「六角堂夢告」考 豅 弘 信
寺川俊昭は、親鸞自身が『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)「後序」に記した回心の記述 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。 を、法然が自らの回心を『選択本願念仏集』に記した との文と比較し、「念仏申さんと思い立つ心」の発起を端的に示す法然の「念仏に帰す」との表現に比して、善導の用語に拠って親鸞が回心を「如来の本願に帰す」と表現するまでに至る長く深い思索があったことを指摘している。 それは自らに起きた回心の体験の根拠を求めての思索であり、なおかつ日課六万遍乃至は七万遍と言われる念仏の人法然を法然たらしめているその根源を尋ねる営みでもあったであろう。 親鸞は法然の念仏の源泉を、おそらくは法然自身の述懐 善導和尚の『觀經の疏』にいはく、「一心專念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」といふ文を見えてのち、われらがごとくの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふべし。 から本願への純粋な帰依であることを知り、元久2年(1205)に親鸞が図画を許された法然の「真影」に
と法然自身の筆で讃文として記された、名号と『往生礼讃』の文がはからずも象徴するような、「本誓重願虚しから」ざるがゆえに「称念すれば必ず往生を得」る本願成就の機(存在)を、まさしく法然の上に見――「当に知」っ――たのであろう。 また、法然が「選択本願」――称名念仏を唯一の往生の行として選択した本願――として表現したこの如来の本願を、親鸞はやがて「本願招喚の勅命」(3)(「行巻」)――「如来の本願真実にましますを、ふたごゝろなくふかく信じてうたがはざれ」(4)、「わが真実なる誓願を信楽すべし」(5)、「他力の至心信楽のこゝろをもて安楽浄土にむまれむとおもへ」(6)(『尊号真像銘文』)と衆生を「招喚」(7)(『観経散善義』二河譬)する本願――として了解し直すにいたるのであるが、現存する『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』、吉水期の修学ノートを後に書写したと思われる『愚禿鈔』などからみて、この時期親鸞が善導教学の学び直しに鋭意専心していたことが窺われる。(8) 前稿に掲げた「源空讃」の一首
はおそらく、比叡山においては観想念仏を説くものとしか理解できなかった――教えられてこなかった――善導・源信の教えが、法然の択法眼を通して本願の行としての称名念仏をこそ勧める教えとして親鸞の前に新たに立ち現われてきたことを示しているのではなかろうか。 こうして法然の膝下で「綽空」の名を授けられて新たな学びを開始した親鸞であったが、法然への入門で親鸞が「夢告」において授かった課題が終わったわけではない。救世観音は「行者宿報偈」をもって親鸞を法然のもとへと発遣したが、同時に「吾が誓願を一切群生へ説き聞かすべし」とも命じたのである。 「夢告」によって親鸞は、自らの出離生死の道を指授されたのと同時に、「法然の専修念仏こそが宿報によって罪を犯さざるを得ない者の救われる道であり、救世観音がその行者の守護を約束された」と一切の群生に説き伝え教え導くべし、との課題もまた与えられたのである。 吉水入室後の親鸞の学びは、救世観音から授けられた使命の達成に向けて、「専修念仏とはいかなる仏道であるのか」をまず明らかにすべく励まれたものであったと言えよう。 しかし、その親鸞の眼に映ったものは、「造悪無碍」の風潮や他宗を排激する姿勢が「偏執」として外部からの厳しい批判に曝され、一方内部では、専修念仏の理解をめぐって一念多念等の門弟間の激しい対立が展開されていた吉水の現状であった。 例えば聖覚は『唯信鈔』に、
という一念義による多念義批判をあげ、
と、これを戒めている。 これによれば当時、一念義は「往生の業は信の一念で足り、それ以上の称名は不要」として多念義を「遍数をかさぬるは不信」と批判し、他方多念義は「一念をすくなし」「遍数をかさねずは往生しがたし」と一念義 を批判していたことが窺い知れる。 一念義とは言わば自らの一念の信の発起を絶対化する体験主義であり、多念義とは獲信の体験を持ちながらあくまで自ら努力を信ずる積善主義であると抑えることができよう。
