法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2007年1〜4月分)
 
 
 

「一期一会」

いちご・いちえ【一期一会】
  (茶会の心得から)生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること。
                           (新村出編『広辞苑 第2版』(岩波書店))

 
 
     
 
 
     

 〔季節の花・五態〕
                         
(……中段の「モクレン」がちと「ピンボケ」気味ですが)

 
  「日記」の更新が滞っているので、文章を考える手間を省く(オイオイ!)意味もあって、西念寺に咲く季節の花々を載せてみました。(コラコラ!!)
 どれも西念寺の境内で今日現在咲いている花を撮影したものです。

 さて、花を撮ろうと思い立ったのはいいのですが、これがなかなか難しい。
 何が、と言えば撮るタイミングが。

 たとえば、上段の「牡丹」ですが、蕾が大分膨らんでいるものの撮り頃はもうちょっと先かな、と思っていたら、ここ数日の暖かさでアッと言う間に満開。気がつけばやや盛りが過ぎたか、という始末。

 今日の花はすでに昨日の花ではなく、明日の花はもはや今日の花には非ず。
 日日刻刻、とどまることなく変化・変貌を続ける花たち。

 「あたりまえ」と言えば「あたりまえ」。
 人間もまた同様、人生もまた然り、のはずなのですが……、
 「日日これ新たなり」とはなかなか……。

 「昨日と同じような今日。今日と同じ明日、明後日…」と漫然(ダラダラ)と暮らす昨今であります。

 『明日ありと思う心のあだ桜
   夜半に嵐の吹かぬものかは』(伝・親鸞聖人)

(4月22日)  

 

 〔お・ま・け〕

 
 

これも季節の風物詩、 「タケノコ」です。

(……所詮、私は「色気」より「食い気」)
  

 
 

「春遠からじ…」
 

 

例年より早い「フキノトウ」です。

……「花粉」もだいぶ飛んでいるようです。(ヘックショイ)

(2月20日)  

 
 

親鸞聖人「田植え歌」
          ― 生活(くらし)の中の真宗 ―
 

 
 
 
 2月2日(金)、全国的に雪。
 昨夜来降り続いた雪のため、境内にもかなりの積雪あり。

 午後、雪のやみ間をぬって雪かき作業。
 北信越等の豪雪地帯とは較べるべくもないとはいえ、玄関から山門までのわずかな距離の雪かきでも結構汗をかきました。
 作業の途中から再び雪が降り出して、やっと作った道がどんどん白くなっていくというのも、言うなれば「お約束」……。

 以下は作業の間に私の心に湧いた妄念妄想です。

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 宗祖親鸞聖人の作と伝えられる「田植え歌」があります。

「五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に
兆載永劫(ちょうさいようごう)の代(しろ)をして
雑行(ぞうぎょう)自力の草をとり
一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし
念念相続の水流し
往生の秋になりぬれば
実りを見るこそうれしけれ 」

 宗祖が関東を教化されていた期間中(42歳からの約20年間)にお作りになったと言われ、また帰洛の旅の途上、錦織寺真宗木辺派本山 ・滋賀県野洲市木部)にご滞在の折、現地の農民に教え、現在まで歌い継がれているとのことであります。

 この「田植え歌」が本当に宗祖の御制作であるのか、それとも後代の誰かの作であるのかはともかく、これは実は大変な「発明」ではないかと思います。 

 「教化」という観点から見れば、日常生活の中で念仏の要義を学び、自らの労働の苦労(実体験)を通して阿弥陀仏の因位法蔵菩薩の「御苦労」(五劫思惟・永劫修行)に思いを致す(実感する)ことができます。

 また、「作業効率」という観点から見れば、忙しい農作業の手を休めることもなく、 また、歌を通して肉体労働の単調さ、苦しさを忘れ、リズミカルに作業を進めることができます。

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 ……と、ここまで書けば私が何を言いたいのかもうおわかりでしょう。

だ、誰か、親鸞聖人の「雪かき歌」をつくってくれ〜〜〜〜。(叫)

(2月2日)

 
 

「今月(2007年2月)の法話」


 これって、もしかして……

「涙(なだ)そうそう」……!?

