「物事は決めつけてはいけません」
(当山第13世・ 含雄)
先日(5月30日)、雲因地区の巡回同和研修会に参加した折に、ある参加者の方から教えていただいた私の祖父の言葉です。
私の祖父は昭和39年(1964)に亡くなっていますので、祖父のことはほとんど記憶にないのですが、その方は、生前の祖父から、いわゆる同和教育に関連してこの言葉を聞かされたそうです。
この言葉を私は、
人に対して安易な「レッテル」貼りをするな!
ということではないか、と受けとめています。
私たちが知らず知らずのうちに口にする言葉の中に、
「あの人は○○だから△△△な人だ」
というのがあります。
○○の中には、それこそ「性別」だったり、「職業」だったり、「出身学校」だったり、「出身地(国)」だったり、「人種」だったり、「身体的な障害の有無」であったり、実にさまざまな言葉(分類)が入ります。
「あの人は○○だ」と言うだけならさして問題はないのですが、厄介なことにその○○には必ず△△△というイメージがくっついてくるのです。
この△△△というイメージのくっついた○○というのを私は「レッテル」と呼ぶのです。
私自身のことを例にとれば、「お坊さん(僧侶)」という「職業」に付随するイメージに「お酒が強い」「呑んべ」というのがあります。
「あの人はお坊さんだから酒が好きなはずだ」
ところが実際の私は普段ほとんど呑みませんから、「ぼんさん=酒呑み」だというレッテルは正直迷惑な時もあります。
もてなすつもりで準備してくださったお酒にほとんど手を付けないということもしばしばですから、「水臭い」「折角準備したのに」と不愉快に思われた方もおられたかも知れません。
(「ワシの知ってる和尚さんはよく呑みなさるから」というよくわからない勧め方をしてくださった方も中にはいらっしゃいますが……)
そうなると、
「あの人はお坊さんなのに(お坊さんのクセに)、酒好きではない」
(=変わった人。接待のしがいがない人)
ということにさえなってきます。
ということはその人は、その人の持っている「お坊さん」のイメージ(典型・ステレオタイプ)を通して私を判断しているのであって、実際の私を見ていない、ということになるのではないでしょうか。(「お坊さん」には「うわばみ」もいれば、当然「下戸」もいるはずですから)
これと同じことがいわゆる「差別」の問題にも言えるのではないでしょうか。
「あの人は部落出身者だから……」
「あの人は身障者だから……」
「あの人は女性だから……」
「あの人は黒人だから……」etc
部落出身者だろうが、出身者でなかろうが、身障者だろうが、健常者であろうが、女性だろうが、男性だろうが、黒人だろうが、白人であろうが、「こわい人」もいれば、「こわくない人」もいる。「良い人」もいれば「悪い人」もいる。「仕事のできる人」もいれば「できない人」もいる。「家事の得意な人」もいれば「苦手な人」もいる……。
それが「事実」というものではないでしょうか。
自分の持つイメージ・先入観で「その人」を判断して、「その人」自身を見ないこと。
さらに言えばその先入観によって「その人」に不利益を与えること。
これを「差別」と言うのではないでしょうか。
物事は決めつけてはいけません。
物事は「ありのまま」に見なくてはなりません。
(6月4日)
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