法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2002年7月〜12月分
 
2002年7月発行 掲載分
 
 

故郷忘れ難し

 人には誰にでもそれぞれに帰りたい場所、戻りたい時代というものがあるのではないでしょうか。
 ある人にとってそれは故郷の両親の元で過ごした幼年期かも知れませんし、ある人にとっては気のおけない仲間の共におくった学生時代であるかも知れません。
 その帰りたい時代、戻りたい場所を私たちは「故郷」と呼ぶのではないでしょうか。

 「故郷」と言うと私たちは、具体的な山河や大地、そこに住む懐かしい人たちを連想します。
 しかし、詩人室生犀星がかつて

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや(『小景異情ーその2』より)

と詠ったように、現実の故郷が現在の自分を必ずしも心優しく受け容れてくれる場所だとは限りません。
 私たちが恋い慕う故郷、それは現実の故郷と言うよりむしろ記憶の中のそれではないでしょうか。

 もはやその時代その場所に帰ることはできない。
 理屈では充分に分かっていても、それでもなお故郷が恋しい。
 事実、多くの文人歌人が「望郷」をテーマに数多くの作品を残しています。

 そのことはいったい何を物語るのでしょう。
 私たちはなぜこんなにも故郷を恋い慕うのでしょうか。

 ひと言で言えば、そこでなら自分が「安心」して自分で居られた、自分がそこに居ることが無条件で許されていた場所だったからではないでしょうか。
 具体的な「故郷」を懐かしむという形で、実は私たちはみなそんな場所へ帰りたいと願っているのではないでしょうか。

 私自身の経験に照らして考えてみると、私にとっての帰りたい「あの頃」の「あの場所」というのは、実は「あの頃」「あの場所」で、優しい人たちの中で自分が自分であることを許され、自分が自分であることに安んじていられた、その人たちの輪の中に帰りたいということではないのか、と思うのです。

 もちろん「あの頃」の「あの場所」がひたすら楽で、居心地の良いぬるま湯のような場所であったわけではありません。
 その人たちとの交わりの中で自分がいやおうなしに裸にされていく。

「お前はいったい何様のつもりだ。
お前自身の姿を良く見てみろ。」

と、自分ひとりではけっして気付くことのできなかった私自身の中の思い上がりを厳しく叱ってくれる。そんな場であったように思います。

 けれどその場所は同時にそんな裸の自分がそこに居ることを許してくれた、ちっぽけな私を包み込んでくれる暖かい場所でもありました。

 そしてその暖かさがあればこそ自分はそのちっぽけな自分を、まぎれもない自分自身として謙虚に受け容れ、自分なりの「分」を全力で尽していくこともできたように思うのです。

 私はこう考えます。
 眼に見える形の「故郷」を恋い慕いながら、私たちは実は「真に故郷なるもの」、私たちが真に帰りたいと願い、そこにおいてこそ真に安らぐことのできる場所、言わば「魂の故郷」を願い求めているのではないでしょうか。
 そして、私たちは自分が本当は何を求めているのかさえ忘れてしまっているのではないでしょうか。

 その結果私たちは、自分を自分として認め愛することもできないまま、世間の評価だけを唯一の生きるモノサシとして、時には精一杯背伸びをし、時には驕り高ぶり、そして時には―あの宅間守容疑者のように―世の中のすべてを「敵」と恨み呪うだけの一生をおくることになってしまっているのではないでしょうか。

 その「魂の故郷」を、私たち真宗の伝統は「阿弥陀仏の本願」あるいは「阿弥陀仏の浄土」と聞いてきたのではないでしょうか。

 金子大榮先生は、

「浄土というのは、まだ見ない世界であるけれども、しかしこの魂の懐かしい故郷である。」

とおっしゃいます。

 その金子先生に「里帰り」を題材にしたこんな詩があります。

思い出 語ること多し
 土産どっさり里帰り
手柄話はありません
 空手(てぶら)で「唯今!」申します

 「故郷に錦を飾る」ではないけれど、里帰りの時にはできれば手土産の一つも持ってゆきたい。
久々に親元へ帰るのだから、手ぶらではいささか決まりが悪い。
 これが私たちのごく普通の感覚でしょう。