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   「涙(なだ)そうそう」
           作詞:森山良子

古いアルバムめくり
「ありがとう」ってつぶやいた
いつもいつも胸の中
励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出遠く褪せても
面影(おもかげ)探して
よみがえる日は 涙(なだ)そうそう

一番星に祈る
それが私の癖になり
夕暮れに見上げる空
心一杯あなた探す
悲しみにも 喜びにも
想うあの笑顔
あなたの場所から私が
見えたら きっといつか
会えると信じ 生きてゆく

晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出 遠く褪せても
さみしくて 恋しくて
君への想い 涙(なだ)そうそう
会いたくて 会いたくて
君への想い 涙(なだ)そうそう

(2月1日)

 
 

父と息子の信仰談議
     
― 「仏を信ずる・仏になる」 ―

 少し古い話になりましたが、昨年の報恩講の前夜(10月27日)、蒲団の中で息子(小4)が急にこんなことを聞いてきました。

「お父さん、仏教って何?」

(な、何だいきなり、とは思いつつも気を取り直して)

「えーっと……、
 仏(ほとけ)というのは、昔のインドの言葉ではブッダ(Buddha)と言って、『真理』……。
 お前、『真理』っていう言葉は知ってるよな?」
「うん。」
「ブッダというのは『真理を悟った人、真理に目覚めた人 』という意味で……、

 つまり「仏教」というのは、

『仏の教え、仏の説かれた教え、仏になる教え』

ということだ。」

 我ながら教科書的だなとは思いつつ答えたその言葉に対して、息子から次なる質問が……、

息子「お父さん、仏教って信じてるだ?」
私「う、うん、信じてる!」

 更には、

息子「お父さん仏になるだ?」
私「うっく……」(絶句)
(なれるような自分ではないことぐらい、とうの昔にわかっておるわい。)

 それにしても、相変わらず唐突かつスルドイ質問で親父を困らせるやつだ。

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 「仏教・真宗を信じる」とは言っても、「自分が仏教・真宗を信じる」というよりは、仏教・真宗の方が私を捕まえて放してくれない、仏教・真宗に、親鸞聖人に捕まえられた、とい った方が正確、かな。
 どう考えても、自分より向こうの方が「デカイ」と言うか、「位が上」と言うか、「負けた、参った」と言うか、そういうのが正直な実感なんですけれどもね。、
(うまい表現が見付からなくて申し訳ないんですが……、でもわかる人にはわかるはず。多分。)

 「仏になる」云々に関しては、足利源左衛門さん(妙好人因幡の源左・1842〜1930)の言葉を2編を紹介して勘弁してもらいましょう。

「おらあがやな底下(ていげ)の泥凡夫に、なにが仏になるやあな甲斐性が御座んしょうに。だけっどなあ、親様(注:阿弥陀仏)が仏にしてやるとおっしゃいますだけに、仏にして貰いますだいなあ」
「親さんが助けると云われっだけに、助けてもらうことを、ま受け貰ったことが信心だけのう」
                       (柳宗悦・衣笠一省編『妙好人 因幡の源左』(百華苑・1960))

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 それはそうと、息子よ、ありがとう。
 おかげさまで次の日の報恩講、しっかりと住職の挨拶のネタにさせてもらいました。(笑)
 正直、何を話せばいいのか、思い悩んでいたのだよ。(爆)

(1月17日)

 
 

謹 賀 新 年

「生きている人だけの世の中じゃないよ。
 生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持を持つことができるのよ、ふうちゃん」
「ろくさんのおじさんががんばって生きてはるのは、ミチコさんをいつまでも自分の心の中に生かしておきたいからなのよ。わかる、ふうちゃん」(灰谷健次郎『太陽の子』より)

        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2007年1月1日)

 
 

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