法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学大谷学会『大谷学報』第91巻第1号掲載(2011年10月)
 
 
 

「六角堂夢告」考
                      ―― 親鸞の生涯を貫いた課題 ―― (下)

豅   弘 信
 

    3  吉水における課題  ――「一切群生に説き聞かすべし」――


吉水において親鸞は、法然の語る「たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」(1)(『歎異抄』)の教言に深い感動を覚え、自らの上に「念仏まふさんとおもひたつこゝろ」(2)(同上)の発起を体験した。

寺川俊昭は、親鸞自身が『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)「後序」に記した回心の記述

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
                                        (『定親全』1、381頁)

を、法然が自らの回心を『選択本願念仏集』に記した

是に貧道、昔茲の典を披閲して粗々素意を識り、立ちどころに餘行を舍てて云に念佛に歸しぬ。其より已來今日に至るまで、自行・化佗唯念佛を縡(こと)とす。
                                        (『真聖全』1、993頁)

との文と比較し、「念仏申さんと思い立つ心」の発起を端的に示す法然の「念仏に帰す」との表現に比して、善導の用語に拠って親鸞が回心を「如来の本願に帰す」と表現するまでに至る長く深い思索があったことを指摘している。

それは自らに起きた回心の体験の根拠を求めての思索であり、なおかつ日課六万遍乃至は七万遍と言われる念仏の人法然を法然たらしめているその根源を尋ねる営みでもあったであろう。

親鸞は法然の念仏の源泉を、おそらくは法然自身の述懐

善導和尚の『觀經の疏』にいはく、「一心專念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」といふ文を見えてのち、われらがごとくの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふべし。
たゞ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にとゞめたる也。
                          (『和語灯録』巻五、『真聖全』4、680〜1頁)

から本願への純粋な帰依であることを知り、元久2年(1205)に親鸞が図画を許された法然の「真影」に

同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。(『定親全』1、381〜2頁)

と法然自身の筆で讃文として記された、名号と『往生礼讃』の文がはからずも象徴するような、「本誓重願虚しから」ざるがゆえに「称念すれば必ず往生を得」る本願成就の機(存在)を、まさしく法然の上に見――「当に知」っ――たのであろう。

また、法然が「選択本願」――称名念仏を唯一の往生の行として選択した本願――として表現したこの如来の本願を、親鸞はやがて「本願招喚の勅命」(3)(「行巻」)――「如来の本願真実にましますを、ふたごゝろなくふかく信じてうたがはざれ」(4)、「わが真実なる誓願を信楽すべし」(5)、「他力の至心信楽のこゝろをもて安楽浄土にむまれむとおもへ」(6)(『尊号真像銘文』)と衆生を「招喚」(7)(『観経散善義』二河譬)する本願――として了解し直すにいたるのであるが、現存する『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』、吉水期の修学ノートを後に書写したと思われる『愚禿鈔』などからみて、この時期親鸞が善導教学の学び直しに鋭意専心していたことが窺われる。(8)

前稿に掲げた「源空讃」の一首

善導源信すゝむとも
 本師源空ひろめずば
 片州濁世のともがらは
 いかでか真宗をさとらまし(『定親全』2和讃篇、128頁)

はおそらく、比叡山においては観想念仏を説くものとしか理解できなかった――教えられてこなかった――善導・源信の教えが、法然の択法眼を通して本願の行としての称名念仏をこそ勧める教えとして親鸞の前に新たに立ち現われてきたことを示しているのではなかろうか。

こうして法然の膝下で「綽空」の名を授けられて新たな学びを開始した親鸞であったが、法然への入門で親鸞が「夢告」において授かった課題が終わったわけではない。
救世観音は「行者宿報偈」をもって親鸞を法然のもとへと発遣したが、同時に「吾が誓願を一切群生へ説き聞かすべし」とも命じたのである。
「夢告」によって親鸞は、自らの出離生死の道を指授されたのと同時に、「法然の専修念仏こそが宿報によって罪を犯さざるを得ない者の救われる道であり、救世観音がその行者の守護を約束された」と一切の群生に説き伝え教え導くべし、との課題もまた与えられたのである。

