「六角堂夢告」考 豅 弘 信
に拠れば、元久2年(1205)、親鸞は「夢告」によって実名を改め、閏7月29日、法然によって新しい名をその真影に記してもらっている。 この「名の字」は、覚如の『拾遺古徳伝』巻六における との記述以来、「善信」であるとされてきたが、筆者はこれを「親鸞」であると考え、種々論考を発表してきた。 ただ、旧稿「「善信」と「親鸞」――元久二年の改名について(下)――」(『親鸞教学』76、2000年)にも記したが、「名の字」を「釈の親鸞」と考える上で、 という問題が残されていた。 今回筆者は、(2)の問題を視野に入れつつ、主に(1)の「夢告」の問題について考察を進めていきたい。 旧稿において筆者は、親鸞に改名を促した「夢告」について、「記録自体がなされなかったか、時間の経過とともに散逸したのか、いずれにせよ覚如の時点ですでに伝承が途切れており、新史料の発見を待つ他ない」と記し、「夢告」の時期も『選択集』の書写を許されてから真影に讃文を書き入れてもらうまでの間であろうと考えていた。しかし、現在筆者の考えは次のように変化している 人生の一大転機である改名の契機となった「夢告」を親鸞が記録しないということがあり得ただろうか。信頼のおける弟子にそれを伝え、散逸を防ぐためにその記録文書を託すことをしなかったのだろうか、と。 (この「夢告」を親鸞ではなく法然が見た「夢」とする見解(2)もあるが、法然が見た「夢」だとしても親鸞が詳しくそれを尋ねて記録しなかったのか、という同様の疑問が残る。(3)) また、「夢告」の時期を選択付属・真影図画の頃とする必要はなく、その内容も、必ずしも天親・曇鸞の名が登場していると考えなくてもよいのではないか、と。 途切れてしまったのは「親鸞に改名を促した」という伝承の方であり、私達は現在その「夢告」をそれと知らずに目にしているのではないか、と考えているのである。 『教行信証』の各所に施された振り仮名、左訓、字訓、圏発(四声点)等からは、読者の理解を助けるための親鸞の並々ならぬ配慮が窺われる。 また、「名の字」を「善信」とする先入見を廃して読めば、「愚禿釈親鸞集」の撰号からして「名の字」は当然「釈の親鸞」と読める、と親鸞自身は考えたと思われるが、同様に、「夢の告」と書けば、どの「夢告」を指すのか面授の門弟達ならすぐに理解できる、と親鸞は考えたのではないだろうか。親鸞の生涯において史実と確認できる「夢告」は二つしかない。 一つは、真仏によって、『経釈文聞書』に、親鸞夢記云 と記された「親鸞夢記」の文、及びかつて親鸞真蹟の「浄肉文」の紙背に記されていたこれも真仏筆の「六角堂夢想偈文(断簡)」 に伝えられる、六角堂の救世菩薩から房号「善信」をもって呼びかけられ、「行者宿報偈」を与えられたそれであり、もう一つは『正像末和讃』草稿本(親鸞真蹟)に、 と、「夢告讃」として記される康元2年(1257)閏2月9日のそれである。 85歳時の「夢告讃」が33歳時の改名を促したはずはなく、現在確認できる文献中親鸞に改名を促した「夢告」として考え得るのは、建仁元年(1201)、六角堂において「行者宿報偈」を授けられた「夢」であり、筆者はこの「玉女として行者に随順し臨終に引導して極楽に生ぜしめん」という救世菩薩の「誓願」を「一切群生に説き聞かすべし」と命じられた親鸞が、その課題に応えて「数千万の有情にこれを聞かしむ」るべく「親鸞」と改名した、と考えざるを得ないのである。 以上の説が成り立つか否かを検討すべく、小論において筆者はまず「行者宿報偈」をめぐる初期の伝承を尋ね、その後、「夢告」が親鸞にいかなる課題をもたらし、それが改名とどう関連していったかについて考究していきたい。
