法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2022年1月~6月分)
 
 
 

 
 

寺川俊昭先生の遺されたもの

 
 
故寺川俊昭先生の学問的業績は、文栄堂書店より発行された『寺川俊昭選集』(全11巻+別巻)を始めとする多くの御著書によって公開されていますが、学術雑誌に掲載されながら『選集』には収録されなかったものもあり、中には親鸞思想研究上、決して見落としてはならないと思われるものがいくつかあります。
今回は先生が今から40年近く前に発表された、親鸞が最晩年に到達した宗教的境地とされる「自然法爾」(じねん・ほうに)思想に関する論文2編をご紹介します。
「自然法爾考」(『大谷学報』65―1、1985年)
いわゆる「自然法爾」を、「親鸞が最後に到達した仏智不思議の世界」1「晩年の円熟した境地」2であり、「すべてのはからいをすてておのずからしからしむる境地」3「如来のはからいにまかせて、よからんともあしからんともおもわぬ」境地と見る理解が現在でも一般的ですが、先生は正嘉2年(1258年、親鸞86歳)12月、顕智聞書の『獲得自然法爾御書』を読み解くことを通して、そのような理解は親鸞思想を正確に捉えたものではないことを指摘しておられます。
1.石田慶和『信楽の世界現代と親鸞の思想』46頁(1970年、法藏館)。2.『同』39頁。3.4.『同』47頁。
「親鸞における自然法爾の思想(昭和60年度〔大谷学会〕春季公開講演要旨)」(『大谷学報』65―3、1986年)
上記のような誤った「自然法爾」理解を招いた要因としては、「獲得名号」の文言とその解説を欠落させた『末灯鈔』第5通に拠ったことが大きい、と指摘された講演の要旨です。
先生のご見解は、直近の『親鸞教学』第114号掲載の山田恵文氏「『獲得名号自然法爾御書』の考察」においても論考の下敷きとされ、論文末の註記⑷でこれらの論文名が挙げられています。
近年、中島岳志氏が『親鸞と日本主義』(2017年、新潮選書)等で「戦前の超国家主義者と親鸞思想の接続」の原因の一つとして、超国家主義者たちが親鸞思想における「絶対他力」や「自然法爾」を上記のごとく理解したことを指摘しておられます。
中島氏は彼らの「絶対他力」「自然法爾」理解が親鸞のそれと同一であるとは言っておられないようですが、本の帯のキャッチコピーには「戦前、最も危険な右翼の核心に据えられた思想は、『絶対他力』だった。」とあり、親鸞思想そのものに問題があったかのようにも読めます。
戦前の超国家主義者が中島氏の言うような形で「絶対他力」「自然法爾」を自ら思索することを停止・放棄して、自らが構築した「如来」や「大御心」(おおみこころ)といった権威や大義に盲従して、結局はその威を借りて自らの主義・主張を絶対化・正当化していくことを勧めるものとして理解していたのだとしたら、当時いったいどんな親鸞理解、「絶対他力」「自然法爾」が語られていたのか、そしてそれは正しい理解と言えるのか、と疑問に思わざるを得ません。
 
 
 
 
また、平雅行氏も上記のような「自然法爾」理解に立って、
「親鸞もまた晩年、造悪無碍を批判し機の深信を放棄することによって自然法爾に向かっている。」(『日本中世の社会と仏教』318頁、1992年、塙書房)、
「……そのどん底の闇の中から、やがて絶対他力の世界が現出してきます。
 ……あらゆる計らいを放棄するだけでなく、計らいを放棄することさえも放棄する。
 これが自然法爾の世界です。
 単なる自力作善の否定ではありません。
 自力作善を否定しようとする想い、すなわち他力信心の世界すら放棄しようとしています。
 すべてを弥陀に委ねる、これが自然法爾の世界です。
 この絶対他力の世界を……」
       (『歴史のなかに見る親鸞』211頁、2011年、法藏館)
と述べ、「晩年の親鸞思想的に破綻していったと私は考えている」(215頁)とされています。
 