吉水入室後の親鸞の学びは、救世観音から授けられた使命の達成に向けて、「専修念仏とはいかなる仏道であるのか」をまず明らかにすべく励まれたものであったと言えよう。

しかし、その親鸞の眼に映ったものは、「造悪無碍」の風潮や他宗を排激する姿勢が「偏執」として外部からの厳しい批判に曝され、一方内部では、専修念仏の理解をめぐって一念多念等の門弟間の激しい対立が展開されていた吉水の現状であった。

例えば聖覚は『唯信鈔』に、

念仏を信ずる人のいはく、往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』にすでに「乃至一念」ととけり。
このゆへに、一念にてたれりとす。
徧数をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり。
念仏を信ぜざる人とて、おほきにあざけりふかくそしると。
                               (『定親全』6写伝篇(2)、67〜8頁)

という一念義による多念義批判をあげ、

往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、徧数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、徧数をかさねずば往生しがたしとおもはば、まことに不信なりといふべし。……
一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり。
これ、正義とすべし。(同上、68〜9頁)

と、これを戒めている。

これによれば当時、一念義は「往生の業は信の一念で足り、それ以上の称名は不要」として多念義を「遍数をかさぬるは不信」と批判し、他方多念義は「一念をすくなし」「遍数をかさねずは往生しがたし」と一念義 を批判していたことが窺い知れる。

一念義とは言わば自らの一念の信の発起を絶対化する体験主義であり、多念義とは獲信の体験を持ちながらあくまで自ら努力を信ずる積善主義であると抑えることができよう。
獲信の後の念仏は本願への不信でありむしろ往生の妨げであるとする前者は、必然的に「悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて往生の業とすべき」(9)(『歎異抄』)と積極的な造悪を勧める「造悪無碍」ヘ、対する後者も、「善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり二様におもふ」(10)(同右)て避悪造善を勧める「専修賢善」へと展開していく。

法然自身、一念義に対しては、

ちかごろ愚癡・無智のともがらおほく、ひとへに十念・一念なりと執して、上尽一形を廃する条、無慚・無愧のことなり。……
これひとへに、懈怠・無道心・不当・不善のたぐひの、ほしいまゝに悪をつくらむとおもひて、また念ぜずば、その悪かの勝因をさえて、むしろ三途におちざらむや。……
もし精進のものありといふとも、この義をきかば、すなわち懈怠になりなむ。
まれに戒をたもつ人ありといふとも、この説を信ぜば、すなわち無慚なり。
おほよそかくのごときの人は、附仏法の外道なり。
師子のみの中の虫なり。
またうたがふらくは、天魔波旬のために、精進の気をうばわるゝともがらの、もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。
あやしむべし、ふかくおそるべきもの也。
                  (『西方指南抄』巻下本、『定親全』5転録篇、270〜2頁)

と厳しく戒め、

まことに十念・一念までも、仏の大悲本願なほかならず引接したまふ無上の功徳なりと信じて、一期不退に行ずべき也。(同上、270頁)

信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと、(同上、284頁)

と念仏の相続を勧めている。

後年、親鸞は『一念多念文意』において、

一念多念のあらそひをなすひとおば、異学・別解のひととまふすなり。
異学といふは、……別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり。
別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、
解はさとるといふ、とくといふことばなり、
念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆえへ、別解といふなり。……
自力といふは、わがみをたのみ、わがこゝろをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(『定親全』3和文篇、141〜2頁)

として、一念義多念義いずれも「念仏をしながら他力をたのまぬ」「念仏をしながら自力にさとりなす」ものと批判しており、関東で起きたこれらを含む様々な異義に対して、

また他力と申ことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申なり。
如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。
義といふことは、はからうことばなり。
行者のはからひは自力なれば義といふなり。
他力は本願を信楽して往生必定なるゆへにさらに義なしとなり。……
自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。
行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。
                         (『真蹟書簡』一、『定親全』3書簡篇、3〜4頁)

