法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2007年1月〜12月分
 
2007年2月発行 掲載分
 
  「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持を持つことができるのよ、ふうちゃん」
「ろくさんのおじさんががんばって生きてはるのは、ミチコさんをいつまでも自分の心の中に生かしておきたいからなのよ。わかる、ふうちゃん」(灰谷健次郎『太陽の子』 )

『今月の言葉』は、昨年2006年11月23日に亡くなった児童文学作家灰谷健次郎さんの作品『太陽の子』の一節です。

今から30年程前、私の学生時代にちょっとした灰谷健次郎ブームがあり、その折何冊かの作品を読み、今回久しぶりに読み返して、いくつかの感銘深い言葉に再び出会いました。
 今回ご紹介した『言葉』もその中の一つです。

小説『太陽の子』は、神戸にある沖縄料理店「てだのふあ・おきなわ亭」に集まってくる、心に傷跡を抱えた人たちと料理店の娘「ふうちゃん」(主人公・小学6年生)との物語ですが、その中の、ある夜お母さんが娘ふうちゃんに語りかけているという場面での、お母さんの台詞がこの『今月の言葉』なのです。

「この世は生きている人だけのものではない」
「死んだ人も生きている人の中に一緒に生きている」
「亡くなった大切な誰かを心の中で生かし続けるために人は懸命に現在(いま)を生きるのだ」

人は忘れられない、忘れたくない大切な人の思い出や面影、そして言葉を、胸の奥に大事に抱えて生きていく。
 時折思い返しては、胸の中のその人に励まされ、癒され、時には叱られ、生きる勇気を与えられる。
 それが人が生きることの1つの本当の姿ではないでしょうか。
 「人が生きる、人として生きる」とは実はこういうものなのではないでしょうか。

宮城(しずか)先生はお父様が亡くなられ、火葬を経てその遺骨を目の当たりになさった時の経験を次のように語っておられます。

「自分の父(宮城智定師)は『自分は終生寺の住職以外の肩書きを求めない』と思い定め、その通りの生涯を貫いた人でした。
 物事について大変深く思索する人で、そのせいかさまざまの分野の人と親交があり、生前は多くの人が寺を訪ねて来られました。
 その中のお一人がある時父のことを『ヒラメ』と評され、自分も至極同感でありました。
 ヒラメという魚は普段、身体は海の底の砂にもぐって目だけを出して上の方を見ている。自分はじっとして動かず、海中を『ああだ、こうだ』『勝った、負けた』『儲かった、損した』とウロウロ、アタフタと動いている魚(=人間)をジロリと下から見上げている。
 そして一度口を開けばそこから大変辛らつな、しかし核心を衝いた批判が飛び出してきます。」

そんな「怖い」お父上であったせいか、そのご遺骨が姿のままで引き出されてきた時、そのお骨からこう問いかけられたような気がしたのだそうです。

「お前のやっていることをもう一回ここから見てみろ。
 忙しい忙しいと言っているけれども何が本当に忙しいことなのか。
 一回この俺の骨のところから見てみろ、考え直してみろ」と。

先生はその「問いかけ」を別の機会に

『暇つぶし以外の何をしていますか?』

という言葉で表現しておられました。

先生の生き方そのものを厳しく叱ってくるような「問い」ですが、反面息子に対してこれほど優しい、愛情のこもった叱責もないのではないかと思います。

「お前はそれでいいのか」
「今の生き方で本当に大丈夫なのか(肝心なことを見落としてはいないか)」
「お前もこのように(骨に)なるのだぞ。今のままで本当に死んでいけるのか。」

このような父を持った息子は、本当の意味で「真面目に」生きていかざるを得ない、と思います。

 反対に「生きている人だけの世の中」―これはまさに今の日本、死者の思いを代弁するかのごとくでありながら、実際には生きている人間の都合で死者の名を騙ることが大半である現代の日本を象徴している言葉のようにも思えますが―、つまり人がそういったかけがえのない存在を自分の中に持たない場合、それまでの人生でそのような人と出遇えなかった場合、その人の心中は荒涼、寂寞としたものではないでしょうか。
 誰に束縛されることもない、自由でやりたい放題の人生ではあるけれど内実は大変に寂しいものなのではないでしょうか。