 
 
 
 
 
 
現在もなお一般的に理解されている「親鸞の自然法爾」思想は、実は親鸞のそれとは全く異なったものであり、親鸞自身の著述に即して「親鸞における自然法爾の思想」とはこうである、と40年近く前に先生が既に明示してくださっていたことに驚くとともに、諸先生方には是非とも先生の「隠れた業績」として顕彰していただきたいと思う次第であります。
 
 (3月28日)
 
【 追 記 】

「自然法爾」を石田慶和氏・平雅行氏の語るような

「如来のはからいにまかせて、よからんともあしからんともおもわぬ」「すべてのはからいをすてておのずからしからしむる境地」(石田慶和)
「あらゆる計らいを放棄するだけでなく、計らいを放棄することさえも放棄する 」「自力作善を否定しようとする想い、すなわち他力信心の世界すら放棄し」「すべてを弥陀に委ねる」「自然法爾の世界」(平雅行)

といった、いわば特殊な「宗教的境地」だとするならば、弘長2年(1262年、聖人90歳)11月12日付の親鸞聖人の絶筆(遺言状)と言われる「書簡」(真蹟、西本願寺藏)の、「ひたち(常陸)の人々の御中へ」実質は鹿島門徒の頭目・順信房信海)に宛てて自身亡き後の子供たち「いまごぜん(今御前)のはゝ(母)」(末娘・覚信尼)と「そくしやうばう (即生房)」(俗名:有房、出家して益方大夫入道、法名:道性)の生活の扶助を依頼した内容をどう理解したら良いのでしょうか?

迫り来る生の終焉を前に、子供たちに譲り得る遺産(所領)一つ持たぬわが身を歎きつつも、与えられた自身の業(父親としての責務・役割)を可能な限り果たそうとするその姿のどこに、両氏の言われるような「自然法爾の世界」「絶対他力の境地」があるのでしょうか。

両氏のご理解は、親鸞の、というよりも、老荘思想が語る「無為自然【註】、人為(人の行為)を用いず、人間の運命や因縁に関わることなく、宇宙のあり方に従って自然のままであろうとする思想に強く引き摺られたもののように私には見受けられます。

上記のような「自然法爾・絶対他力」理解を産み出す元となったいわゆる「自然法爾消息」、門弟顕智上人が正嘉2年(1258年、聖人86歳)12月に上洛した際善法坊で聖人よりお聞きした法語を書き留めた「獲得名号自然法爾御書」(以下、「顕智聞書」)の全文を以下に挙げます。

獲の字は、因位のときうるを獲という。
得の字は、果位のときにいたりてうることを得というなり。
名の字は、因位のときのなを名という。
号の字は、果位のときのなを号という。
自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。
然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。
法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。
この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。
自然というは、もとよりしからしむということばなり。
弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう。
ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。
かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはもうさず。
かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならいてそうろう。
弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。
この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。
つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり。

現存する史料に拠れば、文中に登場する「他力には義なきを義とす」の語を聖人は、建長7年(1255年、聖人83歳)6月2日撰述の『尊号真像銘文』(略本)から正嘉2年(86歳)のこの「顕智聞書」に到るまで、多数の聖教・書簡等に記しておられます。

「かさま(笠間)の念仏者のうたが(疑)いと(問)われたる事」と題した同建長7年10月3日付の「書簡」(真蹟、東本願寺藏)において聖人は、

それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。
このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。
まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。
また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。
如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。
義ということは、はからうことばなり。
行者のはからいは自力なれば、義というなり。
他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。
しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。
凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。
また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。
自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。

として、これを「〔故法然〕聖人のおおせごと(仰せ言)」(教言)と紹介しておられます。

このことから親鸞聖人がこの「自然法爾」の法語によって語ろうとした主題は必ずしも晩年に限られたものではなく、現存の聖教・書簡等から見る限り、吉水時代以来、常に意識してこられた事柄だったのではないでしょうか。