弥陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人のおほせにさふらへ。
かやうに義のさふらふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこへてさふらふ。
また、他力とまふすは、仏智不思議にさふらふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえさふらふなることをば、仏と仏とのみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらずさふらふ。
しかれば義なきを義とすとさふらふなり。
義とまふすことは自力のひとのはからひをまふすなり。
他力にはしかれば義なきを義とすとさふらふ
なり。(『親鸞聖人御消息集』第一〇通、同上、156頁)

と法然の「他力には義なきをもって義とす」との法語に依拠しつつ、

たゞ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候。わうじやう(往生)のごう(業)には、わたくし(私)のはからひはあるまじく候也。
                                 (『古写書簡』一、同上、37〜8頁)

他力と申候は、とかくのはからいなきを申候也。(同上二、同上、38頁)

と、如来の不可思議の誓願他力に対して「(自力・私の)はからい」を挟むこと、おのおのの価値判断に基いて念仏に「義」(解釈)を立てて固執することを強く戒めている。

前掲の『一念多念文意』で親鸞が「別」の字に施した「ひとつなることをふたつにわかちなす」との解説が、本願の念仏との値遇において本願と自己が一つになる所謂「機法一体」の体験をもちながら、やがて機〈自己〉と法〈念仏〉とが分裂し、「念仏をしながら自力にさとりなす」、つまりは解釈する自分を念仏の上位に置き、「みづからのはからひをさしはさみて、……誓願の不思議をばたのまずして、わがこゝろに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行になす」(11)(『歎異抄』)頽落が生じることを象徴しているものと思われる。

また、この一念多念の他にも、人間の持つ様々な価値意識を反映して、当時念仏をめぐる様々な「義」の対立が生じていたことが、「信巻」の

おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。
たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。(『定親全』1、132頁)
の文から窺われる。

このような「義」の対立をいかにして止揚し、法然興隆の「浄土宗」――選択本願の念仏――の真実義を開顕するか。
これが親鸞にとっての課題となったことは疑いない。
(「信心一異の諍論」「信行両座の決判」等の吉水期のエピソードがよくそれを伝えている。)

「自力のはからい」を差し挟む必要のない「他力」の念仏がいかにして人間に成り立つのか、そしてそれを仏教の伝統の中のいかなる言葉で表現すればよいのか。
これがその後の親鸞にとっての大きな課題となったのであろう。

「信心一異の諍論」に関連して言えば、弁長に語ったとされる法語

われらはこれ烏帽子もきざるおとこ也。
十悪の法然房が念仏して往生せんといひてゐたる也。
又愚痴の法然房が念仏して往生せんといふ也。
安房の助といふ一文不通の陰陽師が申す念仏と、源空が申す念仏とまたくかはりめなしと。(『和語灯録』巻五、『真聖全』4、677〜8頁)

あの阿波介も佛たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏と申す。
源空も佛たすけ給へとおもひて南無阿弥陀仏とこそ申せ。
更に差別なきなり(『法然上人行状絵図』巻十九、『法伝全』98頁)

源空が念仏もあの阿波の介の念仏に全くをなじことなり。
もしさりともすこしはかはりたるらんと、おもはん人は、つやつや念仏をしらざる人なり。
金はにしきにつつめるも、わらつとにつゝめるも、おなじこがねなるがごとし。
                         (『法然聖人絵』(弘願本)巻二、同上、531頁)

からも知られるように、法然自身も同一の「念仏」を語っている。

しかし、「行」と表現される限り、そこに自力修行の要素が混入し、結果門弟間に見られるような念仏解釈の相違が生じてくることもまた避けられない。

『和語燈録』巻五によれば、弁長でさえ「上人の御念仏は智者にてましませば、われらが申す念仏にはまさりてぞおはしまし候らん」と語って法然の厳しい叱責を受けている。(12)

それゆえ、信心一異の諍論の場において、親鸞は念仏の「行」を本願に帰する「信」に根源化して、

善信が信心も聖人の御信心もひとつなり、
                         (『歎異抄』、『定親全』4言行編(1)、34〜5頁)

と述べたのであるが、勢観房・念仏房らには「信」も「行」と同様に、環境や状況に左右され、個人の資質、能力や性格によっても質・量ともに差違を生じる所謂諸機各別の自力の信心として受け取られ、「師と自分を同等視するなど不遜の極み」と批難されたのである。