 私たち真宗の門徒は、朝な夕なにお内仏の前で亡き人を偲び、亡き人と語り合いながら、「正信偈」や「ご和讃」、「御文」をお勤めしてきました。
 それは言うなれば亡き人の面影と一緒に、親鸞聖人のお姿や言葉、阿弥陀仏の

「どんな人の人生も決して空虚(むな)しく終わらせたくはない。
(たとえそれがどんなにつまらなく、ちっぽけなものに見えたとしても……)」

と願う「本願」の心を胸の中で大事に抱えてきたということでありましょう。

 そのような、親鸞聖人の教えをいただきながらの、お念仏の中での亡き人との語らいを通して、亡き人は迷い惑うことだらけの私の人生における不可欠の「羅針盤」、自分を間違いなく照らし導いて下さる道標となって下さるのではないでしょうか。

 宮城智定師の遺骨が息子先生に語り遺した「死ぬべき身であるという事実から自分の人生をもう一度見直しなさい」という教え。
 人間を根本から問い直し揺さぶり返してくるこの教えは、もはや一個人、一人間の言葉にはとどまらない。
 「仏」の言葉そのものであり、仏の願いが人間の言葉になったのだ、とさえ私には思えるのです。

 (「西念寺婦人会だより」2007年2月号掲載)

〈参考文献〉
灰谷健次郎『太陽の子』(理論社・1978)
宮城 『生まれながらの願い ―死の自覚が世への愛だ―』
(東本願寺出版部・伝道ブックス30・1990)
河村とし子『ほんとうのしあわせ ―仏縁に恵まれての真の人生―』
(東本願寺出版部・伝道ブックス24・1988)

 
 
2007年3月発行 掲載分
 
 

三方よし

「売り手よし・買い手よし・世間よし」

(近江商人の商業理念)

  「三方よし」とは皆さん聞き慣れない言葉だと思いますが、江戸時代から明治時代にかけて活躍した近江の国(現滋賀県)出身の大商人、いわゆる「近江商人」の商業理念を表わす言葉で、商売を通して「売り手(自分)」、「買い手(相手)」、「世間(社会))の「三方」がそれぞれ満足していくことこそが商行為・商取引の理想であるとするものです。

 近江の国は多くの藩や天領(幕府の領地)などに細分されて統治されており、広さがわずか一村程度(村落の外に一歩出ればそこは他国で領主が違う)の地域もありました。
 そんな地域では自給自足などとても不可能であり、それらの中の比較的統制が緩やかな土地から、地元の産物を天秤棒に携えて全国各地に行商に出かける商人、いわゆる「近江商人」が生まれました。

 彼らは地元の特産物を各地に運んで売り、現地の産物を仕入れてそれをまた京都・大阪などの大消費地で売るという『持ち下り商い』を始めました。
 それが成功し、多くの人を雇うようになってくると各地に支店(出店・枝店)を設け、地元近江に本店(本宅)を置き、『持ち下り商い』を大規模化した『諸国産物回し』を行う大商人となり、やがて現在の高島屋、大丸、丸紅・伊藤忠商事、西武、三越などといったそれこそ日本経済の根幹を支える壮々たる企業へと発展していったのです。

 それこそ見も知らぬ他国へ行って商売をするのです。
 得体の知れぬ言葉も違う他国者が何やら珍しいものを売りに来た、と現地の人からすれば胡散臭さや警戒心が先に立つのが当然です。
 当然地元の商人からも疎まれます。

 そんな中で現地の人とのトラブルを避け、その年一回限りの商いではなく、また翌年も翌々年も売りに来ようと思えば何よりも「信用」が大事になってきます。
 彼らは正直を第一とし、商品の品質を重視し、時には自分の儲けを度外視してまで安く売ること(売って悔やむ商売)を心がけました。
 これが「買い手よし」です。

  また、日本全国どこへ行っても同じような物が同じような値段で手に入る現代と違って、ある土地には豊富にあるものが別の土地では全く手に入らないといったことも多々あります。
 事前の情報収集によってその地にない物、あれば便利で生活が楽になる物を把握してそれを売りに行く。
 その結果、その土地の人々の暮らしが少しでも豊かになって欲しい。

