法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
第17号1992年6月発行分 第18号1993年6月発行分 第24号1999年6月発行分

第25号2000年6月発行分

第26号2001年6月発行分

第27号2002年6月発行分

第28号2003年6月発行分

第29号2004年6月発行分

第30号2005年6月発行分

第31号2006年6月発行分

第32号2007年7月発行分

第33号2008年6月発行分

第34号2009年6月発行分

第35号2010年6月発行分

第36号2011年6月発行分

 
 
寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第37号<2012年6月発行>
 
 

親鸞聖人に遇う


 

    親鸞筆「名号」との対面

昨年5月26日、親鸞聖人七百五十回忌法要参拝旅行の第二日目、「親鸞展」鑑賞のため京都市立美術館を訪れた私は、そこで親鸞聖人直筆の「八字名号」(高田専修寺蔵・ 下部画像参照)を拝見しました。

御門徒のみなさんと会場に入った最初の展示物がこの「南無不可思議光仏」の名号だったのですが、「想像していたよりも小さい」というのがその第一印象でした。

しかしこの名号をじっと見ているうちに、私の中に、自分でも予期しなかった「感情」が湧き起ってきました。
それは何とも言えない「嬉しさ」であり、「懐かしさ」でもあり、展覧会場という場には不似合いだったとは思いますが、私は思わず掌を合わせておりました。
あえて言葉にすればそれはこんな思いでした。

「ああ、ここに真実(まこと)の人が居た(居てくれた)。
 やっと、この人に遇えた。本当に久しぶりに……」

このように書くと皆さんは奇異に感じられるかも知れません。
私が観たのはあくまで親鸞聖人の「字」であって、親鸞聖人その人に遇ったわけではない、と。

確かにそれはその通りですし、会場には親鸞聖人の「御影」(ごえい・肖像画)も展示されてはいましたが、むしろ「字」の方に強く聖人を私が感じたのは、それが他でもない「南無不可思議光仏」という名号であったからであり、そしてこの名号が、聖人御存命の頃より真宗門徒の間で「本尊」として仰がれてきたものだったからなのです。
(ちなみにこの一幅は、康元元年(1256)10月に、京都の聖人を訪ねて関東から上洛した4名の門弟(真仏、顕智、専信、弥太郎(出家後は随念)のために書かれた 名号四幅の内の一幅だそうです。)

 

親鸞聖人筆
「八字名号」
(高田・専修寺蔵)

 
      言葉」となった親鸞

今から50年以上前、親鸞聖人七百回忌を五年後に控えた昭和31年(1956)2月、米沢英雄氏(1901―1991)によって、「その人」と題する詩が雑誌『同朋』誌上に発表されました。

   その人
                    
米沢英雄

その人が亡くなってから 七百年にもなるという
だがその面影は昨日のように鮮かだ
その人の苦悩 その克服
又苦悩を克服し得た歓びは 短い言葉に結晶した
その言葉はその人よりももっと昔
悠久な時の中を生きつゞけてきたのだという

その人は演説しなかった
その人は怒号しなかった
その人は激昂しなかった
いつもしずかに自分自身に言いきかせていた

その人は大げさなジェスチュアをしなかった
人類のためにつかわされたとはいわなかった
人類の身代りになるともいわなかった
自分一人の始末がつきかねると いつもひとり歎いていた

その人は子供を喜ばすプレゼントをもって来なかった
みんなに倖せを約束しなかった
只古臭い言葉に新しい命を裏打ちして 遺して行っただけだった
その人の悲しみを救うたものこそ
その人の遺して行った言葉こそ
人類のすべてがやがて仰がねばならぬものではなかったか

その人の生涯ははじめから不幸だった
幼くして両親に死別れ 唯一人の師と頼んだ人にも生別し
家をなしたのも束の間 一家は離散し 諸国を放浪し
この世の片隅に一人しずかに生きて
魚の餌食になりたいというて死んで行った

