法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2003年1月〜9月分)

「こころを磨く」解答編

 「夏休み」も終わったことですし、「宿題」↓の「解答編なぞを……。

心を磨こうと思うのならば、

 なるべく……

「言い訳をしないこと」
「人のせいにしないこと」
「「ごめんなさい」と素直に謝ること」

 もう1つおまけに、

「『おかげさま』を忘れないこと」(6月の「法話」参照)

(う〜ん、「言うは易し、行なうは難し」……。
なんか、全部自分が言われているような気が……)

(9月4日)

 
 

「こころを磨く」!?

 身内を含む1部の人間関係において「質問魔」との異名(?)を持つウチの息子(6歳)。
 昨夜も唐突に、

「ねえ、心って何?」
私・妻「へ?……」
「心って、ガラス?」
私・妻「ハァ?……」
「心を磨くってどういうこと?」

(ははぁ、それで「ガラス」ね。(納得)
 確かに「磨けば光る」。「砕けることもある」。「尖れば人を傷つける」。
 ……言い得て妙だよな。(感心))

「ねえ、心を磨くってどうやるの?」
(うっく、感心してる場合じゃない。)

 心を磨く。心を磨くねえ〜……どうやるんだっけ?(おい)
 雑巾に洗剤をスプレーしてゴシゴシと……。(こら)

 また「宿題」ができてしまった。……

(5月29日)

 
 

ある日の白昼夢

  某月某日深夜、某国首都、通称「白亜宮」内にて。

G.B「主よ、お許しください……主よ、お許しください。」(涙声) 

   「主よ、この哀れな罪人をお許しください。

    私は多くの無辜の民の血を流しました。
    どうか私の罪をお許しください。
    私の魂を煉獄に落とさないでください。
    御国のうちにお迎えください。」

   「主よ、お許しください。

    仕方が無かったのです。
    あのまま、「あの男」を放置するわけにはいかなかったのです。
    もし放置すれば、必ずやもっと多くの民人の血が流れたに違いないのですから。」

   「主よ、お許しください。

    私はむしろあなたのためにやったのです。
    あの忌まわしき邪教徒どもを、あなたの正義と栄光の前にひれ伏させるために。
    そう、私こそがもっとも忠実なあなたのしもべなのです。」(次第に興奮してくる)

   「主よ、主よ……なぜ何もおっしゃらないのですか。
    なぜ沈黙しておられるのです。
    主よ。……なぜ私を裁かない。」(いらだたしげに)

   「そうか、わかったぞ。主などいないのだ。
    神は死んだのだ。
    ならばせいぜいその「名」を使わせてもらうとしよう。」(絶叫する)

   「神なきこの世にはただ「力の正義」があるのみ。
    強い者が勝ち、支配する、その力こそが正義なのだ。
    わが国の力こそがこの世の正義。
    すべての者はその正義の前にひざまづくのだ。 

    わが国こそ、わが党こそ……いや、この私、G.Bこそが「正義」そのものなのだ。
    同胞たちよ。私のために喜んで死ぬがいい。」(哄笑)

          (突然、冷静さを取り戻す)

   「嗚呼、何ということを……主よ、許し給え。
    主よ、主よ、お許しください……」
          (以下、際限なく繰り返す)

(4月22日)

 
 

いのちみな生きらるべし
             
(リルケ)

 末娘(4ヶ月)の顔を眺めながらある夜の会話

私「赤ん坊が(産道を通って)生まれて来るのって凄く苦しいんだろう」
妻「うん、人生最大の苦しみらしいよ」
私「コイツも、それを乗り越えてきたわけか。
  ……大したもんだよな」(ちょっとシミジミ)
妻「それも自分の力で出てきたんだからね〜」
私「?……! エッ、お母さんがいきんで押し出すんじゃないの?」
妻「それはあくまでお手伝いで、ほとんど自分の力で出て来るんだよ」
私「それじゃ、コイツは自分の力で生まれてきたわけ?
  それじゃ、赤ん坊ってみんな、自分の意志でって言うのは適当じゃないかもしれないけど、自分で生まれようとして生まれてくるわけ?
  ハァ〜」(なんか感動)

 ……すべてのいのちは生まれんとする意志と生きんとする意欲を持っている。

 ……「いのちみな生きらるべし」(リルケ)

 ……殺すなかれ。 

(3月28日)

 
 

「子が生まれて 親が生まれる
2人は同い年」
              (本夛 恵)

 生物学的な見方からすれば、親となる個体が先ずあって、そこから生まれてくるのが子ですから、親を因、子を果とすれば、因が先ずあってその後に果が生じる(因果異時)と見るわけですが、仏教の見方からすれば、親が親になる時はまさしく子が生まれた時であって、子という果が生じた時が同時に親という因が生じる(因果同時)わけです。
 それどころか、親が親であり得るのは子があればこそですから、子こそが親の因であるとも言えるわけです。

 したがって、この言葉の意図するところは、つまるところ、「自分が子どもを育てている」ではなくって、「子どもによって育てられる」。1人前の親に育ててもらいなさい、子どもと一緒に育っていきなさいよ、という教えなのだと思います。

 ちょうど第1子が生まれた頃、私はこの言葉に出遇って、以来大事に憶念していたのですが、最近“とある掲示板”を見て、大きな勘違いをしていたことに気づかされました。

 「同い年」というのは、第1子とだけ「同い年」ではなくって、第2子、第3子とも「同い年」だったのですね。

5歳の息子に対しては5歳のおとうちゃん。
3歳の娘に対しては3歳のおとうちゃん。
昨秋生まれたばかりの末娘に対しては0歳のおとうちゃん。

だったんですね。
 第1子に対してだけ「同い年」で、第2子第3子に対してはどこかベテランの親のつもりで接していたのかも知れませんね。

(私「0歳のおとうちゃんか…道理でおしめの替え方も忘れてるわけだ。」(納得))
(妻「忘れたんじゃなくって、はじめっから覚えてないだけでしょ!!」)

(1月10日)

 
 

謹 賀 新 年

「〈生きる〉とは、
   地上に在(あ)る、生の短さを、
   つくづく思い知って、
   抱きしめるように、
   慈しむことだ。」(辻 邦生)

        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2003年1月1日)

 
 

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