法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2002年7月〜12月分)
 

そんか、とくか、人間のものさし。
     
 うそか、まことか、仏さまのものさし。
                       (相田みつを)

 この言葉を読んだ時、私は学生時代のある出来事を思い出しました。

 ある時、クラブの顧問であった鍵主良敬先生がこうおっしゃったのです。

「私たちの日常は、言わば打算、損得勘定の意識から成り立っています。」

 この言葉を聞いた私たち部員の反応はおおむね、

「損得だけでは悲しい」
「損得以外にも何かあるはずだ」……etc

といったものでしたが、今にして思えば、先生の言葉を深く考えるというよりも、「損得」「打算」という言葉の響きのキツさに対する感情的な反発、拒絶に過ぎなかったように思います。

 それからしばらくして、教師修練に参加した私は、同じ班の修練生が夕方の勤行の際の感話で次のように述べるのを耳にしました。

 「大広間に集合するために部屋を出る時、自分は廊下に並んだ何足かのスリッパの中から、全く無意識のうちに、全く自然に、汚いスリッパを避けてキレイなのを選んで履こうとしていた。
 そんな自分に気が付いた時、『アッ、俺って汚いな』と思った。」

 その時、私は、先生が仰られた言葉の奥にある仏教の知見の深さ、―たとえば「虚妄分別 こもうふんべつ」という言葉が示す―人間洞察の確かさを、あらためて教えられたような気がしました。

(11月11日)

 
 

報恩講」ウラ話

 19、20日の2日間、講師に畑辺初代師をお迎えし、多数のご門徒のご参集のもと、今年の西念寺の「報恩講」(宗祖親鸞聖人御正忌)が勤まりました。

 講師先生にすっかりなついてしまった我が家の子どもたち。
 まずは、19日の夜の会話です。

娘(3歳)「ねえねえ、畑辺さん明日も来る〜?」
私「来られるよ〜」
娘「なんで〜?」(「何しに来られるの?」の意)
私「お話をしにだよ」
娘「何のお話?」
私「え〜っとね、ほとけさまのおはなし」
娘「ほとけさまって何?」
私「(うっく)……」(絶句)

 続いて昨夜のこと。

息子(5歳)「(ボソッと)おしゃかさまって誰?」
私「うう〜ん……」(またもや絶句)

 唐突になんちゅうおそろしい質問をするんじゃ、お前たちは……

 ……全く子どもは莫迦にはできません。

(10月21日)

 
 

「今月の法話」舞台裏

 夜、寝ついた子供の顔を見てふと思うこと。

(もしかしたら、こいつらがいなかったら、別に俺なんか生きていなきゃならない理由なんてないんじゃないのかな。(子どもは私の「生きる糧」))

 朝、寝起きでぐずる子供を怒りながら思うこと。

(いつまでこんなことばっかり続けてなきゃならないんだろう。かなわんな〜。(子どもは私の「愚痴の種」))

 ……この繰り返しで私の毎日が過ぎていきます。

(9月13日)

 
 

「見てござる」

 そういう年頃なのでしょうか、わが家の子供たち(5歳と3歳)はやたらと「おとうちゃん(おかあちゃん)、見て、見て〜」を連発しています。
 絵が描けたといっては「見て、見て〜」。ゴハン全部食べれたといっては「見て、見て〜」……

 内心、(オイオイそんなことまで?勘弁してくれよ〜)と思いつつも、「ハイハイ、見てるよ」と付き合っているのですが、子供たちにとって「おとうちゃん(おかあちゃん)が見ていてくれる」というのはやっぱり何より「安心できる」ことなんでしょうね。

「見ていてくれる」から「安心」だ。
「安心」だから「頑張れる」。

 この「親に見ていてもらえる」を「誰かに自分の存在を認めていてもらえる、受け容れてもらえている」と置き換えてみれば、見られているから安心、安心だから頑張れる、という展開は、子供だけにではなく大人にも充分に当てはまりそうです。

 私たち真宗門徒が、本尊の阿弥陀如来を昔から「見てござる親様」と仰いできたのには、こんな意味があったのかもしれませんね。

 ただ、「見て、見て〜」を連発する子供たちの姿を見て思うのは、こんなにも連呼しなければならないのは、だんだんこの子たちが、

「おとうちゃん(おかあちゃん)も、24時間、100パーセント、ボク(アタシ)のことばかりを見ているわけにはいかないんだ。」

ということに気付き始めていることの裏返しなのかもしれないな、と思ったら何だか可哀想な気もします。
 人間、ものごころがつくということは、同時にまた寂しさも覚えていかなければならないということなんでしょうね。

(7月25日)

 
 

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