いずれも現在専修寺に伝わっているが、『経釈文聞書』は、冒頭の『蓮華面経』『法事讃』の文から善鸞事件に関連して建長7年(1255)以降に書き始められたと考えられること(4)。 これらのいずれにも「夢告」のあった日時・場所は記載されていないが、「六角堂の救世大菩薩」とあることから見て、おそらく聖徳太子創建と伝えられる六角堂における、それも『恵信尼書簡』が伝える、建仁元年(1201)、親鸞を法然のもとへと誘いざなった参籠95日目の暁の「夢」を記録したものであると思われる。 しかし、「行者宿報偈」をめぐる初期の伝承は必ずしもそうなってはいない。「行者宿報偈」を伝える初期の文献は、本願寺覚如の『親鸞伝絵』、荒木門徒系の『親鸞聖人御因縁』、そして「熊皮御影」と限られている。(8) (1)『親鸞伝絵』 ―― 東国伝道の予言 ―― 親鸞の曾孫覚如は『伝絵』巻上本第三段において、
として、「夢告」は建仁3年(1203)4月5日寅の刻(午前4時頃)のことと記している。 覚如はこの「夢告」を
とし、巻下本第二段(「稲田興法」)では
として、親鸞自身が後年の東国伝道の予言と考えていたとしている。 建仁3年の干支――『善信聖人絵』(以下、西本願寺本)は「癸亥」、『善信聖人親鸞伝絵』(以下、専修寺本)・『本願寺聖人伝絵』(以下、東本願寺本)は「辛酉」。西本願寺本の干支が正しい――の問題が残されているとはいえ、初稿本制作の永仁3年(1295、覚如26歳)から康永2年(1343、74歳)制作の最終完成稿である東本願寺本に至るまで、覚如は一貫して「六角堂夢告」を建仁3年の出来事としている。 また、吉水入室に関しても、『伝絵』巻上本第二段に 正安3年(1301、32歳)制作の『拾遺古徳伝』巻六にも
とあるだけで、入門の年時に混乱――専修寺本・東本願寺本が建仁3年春。西本願寺本・『古徳伝』は建仁元年春。(『古徳伝』には「辛酉」の干支あり)――があるとはいえ、「夢告」は一貫して建仁3年の夏(4月5日)。 覚如は、『伝絵』の制作に先立ち、正応3年(1290)から2年間、父覚恵と共に関東に赴き親鸞旧跡を巡拝、存命の親鸞門弟と対面して史料や伝承を収集している。 として東方の高山に群集する数千万億の有情に説法する情景を挿入している。 この点について、親鸞の手元に「六角堂夢告」以外の「夢」も記載された『親鸞夢記』が「原本」としてあり、覚如は「原本」の記述に拠って『伝絵』の記事を作り、真仏の「夢記」は「原本」の中から「六角堂夢告」の記事のみを、それも年時や東方の高山の群衆への説法を割愛して抜粋した「原本の所謂聞書・抄出」であるという推定もなされている(16)が、「原本」自体が発見されておらず、推定の根拠の一つと見られる――「親鸞夢記云」として三つの「夢告」を引いた――専修寺蔵「建長二年文書(「三夢記」)」も偽作としか思われない。(旧稿「「三夢記」考」(『宗教研究』366・2010年)参照。) 覚如はやはり関東でみた真仏の「夢記」に拠って『伝絵』の記事を書いたと考えられ、真仏の「夢記」に見られない『伝絵』の記述は覚如による潤色か、あるいは当時関東に「夢告」を東国伝道の予言と見た口頭伝承、もしくはそれにまつわる文書――いずれも真仏の「夢記」以降に成立――が存在したことによるものと思われる。 また、前掲のごとく覚如は『拾遺古徳伝』に、元久2年の親鸞の改名を実名「綽空」から房号「善信」へのそれと記しているが、「行者宿報偈」以外に改名以前の「夢」を記していないことから見て、覚如は改名の契機である「夢告」を建仁3年4月5日寅の刻のそれと理解していたものと思われる。 (2)『親鸞聖人御因縁』 ―― 結婚の契機 ―― 「親鸞―真仏―源海」の系譜を記し、『伝絵』より成立が古いと見られる荒木門徒系の『親鸞聖人御因縁』には、建仁元年10月、38歳の親鸞に「月輪の法皇」の第七女「玉日の宮」との結婚を法然が勧めた際、固辞する親鸞に対して、親鸞が入門する前、六角堂において見、誰にも告げたことのなかった「行者宿報偈」を示して、示現に従って妻帯せよと命じたというエピソード、所謂坊守縁起が載せられている。 「夢告」は29歳の折の六角堂でのことあり、「夢告」に従って法然に入門したことになってはいるが、参籠期間は7日間、建仁元年より9年前、親鸞29歳の出来事とされている。