問題とされているのは「義」「行者の(自力の)はからい」です。

この「自力のはからい」は、上記の「書簡」では具体的に、

「わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもう」
「わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもう」
「わがこころよければ往生すべしとおもう」

と表されています。

つまり、「行者のはからい」とは、如来の本願他力に「義」を立てる、自分の尺度で「ああだ、こうだ」と慮(おもんばか)ることであり、その根には如来の本願・仏智の不思議への疑惑・不信があります。

吉水時代に法然上人門下で特に喧しかったのは、往生には一念(一声の称名、もしくは一念の信心)で足りる、いや往生には多念(称名の継続・蓄積)が必要だ、といったいわゆる「一念多念」の争論でした。
これもまさしく「義」本願への慮り、行者の自力のはからい以外の何ものでもありません。

これらの経緯を踏まえて「顕智聞書」の「自然法爾」への解説を見てみましょう。

自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。
然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず如来のちかいにてあるがゆえに
法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。
この法爾は、御ちかいなりけるゆえにすべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。
自然というは、もとよりしからしむということばなり。
弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう。

つまり、「自然法爾」とは、「獲得名号」、つまり本願の名号に帰して「南無阿弥陀仏」の信心を獲得した行者は、その善し悪しの「はからい」(慮り)を越えた「弥陀仏の御ちかいの」「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」他力によって往生を遂げる、無上仏にならしめられるという如来の本願力の「おのずから(自)」「しからしむ(然)」る用らきをこそ語っているのであって、決して老荘思想の「無為自然」のような境地を語ってはいないのです。

聖人の師である法然上人にも、

又云。
法爾の道理と云う事あり。
ほのおは空にのぼり、水はくだりさまにながる。
菓子の中にすき物あり、あまき物あり。
これらはみな法爾の道理なり。
阿弥陀仏の本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかい給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は法爾の道理にてうたがいなし。
                             (『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』)

という法語があり、親鸞聖人と同様に「名号をもって罪悪の衆生を導かんと誓」って「一向に念仏」する衆生を来迎をもって摂取する阿弥陀仏の本願を「法爾の道理」という語をもって語っておられます。

これらの法語から、師弟がいずれも衆生の念仏往生・念仏成仏が如来の本願力によって法爾自然に成就すると語っておられることが知られ、親鸞聖人が法然上人の思想を正しく継承しておられることがこのことからも窺われるのです。

【註】 無為自然
 むい‐しぜん ムヰ‥【無為自然】
〘名〙 作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること。「無為」「自然」は「老子」に見られる語で、老子はことさらに知や欲をはたらかせずに、自然に生きることをよしとした。(『精選版 日本国語大辞典』)
 【自然】より
……それは自分を意味する〈自〉と状態を表す接尾辞〈然〉からなり,〈自分である状態〉を示すものであった。ところで老子は〈自分であること〉とは人為を加えず,本来のままであることにほかならないとしたから,この自然は無為と結びつき,〈無為自然〉という熟語もできてくる。自分が無為であることは,また物のあるがままを尊ぶことであるゆえ〈万物の自然を輔(たす)けて而も敢て為さず〉(第64章)ということにもなり,万物の〈自(おの)ずから然(しか)る〉ことを重んずることになる。……(平凡社『世界大百科事典 第2版』)
 
 (2023年1月26日)
 

『安慰の大道』の刊行について

 
 
3月19日の「偲ぶ会」(京都市北区・大谷大学講堂にて開催)に合わせて制作されました、
「寺川俊昭先生を偲ぶ会」編『安慰の大道」《価格1,000円(制作協力費)》
法藏館、文栄堂書店、真宗大谷派京都教務所、大阪教務所で頒布が始まりました。
 
 
 
(3月25日)
 

「寺川俊昭先生を偲ぶ会」

 
 
