法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2010年1〜12月分)

 

 
 

大晦日だと言うのに…… その2
 

今年も大雪です……(・ ・;)

昨年以上です……(((・ ・;)

 
 
 今夜の「除夜の鐘」と「修正会(しゅしょうえ)」、どうなるんだろう……。

(去年とまったく同じことを心配しております。……「歴史は繰り返す」)

(現在午後3時)

 
【「大雪の大晦日」編・続報】

 昨夜から降り出した雪はその後もやむことなく降り続き……、鐘楼もこの状態。

 

……何より本堂の屋根からずり落ちた雪がこのありさま。
 
 
しかも雪は一向にやむ気配なし。

(現在午後6時)

強行すればむしろ危険

……と判断して今夜の「除夜の鐘」「修正会」は

「中止」といたしました。

(残念。なんか気が抜けた……)

(12月31日)

 
 
清沢満之をめぐる話題 その2
                               

  前稿(10月9日)に続いて清沢満之先生(1863〜1903)をめぐる話題をもう一つ。

 以下は、真宗大谷派教学研究所発行の『教化研究』第148号(2010年6月20日発行)掲載の藤井祐介氏の論文「暉峻義等と浩々洞 ―精神主義の医学における展開」の中で紹介されている、鹿児島県の浄土真宗本願寺派金剛寺住職暉峻康範師が早稲田大学在学中の明治35年(1902)、浩々洞において清沢先生と初めて対座された折のエピソードです。

「廿分位で毎会〔原文ママ〕壇上に仰ぐ (注:清沢)先生が、啖壺を持つて火鉢を前に机を右側にして静に坐はられて、凝と私等を見られる。
 澄んだ眸が鉄縁の近眼鏡の奥に輝く。〔略〕
 学校は何処か、両親、兄弟があるかなどと訊かれる丈で、何の用かとは尋ねられぬ。
 (姓名をきかれなかつた)
 いはねばならぬ事は咽まできてをるが、声が出ぬ。
 亦暫時双方沈黙。
 先生は瞑目されたので、お顔を見詰める。

 聴講者の足音がそろそろきこえる。
 たうたう先生の言葉が出た。

 君達は人間が此世へ生れたのは何のためかといふ事を考へたことがあるか、

と。
 その時私は、はけ口が出来た水の様に、

 実はそれをおききしようと思ふてまゐりました。

 先生は瞑目、沈黙される。
 やがていくらか笑を含んで、

 それはよかつた。
 それを考へるといふ事が人間の仕合せぢやが、仲々難問だから大抵の人は疲れて中途で止めてしまう
 それを考へ続けるのが大修行である。

 亦先生の瞑目と沈黙となる。
 私は胸があつくなつてくる。
 又先生の辞が出る。

 此の疑問を考へ続けるためには、命を捨ててかからねばならぬ。
 衣食住も学問も人生の一切を捨てても解決せねばならぬ。それが仕合せである。
 もし此大疑問を解決しえたらば、世の中の最大幸福者である……。」

(暉峻康範「清沢先生を憶ふ」、『広大会』第1巻第6号、1952年、42―43頁)

 読んでいるこちらの方の胸までが熱くなってくるような文章です。

 想像をたくましくすれば、この時の暉峻師の心情は、

(ああ、そうだ。私はこの『言葉』が聞きたかったのだ。

 この『言葉』を聞くために私は生まれ、この『人』に出遇うために私は今日まで生きてきたのだ。)

というものではなかったのでしょうか。

 まさしく

「宗教とは、生涯をかけて悔いることのない一つの『言葉』との出遇いである。 」
                                 (金子大榮)

ではないでしょうか。

「なんのために生まれて なにをして生きるのか
   こたえられないなんて そんなのはいやだ!
 なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
   わからないままおわる そんなのはいやだ!」

           (「アンパンマンのマーチ」)

(10月13日・明治34年(1901)真宗大学開校の日に

 
 
清沢満之をめぐる話題 その1
                               

 東京の親鸞仏教センター発行の『現代と親鸞』第20号(2010年6月1日発行)を 繙いていたところ、大変興味深い読み物に出逢いました。

 巻頭の山本伸裕氏の論文「「精神主義」とは如何なる思想なのか?  ―雑誌『精神界』掲載「我信念」をめぐる一考察―」 と、羽田信生氏の講演「「伝道者」から「求道者」へ ―清沢満之との関係における暁烏敏の転機―」がそれです。

 
 
 

 山本氏によれば、清沢満之先生(1863〜1903)がその晩年、雑誌『精神界』(浩々洞より発行)に発表した原稿はその多くが実質は編集者による作文であったり、清沢先生ご自身の執筆によるものにも編集者の手がかなり入ったりしているのだそうです。
 つまり私たちが目にし、清沢満之晩年の思想(終着点)と考えているものは、すでにその編集者たちの清沢満之理解というフィルターを通して、微妙に改変(あるいは大胆に歪曲)されている可能性がある、ということなのです。

