法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2011年1〜6月分)

 

 
 

宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要

 

 

 

 

住職・前住職・前坊守を含む西念寺門徒総勢51名が東本願寺で執行中の「宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要(第3期)」に団体参拝致しました。
 

詳しくは「視聴覚ライブラリー」 内「西念寺行事アルバム」の「宗祖親鸞聖人750回御遠忌団体参拝旅行(1)」「(2)」「( おまけ)」にて。

(5月25日)

 
 

春 よ、来 い。」


「冬来りなば、春遠からじ」

パーシー・ビッシュ・シェリー
                     『Ode to the West Wind(西風の賦/西風に寄せる歌)』より)
 

 

 

     
 


 春は来る。
 必ず来る。
 どんな場所にも。
 どんな人の上にも。
 春は来る。

 「春」よ……、
      来 い。
 

 

 

 

東日本大震災の犠牲者の方々に心よりの哀悼を捧げますとともに、
被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

本堂に「義捐金」箱を設置しました。

ご協力の程お願い申し上げます。m(_ _)m

(3月18日)

 
 

寺川先生に会って考えたこと
      親鸞聖人帰洛の理由について 


 寺川俊昭選集刊行祝賀会に参加して久方ぶりに恩師にお会いし、日ごろ働かない私の頭も少しは動き出したようです。
 ただ、動き出したのはいいのですが、勢い余ってあらぬところへ想念が飛び始めているようで、いつもの「戯言」と思ってお付き合いください。

 ここ数日私の頭の中を駆け巡っているのがサブタイトルに挙げた「親鸞聖人帰洛の理由について」です。

 御存じのように、宗祖親鸞聖人は 承元元年(1207・35歳)の時、いわゆる「承元の法難」に連座して越後に流罪となります。建暦元年(1211・39歳)の赦免の後も越後に留まられ、建保2年(1214・42歳)に常陸(現茨城県)に移られ、以後約20年間関東で教化活動に従事された後、京都に帰られます。

 しかし、この帰洛の時期や理由は明らかではありません。
(もっとも明らかでないのはそればかりではなく、比叡山で何をしておられたのかも、なぜ関東に移られたのかも不明 で、両親が誰であるかさえ、親鸞聖人ご自身は一切語っておられません。
 このように親鸞聖人がご自身の生涯についてほとんど何も語られなかったこともあって、聖人のご生涯は「謎」だらけであると言えます。)

 親鸞聖人のご生涯を載せたどの「年表」を見ても、帰洛の年を明記したものはありませんが、 だいたい62、3歳頃(文暦元年・1234〜同2年・1235)頃に帰洛されたと考えられています。

 また、その理由については従来から、

@弟子逹によって神格化されるのを嫌った。
A鎌倉幕府による専修念仏弾圧から逃れてのもの。
B『教行信証』執筆の資料収集のため。
C老境に逹した親鸞が望郷の念に駆られて。

といった説が唱えられていますが、@が理由だとすれば、関東に残された弟子たちからすれば「見捨てられた」という思いを抱いたのではないでしょうか。
 しかし、現存する聖人の書簡からは、帰洛後の聖人と門弟たちとの間には、帰洛以前と変わらぬ緊密な交流があったことが窺われます。

 Aの「幕府による専修念仏弾圧を逃れて」との説にしても、文暦2年(1235・63歳)7月に鎌倉幕府は専修念仏を禁止していますが、帰る先の京都こそ念仏弾圧の 「本場」であると言えます。
 実際、嘉禄3年(1227・55歳)には6月に法然上人の墓が暴かれそうになり、7月には隆寛・成覚房幸西・空阿弥陀仏ら3名の流罪 、念仏者46名の逮捕が決定され、12月には法然上人の著書『選択集』の版木が焼かれるという激しい弾圧(嘉禄の法難)が行われています し、天福2年(11月に改元して文暦元年)6月にも教雅が流罪に処されています。