これに対して法然はその親鸞の真意を見抜き、

源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、
善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、
さればたゞひとつなり、
別の信心にておはしまさんひとは、源空がまひらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらはじと、(同上、35〜6頁)

として、親鸞が言わんとする「信」を「如来よりたまわりたる信心」、つまりは如来回向の信であると端的に言い当てたのである。

寺川俊昭は、元久2年4月14日に『選択集』の書写が終わってから、真影に讃文と新しい名を書き入れてもらう閏7月29日までの間、親鸞は『選択集』の身読を重ねながら法然に疑問を尋ね、師弟間の活発な質疑応答と忌憚のない対話が繰り返されたであろうとしている。(13)

このような論議問答を通して、法然が『選択集』「二行章」の「五番相対・第四不回向回向対」に、「縱令(たとひ)別に回向を用ひざれども、自然に往生の業と成る」(14)と説いた選択本願の念仏を「凡聖自力の行にあら」(15)ざる「不回向の行」(16)(以上、「行巻」)、すなわち如来の本願力回向の行信として明らかにするべく天親・曇鸞の学びへと向かうという学びの具体的方向性が、親鸞の中で次第に明らかになってきたのではないだろうか。
そして太子の「夢告」が与えた課題に応えるべく、法然から授けられた「綽空」の名を改めて「親鸞」と名のる必然性が明らかになってきたのではないだろうか。

もちろんそこに法然による適切な指授があったことが窺われる。

法然自身、『選択集』第一「教相章」において

初めに正しく往生淨土を明かすのヘといふは、三經一論是なり。……
一論といふは、天親の『往生論』是なり。(『真聖全』1、931頁)

として天親の『浄土論』の名を挙げているし、曇鸞に関しても同じく「教相章」に、

凡そ此の『集』の中に、聖道・淨土の二門を立つる意は、聖道を捨てて淨土門に入らしめんが爲なり。……
此の宗の中に二門を立つることは、獨り道綽のみに非ず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等のゥ師、皆此の意有り。(同上、932頁)

として『論註』難易二道判の文を引き、曇鸞を「四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し」(17)た「上古の賢哲」(18)として、浄土宗の「師資相承の血脈」の中に位置付けている。

これらの記述、並びに三論宗系浄土教の伝来した南都にも遊学し、仏教典籍、殊に浄土教関係書物を積極的に蒐集読破していったその行実から見て、法然が『論』『論註』を精読していたことが知られる(19)し、『三部経大意』の

弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかヘむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。
濁世の我等が依怙、生死の出離これあらずば、なにおか期せむ。
                                   (『定親全』6写伝篇(2)、5頁)

の文に拠れば、法然自身に、名号の中に攝在する功徳、すなわち因位法蔵菩薩の兆載永劫の修行によって成就した「弥陀一仏の所有四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳」(20)(「本願章」)が「もはら我が名をとなえむ衆生」に回向されて、一声の称念に大利・無上の功徳が実現する(「念仏利益章」)という『大経』勝行段理解があったことが窺われる。

法然は真影に「釈の親鸞」と記すこと、つまりは「親鸞」の名を授けることをもってその方向性を是とし、「浄土宗」の新たな教学的展開という課題を託したのではなかろうか。

この法然の付託に応えて、親鸞は後に『大無量寿経』下巻「本願成就の文」の「至心回向」を「至心に回向せしめたまえり」(21)(「信巻」)と如来の回向を語る文として読み、『浄土論』で天親が語った五念門を因位法蔵菩薩の行、五功徳門を衆生に成就する利益として捉え、曇鸞が『論註』下巻において第五回向門に回向行の相として説いた往還二種相を、衆生に真実の仏道〈教・行・信・証〉に立たしめる「如来の二種の回向」として開顕したのである。