「熊皮御影」は、寿像である「安城御影」を祖型として約100年後の南北朝期に描かれたと見られ、当時、「行者宿報偈」が親鸞の生涯における中核的な意味を持つと理解されていたことが窺われるが、いかなる意味においてそう理解されていたかは明らかではない。 外題の「善信房御影 四句文尊円親王 絵浄賀法橋」に拠れば、讃文は本願寺の本寺である青蓮院の門跡尊円法親王(1298〜1356)の筆であり、画筆者は覚如が永仁3年に最初の『親鸞伝絵』(専修寺本か?)を制作した折の絵師浄賀(1275〜1356)であるとされている。 両名とも覚如(1270〜1351)と同時代人であり、また近しい関係も想像できることから、「御影」の製作に覚如が関わっていたとの推定も可能ではあるが、「御影」伝来の経緯は一切不明であり、外題の信頼性自体を疑う見解(19)もある。 (4)『恵信尼書簡』 ―― 「御示現の文」 ―― 現在この「行者宿報偈」は、恵信尼が娘覚信尼に宛てた『書簡』第三通に添えた
であると考えられている。 この「御示現の文」は現在失われており、『上宮太子御記』に「文松子伝云」として引かれ、金沢市専光寺に親鸞真蹟の一部が伝わる「廟窟偈」であるとする説もあったが、「廟窟偈」では法然を訪ねる必然性が見出せない等の理由(21)から、現在は「行者宿報偈」説が主流である。 ただ、筆者は別の観点から『恵信尼書簡』の「御示現の文」は「行者宿報偈」であると考えている。 前掲の真仏筆「親鸞夢記」の文には「夢告」の日時、場所等が記載されておらず、また、白衲の袈裟を着した僧形の救世菩薩が告命したとあり、「しやうとくたいし(聖徳太子)のもん(文)をむすびて、じげん(示現)にあづからせ給て候け」(22)るとした『恵信尼書簡』の記述とは若干の相違がある。しかし、筆者には、両者の記述の相違が逆に「行者宿報偈」が「御示現の文」であることを物語っているように思える。 『恵信尼文書』に『書簡』と共に伝えられた「仮名書き音読み」の『大無量寿経』の文からも知られるように、恵信尼を含めて当時の女性に漢文の読解能力はなく、親鸞が恵信尼に与えた「御示現の文」は、おそらくは前後の文のない偈文のみであったであろう。 またその偈文も、真仏書写の「六角堂夢想偈文(断簡)」と同様、返り点・送り仮名付きの漢文ではあるが、書き下し(延書)にはせずに音読みの振り仮名を付した形態から見て、読解よりむしろ音読・暗唱を主眼として書かれた(23)ものであり、その背景・由来について恵信尼は、親鸞から口頭で聞かされたと思われる。この「聖徳太子の文を結びて」の文は、「太子の」の「の」が主格を現す「聖徳太子が文を結んだ」との意であるのか、「聖徳太子の文」(聖徳太子関連の文)を親鸞が「結んだ」のか、そして「文を結ぶ」とはどういう意味なのか、という点で解釈が分かれているが、山田雅教は文保元年(1317)の成立とされる『聖法輪蔵』四十七の記事
をもとに、「の」は主格、「文を結びて」は「文を作って」の意であるとしている。(24) また、救世観音は聖徳太子の本地であり、当時、両者は同一の存在と見なされていた。 つまり「聖徳太子の文を結びて、示現にあずからせ給いて」という『恵信尼書簡』の記述は、 《「夢」の中に(本地である救世観音菩薩の姿の)聖徳太子が現れて文を作って示された(=告命された)のに出遇って……》 と解釈でき、真仏の「親鸞夢記」の文との記述の相違は、親鸞が「救世観音が告命した」と語ったものを恵信尼が「聖徳太子が文を作って示した」と記した、あるいは親鸞自身が「聖徳太子が文を示した」と語った、という些細な「誤差」の範囲内であり、「親鸞夢記」と『恵信尼書簡』は同じ情景を伝えていると見ることができるのではないだろうか。 