 しかし本当の「故郷」(親元・浄土)とは、むしろ「手ぶらで帰って来なさい」と私たちを呼び、手ぶらで帰ってきた私たち(子供)をそれこそ「ただいま」(南無阿弥陀仏)の一声で、そのまま無条件無資格に迎え入れてくれるところではないでしょうか。

 そして「どっさりの土産」とか「手柄話」(成功・財産・名誉……)にとらわれている私たちに対して、

「お前が「土産」だとか「手柄」だと言っているものはいったい何だね。
 そんなものが本当に「土産」になると、そんなもので本当に私が喜ぶと思っているのかい。

 しかもお前は自分ひとりの努力や才覚で手に入れた気になっているけれども、それは本当に自分の身についたものなのかね。

 むしろそれはお前の天狗の鼻を伸ばさせて、自分の本当の姿を見失わせるだけの余計な「お飾り」ではないのか。」

と、こう諭してくれるのではないでしょうか。

 阿弥陀仏の浄土は古来よりいわゆる「死後の世界」として説かれてきました。
 たとえば名古屋市の開業医丹羽是(すなお)先生は、

〈丹羽先生は死んだらどこへ行かれますか?〉

いう質問に対して、

〈私は、子どもの頃から、死んだら親父とおふくろの所へ行くと思っていたし、今もそう思っていますが、仏法聴聞して、ヤレ大宇宙の働きとか、ヤレ永遠の生命とかいう、教学の言葉を聞かされても、いざとなるとピンときません。
 私の死という具体的なところでは、親父とおふくろの所といった方が安らぎがありますわ。
 その親父とおふくろはどこに、というなら阿弥陀様の元だ、と思っています。〉

と答えていらっしゃいます。(『親鸞と歩む 信の群像』より)

 しかし、お父様お母様が居られるその場所を、先生は、死んだら誰でもが行くあの世(冥界・霊界)としてではなく、「阿弥陀様の元」である「お浄土」として、我々が念仏してやがてそこに帰っていく魂の故郷として語ってくださっています。

 お浄土とは、ただ単に死んでから生まれる世界というのではなくして、父母の懐かしい記憶を通して、現実の人と人との交わりを通して、

「お前の本当に求めている世界はこれだ。
 それに気付き、そこに帰れ。」

と私たちに呼びかけ、働きかけてくださっているのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2002年7月号掲載)

〈参考文献〉
新田秀雄編『人生と永遠 金子大榮・その人と信仰』(法蔵館・1982)
亀井 鑛『親鸞と歩む 信の群像』(大法輪閣・1996)

 
 
 
2002年9月発行 掲載分
 
 

「不安は私のいのちやもん」
              (山崎ヨン)

 「今月の法語」は、松本梶丸編著『生命の大地に根を下ろし』で紹介された、石川県金沢市在住の山崎ヨンさん(当時70歳)へのインタビューから頂戴したものです。

こないだも、ある新興宗教の方がこられて、
「ばあちゃん、不安ないか」
「ええ、不安ありますよ」
というと、その人、
「不安あるでしょう。
 わたしら、その不安をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」
といわれる。

 私たちの生活を振りかえってみれば、私たちは仕事のこと、家庭のこと、健康のこと、将来のことなど、実にさまざまな「悩み」や「心配」、「不安」をかかえて生きています。
 私たちの生活は、言わばそれらのことによって心身を煩い悩ませることの連続であって、何かの拍子で一時に押し寄せてきた時など、頭の中がそれ一杯になり、胃が痛んだり、眠れなくなったりということもしばしばです。

 そんな日々の最中に「不安がなくなる」と聞かされれば、「そんなうまい話があるなら……」と飛びつく気持ちもわからないではありません。
 まして、この山崎さんは障害(聾唖)をもったお子さんとの二人暮し。自身も高齢とあらば「さぞかし……」と思ったのですが、あにはからんや、次のように答えられたそうです。