 しかもその編集者というのが、暁烏敏(あけがらす・はや)、多田鼎(かなえ)、佐々木月樵(げっしょう)、安藤洲一といった真宗大谷派史上における錚々たるメンバーではあるものの、清 沢先生からすれば門下生であり、当時はまだ学生に過ぎない、いわば「駆け出し」の身。
「怖いもの知らずは若さの特権」だったのか、それを許した清沢先生が並はずれて寛大だったのか、それともそんな「時代」だったのか 、よくはわかりませんが、それにしても、よくもまあそんな大それたことを……、と唖然とする話ではあります。

 それだけでも驚きなのに、羽田氏によると、暁烏敏・多田鼎といったお弟子さんたちは当時、何と、

「清沢先生は本当のご信心を知らないから、自分たちが先生に本当のご信心をもたせてあげなければいけない。」

と考えていたのだとか。

 もっとも清沢先生は清沢先生で 、しょっちゅう「ありがたい」「ありがたい」と言っておられる暁烏先生に向かって、

「何がありがたいか。」

「烏さん(注:暁烏先生)なんか、ありがたいありがたいと言うけれども、真実のところは肺病(注:結核)にでもなってみねばわからんな。」

とおっしゃって、事あるごとにガツンとやられるものだから、暁烏先生はよけいに「先生は御信心のない人だ」と思われたのだとか。

 「死生の事」(肺結核による死の恐怖)、「追放」「獄牢」「誹謗・擯斥・許他の凌辱」(本山改革運動の結果の除名処分や養子先での処遇)(以上、 「絶対他力の大道」)によって、「ずいぶん、宗教的信念はこんなものである、というような決着は時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしまったことが幾度もあ」った(「わが信念」)清沢先生からすれば、おそらく暁烏先生の言う「御信心」は、いくら「(自分が)罪深い」「(如来の救済が)ありがたい」と言っても、所詮本当の「どん底」を知らない、自分の「思い」(予定概念)の中で作り上げた 、言い換えれば自分に都合の良い「(罪悪の)自分」であり「如来(の恩寵)」に過ぎないと見通しておられたのでしょう。
 実際、清沢先生の死後、暁烏先生はさまざまな出来事を通して「凋落」(ちょうらく・恩寵主義的信仰の破綻)を経験していかれるわけですが、それはまた後の話……。

 いずれにせよ当時、師弟の間柄とは言いながら、そこには熾烈なまでの「信仰理解」の相克、ぶつかり合いがあったわけですね。

 私なんぞが清沢先生の文章を読んでいても、時々、“他力の信念を獲ればそれで万事解決。今後は永久にバラ色の心境が続く”と取れるような表現があって、それがどうにも腑に落ちない、違和感を感じざるを得なかったものなのですが、もしかしたらその理由はここいらの事情にあったのかも知れません。

 山本氏の今後の研究成果に期待しましょう。

(10月9日)

《参考文献》
山本伸裕「「精神主義」はだれの思想か ―雑誌『精神界』と暁烏敏―」
                           (『日本思想史学』第41号(日本思想史学会・2009)
同「「精神主義」とは如何なる思想なのか?  ―雑誌『精神界』掲載「我信念」をめぐる一考察―」
                             (親鸞と現代』第20号 (親鸞仏教センター・2010)
羽田信生「「伝道者」から「求道者」へ ―清沢満之との関係における暁烏敏の転機―」
                                      (同上)

 
 
明道小学校「町探検」
                               

雨の降りしきる中、生活科学習の一環、「町探検」で、明道小学校2年生の子供たち6名が西念寺を訪ねてきてくれました。

前回(2007年)前々回(2004年)に続き3年ぶり3回目の今回は、2年生全員ではなく、目的地に「西念寺」を希望したグループのみの訪問でした。

そう言えば、全員参加のため否が応でも「自分の家」を訪問しなければならなかった長男(前々回)、長女(前回)は後で、

「一回家に帰ってきたのに、何でまた学校まで戻って、それからもう一回帰ってこなきゃならないんだよ〜。」
「何で、わざわざお父さんに向かって自己紹介しなきゃならないのよ〜。」

とブーブー言ってたっけ。

と、いうわけで今回次女は西念寺探検をスルー。

6人の子供たちは本降りの雨の中、雨合羽を着込んで、学校から歩くこと約30分。
メモ用紙までグショグショになりながらたどり着いて、始めと終わりの挨拶もキチンとできて、帰りの集合時間も忘れないで……、
みんなホントによく頑張ったね。

