、玉日姫自身の意思はただの一度も確認されていません。 いくら師匠と父親(摂政関白)の命令とはいえ、随分と強引な話だと思いません? 法然上人の所に出かけていたはずの父親が見も知らぬ聖(官僧から遁世した僧、黒衣墨袈裟)を連れて戻ったと思ったら、いきなり 「これがお前の婿だ!」 だなんて。(……正気ですか、お父上!?) 「人権」という言葉こそなかったにしろ、当時は女性も自分自身の財産・所領を持つなど、黙って男性に従っているだけの時代ではなかったはずなんですけれどねぇ。 今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時なんぞは、源頼朝の大倉御所勤めの美貌の女房「姫の前」(比企朝宗の娘)に懸想し、1年あまりもの間姫の前に恋文を送ったものの姫の前は一向になびかず、見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の間を取り持ったという話もあるくらいで。(^-^;A ……それとも京の公家社会での父娘関係はまた違っていたのかしら? 同じ兼実公の娘任子は後鳥羽天皇に入内して中宮にまでなっています(ただし当時は父兼実公の政治的失脚によって既に内裏を退出し「宜秋門院」となっていた)し、 「なぜ、(姉上と違って)私(だけ)が一介の念仏聖の、しかも身分卑しき日野氏の出の者などの妻に?」 とは思わなかったのでしょうか? 平雅行氏に拠れば、親鸞の出自は同じ藤原氏でも傍流の日野氏のさらに傍流。 ……あ、もちろん私は“玉日伝説”が史実だなどとは考えておりませんが。(^-^;A。 |
(9月9日) |
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