昨年9月28日にご逝去されました元大谷大学学長・名誉教授の寺川俊昭先生を「偲ぶ会」が去る3月19日、京都市北区・大谷大学講堂において開催されました。
40名ほどの大谷大学大学院修士ゼミOB・OGが参集し、口々に生前の先生のご遺徳、お人柄を語るという賑やかかつ楽しい会となりました。
しかし、当然のことながら、かつてこれらの方々の中心に居られた先生のお姿はなく、私たち門下生先生は「弟子」ではなく「学友」と呼んでくださいましたがは先生を偲びながらも、自分たちが喪ったものの大きさを改めて痛感し、
「皆さん、どうぞ与えられた業を存分にお果たし下さいますよう、お願いを申し上げます」
とのご遺訓を新たに心に刻んだ会であったように思います。
壇上には先生最後の直筆揮毫「大悲無倦常照我」(真宗大谷派広島別院蔵)が掛けられ、参加者にはプログラム等の他に、この日に合わせて作られた先生の講演録『安慰の大道』、ゼミ修了生の寄稿による追悼文集『同座・証誠護念の人 寺川俊昭先生』が配付されました。
式終了後、参加者は、まん延防止等重要対策下の京都の限られた時間ながら、それぞれに久闊を叙しておられました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【 真宗大谷派難波別院発行『南御堂』2022年4月号記事 】
 
ところで私、翌日の帰路車中で『安慰の大道』を紐解いたは良いものの、「没入」の余り乗り換え駅を完全にスルー。
車掌さんから
「○○駅はもう通過してしまいましたが……」
と聞かされて初めて自分の「やらかし」に気付いた始末。
……これが人生2回目のJR乗り越しか?
(ちなみに乗り遅れ、荷物の置き忘れも各2回のはず……たぶん)
……先生、「不肖(読みは「ポンコツ」)の弟子」は今日も元気に、大ボケをかましながら、生きております。。。
【 追 伸 】
  追悼文集『同座・証誠護念の人 寺川俊昭先生』に寄稿した拙文はコチラです。
「『仏者』寺川俊昭師を偲ぶ」(豅 弘信)
 
 (3月20日)
 
 

「愚禿釈親鸞」の名のりについて(続)

 
 
 
NHK大河「鎌倉殿の13人」(脚本:三谷幸喜)の第1話で、北条時政が自らを「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のったシーンに端を発した鎌倉時代の日本人の姓と名字の問題、『日本人のおなまえ・鎌倉殿の13人SP』でも採り上げられ、次のように説明されていました。
  
 
 
 
 
 
 
>姓とは天皇からもらった公的なもの。
>名字は自分で名乗っているもの。
>◯◯のと入っているのが姓です。
>源平の頃は姓と名字が入り乱れています。
https://www.facebook.com/groups/279754419873682/permalink/696014784914308/
ということであれば、『教行信証』「後序」の
>これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
>あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
>しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
>このゆえに「禿」の字をもって姓とす。
にある、承元の法難で還俗・流罪に処される際に朝廷から(すなわち天皇の名において)「賜」った「姓(名)」である「藤井」姓は、「天皇からもらった公的なもの」としての「姓」(「○○の」と後ろに「の」が付く)であって、赦免の際に自ら名のった「禿」(後ろに「の」が付かない)は、手続き上(「奏状」の書面上)は「(「藤井」に代えて「禿」を)『姓』とす」とは言ったものの、あくまで「名字」と考えていいのではないでしょうか。
罪人名「藤井善信」(ふじいよしざね)
赦免後「愚禿親鸞」(ぐとく・しんらん)
これに対して、『教行信証』『浄土文類聚鈔』「入出二門偈頌』等の漢文聖教に記された公的な名のりとしての「愚禿釈の親鸞」は、「禿」が名字、「釈(の)」が姓、「親鸞」が実名・諱と考えられるのではないでしょうか。
なぜなら「釈の親鸞」とは、元久2年(1205年)に師法然上人から『選択集』の書写と真影の模写を許された際に、
>元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
>同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
>本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。
外ならぬ「真宗興隆の大祖」、本師釈迦に等しき「本師聖人」と仰いだ師法然から賜「御筆をもって名の字を書かしめたまい畢」った姓・名に他ならないからです。
(『選択集』表紙の袖書の名が「釈の綽空」である以上、真影に記された名も当然「釈の親鸞」であるはずです。)
 
