「住職日記」(2011年1〜6月分) | |
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宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要
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(5月25日) |
「春 よ、来 い。」
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「春」よ……、 |
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東日本大震災の犠牲者の方々に心よりの哀悼を捧げますとともに、 本堂に「義捐金」箱を設置しました。 ご協力の程お願い申し上げます。m(_ _)m (3月18日) |
寺川先生に会って考えたこと
ここ数日私の頭の中を駆け巡っているのがサブタイトルに挙げた「親鸞聖人帰洛の理由について」です。 御存じのように、宗祖親鸞聖人は 承元元年(1207・35歳)の時、いわゆる「承元の法難」に連座して越後に流罪となります。建暦元年(1211・39歳)の赦免の後も越後に留まられ、建保2年(1214・42歳)に常陸(現茨城県)に移られ、以後約20年間関東で教化活動に従事された後、京都に帰られます。 しかし、この帰洛の時期や理由は明らかではありません。 親鸞聖人のご生涯を載せたどの「年表」を見ても、帰洛の年を明記したものはありませんが、 だいたい62、3歳頃(文暦元年・1234〜同2年・1235)頃に帰洛されたと考えられています。 また、その理由については従来から、
といった説が唱えられていますが、@が理由だとすれば、関東に残された弟子たちからすれば「見捨てられた」という思いを抱いたのではないでしょうか。 Aの「幕府による専修念仏弾圧を逃れて」との説にしても、文暦2年(1235・63歳)7月に鎌倉幕府は専修念仏を禁止していますが、帰る先の京都こそ念仏弾圧の
「本場」であると言えます。 Bの説にしても、覚如の『口伝鈔』が伝える一切経校合への参加の記事は、細部に誤りはあるものの史実と見做す説もあり、資料の入手は関東でも充分可能であったことが窺われます。 Cの説、これが近年もっとも有力な説だそうですが、これについては私は、今から30年程前に安田理深先生(1900―1982)から直接お聞きし
たことがあります。 しかし私は今回、これらとは別の、「親鸞聖人帰洛の理由」についての「新説」(そんな大層なものじゃないか…)を提示したいのです。 それは、
というものです。 人が自分の著作、自らの思索の成果を世に問うた時、誰に一番読んでもらいたいと思うでしょうか。誰に読んでもらえたら一番嬉しいでしょうか。 私も「雀百まで踊り忘れず」よろしく、近年学術論文を数編、学会誌に寄稿していますが、今回先生とお会いして、お読みくださったと聞 いて、この上ない嬉しさを覚えました。 親鸞聖人が『教行信証』を書き上げられた時、一番にご覧頂きたいと思われた人は師法然上人ではなかったでしょうか。 重見一行氏の考証(『教行信証の研究―その成立過程の文献学的考察―』)に拠れば『教行信証』坂東本(親鸞聖人真蹟)
の最も古い部分は、聖人の58〜60歳頃に書かれているそうです。
親鸞聖人が帰洛したと見られる文暦元年(1234)は、法然上人が亡くなられた建暦2年から数えて22年目、ちょうど二十三回忌に当たります。 おそらくは翌天福2年(11月に改元して文暦元年)1月25日、京都において法然上人の二十三回忌が執り行われたものと思われます。 関東におられた聖人が京都の動向に無関心でおられた、在京の法然門流と一切没交渉であった、とは思われません。 在京時代に交流があり、流罪以降も消息を伝え合うような門弟仲間もあったのではないでしょうか。 親鸞聖人もすでに62歳の高齢ですから、この機を逃せばこの先法然上人の法要に参加する機会がそうそうあるとも思えなかったのではないでしょうか。 親鸞聖人は、文暦元年(1234)、法然上人の二十三回忌に参列するために上洛し、自著『教行信証』をその墓前に捧げた、と私は考えるのです。 ただ、 前年に行われた上人の遺骨のニ尊院への移動も、善恵房証空が念仏宗の主導権を握ることに批判的であった湛空が、管理を委託されていた幸阿弥陀仏(証空の弟子)のもとから強引に遺骨を奪い取ったとも言われており、帰洛早々に聖人は遺弟間の激しい対立を目にすることになったと思われます。
また、この時の上洛が、そのまま京都に留まるつもりのものであったか、すぐに関東に戻るつもりのものであったかはわかりません。
(2月3日) |
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(2011年1月1日) |
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