菩薩は五種の門を入出して、自利利他の行、成就したまえり。
不可思議兆載劫に、漸次に五種の門を成就したまえり。……
第五に出の功徳を成就したまう。菩薩の出第五門というは、
いかんが回向したまう、心に作願したまいき。苦悩の一切衆を捨てたまわざれば、
回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、功徳を施したまう。
かの土に生じ已りて速疾に、奢摩他毘婆舎那
巧方便力成就を得已りて、生死園煩悩林に入りて、
応化身を示し神通に遊びて、教化地に至りて群生を利したまう。
すなわちこれを出第五門と名づく、園林遊戯地門に入るなり。
本願力の回向をもってのゆえに、利他の行成就したまえり、知るべし。
無碍光仏、因地の時、この弘誓を発し、この願を建てたまいき。
菩薩すでに智慧心を成じ、方便心・無障心を成じ、
妙楽勝真心を成就して、速やかに無上道を成就することを得たまえり。
自利利他の功徳を成じたまう、すなわちこれを名づけて入出門とすとのたまえり。
                    (『入出二門偈頌』、『定親全』2漢文篇、114〜20頁)

改名2年後の建永2年(1207)、親鸞は承元の法難に連座して越後へ流罪となった。

流罪後の親鸞をして越後の過酷な自然や妻子を抱えての生活に耐えさせたものは、聖徳太子から授けられた「法然興隆の仏道を説き広めよ」という使命と、法然から与えられた「天親・曇鸞に依って専修念仏の真実義を明らかにせよ」という教学課題ではなかったのだろうか。

法難によって非僧非俗の「禿」を自らの姓と選び取り、越後での生活を通して自らを「愚」と確かめた親鸞は、太子と法然の恩徳に報いるべく、「愚禿釈親鸞」の名のもとにその後の教化と著述とに邁進していったのである。


註(1)『定親全』四言行編(1)、5頁。
(2)同上、4頁。
(3)『定親全』1、48頁。
(4)(5(6))以上、『定親全』3和文篇、74頁。
(7)「信巻」(『定親全』1、112頁)
(8)以上、『親鸞讃歌』(真宗大谷派、2008年)113〜26頁参照。
(9)『定親全』4言行編(1)、22頁。
(10)(11)以上、同上、15頁。
(12)『真聖全』4、678頁。
(13)「親鸞の名をめぐって」(『真宗』(真宗大谷派宗務所)2010年11月号)48頁参照。また、『明義進行集』巻二には、元久元年(1204)、法然が隆寛に『選択集』の書写を許した際、法然が「もし不審な点があれば尋ねよ」と語り、書写後、隆寛も不審な点がある度に法然を訪ね直接それらを問い質した、との記述がある。(『法伝全』1002頁)
(14)『真聖全』1、937頁。原漢文。
(15)(16)以上、『定親全』1、67頁。原漢文。
(17)(18)以上、「真聖全』1、933頁。原漢文。
(19)本明義樹「日本浄土教における曇鸞著述の受容と展開――親鸞の思想形成に関する一考察――」(『真宗教学研究』26、2005年)参照。
(20)『真聖全』1、943頁。原漢文。
(21)『定親全』1、98頁。原漢文。


     おわりに  ――「六角堂夢告」と「皇太子聖徳奉讃」(十一首和讃)――


文明5年(1473)、蓮如によって開版された文明本『三帖和讃』の『正像末浄土和讃』には、正嘉2年(1258・親鸞86歳)制作の『正像末法和讃』(顕智書写本)にはない11首の太子和讃が「皇太子聖徳奉讃」として載せられ、聖徳太子=救世観音の護持養育の恩徳が説かれている。

親鸞はその恩徳を

救世観音大菩薩
 聖徳皇と示現して
 多々のごとくすてずして
 阿摩のごとくにそひたまふ(『定親全』2和讃篇、202頁)

無始よりこのかたこの世まで
 聖徳皇のあはれみに
 多々のごとくにそひたまひ
 阿摩のごとくにおはします(同上、203頁)

大慈救世聖徳皇
 父のごとくおはします
 大悲救世観世音
 母のごとくにおはします(同上、204頁)