 (2月1日)
 
 

「愚禿釈親鸞」の名のりについて

 
 
今年のNHK大河「鎌倉殿の13人」(脚本:三谷幸喜)の第1話で、北条時政が源頼朝に自己紹介する際、「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のった
 
  
ことに対して、Twitter上では、
>歴史考証の誤り指摘(中略)早く三谷幸喜に氏(うじ)姓(かばね)を理解させて。
>氏と苗字の区別がついてないだろ!
との声が上がったようです。
というのは、日本人の姓には、その大元・ルーツを示す「氏うじ」(または「姓かばね」。いわゆる「源平藤橘」)とその在所・地名を表す「苗字(名字)」とがあり、氏には後ろに「の」が付き、「苗字」には付かない、というのが原則なのですが、姓が「平」(北条氏は坂東平氏)である北条時政が「北条四郎時政」(ほうじょうしろう・ときまさ)と名のったことから、脚本の三谷幸喜氏が「やらかした」、つまり歴史的な知識がないために大間違いを犯した、Twitter上でかなり話題にというか、騒ぎになってしまったのです。
 
 
ところが、 以下の細川重男氏『執権』(講談社学術文庫、2019年)の一節にも、
 
 
細川重男『執権』(講談社学術文庫、2019年)
豪士(@Gohshi77)氏のツイートより転載
 
>北条時政を例にしよう。
>北条氏は桓武平氏の一流であるから氏(うじ)は平(たいら)で時政の正式な名のりは平時政(たいらときまさ)であるが、通常の呼称は「北条四郎時政」(ほうじょうしろうときまさ)(俗に氏には「の」を付け、苗字〈名字〉には「の」は付けないで読むと言われるが、誤りである。昔の人は氏にも苗字にも「の」を付けて読んでいた)である。
>これを分解すると、北条が苗字、四郎が仮名(けみょう)、時政が実名(諱)である。
>苗字の北条は、時政の住所兼所領(しょりょう、支配地、ナワバリ)の地名である。>当時の武士は居住地名を苗字にすることが多かった。(以上、34頁)
とあるように、実際には苗字(=北条)の後ろに「の」がつく場合もあったようです。
ただし、同志社女子大学教授・山田邦和氏(@fzk06736)氏のツイート
 
 
 
 
>要するに、「北条」は家名なので、そのあとに「の」をつけるかどうかは大した問題ではない。
>しかし、家名と諱を直結させるのはありえない。
>家名に連結できるのは通称(仮名)。
>だから「北条の時政」はありえないが、「北条の四郎」ならばおかしくない。
によれば、「家名(苗字)+の+通称(仮名)」ならあり得るが「家名(苗字)+の+実名(諱)」はあり得ないとのことで、 上掲の豪士(@Gohshi77)氏が紹介された史料
「足利尊氏近習馬廻衆一揆契状」(『越前島津家文書』
  
 
 
 
では、「いつみ五郎さへもん師忠(花押)」「むらかみかもんのすけ氏頼」等、「苗字++通称(字・あざな、職名)+実名(諱)・花押」になっているようですし、同じく豪士(@Gohshi77)氏が紹介された
 
 
 
