法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2003年9月〜12月分)
 
 

運命は口癖が決める!?

 当サイトの掲示板「龍の湯」は本年7月以来「休止」していますが、休止にあたって「過去ログ」を見直したところ、まあ出るわ出るわ……

 曰く。「忙しい」。「疲れた」。「眠い」。「ダルい」。「肩が……」。「腰が……」……etc

 まさしく愚痴のオン・パレード。 
 あまりの多さに我ながら驚いてしまいました。

 私は、自分がも愚痴っぽい人間であるなぞとは全く自覚しないまま暮らしてきました。
 というより、それが「愚痴」だとは全く思わないで口にしてきたのですが、目の前にこうして「証拠」を突きつけられますと、いやでも自分の「本性」だと認めないわけにはいきません。

 「こうも愚痴っぽい管理人の居るところなんぞ誰も来たくはないわな」と、「龍の湯」に閑古鳥が鳴いていた理由の1つが分かりましたし、それより何より、隣でリアルにそれを聞かされていた家人はたまったものではなかったでしょうね。
 もっとも「類は友を呼ぶ」で、家人も私に負けず劣らず愚痴っぽいような気が……
(う〜む、家の中がドンドン暗くなるはずだ)

 もっとも当の本人はと言えば、ひとしきりこぼした後には、

(愚痴ってばかりいても仕方がない。まあ、ボチボチ頑張ろうか)

と、気持ちを前向きに切り替えてはいるつもりなんですが……。
 どうも( )の中身はなかなか周りには伝わらないようです……。

『運命は口癖が決める』

 これは、ある心理学者の言葉だそうですが、これによれば、その人の「口癖」にはその人の人生そのものを決めていくほどの力があるのだそうです。

 たかが「口癖」ぐらいでそんな、という気もしないではないのですが、確かに愚痴っぽい人や怒りっぽい人には、誰も好んで近づきたいと思いません。
 当然、愚痴っぽい人、怒りっぽい人の回りからは人の数がだんだん減っていきます。
 そのせいかどうかはわかりませんが、愚痴っぽい人はますます愚痴っぽく、怒りっぽい人はますます怒りっぽくなっていくようです。
 私自身、この「悪循環」に嵌まりこんだ経験がありますから、他人を引き合いに出すまでもなくよくわかります。

 しかし、考えてみると、私たちの「口癖」を1番よく聞いているのは、案外すぐそばに居る誰かではなく、他ならぬ自分自身の耳なのではないでしょうか。
 私たちの「口癖」には、もしかしたら自分の言葉によって自分自身を「教育」、もしくは「洗脳」していくような効果があるのかも知れません。

 足利源左衛門(1842〜1930・通称“妙好人因幡の源左”)さんの「口癖」は、

「ようこそ、ようこそ。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」
(腹の立つこともあっても、良いことも悪いことも何もかもみな受けとめ、受け入れる意)

だったそうです。

 河村ふでさんの「口癖」は、

「ああ今日も目が見えてくださる。手が上がってくださる。足が動いてくださる。ありがたいことじゃのう。おかげさまじゃのう。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」
「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ばせてもらおうよのう。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」

 法然上人の「口癖」は、まさしく日課6万遍から7万遍の「南無阿弥陀仏」でした。

 これらの方々の人生は、自らの口を突いて出たお念仏や教言(教えの言葉)によって自らが教化されていく人生ではなかったか、とも思うのです。

「人の、こころえのとおり、申されけるに、
『わがこころは、ただ,かごに水を入れ候ように、仏法の御座敷にては、ありがたくもとうとくも存じ候うが、やがて、もとの心中になされ候う』
と、申され候う所に、前々住上人(=蓮如上人)、仰せられ候う。
『そのかごを水につけよ』と。
わが身をば法に漬(ひて)ておくべしよし、仰せられ候う。」(『蓮如上人御一代記聞書』)

 たかが「口癖」、されど「口癖」。
 心したいものです……。

 それにしても、普段の私はいったいどんな言葉を「口癖」にしているのでしょうか?
(考えてみるとちょっと恐ろしい気も……)

(10月10日)

 
 

「印」の起源……!?