として「父母のごとし」と説くのであるが、太子=救世観音が父母のごとくに「捨てず」に「添いたまう」のは誰に対してであろうか。

他でもない、宿報として女犯等の罪を犯さざるを得ない専修念仏の行者に、である。

これらの和讃は、言わば「行者宿報偈」に示された救世観音の「誓願」をまさしく「一切群生に説き聞か」せた和讃であると言える。

この「皇太子聖徳奉讃」以前にも親鸞はすでに、念仏の信を獲得した者が賜る現世の利益として、観音勢至の同伴護持を説いている。

南無阿弥陀仏をとなふれば
 観音勢至はもろともに
 恒沙塵数の菩薩と
 かげのごとくにみにそへり(『浄土和讃』「現世利益和讃」、同上、65頁)

「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり。
この無碍光仏は観音とあらわれ勢志としめす。……
自来迎といふは、自はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまいて、まもりたまふゆへに、みづからとまふすなり。
                       (『唯信鈔文意』、『定親全』3和文篇、158〜9頁)

これらの教言を記す親鸞の念頭には当然、大勢至菩薩の化現としての師法然と救世観音菩薩の化現としての太子があったであろう。

そしてこの太子=救世観音の同伴随順の目的は、

仏智不思議の誓願の
 聖徳皇のめぐみにて
 正定聚に帰入して
 補処の弥勒のごとくなり(『定親全』2和讃篇、202頁)

聖徳皇のあはれみて
 仏智不思議の誓願に
 すゝめいれしめたまひてぞ
 住正定聚の身となれる(同上、203頁)

久遠劫よりこの世まで
 あはれみましますしるしには
 仏智不思議につけしめて
 善悪浄穢もなかりけり(同上、205頁)

から知られるように、善悪浄穢を選ばぬ如来の「仏智不思議の誓願」に一切の有情を帰入せしめ、正定聚に住する身とならしめることにあった。

さらに尋ねれば、太子の出世の本意は、

上宮皇子方便し
 和国の有情をあはれみて
 如来の悲願を弘宣せり
 慶喜奉讃せしむべし(同上、206頁)

と如来の悲願の弘宣にこそあったことが知られ、「だからこそ、我らは一心に尽十方無碍光如来に帰命することをもって太子の恩徳を褒め称えねばならないのだ」と親鸞は説くのである。

和国の教主聖徳皇
 広大恩徳謝しがたし
 一心に帰命したてまつり
 奉讃不退ならしめよ(同上、205頁)

多生曠劫この世まで
 あはれみかふれるこの身なり
 一心帰命たへずして
 奉讃ひまなくこのむべし(同上、206頁)

しかし、このように太子の恩徳を讃嘆するこれら一連の和讃のその第5首目に、

他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を
 十方にひとしくひろむべし(同上、204頁)

という如来の往還二種回向に関する和讃が唐突に存在している。

この「如来二種の回向」とは、『浄土三経往生文類』(広本)の

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに、他力とまふすなり。
しかれば、『無量寿経優婆提舎願生偈』に曰。「云何回向 不一切苦悩衆生、心常作願回向為就大悲心故。」
これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。
これを難思議往生とまふすなり。(『定親全』3和文篇、28頁)

あるいは『正像末和讃』の

如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆへ
 憶念の心はたえぬなり(『定親全』2和讃篇、170頁)

往相還相の回向に
 まうあはぬみとなりにせば
 流転輪回もきわもなし
 苦海の沈淪いかゞせむ(同上、181頁)

無始流転の苦をすてゝ
 無上涅槃を期すること
 如来二種の回向の
 恩徳まことに謝しがたし(同上、182頁)

といった用例から見て、「一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(22)(「信巻」引用『論註』)如来が己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまう」(23)(同右)往相の回向と、同じく如来が「かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう」(24)(同右)還相の回向の「如来二種の回向」との値遇によって衆生に成就する無上涅槃道である「浄土真宗」そのものをさすと考えられるが、太子の恩徳を奉讃する中になぜ、あえて「如来二種の回向を伝え広めよ」と説く和讃が、それも第5首目に挿入されているのか、と筆者は違和感を感じないではいられない。

筆者の個人的な印象かも知れないが、「皇太子聖徳奉讃」は各首の配列順序が必ずしも整理されていないという感が強い。

主題別にこれらを見ると、第1・第4首が聖徳皇の恩徳としての住正定聚、第2、第3、第6首が父母のごとき随伴、第5、11首が如来の二種回向に関してといった具合にバラバラに配列されている。