気をつけて学校へ帰ってね。(^-^)/

 

《最後に記念写真を1枚パチリ》

 

通算3回目となった今度の「町探検」。
この「日記」では紹介していなかったのですが過去2回の「町探検」にはそれなりの(笑える)「後日談」もありました。

 【前々回・2004年】

「町探検」が終わってだいぶ経った頃(たぶん2学期の初め頃)、何かの用事で明道小学校を訪れた時のこと、下足場で私の顔を見た女の子がオズオズと、

「……さ、さいねんじさんですか?」

「町探検」からもうずいぶんになるのに、私の顔を覚えていてくれたのかな、と思いながら長男の教室の前の廊下まで行くと……、

何とそこには「町探検」の時に撮られた私の顔写真が、しかも「これでもか!」というぐらいのドアップ=引き伸ばしで貼り出されていたのでありました。

(これを毎日児童が、父兄までもが、見ているのか……〈絶句〉)

 【前 回・2007年】

明道小学校では毎年11月中旬に児童による生活発表会「百石会(ももしゃくえ)」(昔風の呼び方で言えば「学芸会」!?)が催されるのですが、その年の2年生の演し物は劇「町探検」。

ということは、つまり……、

そう、2年生の児童が「子供用の衣」―もちろんウチが提供したものですが―を着て「私」を演じてくれたのです。

(……ワシはあんなに可愛くはないわい。〈またもや絶句〉)

はてさて今度はどんな「後日談」が待っているのやら……(-  -;)

 

《これから急いで全体の集合場所へ》

 

ちなみに、今回わが家への「探検」をスルーした次女が「目的地」として選んだのは、

こ・ち・ら ↓

 


法勝寺町の新名所(!?)

DARAZ CREATE BOX(ダラズ・クリエイト・ボックス)

でした。

(……「ミルクセーキ」が美味しかったそうです。ごちそうさまでした。m(_ _)m)

(6月15日)

 
 

阿弥陀さまからの「石文」
            ― その2 ―


 犬丸は懐をさぐると、なにかをとりだして忠範(ただのり、後の親鸞聖人)に手渡した。
 灰白の小石だった。
 いつもツブテの弥七(やしち)が、掌てのひらでもてあそんでいたツブテの石である。

「数日前、あの弥七が訪ねてきて、忠範さまが家をでられるときには、これをお渡しするようにと―」

 忠範はけげんそうに渡された小石をながめた。

「これは、石ころではないか」

「そうです」

 犬丸はうなずいて、忠範の耳もとでささやくようにいった。

「弥七は、こうわたしめに言(こと)づけたのです。

 忠範さまは、われら悪人ばらのためにお山で修行なさるのだ。
 だから忠範さまに伝えてほしい。

 もし、運よく物事がはこんで、自分がなにか偉い者ででもあるかのように驕 (おご)りたかぶった気持ちになったときは、この石を見て思いだすことだ。
 自分は割れた瓦 (かわら)、河原の小石、つぶてのごとき者たちの一人にすぎないではないか、と。

 そしてまた、苦労がつづいて自分はひとりぼっちだと感じたときは、この河原の小石のようにたくさんの仲間が世間に生きていることを考えてほしい、と。

 弥七はそのように申して、これを忠範さまに渡すようにと頼(たの)んで消えました。

 そうそう、もう一つ。

 なにか本当に困ったときには、どこかにいる名もなき者たちにこの小石を見せて、弥七の友達だといえばいい、と」

 忠範はその小石を手のなかににぎりしめた。
 犬丸の懐のなかにあったせいか、かすかなぬくもりが感じられた。

「ありがとう」

 と、忠範はいった。犬丸にでもなく、弥七にでもなく、伯父やサヨたちにでもなく、なにか自分をとりまくすべてのものに対して、心から感謝したい気分だったのだ。 

(五木寛之『親鸞 上』より) 


 「能令瓦礫変成金」というは、「能」はよくという、「令」はせしむという、「瓦」はかわらという、「礫」はつぶてという。「変成金」は、「変成」はかえなすという、「金」はこがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。
 りょうし(猟師・漁師)・あき人(商人)、さまざまのものは、みな、いし・か わら・つぶてのごとくなるわれらなり
 如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたま うは、すなわちりょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとたま えるなり。(親鸞聖人『唯信鈔文意』)

(3月17日)

 
 

謹 賀 新 年


川の向こうの紅葉がきれいだったので 橋を渡って行ってみた
ふり返ると さっきまでいた所の方が きれいだった
                       (星野 富弘)

 ― 浄土に往生するということは
     ここで生きられるようになったということ ―
                    (信国 淳)

        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2010年1月1日)

 
 

2009年7〜12月分 現在の「日記」 2011年1〜6月分

 


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