いずれにしても、『伝絵』や『御因縁』の時点で「夢告」に関する伝承はかなり変容しており、「親鸞が百日間の六角堂参籠を発願し、95日の暁にこの文を得て、法然に入門した」という由来の正確な伝承は早い時期に途切れていたと考えなければならない。 真仏が京都に滞在して「夢記」「夢想偈文」を写した折には親鸞から口頭でその正確な由来が伝えられたと思われるが、真仏は下野国高田に帰った後、翌正嘉2年(1258)3月8日に死亡している。 岡崎市東泉寺蔵『三河念仏相承日記』に拠れば、顕智は真仏らが帰郷した後もしばらく京都に留まり、その年の暮れに三河に到着。真仏の命によって翌正嘉2年まで三河で教化に従事している。(25)それゆえ顕智は、娘婿として『経釈文聞書』等の文書を相続したものの、真仏から直接「夢告」にまつわる由来を伝えられることはなかったのではないだろうか。 だとすれば、真仏の没後、その詳しい由来を聞くことなく「夢記」「夢想偈文」を目にした者達(顕智、覚如、源海ら)の理解は、当然文書の記述そのものに引きずられることになる。読む者がどの箇所を重視したかによって、その後の親鸞伝上の「夢告」の位置付けがおのずと決定されてきたのではないだろうか。 つまり、『伝絵』は「吾が誓願を説き聞かすべし」とした救世菩薩の「告命」を重視してこれを東国伝道の予言とし、『御因縁』は「行者宿報偈」に重点を置き、結婚を命じた「夢」と解釈したのではないだろうか。
と伝える『恵信尼書簡』によれば、20年間に及ぶ比叡山での親鸞の修学は、六角堂で「後世を祈ら」ざるを得ない結果に終わった。 親鸞はその在叡期の具体相については何も語ってはいない。 『恵信尼書簡』のこの記述と、「とこしなへに楞厳横川の余流をたゝへて」(26)と語る覚如の『親鸞伝絵』の記述から、若き日の親鸞が叡山浄土教の伝統の中で勉学修行を続けてきたことが推察できる。 当時の叡山浄土教の内実は、建久8年(1197)、聖光房弁長入門の際に法然が語った「三重の念仏」からも窺われる。
法然は弁長に対して、天台宗における「念仏」を「摩訶止観にあかす念仏」、「往生要集にすゝむる念仏」、そして「善導の立給へる念仏」の三種に分類し詳説した。 「善導の立給へる念仏」とは、「偏依善導一師」を標榜した法然が説いた選択本願の行としての称名念仏に他ならない。
と、その善導理解を痛烈に批難している。) これに対して「摩訶止観にあかす念仏」とは、智『摩訶止観』に説かれる四種三昧の中の「常行三昧」、『般舟三昧経』に基いた、行道の中で阿弥陀仏の現前を見ようとする不断念仏の行である。 (例えば『拾遺古徳伝』巻三は、法然の師叡空が観仏を勝れた往生の行とした自らの『往生要集』理解を述べた際、称名を勝れた行と主張する法然と激論になり、激怒した叡空が木枕を投げつけたという逸話を伝えている。(27)) 後年親鸞は、『高僧和讃』「源空讃」で師法然の恩徳をたたえる中に、
という一首を制作している。 筆者はこの和讃が在叡期の親鸞の思想的遍歴を暗示していると考える。 親鸞が「善導源信すすむとも」と語った折の「善導源信」とは、法然の択法眼による善導・源信理解ではなく、おそらくは当時比叡山を含む旧仏教で一般的であった「観勝称劣」の念仏理解を指すものであろう。 親鸞は堂僧として時に不断念仏に努め、時に『往生要集』の、あるいは善導の学解に沈潜しながら、ひたすら「もろこし我朝もろもろの智者たちの沙汰し申さるゝ観念の念」(28)(「一枚起請文」)に励んでいたのではないだろうか。しかし、観仏に励む親鸞に見えてきた自己の現実相は、後に存覚が「定水をこらすといへども識浪しきりにうごき、心月を観ずといへども妄雲なをおほふ」(29)(『歎徳文』)と記した散乱粗動する身心の有り様であり、その真摯な修行によって親鸞は、後に自らが「化身土巻・本」に、