「そうか、ご苦労さんやねえ。
 不安の世の中でねえ。
 そやけどこの不安、あんたにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。
 不安は私のいのちやもん。
 不安とられたら生きようないがんないか。
 ウラ、まだ死にとうねえもん」
というたら、その人、私の顔みて目つぶっとる。
「なんしとるがや、あんた」
というたら、
「ばあちゃんのこべ(ひたい)から光さしとるわ」
といって帰っていかれた。

 私たちが宗教(仏教)に対して抱くよくある誤解は、宗教(仏教)を学べば(修行すれば)、何事にも動じない、どんな時でも怒ったり泣き叫んだりしない冷静沈着な心、いわゆる「不動心」を得ることができる。あるいは「不動心」を得ることが宗教(仏教)の説く「救い」である、というものだと思います。

 私たちの心は日がな働きづめに働き、動きづめに動いていますから、時としてそのことに疲れ、静かな穏やかな心でいたいと切実に願うものです。

 しかし仮に、この勧誘の人が言ったように、本当に「不安」が、「心配」や「悩み」がなくなったならば、私たちの身にいったい何が起こるでしょうか。

 それこそ何にもやることがない。
 退屈で退屈で、しまいにはボケてしまうのではないでしょうか。

 極端に言えば、自分がこの世に生きている理由、必然性がなくなってしまうのではないでしょうか。

 最近新聞に載ったある若いお母さんの投書を読んでなるほどと思ったのですが、その投書によれば、日頃子育てに振りまわされて自分の時間もろくに持てなかったお母さんが、ある日、子供たちがそろって外泊ということになり、思いがけず自由な時間ができたそうです。
 暇ができたらあれもこれもと計画を練っていたのに、いざ体が空くと何をする気にもなれない。
 それどころか、誰もいない家の中に一人ポツンと居ると寂しくて我知らず涙さえこぼれてきてしまって、いつのまにか「子供と一緒の生活」こそが自分の「本当の生活」になっていたことに初めて気がついた、というものです。

自分が頑張って子供を育てている。
自分の時間を子供のために犠牲にしている。
子供がいるからいろいろと悩まなきゃならない。
(子供さえいなければ私は自由で悩むこともない)

 お母さんの「想い」はこうだったのでしょうが、「事実」は逆で、悩みやグチの種であるはずの子供にむしろ支えられ励まされ生かされて生きてきたのでしょう。

 前出の山崎さんも、かつては障害をもった子のために自分が犠牲になったとわが子を白い眼で見たこともあった、とおっしゃっています。
 しかし今、山崎さんはこのように受け止めておられるそうです。

 文字通り「生命の糧」であったにもかかわらず、申し訳ないことに自分はその子を邪魔者扱いしてきた。
 自分のその「鬼の心」を気づかせるために、自分を「お念仏の世界」に立たせるために、この子が自分の犠牲になってくれたんだ、と。

 そして、「自分の人生」と言うならば、子供の行く末で思い悩むことが「自分が生きる」ことであって、それ以外に「自分が生きる」ということはない。
 これこそが他の誰のものでもない、誰に代わってもらうこともできない「自分の人生」なのだ、と。

まあ、自分のただひとつ心にかかることは、こいつ(子ども)のことやね。
自分が死んだら、この子はどうして生きていくんやろうなあ、と。
この子の将来のことおもうとやっぱりやりきれん。
心ぼそいわね。
でも、これ(子供)と後生の問題とが、縄のように自分を支えとる。
これが自分の生命やとおもうとります。

 こう決着することは決して容易な道ではなかったはずです。

 しかし、どこまでも「我」―自分の立場を立ててわが子を「不安の種」とのみ見る眼を転じて、「生命の糧」と見る智慧の眼を獲得すること以外に、本当の意味での仏教(真宗)の「救い」はないのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2002年9月号掲載)

〈参考文献〉
松本梶丸編著『生命の大地に根を下ろし 親鸞の声を聞いた人たち』(樹心社・1987)

 
 
 
2002年12月発行 掲載分
 
  うらを見せ おもてを見せて
     ちるもみぢ

               (良寛)

 「今月の法語」は江戸時代の禅僧良寛(1758〜1831)作の1句です。

 ちょうど今時分の、晩秋から初冬にかけての落葉の情景を詠んだものですが、良寛さんは風に舞う一枚の紅葉(もみぢ)に託して人間の、おそらくはご自身の一生の有り様を語られたのだと思います。

