法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2009年7〜12月分)

 

 
 

大晦日だと言うのに……
 

 盛大に吹雪いております。(・ ・;)
 
 
 昨年まではこのアーケード(本通り商店街)、屋根があったのですが、老朽化に伴いこの夏に撤去。
 ……結果、吹きさらしの状態となっております。

  当地出身の映画監督故岡本喜八氏(四日市町出身)によれば、

「子供の頃には屋根(つまりはアーケード自体)がなく、大雪の時にはスキーを履いて小学校(明道校)に通った。」 (NHK『ひるどき日本列島』1998年11月4日放送)

とのことですが、なるほど、ぐるりと回って「フリダシ」=7〜80年ほど前に戻ったわけですな……。

(ちなみに商店街がアーケード化されたのは昭和32年(1957)。現在のアーケードに改修され路面がカラー舗装されたのが昭和47年(1972)だったそうです。)

 
 
 こちらは元町サンロード商店街。
 屋根がある分大分ましですが、こちらも数年後には撤去の予定。

 相次ぐ閉店・移転。
 郊外型大型店舗の隆盛とそれに伴う旧市街商店街の空洞化。
 “シャッター街”に“買い物難民”。

  いったいこの米子市は、いや日本はこれからどうなっていくのでしょう……?

 ……それはそれとして、現在の私の最大の関心事は、今夜の「除夜の鐘」と「修正会(しゅしょうえ)」かどうなるか、なのです が。(ため息)

(12月31日)

【追 記】

  あのまま吹雪いていたら最悪中止かとも思いましたが、夜には止み、なんとかお勤めできました。(ホッ)
(流石に例年に比べると参詣者の数は少なかったですけどね。)

 
 

Accident will happen!!
            ― 天災は忘れた頃にやって来る。(寺田寅彦) ―
 

  とある葬儀社の会館で葬儀(告別式)を勤め、初七日法要までの間控え室で休憩していた時のことです。

 メガネの汚れが気になってハンカチで拭いていたその時、レンズを固定する部分のフレームの弦(つる)がパキッ! レンズがポロリ!! Σ( ̄◇ ̄*)

  坊さん稼業も長くやっているとそれなりにいろんなことがあるもので、別段慌てもせず、次の瞬間には早くも対策を考え始めていました。

「さてどうしたものか?
 初七日が終わったらウチに帰って昔使っていたメガネを引っ張り出せば良いか?」

とそこまで考えた時、

「あ、俺どうやってウチに帰ればいいんだ!?」

  そう、強度の近視である私のこと、メガネなしでクルマの運転など出来るわけがない……(-_-;)

  ああでもない、こうでもないと壊れたメガネをいじりながら考えあぐねていたその時、

「御住職、私が直してみましょう」

と助け舟を出して下さったのが葬儀社の社長さん。

「じゃあお願いします。」

とメガネを預けて私は法要の会場へ。

  御遺族の顔はおろか経文すらろくに見えない状態で何とか法要を乗り切って控え室で受け取ったのが

コ レ ↓

 
 

 さすがに弦が折れた状態のメガネは修理の仕様がなく、ガムテープで応急処置してもらって何とか無事帰宅できました。(〇〇葬祭さん、本当にお世話になりました。 )

  それにしても不思議に思ったのは御遺族の皆さんだったでしょうね〜。

(葬儀の時には導師は確かメガネをかけていたはずなのに、七日法事になったら何で外しているんだろう?
 休憩中にいったいなにがあったんだろう?)と。

  もっとも、どんな顔をなさっていたとしても、私にはな〜んにも見えてませんでしたけれど……(爆)。

 ……以上、ある日の「舞台裏」でした。

(12月17日)

 
 

街角点描

  西念寺のご近所にある「明道公民館」。

  昨日今日と公民館祭が催され、出店やバザーで結構賑わっていました。
 

 
 

 現在地に移転するまではこの場所に明道小学校があり、現在の公民館は当時の校舎を利用しています。(同小学校の卒業生である住職も6年間この校舎に通っていました。 )

  そのため敷地内には昔の面影を偲ばせる物がいくつか残っていて、画像の「記念碑」もその一つ。
 

 
 
     

 解説の立て看板によれば、明治から大正期にかけて40年間校長(第4代)を勤められた前田重次郎先生の「謝恩碑」とのことですが、大正11年 (1922)に建てられたこの碑の揮毫をしたのが当時の帝国教育会長澤柳政太郎氏。
 
 
 

 知る人ぞ知る清澤満之先生の東京帝国大学の同期以来の親友で、清澤先生の勧めによって明治26年(1893)9月、京都の大谷尋常中学校長に就任、真宗大谷派教学部顧問も務めるなど、先生とともに僧風の刷新に努められた方です。(ちなみに澤柳政太郎氏の「略歴」はこちらのウェブサイトへ)

 思わぬところで思わぬ名前に出逢って吃驚(びっくり)!!