その人の小さな内省的な眼
あれが自己の中に巣喰うて遂に離れぬエゴイズムを
しばらくも見逃さずみつめつゞけた眼だ
之が生涯この人を泣かしめた 又その故に本願を仰がしめた

世間的には不幸な生涯ではあったが
その生涯の支えとなった本願と
本願の生きた証明者であるその師に
遇い得たことを最勝の歓びとして
やすらかに往生したという

その人の御名の語られるところ
そこには今もしずかな喜びがあふれ
涅槃(ねはん)に似た平安(やすらぎ)がある
その人はその後幾多の魂の中に転生した
之からもどれだけの魂に宿り その悩めるものを勇気づけ
真実の喜びを与えて行くことであろう
噫(ああ) あなたこそ無量寿であり無量光ではないか

あなたによって真実に眼を開かれた私は
本願の松明(たいまつ)をリレーする走者となって
命の限り走りつゞけて 自らを照らすと共に
次のジェネレーションに 確かに手渡さねばならぬと
今改めて思う
                (『同朋』1956年2月号)

発表後50年を経てなお瑞々しいこの詩の中で、米沢氏は「その人」(=親鸞聖人)の生涯を次のように語っています。

「その人の苦悩/その克服/苦悩を克服し得た歓びは/短い言葉に結晶した」
「ただ古臭い言葉に新しい命を裏打ちして/遺して行った」
「その人の遺して行った言葉こそ/人類のすべてがやがて仰がねばならぬものではなかったか」

ここで言われる聖人の遺した「言葉」、聖人よりももっと古くから悠久の時を生き続け、そして聖人によって新しい命を吹き込まれた「言葉」とは何だったのでしょうか。

それこそが、

「無量寿如来」
(無限の寿(いのち)を持つ仏)

あるいは

「尽十方無碍光如来」
(全宇宙を照らして何ものにも妨げられない光の仏)

そして

「不可思議光仏(如来)」
(人間の思慮分別を超え、どんな言葉でも言い尽くせない不可思議な光の仏)

とも称される「阿弥陀仏(如来)」への「南無(帰依)」を意味する 「南無阿弥陀仏」という「言葉」だったのです。

 

屏風絵「親鸞」(部分)
(井上雄彦作)

 
      灯火に照らされて生きる

「南無不可思議光仏」の語から知られるように、親鸞聖人は阿弥陀仏を今生きてある自分を照らし、その無明(むみょう )―智慧の眼がなく自身の姿に昏(くら)い私たちの在り方―を破る智慧の光として仰いでおられました。

聖人御制作の和讃にこんな一節があります。

無明長夜の燈炬(とうこ)なり
 智眼くらしとかなしむな(『正像末和讃』)

この一節に想を得たものか、五木寛之氏は小説『親鸞 激動篇』において親鸞聖人に、法然上人との出遇いを通して獲た念仏の信心を、月の光をたよりに比叡山の真っ暗な夜道を登った稚児時代の体験になぞらえて次のように語らせています。

「念仏をしても、決して背負った荷の重さが軽くなるわけではない。
 行き先までの道のりがちぢまるわけでもない。
 だが、自分がこの場所にいる、この道をゆけばよい、そしてむこうに行き先の灯が見える、その心づよさだけで弱虫の私はたちあがり、歩きだすことができた。
 念仏とは、私にとってそういうものだった。」
               (『親鸞・激動篇 下』p149)

親鸞聖人にとって「南無阿弥陀仏」とは、自分が今居る場所、在り方を如実に照らし出し、進むべき具体的な道筋を示してくださるかけがえのない灯火となった「言葉」であり、その「言葉」に聖人はこの世(穢土)に堪えて生きよという如来の励ましを確かに感じ取っておられたのでしょう。

さて、皆さんはその胸の中に、どんな「言葉」と誰の「面影」を抱いて生きていらっしゃいますか。

(『西念寺だより 専修』第37号〈2012年7月発行〉掲載)

〈参考文献〉
図録『親鸞展 生涯とゆかりの名宝』(朝日新聞社・2011)
五木寛之『親鸞・激動篇 下』(講談社・2012)


Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.