法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第33号<2008年6月発行>
 
 

「豊かさの中の貧しさ」

    マザーテレサの言葉

「この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。自分が誰からも必要とされないと感じることです。」

 この言葉は、ノーベル平和賞を受賞した故マザー・テレサ(1910―1997)が、1952(昭和27)年、インドのカルカッタ(現コルカタ)に『死を待つ人々の家』を開設した際に語った言葉だそうです。

 現在もそうですが、インドという国は貧富の差、格差が大変に激しく、家も無く路上で生活する人もたくさんいます。
 特にカルカッタのような大都市ならなおさらです。

 今から25年ほど前に私が一度だけインドを訪れた時、早朝ホテルを出たバスの窓からカルカッタ市街の道端にズダ袋のようなものが転がっている、それも何個も何個も延々と並んでいる光景を眼にしました。
 よく見るとそれはすべて粗末な毛布にくるまって眠っている人間だったのです。
 その中には、おそらくそのまま「行き倒れ」となってしまった人もたくさん居たことでしょう。

 マザー・テレサはそんな「行き倒れ」た瀕死の人たち、つまりは「自分が誰からも必要とされないと感じている」人を、『死を待つ人々の家』に運んで、その最期を看取るという活動を始めたのです。

 どうせもうすぐ死んでしまう人間に対してそんなことをしても意味がないのではないか、なぜそんな〈無駄な〉ことをするのか、という批判もあったそうですが、そんな批判に対して彼女は、

「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。
 世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。
 見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

と答えたそうです。

 その彼女が、1981(昭和56)年に初めて来日した際、路上に倒れた酔っ払いの中年男性に手をさしのべる人が一人もいなかったことにショックを受け、こう語ったそうです。

「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。
 この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」
「豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。
 だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。
 物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。
 心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
 日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」
 

   「法蔵菩薩五劫思惟像」

 ここに一枚の写真があります。
 富山県のあるご門徒宅のお内仏の「脇掛け」として伝えられてきたものです。

 通常「ご本尊」の阿弥陀如来像の両脇には、「親鸞聖人」・「蓮如上人」の「ご絵像」か、「帰命尽十方無碍光如来」(十字)・「南無不可思議光如来」(九字)の「お名号」が「脇掛け」として用いられるのですが、このお宅では、「五劫思惟阿弥陀如来」像として、ガリガリに痩せてやつれた仏さま(通称「痩せ仏」)の絵姿が掛けられているそうです。

『大無量寿経』によれば、阿弥陀如来はその因位(いんに・悟りを開く以前の修行者の位)である法蔵菩薩(ボサツ)の時代、師である世自在王仏の説法によって二百一十億の仏の世界とそこに暮らす人々の生き様をつぶさに御覧になり、この世のすべての人々の苦をどうしたら抜くことができるかについて「五劫(ごこう)」の間、考えに考え抜かれたと 言います。

 この「五劫思惟阿弥陀如来」像は、その間の阿弥陀仏(当時は法蔵菩薩)の思惟(しゆい)の姿を描いたものというわけですが、法蔵菩薩は安閑と、ただ漠然と思索に耽っていたわけではありません。

「慈悲」という仏教語がありますが、翻訳以前のインドの言葉では「慈」は「マイトリー」(「最高の友情」という意味)、「悲」は「カルナー」(「嘆き、呻(うめ)き」という意味)という言葉だったそうです。

 自分の人生の苦悩に深い悲嘆〈カルナー〉を覚える者は、その呻吟を通して他人の苦悩に深く共感し、我がことのように嘆き悲しみ、苦悩するすべての者に対して親近と慈しみの念〈マイトリー〉を抱く、というのが「慈悲」の元来の意味だそうです。

 そのような「慈悲」の心をもって、眼前に二百一十億の世界に暮らす無数の人々の姿を思い浮かべながら、その一人一人の人生を我がこととして見、感じ、呻き嘆きながら、文字通り身心を削って法蔵菩薩は考え続けた、というのです。
 

    阿弥陀仏の悲嘆(カルナー)

 しかし私はこうも思うのです。

 五劫の間考え続けた、というのは逆に言えば「考える続けることしかできなかった」ということではないのか、と。

「劫」(カルパ)とは、一劫が「一辺40里(約20km)の岩を三年もしくは百年に一度、天女が舞い降りて来て羽衣で撫でて、その岩が擦り切れてなくなってしまう」ほどの長い時間に譬えられますが、それが5回ともなれば、その間いったいどれだけの人が生まれ、そして死んでいったのでしょう。それどころかどれだけの国や民族、文明が起こりそして滅んでいったのでしょう。

 それらの興亡・栄枯盛衰を目の当たりにしながら、そこで苦しむ人たちに対して法蔵菩薩は何らの手立ても、方途も示すことができなかったのです。

 法蔵菩薩の前身は「無諍念王」(むじょうねんおう・争いの無くなることを念じた王)という名の国王でした。争いのない国を願いながら、おそらくは国の内外をより強い力(武力・権力)で押さえつけ、不平や不満を圧殺することでしか平和を維持できない政治の矛盾・限界を嘆いて世自在王仏の下で出家したであろうその法蔵菩薩が、それらの人々を前に、なす術もなく立ち竦み、ただ手をこまねいて見ていることしかできなかったわけです。

 その法蔵菩薩の「悲しみ」、「傍観者」でしかあり得ないという「無力感」、「もどかしさ」が、彼の体から肉と脂を削ぎ落としていった、と考えるのはうがちすぎでしょうか。

 そしてそのような長い苦渋の中から選び取られたのが、「南無阿弥陀仏」というたった一つの「言葉」だったのではないでしょうか。

「私(阿弥陀)はあなたのことを見ている。
 世界中の誰もがあなたのことを見限って、『そんな奴は知らない』『お前なんか要らない』と言おうとも、私だけはけっしてあなたを見捨てない。
 だからあなたは決して一人ぼっちでも、『必要のない人』でもない。」
「私があなたに与えるこの『南無阿弥陀仏』という言葉を手がかりにして、どうか私のこの思いに気づいてくれ。」

 これが私たちに対して「汝、阿弥陀仏(私)に南無せよ」と呼びかけられた阿弥陀仏の願い―「本願」―ではないでしょうか。

 私たちにかけられたこの「願い」に、それも身近な人たちとの関わりを通して、本当に気づくことができた時、私たちは苦しみの中で力強く生きていくことができるのではないでしょうか。

  6月8日、日本の今の物質的繁栄を象徴するような街、東京・秋葉原で起きた通り魔事件。
 もはや「またか」としか思えないようなこの事件の犯人もまた、「自分が誰からも必要とされていないと感じていた」一人だったそうです。

(『西念寺だより 専修』第33号〈2008年7月発行〉掲載)

〈参考文献〉
尾田武雄『とやまの石仏たち』(桂書房・2008)


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