 この句の紅葉の「表」と「裏」から、それこそさまざまな意味を読み取ることが可能です。

 ある人はこれを、人生における「正」の局面と「負」の局面と読まれるかも知れません。
 この場合の「表」とは、人生における鮮やかな成功や勝利、栄華栄耀といった昇り調子の場面を、「裏」はその反対として失敗、挫折、敗北と批難といった苦難に満ちた降り坂の場面を示すものとして取ることができるでしょう。
 あるいはまた、若さや健康(表)と、それに対する老いや病い(裏)と受け取ることもできます。

 また、ある人は、「表」を文字通り表面、世間の常識を守り社会生活を営む私たちの表の顔として、「裏」はさしずめその内面、怒り腹立ち、妬み嫉み、愚痴といった、必ずしも美しいとは限らない私たちの心の動きを読み取るかも知れません。

 強風に弄ばれる木の葉のように、私たちが出遭うさまざまな出来事(縁)によって私たちの人生もまたさまざまな姿を現わしてきます。
 思いもかけない出来事に逢って、予想もしなかった醜い感情が沸き上がってきたり、思い出すのも恥かしいような言動を取ってしまったりした経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
 また、不慮の事故あるいは戦争といった不測の事態によって人生の針路変更を余儀なくされた方もいらっしゃるでしょう。

 誰もが「表」ばかりを見、また人にも見せ、「裏」を見ずに、見せずに生きていければ幸せなのかも知れませんが、そういうわけにはいかないのです。

 遇縁によって苦しまねばならない者。
 その苦しみに堪えていかねばならない者。
 それが仏教の智慧が見出した私たち人間の姿、人生の実像であり、良寛さんの句もその伝統にのっとっておられます。

 このような人間観、人生観はちょっと聞いただけでは何だか暗い、身も蓋もないものと取られがちです。
「何だか夢が無いなァ」「生きる元気をなくすなァ」といった感想を抱く方もあるかも知れません。

 しかし、仏教はこのような私たちの在り様を決して「悪い」とも「駄目だ」とも言いません。

 むしろだからこそ仏が、阿弥陀が悲しまずにはおれない、救わずにはいられない存在(本願の正機・しょうき)なのだ、と温かく見守っているのです。

 良寛さんもまた徒らに自分を、人生を嘆いているのではありません。
 むしろ、

おろかなる 身こそなかなか うれしけれ
   弥陀の誓ひに あふと思へば

という歌を詠んでおられるほどです。

(ちなみに良寛さんは禅僧でありながら浄土教・お念仏にも深い傾倒を示され、

草の庵(いお)に 寝てもさめても 申すこと
   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

良寛に 辞世はあるかと 人問はば
   南無阿弥陀仏 といふと答えよ

等の歌を遺され、現在その墓は隆泉寺(浄土真宗本願寺派・新潟県三島郡和島町大字島崎4709)の木村家墓所内にあります。)

 私たちは日々他人の評価に右往左往し、「隣りの芝生」に一喜一憂する人生を送っております。
 もしこのような智慧の眼を本当に身につけることができたならば、私たちは目の前の人を、そして自分自身を肩書、学歴や地位・財産、あるいは能力で評価することをやめ、共に生きることに喘ぎ苦しむ者として自他を尊重することが、その人の人生苦に謙虚に頭を下げていくことができるのではないでしょうか。

 とある地方に、葬儀に参列した人々が、ご遺体の顔に向って口々に「ご苦労様でした」と声をかけていく習慣があると耳にしました。
 もしかしたらそれは、隣人の人生苦に素直に頭を下げることのできない自分を省み、本当に人間に「ご苦労様」と頭を下げてくださる仏様の心を憶い、せめて最後のお別れの時ぐらいは、と誰かが始められたものではないか、と私はひそかに想像しているのです。

(「西念寺婦人会だより」2002年12月号掲載)

〈参考文献〉
吉野秀雄校註『東洋文庫 良寛歌集』(平凡社・1992)


Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.