「住職日記」(2003年9月〜12月分) | ||||||||||||||||
運命は口癖が決める!? 当サイトの掲示板「龍の湯」は本年7月以来「休止」していますが、休止にあたって「過去ログ」を見直したところ、まあ出るわ出るわ…… 曰く。「忙しい」。「疲れた」。「眠い」。「ダルい」。「肩が……」。「腰が……」……etc まさしく愚痴のオン・パレード。 私は、自分がも愚痴っぽい人間であるなぞとは全く自覚しないまま暮らしてきました。 「こうも愚痴っぽい管理人の居るところなんぞ誰も来たくはないわな」と、「龍の湯」に閑古鳥が鳴いていた理由の1つが分かりましたし、それより何より、隣でリアルにそれを聞かされていた家人はたまったものではなかったでしょうね。 もっとも当の本人はと言えば、ひとしきりこぼした後には、
と、気持ちを前向きに切り替えてはいるつもりなんですが……。
これは、ある心理学者の言葉だそうですが、これによれば、その人の「口癖」にはその人の人生そのものを決めていくほどの力があるのだそうです。 たかが「口癖」ぐらいでそんな、という気もしないではないのですが、確かに愚痴っぽい人や怒りっぽい人には、誰も好んで近づきたいと思いません。 しかし、考えてみると、私たちの「口癖」を1番よく聞いているのは、案外すぐそばに居る誰かではなく、他ならぬ自分自身の耳なのではないでしょうか。 足利源左衛門(1842〜1930・通称“妙好人因幡の源左”)さんの「口癖」は、
だったそうです。 河村ふでさんの「口癖」は、
法然上人の「口癖」は、まさしく日課6万遍から7万遍の「南無阿弥陀仏」でした。 これらの方々の人生は、自らの口を突いて出たお念仏や教言(教えの言葉)によって自らが教化されていく人生ではなかったか、とも思うのです。
たかが「口癖」、されど「口癖」。 それにしても、普段の私はいったいどんな言葉を「口癖」にしているのでしょうか? (10月10日) |
「印」の起源……!? 有名な仏像を拝観する時、その説明書きを注意して見ると、「説法印(轉法輪印)」(せっぽういん・てんぼうりんいん)だの「降魔印(触地印)」(ごうまいん・そくちいん)」だのといった、その仏像が結んだ「印・手印」(いん・しゅいん、手や指で示すさまざまな形。それぞれに意味を持つ)について説明してあります。 たとえば「奈良の大仏さま」として知られている東大寺大仏殿の毘盧遮那(びるしゃな・ヴァイローチャナ)仏(盧舎那大仏像)ですが、
であるとされています。 |
この「施無畏印」「与願印」を、ある御住職は、
と解説しておられました。 それはそれで大変に啓発を受けたのですが、日々「子育て」に振り回される1親父としましては、それをさらに進め(?)て、より大胆な「新説」(!)を打ち出したいと思います。(笑) 「施無畏印・与願印」の「起源」とは、
すなわち「幼な児をあやす親の姿」(!!)である。 以上、妄想もたくましく、こんな具合に考えてみたのですが……、ダメですか?……
(10月7日) |
念珠が切れると…… かなり前の話ですが、某BBSに、
という趣旨の書き込みがあり、その後いろいろと波紋を巻き起こしたように記憶しています。 「念珠が切れた」というひとつの出来事を、「何か良くないことが起きるのでは……」といういわゆる「凶兆」と取るか、「念珠といえどもモノなんだから切れることもあるわな」と取るか、という解釈の違い、というかズレが、このトラブルの元にはあるわけなんですが、問題は、「念珠が切れると本当に良くないことが起きるのか?」という1点であると思います。 結論から申し上げましょう。 「起きます!!」 念珠というもの、僧侶にとっては言わば必須アイテム。 私自身、友人からプレゼントされた念珠を何連も切ったことがありますが、彼らの身に何か異変が起きたという話もついぞ聞いたことがありません。 そう、あの「事件」が起きるまでは……。 あれは去年の秋のこと。
というかすかな音。 次の瞬間、耳に響いた
という、数珠玉がアスファルトを跳ねる音。
と、血の気が引いていく音。(これは空耳だったかもしれませんが……)
声にならない声を上げながら、それでも目はしっかりと転がる数珠玉を追いかけて…… 10数分後、全部の珠をなんとか拾い集め、息を切らして隣寺に駆け込んだ私を迎えてくれたものは……、先輩僧侶の皆様方の冷たい眼、眼、眼……。
それから葬儀終了までの数時間、私が「針のムシロ」状態であったことは言うまでもありません。 念珠が切れると良くないことが起きる……こともある。 「教訓」 (9月9日) |
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