「住職日記」(2011年7〜12月分) | |
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もしかして「痛車」!?
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(10月27日)
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Let's まちおこし
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(製作したのは地元商店街の〇〇染物店だと思いますが、もし間違ってたらヤバイので商店名はヒ・ミ・ツ) |
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(9月25日) |
五木寛之先生。さすがです!! 前回の「日記」(8月25日付)で、私は親鸞聖人御制作の和讃
を紹介し、親鸞聖人は「阿弥陀仏を信じさえすればもう念仏を称えなくてもよい」どころか、むしろ「阿弥陀仏を信じることのできた人はよりいっそう、積極的に念仏を称えなさい」と教えられているのではないか、と書きました。 そう書きながら私は同時に、それではなぜ親鸞聖人が「よりいっそう念仏を……」と勧められたかについてうまく説明できないもどかしさを抱えていました。
ところが、現在地元紙(『日本海新聞』)に連載中の五木寛之『親鸞〈激動篇〉』を読んでいた時、見事にそれを言い当てた表現に出逢いました。
これを読んだ時、私は正直感嘆の吐息を洩らさざるを得ませんでした。
「言いたくてうまく言えない、伝えたくても伝えきれない」私のジレンマを、作家の表現力をもって見事に一刀両断して下さいました。
私たちは「無明の闇」を生きる者、言わば闇夜に重き荷を背負って険しい山道を一歩一歩登らなければならない存在なのでしょう。 「光」に照らされて今さらながら「闇」の深さが知られてきます。 弥陀の本願に出遇い、それを信ずる者となったからこそ、
とひたすら念仏して、終生本願を憶念し続けねばならないのでしょうし、その「光」に対しては
とその名を称え、褒め讃えないわけにいかないのでしょう。 「救い」とは「光に出遇えた」ことであって、決して「光を必要としない身になった」ことではありません。 「正信偈」には、
とあります。 ただし、「正信偈」はその後に、
と続いていますし、同じ「正信偈」のいわゆる「源信章」には、
とあります。
この「気づき」(目覚め)が、言うなれば親鸞聖人が教えて下さった「念仏の救い」ではないでしょうか。 前回私は、番組解説者の「信心」理解を問題にしましたが、同時に「救い」という言葉が番組においていかなる意味で用いられているのかをも問題にしなければならなかったわけです。 最後にもう一つ、蛇足的に付け加えれば、念仏に賜る利益(りやく)を語った親鸞聖人の
という言葉が『歎異抄』第7章に伝えられています。 この「無碍(さわりがない・何ものにも妨げられない)」の語から、私たちは安直に「ひとたび信心を得ればその後はこの世の中を自由自在に、それこそ大手を振って生きていける」ような「救い」をイメージしがちですが、実際はそうではないのでしょう。 寺川俊昭先生はこの言葉を次のように解説しておられます。
(9月23日)
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親鸞は「念仏をとなえなくてもいい」と言ったのか? NHK総合TVで6月15日に放送された「歴史秘話ヒストリア『人はみな、救われるべきもの〜法然と親鸞 探求の道〜』」、昨日、遅ればせながら観ました。 法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌に併せたということもあるのでしょうが、お二人が別々に取り上げられるのではなく、「師弟として一つの仕事を成し遂げていった」という視点で番組が制作放映されたことがあったかな〜?と興味深く視聴しました。 ……とは言え、その放送内容のすべてに諸手を挙げて賛成、というわけにはいきません。 偉大な宗教者の生涯を描こうとする場合、いろいろな伝説やら学者の説がある中、それを取捨選択し、なおかつさまざまな批判やクレームを予想(覚悟?)しなければならないという制作者側の苦労もわからないではないのだけれど……、それでもやっぱり一言半句に過敏に反応してしまうのが「真宗坊主」としてのワタシの「業(ごう)」なのでしょうか……。 つまりはそれが、タイトルに挙げた「親鸞は『念仏をとなえなくてもいい』と言ったのか?」なのです。 番組中盤の32分過ぎ、法然と別れて越後(新潟県)に流刑になった親鸞が、罪を許されても京都には帰らず関東に向かい、都とは異なる世界で専修念仏(せんじゅねんぶつ)の伝道につとめようとした、として水戸市真仏寺に伝わる「お田植え歌」が紹介された後のことです。