と厳しく戒め、
と念仏の相続を勧めている。 後年、親鸞は『一念多念文意』において、
として、一念義多念義いずれも「念仏をしながら他力をたのまぬ」「念仏をしながら自力にさとりなす」ものと批判しており、関東で起きたこれらを含む様々な異義に対して、
と法然の「他力には義なきをもって義とす」との法語に依拠しつつ、
と、如来の不可思議の誓願他力に対して「(自力・私の)はからい」を挟むこと、おのおのの価値判断に基いて念仏に「義」(解釈)を立てて固執することを強く戒めている。 前掲の『一念多念文意』で親鸞が「別」の字に施した「ひとつなることをふたつにわかちなす」との解説が、本願の念仏との値遇において本願と自己が一つになる所謂「機法一体」の体験をもちながら、やがて機〈自己〉と法〈念仏〉とが分裂し、「念仏をしながら自力にさとりなす」、つまりは解釈する自分を念仏の上位に置き、「みづからのはからひをさしはさみて、……誓願の不思議をばたのまずして、わがこゝろに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行になす」(11)(『歎異抄』)頽落が生じることを象徴しているものと思われる。 また、この一念多念の他にも、人間の持つ様々な価値意識を反映して、当時念仏をめぐる様々な「義」の対立が生じていたことが、「信巻」の おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。の文から窺われる。 このような「義」の対立をいかにして止揚し、法然興隆の「浄土宗」――選択本願の念仏――の真実義を開顕するか。 「自力のはからい」を差し挟む必要のない「他力」の念仏がいかにして人間に成り立つのか、そしてそれを仏教の伝統の中のいかなる言葉で表現すればよいのか。 「信心一異の諍論」に関連して言えば、弁長に語ったとされる法語
からも知られるように、法然自身も同一の「念仏」を語っている。 しかし、「行」と表現される限り、そこに自力修行の要素が混入し、結果門弟間に見られるような念仏解釈の相違が生じてくることもまた避けられない。 『和語燈録』巻五によれば、弁長でさえ「上人の御念仏は智者にてましませば、われらが申す念仏にはまさりてぞおはしまし候らん」と語って法然の厳しい叱責を受けている。(12) それゆえ、信心一異の諍論の場において、親鸞は念仏の「行」を本願に帰する「信」に根源化して、
と述べたのであるが、勢観房・念仏房らには「信」も「行」と同様に、環境や状況に左右され、個人の資質、能力や性格によっても質・量ともに差違を生じる所謂諸機各別の自力の信心として受け取られ、「師と自分を同等視するなど不遜の極み」と批難されたのである。 これに対して法然はその親鸞の真意を見抜き、
として、親鸞が言わんとする「信」を「如来よりたまわりたる信心」、つまりは如来回向の信であると端的に言い当てたのである。 寺川俊昭は、元久2年4月14日に『選択集』の書写が終わってから、真影に讃文と新しい名を書き入れてもらう閏7月29日までの間、親鸞は『選択集』の身読を重ねながら法然に疑問を尋ね、師弟間の活発な質疑応答と忌憚のない対話が繰り返されたであろうとしている。(13) このような論議問答を通して、法然が『選択集』「二行章」の「五番相対・第四不回向回向対」に、「縱令(たとひ)別に回向を用ひざれども、自然に往生の業と成る」(14)と説いた選択本願の念仏を「凡聖自力の行にあら」(15)ざる「不回向の行」(16)(以上、「行巻」)、すなわち如来の本願力回向の行信として明らかにするべく天親・曇鸞の学びへと向かうという学びの具体的方向性が、親鸞の中で次第に明らかになってきたのではないだろうか。 もちろんそこに法然による適切な指授があったことが窺われる。 法然自身、『選択集』第一「教相章」において
として天親の『浄土論』の名を挙げているし、曇鸞に関しても同じく「教相章」に、