でも、「かせ弥次郎」「つくい(津久井)七郎」等、「苗字++通称」になっています。
なぜ、私がこんなことを気にするかと言えば、外でもない親鸞聖人の正式な名のり、
「愚禿釈の親鸞」(ぐとく・しゃくの・しんらん)
の「禿」と「釈」の関係、というか位置づけが気になっているからなのです。
周知のごとく『教行信証』の「後序」には、
「これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
 あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す、予はその一なり。
 しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
 このゆえに『禿』の字をもって姓とす。」
とあって、『歎異抄』末尾の「流罪記録」
「親鸞、僧儀を改めて俗名を賜う、仍って僧に非ず俗に非ず。
 然る間、『禿』の字を以て姓と為し、奏問を経られ畢んぬ。
 彼の御申状、今に外記の庁に納まると云々。
 流罪以後、『愚禿親鸞』と書かしめ給う也。」
と併せて、「禿」が、還俗の上処された流刑から赦免される際、奏状を提出して、あえて僧籍への復帰を辞退した上で名のった「姓」であることが知られます。
では、「禿」が姓であるならば「釈」は何なのでしょうか。
みしろ「釈」こそが、中国の釈道安(314―385)が、当時中国仏教界で行われていた受戒の師の姓を承け継ぐという慣習を改め、「大師の本は釈迦より尊きは莫し」とそれに代わる共通の姓としての「釈氏」を提唱(慧皎『高僧伝』巻五参照)して以来の、伝統ある仏弟子共通の「姓」であります。
また、「姓」であれば「禿の」と「の」がつくはずなのですが、『教行信証』等を見ても「愚禿親鸞」であって「禿」の後に「の」は付かず、「愚禿釈の親鸞」とむしろ「釈」の後ろにこそ「の」が付きます。
このことから見て私は、「釈」(仏弟子)こそが親鸞にとっての(「源平藤橘」等に当たる)「氏・姓」であって、「禿」は末法濁世・粟散片州の無戒名字の比丘というその「末流」としての「名字・苗字」に当たるのではないか、と考えるのですが……
(しかし、そう考えるにしても「後序」の「『禿』の字をもってとす」の一節、殊に「姓」の一字がなあ……)
 (1月18日) 
 
【追記】
ところが、上掲の豪士(@Gohshi77)氏がその後投稿したツイートに拠れば、
慈円『愚管抄』巻四
 
 
 
には、「花山院の家忠」(=藤原家忠、藤原北家御堂流花山院家、1062-1136。別名「花山院左大臣」)といった「家名++実名(諱)」の例が、別のツイートに拠れば、同じく
『愚管抄』巻六
 
 
 
 
 
に「三浦の義村」(=三浦義村、桓武平氏良文流、1168?-1239。通称は「平六」、官位は右兵衛尉・三河守・三浦介)といった「苗字++実名(諱)」の例もあるようで、何とも……
豪士(@Gohshi77)氏によれば
>名字が確立する以前の状況だとは思いますが、
とのことですが……ヤレヤレ。(~_~;)
ちなみに『愚管抄』の成立は承久2年(1220年)頃だそうです。 
 
 (1月21日)
 
【追記その2】
 
 
 
『鎌倉殿の13人』のこのシーン、「牧氏事件」(元久2年・1205年閏7月)で父北条時政(鎌倉幕府初代執権)を伊豆に追放した後、御家人達の前で主人公義時が、
「この北条(の)義時が、鎌倉の政(まつりごと)を取り仕切る!」
と宣言するシーンで、三谷幸喜さん、はっきりと「北条の義時」(苗字+の+実名(諱)」と名のらせてます。
 
(12月26日)
 
 

謹 賀 新 年

 
 
つらくても おもくても 自分の荷は
  自分で背負って 生きさせてもらう
                (東井義雄)
 
 
   旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 
年頭に当たり、昨秋還浄なさった恩師が、私たち門下生一同に遺して下さった言葉、
皆様方、
それぞれの業をどうか存分にお果たし下さいますよう、あらためてお願い申し上げます。
優れた力を存分に発揮して、真宗のために奮発下さいますよう、お願い申し上げます。
                   (寺川俊昭)

への応答の意味を込めて、上記の東井先生の言葉を掲げさせていただきます。

 
 (2022年1月1日)

 
 


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