「住職日記」(2010年1〜12月分) | |
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今夜の「除夜の鐘」と「修正会(しゅしょうえ)」、どうなるんだろう……。 |
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しかも雪は一向にやむ気配なし。 「中止」といたしました。 (残念。なんか気が抜けた……) (12月31日) |
清沢満之をめぐる話題 その2 前稿(10月9日)に続いて清沢満之先生(1863〜1903)をめぐる話題をもう一つ。 以下は、真宗大谷派教学研究所発行の『教化研究』第148号(2010年6月20日発行)掲載の藤井祐介氏の論文「暉峻義等と浩々洞 ―精神主義の医学における展開」の中で紹介されている、鹿児島県の浄土真宗本願寺派金剛寺住職暉峻康範師が早稲田大学在学中の明治35年(1902)、浩々洞において清沢先生と初めて対座された折のエピソードです。
読んでいるこちらの方の胸までが熱くなってくるような文章です。 想像をたくましくすれば、この時の暉峻師の心情は、
というものではなかったのでしょうか。 まさしく
ではないでしょうか。
(10月13日・明治34年(1901)真宗大学開校の日に) |
清沢満之をめぐる話題 その1 東京の親鸞仏教センター発行の『現代と親鸞』第20号(2010年6月1日発行)を 繙いていたところ、大変興味深い読み物に出逢いました。 巻頭の山本伸裕氏の論文「「精神主義」とは如何なる思想なのか? ―雑誌『精神界』掲載「我信念」をめぐる一考察―」 と、羽田信生氏の講演「「伝道者」から「求道者」へ ―清沢満之との関係における暁烏敏の転機―」がそれです。 |
山本氏によれば、清沢満之先生(1863〜1903)がその晩年、雑誌『精神界』(浩々洞より発行)に発表した原稿はその多くが実質は編集者による作文であったり、清沢先生ご自身の執筆によるものにも編集者の手がかなり入ったりしているのだそうです。
しかもその編集者というのが、暁烏敏(あけがらす・はや)、多田鼎(かなえ)、佐々木月樵(げっしょう)、安藤洲一といった真宗大谷派史上における錚々たるメンバーではあるものの、清沢先生からすれば門下生であり、当時はまだ学生に過ぎない、いわば「駆け出し」の身。 それだけでも驚きなのに、羽田氏によると、暁烏敏・多田鼎といったお弟子さんたちは当時、何と、
と考えていたのだとか。 もっとも清沢先生は清沢先生で 、しょっちゅう「ありがたい」「ありがたい」と言っておられる暁烏先生に向かって、
とおっしゃって、事あるごとにガツンとやられるものだから、暁烏先生はよけいに「先生は御信心のない人だ」と思われたのだとか。
「死生の事」(肺結核による死の恐怖)、「追放」「獄牢」「誹謗・擯斥・許他の凌辱」(本山改革運動の結果の除名処分や養子先での処遇)(以上、
「絶対他力の大道」)によって、「ずいぶん、宗教的信念はこんなものである、というような決着は時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしまったことが幾度もあ」った(「わが信念」)清沢先生からすれば、おそらく暁烏先生の言う「御信心」は、いくら「(自分が)罪深い」「(如来の救済が)ありがたい」と言っても、所詮本当の「どん底」を知らない、自分の「思い」(予定概念)の中で作り上げた
、言い換えれば自分に都合の良い「(罪悪の)自分」であり「如来(の恩寵)」に過ぎないと見通しておられたのでしょう。 いずれにせよ当時、師弟の間柄とは言いながら、そこには熾烈なまでの「信仰理解」の相克、ぶつかり合いがあったわけですね。 私なんぞが清沢先生の文章を読んでいても、時々、“他力の信念を獲ればそれで万事解決。今後は永久にバラ色の心境が続く”と取れるような表現があって、それがどうにも腑に落ちない、違和感を感じざるを得なかったものなのですが、もしかしたらその理由はここいらの事情にあったのかも知れません。 山本氏の今後の研究成果に期待しましょう。 (10月9日)
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明道小学校「町探検」
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《最後に記念写真を1枚パチリ》 |
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《これから急いで全体の集合場所へ》 |
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(6月15日) |
阿弥陀さまからの「石文」
(3月17日) |
謹 賀 新 年
旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。 (2010年1月1日) |
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