 「広いようで世間は狭い」の典型でしょうか……。

  子供(ガキ)の頃は何にも考えずに、毎日眺めていたはずなんですけどね〜。 

(11月8日)

 
 

阿弥陀さまからの「石文(いしぶみ)

念仏を申すということは
  仏に常に念じられている
    
自分の命に出遇うということ
           (
宮城 )

 先日、昨年封切られ、アカデミー賞外国部門賞を始めとする数々の映画賞を独占した映画『おくりびと』(監督:滝田洋二郎、主演:本木雅弘)を観ました。
(ちなみに、この映画のスタッフに絵コンテとして従弟の松村宏が名を連ねているのは前回(5月!!(-_-;))の「日記」にも記しておきましたが……)
「納棺師」という職業がテーマにしたこの映画の原作は(テロップにこそ流れませんが)、実際にその職業に従事してこられた作家青木新門さんの著『納棺夫日記』 (桂書房・1993)であり、こちらの方はかなり昔に読んでいたのですが、映画の方はある方からDVDを借していただいてやっと観ることができました。

 映画の方の設定は原作とはかなり違っていて、原作者の青木さんが事業(飲食店)に失敗して富山県で「納棺夫」(青木さんの造語)になったのに対して、映画ではチェロ奏者である主人公・小林大悟(本木雅弘)が楽団の倒産によって郷里山形県に帰り、その職に就いたことになっています。

 印象的だったのは「石文(いしぶみ)」のエピソードでした。
 脚本の小山薫堂氏が脚本家の故向田邦子さん(1929〜1981)のエッセイ『無口な手紙』(エッセイ集『男(お)どき女(め)どき』(新潮社刊)所収)の一節からヒントを得たものだそうですが、人がまだ言葉を持たなかった頃、人は石に託して自分の想いを相手(恋人)に伝え、もらった人はその石からその時々の相手の感情を読み取っていったのだそうです。
(例えばツルツルの石からは相手の心の平穏を想像し、ゴツゴツの石の時はそのような石を送ってきた相手の状態を心配する、といった具合に)

 主人公には幼い頃に失踪した父親がおり、離れ離れになる前、たった一度だけ父子は「石文」を交換したことがありました。

 映画の終盤、納棺師となった息子の元に突然父の訃報が届きます。
 複雑な思いを抱えながら、実に30年ぶりに彼は遺体となった父と対面します。
 父の遺体を納棺しようとしたその時、彼は父の手が握り締めていた「あるもの」を発見します。
 それは遠い昔、河原で息子からもらった一個の石、「石文」だったのでした。
 父親の顔すら忘れていた彼は、その石を見た時、初めてその遺体の主が間違いなく自分の父親であることを実感したのです。

 父親はその「石文」を見ながら何を思って暮らしていたのでしょうか。

 「子供を捨てた自分が今更子供に会える資格などないのはわかっている。
  それでも、それでも息子のことが思われてならない……。」

 私たちは折にふれて「南無阿弥陀仏」と称えますが、その「南無阿弥陀仏」という言葉こそが、私たちを常に見、念じていてくださる阿弥陀さまの思いのこもった、阿弥陀さまから届けられた、それこそ砕けることのない「石文」なのではないのでしょうか。
 

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしから んともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。(親鸞聖人『正像末和讃 ・自然法爾章』)

(9月21日)

 
 写真の石は映画とは関係ありません
    ……ナンチッテ。
 
【追 記】

 ただ、この映画に出演していた俳優の峰岸徹さん、山田辰夫さんがすでに亡くなって(峰岸さんは昨年10月11日没、山田さんは本年7月26日没)いますし、重要なロケ地の一つであった銭湯「鶴乃湯」(山形県鶴岡市)もこの8月末で廃業になったそうです。

 「人世無常」とは言うべきでしょうが、今更ながらに昨今の時の流れの速さを感じずにはいられません。

 
 

2009年1〜6月分 現在の「日記」 2010年1〜12月分

 


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