 有名な仏像を拝観する時、その説明書きを注意して見ると、「説法印(轉法輪印)」(せっぽういん・てんぼうりんいん)だの「降魔印(触地印)」(ごうまいん・そくちいん)」だのといった、その仏像が結んだ「印・手印」(いん・しゅいん、手や指で示すさまざまな形。それぞれに意味を持つ)について説明してあります。

 たとえば「奈良の大仏さま」として知られている東大寺大仏殿の毘盧遮那(びるしゃな・ヴァイローチャナ)仏(盧舎那大仏像)ですが、

「右手は胸のあたりに上げて、前方に掌を向ける「施無畏印」(せむいいん・畏怖を取り除いて安心させる)」、左手は膝の上で掌を上に向ける「与願印」(よがんいん・願いを与える)の説法の姿」

であるとされています。

東大寺大仏

  この「施無畏印」「与願印」を、ある御住職は、

「何も心配することは要らないよ」と相手の体に手を当てる姿(施無畏印)
「あなたの願いはこれでしょう」と掌に乗せて差し出す姿(与願印)

と解説しておられました。

 それはそれで大変に啓発を受けたのですが、日々「子育て」に振り回される1親父としましては、それをさらに進め(?)て、より大胆な「新説」(!)を打ち出したいと思います。(笑)

 「施無畏印・与願印」の「起源」とは、

 右手は、むずかる幼な児の背中を軽くトントンと叩いてあやしている姿。
(「大丈夫だよ〜。泣かなくてもいいんだよ〜。」)
 左手は、泣き止んだ頃合いを見計らって、玩具なりお菓子なりを差し出す姿。
(「ハイ、これが欲しかったんでしょ?」)

すなわち「幼な児をあやす親の姿」(!!)である。

 以上、妄想もたくましく、こんな具合に考えてみたのですが……、ダメですか?……
(存外、こちらの方が本当の「起こり」ではないかと思うのですが……)

「今この三界(さんがい)は皆是れ我(=仏)が有(う=財産)なり。
その中の衆生は悉く是れ吾が子なり。」(『法華経』「譬喩品」)

(10月7日)

 
 

念珠が切れると……

 かなり前の話ですが、某BBSに、

「念珠(ねんじゅ・「数珠」の正式な呼称)が切れたのでどうしたらいいでしょうか?」と尋ねられたので、「仏具屋に持って行ったら直してもらえますよ」と答えたら、「私は本気で心配しているのに!冷たいんですね!!」と怒られてしまった。
 私は何か悪いことを言ったのだろうか?

という趣旨の書き込みがあり、その後いろいろと波紋を巻き起こしたように記憶しています。

 「念珠が切れた」というひとつの出来事を、「何か良くないことが起きるのでは……」といういわゆる「凶兆」と取るか、「念珠といえどもモノなんだから切れることもあるわな」と取るか、という解釈の違い、というかズレが、このトラブルの元にはあるわけなんですが、問題は、「念珠が切れると本当に良くないことが起きるのか?」という1点であると思います。

 結論から申し上げましょう。

「起きます!!」

 念珠というもの、僧侶にとっては言わば必須アイテム。
 使用頻度が高ければ当然消耗も早い。傷めば当然切れもする。
 というわけで、突然に切れることだって決して珍しくはありません。
 それこそ「またか!最近の念珠は紐が弱くてイカン!!」というくらいのものです。

 私自身、友人からプレゼントされた念珠を何連も切ったことがありますが、彼らの身に何か異変が起きたという話もついぞ聞いたことがありません。
 「安物のテレビドラマじゃあるまいし、念珠が切れたぐらいで、そうそう都合よく事件が起きてたまるか」というのが私の正直な実感でした。

 そう、あの「事件」が起きるまでは……。

 あれは去年の秋のこと。
 その日、私は急逝された隣寺の前住職の葬儀に出仕するためクルマを急がせていました。
 指定された駐車場にクルマを停め、法衣カバンを手にクルマを降りた私の耳に妙に大きく聞こえた

「プチッ」

というかすかな音。

 次の瞬間、耳に響いた

「パラパラパラ……」

という、数珠玉がアスファルトを跳ねる音。
(こういう時ってなぜか目の前の映像がスローモーションで展開されます。)

「ザザザーッ」

と、血の気が引いていく音。(これは空耳だったかもしれませんが……)

(アッ、アッ、アーッ……)

 声にならない声を上げながら、それでも目はしっかりと転がる数珠玉を追いかけて……

 10数分後、全部の珠をなんとか拾い集め、息を切らして隣寺に駆け込んだ私を迎えてくれたものは……、先輩僧侶の皆様方の冷たい眼、眼、眼……。

(若僧が!この大事な法要に遅刻なぞしおって……) 

「いや、あの、その、念珠が、切れまして……

 それから葬儀終了までの数時間、私が「針のムシロ」状態であったことは言うまでもありません。

 念珠が切れると良くないことが起きる……こともある。

 「教訓」
 皆様、約束のある時にはくれぐれも時間に余裕をもって出発しましょう。
 ご同業の皆様は、出発前には念珠のチェックを忘れずに。(って、なんか違う!?)

(9月9日)

 
 

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