 Bの説にしても、覚如の『口伝鈔』が伝える一切経校合への参加の記事は、細部に誤りはあるものの史実と見做す説もあり、資料の入手は関東でも充分可能であったことが窺われます。
(ただし、同じ「『教行信証』の完成を目指して」との説の中でも、寺川先生は必ずしも資料収集が目的ではなく、『教行信証』を真に完成させるためには 、やはり思想戦の只中に、現代で言えば東京のようなさまざまの思想の渦巻く「るつぼ」である京都に身を置く必要があったのでは、とされています 。)

 Cの説、これが近年もっとも有力な説だそうですが、これについては私は、今から30年程前に安田理深先生(1900―1982)から直接お聞きし たことがあります。
  当時安田先生は80歳前後。鎌倉時代の常識からすればいつ死んでも不思議ではないほどの年齢に達した親鸞聖人のご心境を、ご自身の現況と照らして慮っておられたのかも 知れません。

 しかし私は今回、これらとは別の、「親鸞聖人帰洛の理由」についての「新説」(そんな大層なものじゃないか…)を提示したいのです。

 それは、

親鸞聖人は、師法然上人の二十三回忌に、その墓前に『教行信証』を捧げるために帰洛した。

というものです。

 人が自分の著作、自らの思索の成果を世に問うた時、誰に一番読んでもらいたいと思うでしょうか。誰に読んでもらえたら一番嬉しいでしょうか。
 他でもない、長年懇切な指導を受けた自分の「恩師」にではないでしょうか。

 私も「雀百まで踊り忘れず」よろしく、近年学術論文を数編、学会誌に寄稿していますが、今回先生とお会いして、お読みくださったと聞 いて、この上ない嬉しさを覚えました。

 親鸞聖人が『教行信証』を書き上げられた時、一番にご覧頂きたいと思われた人は師法然上人ではなかったでしょうか。
 ただ法然上人は建暦2年(1212)1月25日にすでに亡くなっておられますから、せめてその墓前に……、と思われたのではないでしょうか。

 重見一行氏の考証(『教行信証の研究―その成立過程の文献学的考察―』)に拠れば『教行信証』坂東本(親鸞聖人真蹟) の最も古い部分は、聖人の58〜60歳頃に書かれているそうです。
 坂東本の現状から見ると、「化身土巻・末巻」の『大集経』などのようにそれ以降(75歳頃)に付け加えられた箇所もありますが、関東時代に一応は完成 (脱稿)していたと見ることもできるそうです。

 親鸞聖人が帰洛したと見られる文暦元年(1234)は、法然上人が亡くなられた建暦2年から数えて22年目、ちょうど二十三回忌に当たります。
 入滅後、東山大谷に埋葬された法然上人の遺骸は、嘉禄の法難の際 、難を逃れて嵯峨、太秦と転々とし、翌安貞2年(1228)1月25日(上人十七回忌)、粟生野で荼毘(火葬)に付されました。
 上人のご遺骨はその後、貞永2年(1233、文暦元年の前年)のこれも1月25日、正信房湛空によって嵯峨・ニ尊院に納められたそうです。

 おそらくは翌天福2年(11月に改元して文暦元年)1月25日、京都において法然上人の二十三回忌が執り行われたものと思われます。
 その場所はご遺骨のあったニ尊院、あるいは粟生野、東山大谷の地であったかも知れませんし、弟子たちが一堂に会してといった大規模なものではなく、京都各所の上人門弟ゆかりの地でそれぞれに営まれたかも知れません。

 関東におられた聖人が京都の動向に無関心でおられた、在京の法然門流と一切没交渉であった、とは思われません。

 在京時代に交流があり、流罪以降も消息を伝え合うような門弟仲間もあったのではないでしょうか。
 聖人は、法然聖人の御おしえをよくよく御こころえたる人々」と仰いだ聖覚法印の著書『唯信鈔』の直筆本を関東で入手し、寛喜2年(1230、58歳)に書写しておられますし、聖覚法印が亡くなられるのは翌年文暦2年(11月に「嘉禎」に改元、1235)3月です。
 隆寛律師は安貞元年(1228)に相模国で亡くなっておられますが、その門流(長楽寺流)は京都に残っています。
 聖人を関東に招いたと見られる鎌倉御家人宇都宮頼綱(法名・実信房蓮生)も、小倉山に別荘をもち、歌人として京都で活躍していました。