さて、ここで問題なのですが、親鸞聖人ははたして本当に法然上人の専修念仏の教えを「念仏もとなえなくていい。阿弥陀仏への信心がもとだ」、言い換えれば「阿弥陀仏を信じさえすればもう念仏をとなえなくてもいい」と変えたのでしょうか? 親鸞聖人は生涯多くの「和讃」(和語による讃歌)を制作なさっておられますが、その中には以下のような念仏をとなえることを積極的に勧めておられる和讃が多くあります。
また、さらにはこんな和讃すらあります。 弥陀大悲の誓願を この和讃によれば、親鸞聖人は「阿弥陀仏を信じれば念仏をとなえなくてもよい」どころか、むしろ「阿弥陀仏を信じる人は積極的に念仏をとなえなさい」と教えられているのではないでしょうか。 親鸞聖人は関東時代、「上人の二十五日の御念仏(おんねんぶつ)」として毎月、法然上人の御命日である25日に念仏の法会・集会を開いておられましたし、そこに集う人たちを「専修念仏のともがら」(『歎異抄』)と呼んでおられました。 これらの親鸞聖人のお言葉や行実のいったいどこから「親鸞は『念仏をとなえなくてもいい』と言った」というフレーズが導き出されるのでしょうか。 番組の前半、法然上人の専修念仏について次のように解説したナレーションが流れます。
このナレーションに従えば、法然上人の「念仏」とは、すべての人々を救いたいという阿弥陀仏の本願に南無する―すべてをゆだねお任せする、つまりは「信じる」―ととなえる念仏ですし、親鸞聖人の「信心」とは、すべての人々を救いたいがために念仏を極楽浄土に行ける行いとして選んだ本願を信じて阿弥陀仏にすべてをゆだねることに他なりません。※4
親鸞は法然を「変えた」のではなく、法然が「行」に力点を置いて語った事柄を「信」に力点を置いて語ったという、師弟それぞれが置かれた時代状況の違いに起因する「視点の違い」と理解すべきではないでしょうか。 確かにかつては「法然は念仏為本、親鸞は信心為本」という定型化した了解の図式がありました。
(そもそも「信じさえすればいい」と言うその「本願を信じる」、番組で言うところの「阿弥陀仏にすべてをゆだねる」信心の発起がどれだけの「難事業」であることか……。 また、法然上人・親鸞聖人の在世中、専修念仏に関する「異義」として「一念義」が流行しました。 聖覚法印の『唯信鈔』によればその人たちは、
のだそうで、法然上人・親鸞聖人御両名とも厳しくこれを諌めたというお手紙が残っています。 前掲の「阿弥陀仏を信じさえすれば、すでに救われているからもう念仏をとなえなくてもいい」という言葉と酷似していると感じるのは私だけでしょうか。 ひろさちや氏の上記のコメントの直後には、
というナレーションが続きました。
「人は阿弥陀仏を信じた瞬間にすでに救われている」としても、阿弥陀仏の願いに感動し救済を実感する瞬間を体験したとしても、永遠にその「救い」の実感の中、歓喜の中で生きていけるわけではありません。 そこにこそが親鸞聖人が、
と念仏の相続を勧め、自らの念仏の声を聞くことを通して「南無阿弥陀仏」の言葉に託された阿弥陀仏の願いに繰り返し耳を傾けよ、と語りかけて下さったことの意味があるのではないでしょうか。
(8月25日)
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街角の風景 恒例の御近所ネタで申し訳ありませんが……
アーケードが撤去された法勝寺町商店街は現在、花あり、芝生あり、ベンチありの落ち着いた―と、思いきやオリジナルの「七福神」や「ビリケン」さんまでいらっしゃるという何だかよくわからない―遊歩道空間に変貌しております。 |
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きれいないレンガ風に舗装された通り |
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季節の風物詩 |
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さて、この商店街で、往年の「土曜夜市」の活気を取り戻すべき第一歩として、今夏よりの新企画 「だらず夜市」 がスタートしました。 とは言うものの、昭和26年から始まったかつての「土曜夜市」(昭和48年から「土曜市」に改称)が「ひと晩に米子市近郊から数千人を集客して売りまくる 」といった右肩上がりの高度経済成長期を具現したものだったのに対して、この「だらず夜市」は「ゆる店」、商売よりもむしろ個人の趣味を披露しつつ、新しいコミュニケーションの場所にしようというのがコンセプトのユル〜イ企画。
まだまだ規模は小さいもののそれなりに賑わっておりました。(v^-゜)♪ |
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先週23日(土)が記念すべき第1回、今週30日(土)が第2回目。 次回第3回目は 9月24日(土)午後5時から 23日(木)から25日(日)の米子映画事変とタイアップして開催の予定だそうです。 (7月30日) |
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