(現在の丸紅・伊藤忠商事の祖である伊藤忠兵衛(初代・1842〜1901)には、

「商売は菩薩の業、商売の道の尊さは、売り買い何れも益して、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」

という座右の銘すらあったそうです。)

 そのようにして、行商先の人々の生活の改善にまで心を配り、その土地の経済の発展に貢献しようとしました。
 また大成した後には地元近江のために、道路や橋を作ったり(公共事業への投資)、学校(寺子屋)を創設(慈善事業)したり、神社仏閣への多額の寄進、さらには芸術家(画人)の育成にまで援助しました。
 これが「世間よし」に当たります。

 この「三方よし」とはあくまで商売上の心得ですが、「人間の幸せ」という問題を考える上で大きなことを教えてくれているように思います。

 私たちは一人の例外もなく、日々「幸せ」になりたいと願い、それこそ油汗を流しながら働いています。
 しかし、切実にそう願いながら、私たちは「どうすれば『幸せ』になれるのか」「どうなる(どうある)ことが『幸せ』なのか」については実はよくわかってはいないのではないでしょうか。

 あるラジオ番組で難民救済のボランティア活動に関わる若い女性弁護士へのインタビューが放送されました。

「なぜ弁護士になったのですか」

というインタビユアーの質問にその弁護士さんは、

「自分がやりたいこと(難民救済のボランティア活動)をやれるから弁護士になったんです」

と答えられました。
 インタビュアーが、

「その仕事をあなたは結局自分のためにやるのですか」

と尋ねると、

「自分にとっては人の喜ぶ顔を見ることが喜びだから、これからも自分はボランティア活動を続けたい」

と答え、

「それでは人のために仕事をするのですか」

との問いには、

「いや、人のためではない。
 人が喜ぶ顔を見て、自分がうれしいからやりたいのです」

と答えたその弁護士さんは最後に、

「自分が死ぬ時には、やはり生きていてよかったなと思うように生きたいのだ」

と締めくくられたそうです。

「仕事(難民救済のボランティア)を通して困っている方を助けるのは、その人の喜んでくれる顔を見ることが自分にとっての喜びであり、それを通して自分自身が生きていることの意味を実感するからである。
 だから自分のためだけでもないし、人のためだけでもない。
 自分のためでもあり、人のためでもあるのだ。」

 この弁護士さんはこう語っておられるのです。

「人は自分が幸せになりたいと思うだけでは幸せにはなれない。
 誰かを幸せにして上げたいと思った時初めて幸せになれるものなのだ。」

 あるドラマ(NHK『純情きらり』)の中の台詞ですが、人間の「幸せ」(「生きる意味」の発見)とは結局は他者との交わり、他への働きかけを通して与えられ、見つけられるものではないのでしょうか。

 幸福を求めてやまない私たちですが、人間は「売り手(自分)よし」だけでは、自分の幸福・利益のみを追いかけてばかりいては決して幸せにはなれないのではないでしょうか。
 「買い手よし」「世間よし」を忘れた「売り手よし」は一時的にはともかく、最終的には周りを不幸にし、世の中に多大な迷惑と損害をかけ、ついには自分自身をも滅ぼしてしまうのではないでしょうか。
(耐震偽装、賞味期限切れ食材の常用など、昨今その実例には事欠きません。)

「他を滅ぼす道は自らを滅ぼす道。他を活かす道は自らを活かす道」

という『仏典』の教えが重たく響いてきます。

 (「西念寺婦人会だより」2007年3月号掲載)

〈参考文献〉
江南良三『近江商人列伝』(サンライズ出版・1989)
『近江商人に学ぶ』(サンライズ出版・2003)
小倉榮一郎『近江商人の理念』(サンライズ出版・2003)
本多弘之「浄土と家族」(『現代と親鸞』第8号(親鸞仏教センター)・2005)
〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
『五個荘へようこそ!』
『三方よし』
『三方よし研究所』

 
 
2007年10月発行 掲載分
 
 