として『論註』難易二道判の文を引き、曇鸞を「四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し」(17)た「上古の賢哲」(18)として、浄土宗の「師資相承の血脈」の中に位置付けている。 これらの記述、並びに三論宗系浄土教の伝来した南都にも遊学し、仏教典籍、殊に浄土教関係書物を積極的に蒐集読破していったその行実から見て、法然が『論』『論註』を精読していたことが知られる(19)し、『三部経大意』の
の文に拠れば、法然自身に、名号の中に攝在する功徳、すなわち因位法蔵菩薩の兆載永劫の修行によって成就した「弥陀一仏の所有四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳」(20)(「本願章」)が「もはら我が名をとなえむ衆生」に回向されて、一声の称念に大利・無上の功徳が実現する(「念仏利益章」)という『大経』勝行段理解があったことが窺われる。 法然は真影に「釈の親鸞」と記すこと、つまりは「親鸞」の名を授けることをもってその方向性を是とし、「浄土宗」の新たな教学的展開という課題を託したのではなかろうか。 この法然の付託に応えて、親鸞は後に『大無量寿経』下巻「本願成就の文」の「至心回向」を「至心に回向せしめたまえり」(21)(「信巻」)と如来の回向を語る文として読み、『浄土論』で天親が語った五念門を因位法蔵菩薩の行、五功徳門を衆生に成就する利益として捉え、曇鸞が『論註』下巻において第五回向門に回向行の相として説いた往還二種相を、衆生に真実の仏道〈教・行・信・証〉に立たしめる「如来の二種の回向」として開顕したのである。 改名2年後の建永2年(1207)、親鸞は承元の法難に連座して越後へ流罪となった。 流罪後の親鸞をして越後の過酷な自然や妻子を抱えての生活に耐えさせたものは、聖徳太子から授けられた「法然興隆の仏道を説き広めよ」という使命と、法然から与えられた「天親・曇鸞に依って専修念仏の真実義を明らかにせよ」という教学課題ではなかったのだろうか。 法難によって非僧非俗の「禿」を自らの姓と選び取り、越後での生活を通して自らを「愚」と確かめた親鸞は、太子と法然の恩徳に報いるべく、「愚禿釈親鸞」の名のもとにその後の教化と著述とに邁進していったのである。
親鸞はその恩徳を
として「父母のごとし」と説くのであるが、太子=救世観音が父母のごとくに「捨てず」に「添いたまう」のは誰に対してであろうか。 他でもない、宿報として女犯等の罪を犯さざるを得ない専修念仏の行者に、である。 これらの和讃は、言わば「行者宿報偈」に示された救世観音の「誓願」をまさしく「一切群生に説き聞か」せた和讃であると言える。 この「皇太子聖徳奉讃」以前にも親鸞はすでに、念仏の信を獲得した者が賜る現世の利益として、観音勢至の同伴護持を説いている。
これらの教言を記す親鸞の念頭には当然、大勢至菩薩の化現としての師法然と救世観音菩薩の化現としての太子があったであろう。 そしてこの太子=救世観音の同伴随順の目的は、
から知られるように、善悪浄穢を選ばぬ如来の「仏智不思議の誓願」に一切の有情を帰入せしめ、正定聚に住する身とならしめることにあった。 さらに尋ねれば、太子の出世の本意は、
と如来の悲願の弘宣にこそあったことが知られ、「だからこそ、我らは一心に尽十方無碍光如来に帰命することをもって太子の恩徳を褒め称えねばならないのだ」と親鸞は説くのである。
しかし、このように太子の恩徳を讃嘆するこれら一連の和讃のその第5首目に、
という如来の往還二種回向に関する和讃が唐突に存在している。 この「如来二種の回向」とは、『浄土三経往生文類』(広本)の
あるいは『正像末和讃』の
といった用例から見て、「一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(22)(「信巻」引用『論註』)如来が「己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまう」(23)(同右)往相の回向と、同じく如来が「かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう」(24)(同右)還相の回向の「如来二種の回向」との値遇によって衆生に成就する無上涅槃道である「浄土真宗」そのものをさすと考えられるが、太子の恩徳を奉讃する中になぜ、あえて「如来二種の回向を伝え広めよ」と説く和讃が、それも第5首目に挿入されているのか、と筆者は違和感を感じないではいられない。 筆者の個人的な印象かも知れないが、「皇太子聖徳奉讃」は各首の配列順序が必ずしも整理されていないという感が強い。 主題別にこれらを見ると、第1・第4首が聖徳皇の恩徳としての住正定聚、第2、第3、第6首が父母のごとき随伴、第5、11首が如来の二種回向に関してといった具合にバラバラに配列されている。 おそらくこれは文明本『正像末和讃』の成立の「事情」によるものであろうが、第5首は内容から言えば、「皇太子聖徳奉讃」全11首の最後に位置する