と記したような、「無相離念」(理観)はおろか「立相住心」(事観)もおぼつかない、無限の時間を費やしても智慧の眼を獲得することの不可能な自身を思い知らされたのである。 29歳の親鸞は「いづれの行もおよびがたき身」、「いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざる」(30)(以上、『歎異抄』)との歎きを抱え、比叡山仏教の「失格」者としての絶望感の中でひたすら「後世を祈」る他はなかったのであろう。ただ、親鸞における「後世の祈り」であるが、「後世を祈る」とは、死を恐れ、後世(順次生)の悪趣を恐れて人天への転生をひたすら願うものであったのだろうか。 筆者はこの「後世」の語から、当時の親鸞が抱えていたであろう痛みと怯え――「20年間の叡山修学は徒労に終わり、未来に何らの希望をも持ち得ない。自分の人生はこのまま空過してしまう他ないのか。」――を想起せざるを得ない。 法然は自身の求道を後年、 およそ仏教おほしといへども、詮ずるところ戒・定・慧の三学をばすぎず、……と述懐している。 法然における「三学のほか」の「法門・修行」の模索は、具体的には黒谷報恩蔵における一切経の披閲であったと伝えられるが、親鸞もまた、「三学」に替わる新しい仏道修行の指針を求めて六角堂に参篭したのではないだろうか。 『梁塵秘抄』所収の今様 観音験(しるし)を見する寺、清水石山長谷の御山、粉河近江なる彦根山、間近く見ゆるは六角堂、 に拠れば当時六角堂は「観音験を見する寺」、本尊は霊験の著しい「験仏」として諸人の信仰を集めており、六角堂とともに詠われる石山寺、長谷寺、清水寺などはいずれも参籠の者に対して「験を見する」、つまりは「夢」で託宣を与える聖所であった。 このことから見て、親鸞における「後世の祈り」とは、空過徒労に終わった自己の前半生を「なげきなげき」「かなしみかなしみ」ながら「ごせ(後世)のたす(助)からんずるえん(縁)」(32)(『恵信尼書簡』)――空過を超える手がかりを求め、ひたすら観音の「夢告」を請うたものではなかったのだろうか。 そして、親鸞のこの六角堂参籠における「後世の祈り」は、最終的には、法然のもとを尋ねるべきか否かを問うものとなっていったと思われる。 法然は安元元年(1175)以来すでに20年以上も専修念仏の伝道を続けており、その間大原問答(文治2年・1186)・東大寺三部経講説(建久元年・1190)等も行われており、その盛名は当然比叡山の親鸞の耳にも届いていたはずである。
比叡山での修学に躓いてなお「戒・定・慧の三学」という理念に囚われ、「破戒(女犯)が念仏往生の妨げとはならない」と説く法然を訪ねることを逡巡する親鸞を、最終的に発遣したのが「行者宿報偈」ではなかったか、と筆者は考えるのである。
という『恵信尼書簡』の記述に拠れば、参籠95日目の「あか月」――「夜半過ぎから夜明け近くのまだ暗いころまで。未明。また、夜明けに近い時分。」(『日本国語大辞典』)――に親鸞は「夢告」を得て、「やがて――「ある事態・状態から、格別の事柄を間にはさむことなく、あるいは、時間が経過することなく、次の事態・状態が出現するさまを表す語。すぐさま。ただちに。」(同上)――そのあか月」に、つまりは「夢告」からさほど時をおかずに六角堂を出発して法然を訪ねたと言う。
この記述から、親鸞にとって吉水訪問は「夢告」を獲た直後の即時の決断による行動であり、「夢告」の直前、親鸞の胸中を占めていた問題が、「法然を訪ねるべきか否か」であったことが窺われるのである。 ただ、この「行者宿報偈」を「御示現の文」とする上で問題となったのは、親鸞が法然を訪ねる必然性がこの偈文自体からは明瞭に読み取れない、という点にあった。 そもそも親鸞は「後世」を祈っていたはずなのに、言わば「女犯」を許可した「夢告」によってなぜその問題が解決したのであろうか。 また、なぜ親鸞は「夢告」の後、法然を尋ねたのであろうか。六角堂を創建した聖徳太子が敬虔な仏教徒でありながら妻子を持った在俗の身であったこと、六角堂の本尊救世観音は当時、『覚禅抄』如意輪下に、