おそらくこれは文明本『正像末和讃』の成立の「事情」によるものであろうが、第5首は内容から言えば、「皇太子聖徳奉讃」全11首の最後に位置する

聖徳皇のおあはれみに
 護持養育たへずして
 如来二種の回向に
 すゝめいれしめおはします(同上、207頁)

の和讃を受けたものである。

第11首は「聖徳太子がその護持養育によって有情を「如来二種の回向」(つまりは「浄土真宗」)に帰入せしめた」という意であり、それゆえに「(太子の恩徳によって)他力の信心を獲得した者は仏恩報謝のために「如来二種の回向」(「浄土真宗」)を十方に広めなければならない」と説く第5首へと展開していくのであるが、なぜ親鸞はここで太子が「浄土真宗に」誘引した、あるいは「本願の念仏に」誘引したではなく、あえて「如来二種の回向に」誘引したと説いたのであろうか。

なぜ「皇太子聖徳奉讃」にこれらの、天親・曇鸞の教説である「如来二種の回向」に言及した和讃が含まれているのであろうか。

この第11首を読む時、筆者は親鸞が「後序」に、

また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。(『定親全』1、382頁)

と記した元久2年(1205)閏7月29日の情景を想起せずにいられない。

筆者は、この和讃で親鸞がまさしく、

《建仁元年(1201)、聖徳太子の「夢告」に導かれて法然の門に入った私は、「夢告」の命に従うべく元久2年に「親鸞」と改名し、天親・曇鸞の「如来二種の回向」の教説に尋ね入ることとなった。》

という自身の来歴を語っていると考えるのである。

そしてまた親鸞は、第5首の「他力の信をえんひとは……」の和讃に、「太子の護持養育によって他力信心を獲得した私は、法然興隆の「浄土宗」を「浄土真宗」――如来の二種回向の仏道として明らかにし、それを十方に広めるべく生涯奮励努力してきた」との意を込めているのではなかろうか。

このように考える以外、如来の二種回向に関する二首の和讃が「皇太子聖徳奉讃」に含まれている必然性を筆者は見出し得ないのである

以上見てきたように、「皇太子聖徳奉讃」の和讃各首は、建仁元年、29歳の折六角堂で聖徳太子から授けられた「夢告」と完全に呼応したものであると考えざるを得ない。

晩年を迎えた親鸞が自らの生涯を回顧し、「六角堂夢告」の意義を憶念して、あらためて太子の恩徳を報謝讃嘆せざるを得ない想いで記されたもの、それがこの「皇太子聖徳奉讃」11首であったと筆者は考えるのである。

(なお、この「皇太子聖徳奉讃」の撰号「愚禿善信作」をもって、「善信」が実名であり、元久2年の改名を「善信」とする見解がある。(25)

しかし、親鸞は、『教行信証』の撰述以来一貫して、法然興隆の「浄土真宗」を如来の二種回向との値遇に成就する無上仏道・大般涅槃道として、それも「愚禿釈親鸞」の名のり、つまりは天親・曇鸞の教説の恩徳を憶念した「親鸞」の名のもとで開顕している。

「皇太子聖徳奉讃」においても同様に、「如来二種の回向」(第5、11首)との値遇によって「一心帰命」(第8、10首)・「他力」(第5首)の信を獲得して「正定聚」(第1、4首)に住するという難思議往生(浄土真宗)の成就が、『大経』及び天親・曇鸞の教説に基づき、太子の恩徳として説かれている以上、「皇太子聖徳奉讃」に「愚禿善信作」の撰号が用いられることはかえって不自然と言わざるを得ない。

また、この「皇太子聖徳奉讃」と同様に太子讃仰の目的で著された『皇太子聖徳奉讃』(七十五首和讃)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)、『上宮太子御記』の奥書・撰号はいずれも「愚禿親鸞」である。

この「皇太子聖徳奉讃」は、前述したように和讃各首の順序配列に若干の混乱が見られ、各首の和讃は間違いなく親鸞の手になるものではあっても、親鸞自身による厳密な編集を経ていない――つまり順序次第が未整理状態のまま書写されて伝来した――という印象が強い。