の和讃を受けたものである。 第11首は「聖徳太子がその護持養育によって有情を「如来二種の回向」(つまりは「浄土真宗」)に帰入せしめた」という意であり、それゆえに「(太子の恩徳によって)他力の信心を獲得した者は仏恩報謝のために「如来二種の回向」(「浄土真宗」)を十方に広めなければならない」と説く第5首へと展開していくのであるが、なぜ親鸞はここで太子が「浄土真宗に」誘引した、あるいは「本願の念仏に」誘引したではなく、あえて「如来二種の回向に」誘引したと説いたのであろうか。 なぜ「皇太子聖徳奉讃」にこれらの、天親・曇鸞の教説である「如来二種の回向」に言及した和讃が含まれているのであろうか。 この第11首を読む時、筆者は親鸞が「後序」に、
と記した元久2年(1205)閏7月29日の情景を想起せずにいられない。 筆者は、この和讃で親鸞がまさしく、 《建仁元年(1201)、聖徳太子の「夢告」に導かれて法然の門に入った私は、「夢告」の命に従うべく元久2年に「親鸞」と改名し、天親・曇鸞の「如来二種の回向」の教説に尋ね入ることとなった。》 という自身の来歴を語っていると考えるのである。 そしてまた親鸞は、第5首の「他力の信をえんひとは……」の和讃に、「太子の護持養育によって他力信心を獲得した私は、法然興隆の「浄土宗」を「浄土真宗」――如来の二種回向の仏道として明らかにし、それを十方に広めるべく生涯奮励努力してきた」との意を込めているのではなかろうか。 このように考える以外、如来の二種回向に関する二首の和讃が「皇太子聖徳奉讃」に含まれている必然性を筆者は見出し得ないのである。 以上見てきたように、「皇太子聖徳奉讃」の和讃各首は、建仁元年、29歳の折六角堂で聖徳太子から授けられた「夢告」と完全に呼応したものであると考えざるを得ない。 晩年を迎えた親鸞が自らの生涯を回顧し、「六角堂夢告」の意義を憶念して、あらためて太子の恩徳を報謝讃嘆せざるを得ない想いで記されたもの、それがこの「皇太子聖徳奉讃」11首であったと筆者は考えるのである。 (なお、この「皇太子聖徳奉讃」の撰号「愚禿善信作」をもって、「善信」が実名であり、元久2年の改名を「善信」とする見解がある。(25) しかし、親鸞は、『教行信証』の撰述以来一貫して、法然興隆の「浄土真宗」を如来の二種回向との値遇に成就する無上仏道・大般涅槃道として、それも「愚禿釈親鸞」の名のり、つまりは天親・曇鸞の教説の恩徳を憶念した「親鸞」の名のもとで開顕している。 「皇太子聖徳奉讃」においても同様に、「如来二種の回向」(第5、11首)との値遇によって「一心帰命」(第8、10首)・「他力」(第5首)の信を獲得して「正定聚」(第1、4首)に住するという難思議往生(浄土真宗)の成就が、『大経』及び天親・曇鸞の教説に基づき、太子の恩徳として説かれている以上、「皇太子聖徳奉讃」に「愚禿善信作」の撰号が用いられることはかえって不自然と言わざるを得ない。 また、この「皇太子聖徳奉讃」と同様に太子讃仰の目的で著された『皇太子聖徳奉讃』(七十五首和讃)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)、『上宮太子御記』の奥書・撰号はいずれも「愚禿親鸞」である。 この「皇太子聖徳奉讃」は、前述したように和讃各首の順序配列に若干の混乱が見られ、各首の和讃は間違いなく親鸞の手になるものではあっても、親鸞自身による厳密な編集を経ていない――つまり順序次第が未整理状態のまま書写されて伝来した――という印象が強い。 この「愚禿善信作」の撰号は、親鸞自身の手に拠るものではなく、後代、別人の手によって挿入されたものであると筆者は考えざるを得ないのである。(26))
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