と記されるように、婬欲の虜となって罪を犯した者を転輪王の「玉女」となって救済する如意輪観音としても信仰を集めており、当時親鸞は臨終に悪趣に赴くとされる不淫戒を破る、つまりは結婚の問題に悩んでいたとする見解もある。 もしそうならば、「女犯」の認可を得た親鸞は法然のもとではなく「玉女」のもとに赴き、直ちに結婚生活を開始したはずである。 しかし、親鸞はそういった行動を取ってはいない。 筆者は、この「女犯」の語が親鸞個人の性欲の問題ではなく、一切衆生の罪業性を象徴したものであるとする諸氏の論考に着目したい。 平雅行は、前掲の『覚禅抄』の文と「行者宿報偈」の文との相違点に着目し、『覚禅抄』の「女犯」が「邪見の心」「婬欲の熾盛さ」といった言わば本人の意志薄弱さに起因するのに対して、「行者宿報偈」の「女犯」は「宿報」による不可避的な――「本人の意志の如何にかかわらず、彼の女犯はすでに前世で決まっている」――ものであり、「女犯」は「単なる女犯ではなく、本人の意志を超えた、絶対的で普遍的なあらゆる罪業の象徴表現」であるとしている。(33) また、井上尚美は、「「行者宿報設女犯」が親鸞の個人的な性欲の問題に言及しているのではなく、有情の断ちがたい宿業煩悩を表している」として、真仏の『経釈文聞書』に「親鸞夢記」に続いて、 観世音菩薩往生浄土本縁経言、もし重あって浄土に生まるる因なからんものは、弥陀の願力に乗じぬれば、必ず安楽国に生ず。 という『観世音菩薩往生浄土本縁経』『観仏三昧経』の文が引かれていることに着目して、親鸞は「親鸞夢記」『本縁経』『観仏三昧経』の文の抜き書きを並べて真仏に、
と語り伝えたのではないか、としている。(34) また、長野量一は、親鸞の「行者」の用語例に着目して、「行者宿報偈」の「行者」を従来理解されているような親鸞自身、あるいは修行者全般ではなく、法然のもとに集う専修念仏者であるとしている。(35) 想像をたくましくすれば、当時親鸞は法然に対する世上の風評及びその教説の断片を耳にして、法然自身の教説というよりは、むしろ「女犯」「肉食」等の破戒行為を恣にする門下の風潮に対して抵抗、もしくは反発を覚えていたのではないだろうか。 その親鸞に対してこの「夢告」は、「女犯」や「肉食」が「宿報」によって否応なしに戒を破らざるを得ない境遇に置かれた者の哀しい営みであり、専修念仏者の「造悪無碍(造悪無慚)」の行動は、既成仏教からは救済の埒外に置かれてきた者達が初めて自分達を救済の正機とした仏法に出逢い得た歓びの余りの「暴走」であるという視点すら与えたのではないだろうか。 この「夢」を見た親鸞は「後世の助からんずる縁にあいまいらせん」――必ずや後世の助かる縁に出逢えるに違いないという確信にも近い期待を胸に吉水に向かったのではないだろうか。 専修寺に伝来する真仏筆「六角堂夢想偈文(断簡)」は、元々は親鸞真蹟の「浄肉文」の紙背にあって、真仏が紙の裏面右端から「偈文」を書いた後に親鸞が表右端から「浄肉文」を記しており、「夢想偈文」が剥ぎ取られ別軸に表装されるまで「夢想偈文」と「浄肉文」は同じ一枚の紙の裏表にあったことが知られている。 親鸞が反古紙の裏面を再利用した可能性はあるものの、親鸞は片面に「女犯」に関した「夢告」を記し、片面に「十種不浄肉」「三種浄肉」といった「肉食」に関した『涅槃経』『十誦律』の文、それも殺されるのを見ず、自分に供するために獲られたと聞かず、またその疑いもないものを「三種ノキヨキ肉食」とするといった、すべての「肉食」が禁じられていたわけではないとする経文を記したメモ 涅槃経言 を制作所持していたわけである。 「女犯」「肉食」を専修念仏者の問題行動として指弾した当時の記録
とも符合し、前掲の諸氏の論考と考え併せると大変興味深い事実であると言えよう。 (以下、次稿)
〔「「六角堂夢告」考(下)」につづく〕 |
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