 親鸞聖人もすでに62歳の高齢ですから、この機を逃せばこの先法然上人の法要に参加する機会がそうそうあるとも思えなかったのではないでしょうか。

 親鸞聖人は、文暦元年(1234)、法然上人の二十三回忌に参列するために上洛し、自著『教行信証』をその墓前に捧げた、と私は考えるのです。

 ただ、 前年に行われた上人の遺骨のニ尊院への移動も、善恵房証空が念仏宗の主導権を握ることに批判的であった湛空が、管理を委託されていた幸阿弥陀仏(証空の弟子)のもとから強引に遺骨を奪い取ったとも言われており、帰洛早々に聖人は遺弟間の激しい対立を目にすることになったと思われます。

 また、この時の上洛が、そのまま京都に留まるつもりのものであったか、すぐに関東に戻るつもりのものであったかはわかりません。
 何らかの事情によって―翌文暦2年7月の鎌倉幕府による念仏禁止令の影響があったかも知れませんし、『教行信証』の真の完成のためには京都に居ることが最良と 判断されたのかも知れません。あるいは同年3月の聖覚法印の死去も何か関係したかも知れません―、聖人はそのまま京都に留まり、以後、寛元5年(1246・75歳)の『教行信証』の完成(尊蓮に書写を許可する)まで、その事業に邁進されたのだ 、と私は考えるのですが。


……想像力過多でしょうか。(-_-;)
また、誰ぞに「憶測の上に憶測を重ねて」と非難されそうだ。((-_-;)

問題は、実際に法然上人の二十三回忌が行われたかってこのとなんですね。
何より、当時二十三回忌を勤める習慣があったのかどうか。(((-_-;)

……どんな史料を調べれば良いんだろう???

……ご意見、ご批判とかあったら、ウレシイです。(*^-')b

(2月3日)

 
 

元日だと言うのに……
 

 元日です。新しい年のスタートです。

 とは言うものの……大雪です。(-_-;)

 50年ほど生きてきて、これほどまでの雪は記憶にありません。
 それもそのはず、早朝の時点で積雪量89センチ(1949年の観測開始以降の米子市の最大積雪量)を記録したそうです。

 


本堂屋根からずり落ちた「雪の壁」
(昨夕の写真とお比べください)
 

 
 年賀状すら届きません。
 新聞は何とか届きましたが。(日本海新聞さん、偉い!!)

 それもそのはず玄関前はこの状態……。

 
 
 

 下手に境内に入ってくれば「遭難」ですわ。
 うかつに外出するのも危なそう。

(それどころか、大晦日には奥大山で雪崩のため4人死亡。
 31日から元日にかけて県中部では自動車1000台が立ち往生。
 JRも特急が34時間の遅れ(乗客は車中に2泊)。
 米子市内でも送電線の鉄塔が3基倒壊し2500戸が停電……。
 新年早々、鳥取県内エライことになってます。)


 ……それにしても、今から800年前の越後の冬はどんなだったでしょうか。

 テレビも、照明も、エアコンもあるではなし。
 数ヶ月間家に閉じ込められてひたすら雪解けを待つばかりの日々……。

 そういえば今年は750回忌か……。
(一向に気持ちが盛り上がってこないのはなぜ?……私だけ?)
 

宗祖聖人御流罪の日々を憶いつつ……
 

謹 賀 新 年


私がこの世にある意味も
 私が此処で果たす役割も 
  私が私を生きる勇気も
 みんなみんな頂き物でした。

ありがとうございます。
      南無阿弥陀仏


        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2011年1月1日)

 
 

2010年1〜12月分 現在の「日記」 2011年7〜12月分

 


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