「いのちのバトン」
 

 書家の相田みつをさん(1924〜1991)にこんな詩の一節があります。

 過去無量の
 いのちのバトンを
 受けついで
 いま ここに 
 自分の番を
 生きている

 この詩を読んで私はいくつか思うことがあります。

 まず「過去無量の」ですが、それこそ地球上に生命が誕生してから何十億年。
 何百何千世代と進化を続けて来たその間に、一度もその流れが途絶えることがなかった。
 だからこそ今ここに「自分」というものが在る。

 自分という存在は決して軽いものでもないし、あだや疎かにしてよいものでは断じてないのだ、という言わば「自重」を促すものでもあります。

 まさしく『三帰依文』の言う

「人身(にんじん)受け難(がた)し。今すでに受く。」

であります。

 また「いのちのバトン」という言葉からもいろいろなことが連想されます。

 奇しくも9月は運動会シーズンの真っ盛り。
 週末ともなれば市内の小中学校のグラウンドでは熱戦が展開されました。

 運動会の華と言えば今も昔もやはり「リレー」でしょう。
 父兄や同級生の声援の中、前の走者からバトンを受け取った子供たちが全力で駆けていきます。
 長いレースの間には転ぶ子やバトンを落とす子もいますが、足の速い子も遅い子も誰もが一生懸命に走っています。
 ごくまれに手を(足を?)抜いて走る子もいないわけではありませんが、そんな子にはたちまち四方八方から「しっかり走れ〜」といった檄が飛ばされます。
 そしてアンカー(最終走者)がゴールする際には、トップの走者にもビリの走者にも平等に「よく頑張った」と暖かい拍手が贈られます。

 相田さんはそんなリレーの光景に託して私たちの「人生」を語っておられるのかも知れません。

 運動会のリレーならば、先生や保護者の皆さんによってあらかじめ整備された校庭の白線の引かれたコースを、それも決められた長さだけを走ればよいのですが、人生のレースはそうはいきません。
 まず、どれだけの距離を走ればいいのかさえも分かりません。
 それこそ石コロだらけ穴ボコだらけ、草ボウボウの道なき道を、時には転び、血を流し、泣きそうになりながら、時には自分でコースを切り開きながら、誰にも代わってもらうことのできない自分自身のレースを私たちは走り続けなければならないのです。

 実際の子供たちのリレーを観戦しながらふと疑問に思ったことがあります。

「あの子達はなぜあんなにも頑張って走ってくれるのだろうか」と。

 運動会の前に先生から「頑張って走りなさい」と言い聞かされているからでしょうか……。

 私は一番の理由は

「前の子(走者)が一生懸命に走ってくれたから」

だと思います。

「リレーなんて面倒臭い。僕足遅いし走りたくないな」と内心では思っていても、いざバトンを受けるや全力で駆け出してしまう。それは前の子の懸命の走りを目にしたから、ではないでしょうか。

「過去無量のいのち」―自分を育て支えた肉親を始めとする無数の人々の営み、食べ物となった無数の動植物―がそれぞれに「自分の番」を懸命に生き抜いて渡してくれた「いのちのバトン」だからこそ、私たちは自分の人生と向き合い真剣に生きる義務が、そしてその受け継いだバトンを次の走者(世代・子孫)に渡していく責任があるのではないでしょうか。

 そしてもう一つの理由があるとしたらそれは

「誰かが必ず見ていてくれるから」

ではないでしょうか。

 自分の力だけを頼りに走らなければならない孤独なレースではあっても、そこに必ず見てくれている人がいる。
 両親や兄弟であったり、友達や先生であったり、たとえ自分が誰からも忘れられてしまったように思えるその時でもどこからか自分を見ていてくれる「まなざし」が必ずある。
 だからこそ人は頑張れるし、チンタラ走るような恥ずかしい姿は決して見せられない。

 そしてその「まなざし」は、躓きしくじることの多い自分の悪戦苦闘を優しく見守り、その「ゴール」を「よくやった」と温かく迎え入れてくれるものであります。

 私たちの「人生のレース」を人知れず見つめる「まなざし」。
 私はそれこそが『仏の眼』、阿弥陀さまのまなざしであると考えるのです。

 (「西念寺婦人会だより」2007年10月号掲載)


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