この「愚禿善信作」の撰号は、親鸞自身の手に拠るものではなく、後代、別人の手によって挿入されたものであると筆者は考えざるを得ないのである。(26)


(22)(23)以上、『定親全』1、128頁。原漢文。
(24)同上、128〜9頁。原漢文。
(25)鶴見晃「親鸞の名のり(続)――「善信」への改名と「名の字」――」(『教化研究』148,2010年)、他。
(26)文明本『正像末和讃』にはこの他にも「愚禿善信集」「釈親鸞書之」「親鸞八十八歳御筆」等の親鸞自身の手によるとするには疑問の残る記名がある。
例えば常盤井和子は、文明本『正像末和讃』は親鸞以外の別人の編集から成り、これらの記名は増補の際に別人の手が加えられたことによるとする見解を示している。(「正像末和讃の成立に関する試論」(『高田学報』70、1981年))
これに対して佐々木瑞雲は、興正寺蔵本・大阪府慈願寺蔵本等の所謂「河州本」系写本の検討を通して文明本系『正像末和讃』の「祖本」を想定し、親鸞自身の編集による『正像末和讃』の最終形態ではあるが、「顕智本」からの増補・本文改訂時に、それまで書きためていた「和讃」をそのままの状態で挿入した際に生じた撰号・署名の不統一・不自然さが訂正されなかった最晩年の「未完成本」であるとしている。(「「文明版」系「正像末和讃」の成立過程 ――〈異本〉の存在証明とその意義――」(『真宗研究』48、2004年))
ただし佐々木も文明本系写本に「後世の補筆が全くないとは考えていない」としており、顕智本『正像末和讃』にはない「自然法爾章」――顕智が正嘉2年(1258・親鸞86歳)12月に善法坊で記した「獲得名号自然法爾の聞書」――が「親鸞八十八歳御筆」の記名の後に挿入されているなど、文明本系の「祖本」がたとえ親鸞自身の編集によるものであったとしても、文明5年(1473)開版の文明本等が「祖本」の形態を忠実に伝えているかどうか疑わしいと言わざるを得ない。
(また、「自然法爾章」及び末尾の和讃二首が「祖本」に確かに存在したとの論証は佐々木の論考においてもなされていないように見受けられる。)
また、佐々木は、隆寛作『一念多念分別事』の親鸞書写本の奥書

本云 建長七歳乙卯四月廿三日 愚禿釈善信八十三歳書写之
                         (『定親全』6写伝篇(2)、80頁)

の事例から、文明本系『正像末和讃』の「愚禿善信集(作)」の撰号が別人の手に拠るものではないとしているが、『定本親鸞聖人全集』6写伝篇(2)の「解説」に拠れば、『一念多念分別事』に親鸞自筆書写本は存在せず、古写本も、大谷大学蔵端坊旧蔵本・滋賀県圓照寺本・大阪府光徳寺本等が知られているが、室町末期からのものしかなく、親鸞在世中の「愚禿(釈)善信」の確かな用例は現在確認されていない。
これに対して、正和年間(1312〜7)頃に天台宗長泉寺別当孤山隠士が著したとされる『愚闇記』(『愚暗記』)には、

当世一向念仏シテ在家男女ヲ集メ、禿善信ト云タル流人作為ル和讃ヲ謡イ、長ジテ同音ニ念仏ヲ唱ル事有リ、……(『真宗史料集成』4、719頁)

という「愚禿善信」の用例が見受けられ、この用例から当時「愚禿善信」の呼称が広く一般に――少なくとも越前においては――用いられていた事実が窺われる。
在世中の親鸞自身の著作に用例がなく、むしろ没後にこの呼称が広く用いられたという事実が、文明本系『正像末和讃』の「愚禿善信集(作)」の撰号が後代の混入である可能性を逆に示唆している、と筆者は考えるのである。

略号
『定親全』……『定本親鸞聖人全集』(法蔵館)
『真聖全』……『真宗聖教全書』(大八木書店)
『法伝全』……『法然上人伝全集』(井川定慶編)


(『大谷学報』第91巻第1号(大谷大学大谷学会・2011)掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に改めた。


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