法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学真宗学会『親鸞教学』第76号掲載(2000年12月)
 
 
 

善信親鸞
 
                      ― 元久2年の改名について― (下)

豅   弘 信


      2. 「親鸞」改名説の蓋然性

              ― 「後序」を読む ―


前稿に続いて、元久2年に親鸞が「綽空」から改めた「名」が何であるかを解明すべく論述を進めたい。

前稿で行った「善信」改名説の検討に続いて本稿では「親鸞」改名説の検討に移るわけであるが、この説の最大の難点は、改名の契機となった「夢告」の記録が残っていないことにある。
記録自体がなされなかったか、時間の経過とともに散逸したのか、いずれにせよ覚如の時点ですでに伝承が途切れているのである。
(建久2年(1191)、親鸞19歳時の磯長太子廟での夢告がそれであるとする見解(古田武彦氏等)、あるいは建仁3年(1203)4月の六角堂における「行者宿報設女犯」で始まるいわゆる「女犯偈」をそれとする見解(松野純孝氏等)もあるが、いずれも「善信」への改名の契機とされている。@)

そこで筆者は今回、改名の記録が記された「後序」の文の記述そのものを精読することを通して、親鸞が元久2年に「親鸞」と改名することの必然性、もしくは蓋然性を論証していきたいと考える。

「後序」は『教行信証』撰述の「理由」を語る「総序」に対して、「事由」(具体的成立事情)を語るものと了解されてきた。
諸師もまた「縁起」という語でそれを抑えてきている。

しかもそれは、多くの先学が指摘する通り、歴史的経緯を年代順に記録したのではなく、まず、建永2年(改元して承元元年・1207)に執行された「念仏停止(ちょうじ)」、いわゆる“承元の法難”の発端とその経過を述べて自身の還俗と流罪生活を語り、建暦元年(1211)の赦免と翌建暦2年1月の法然の死を述べた後、あたかも自らの原点を再確認するかのように、吉水入室と選択付嘱・真影図画の記録を、往時の感動を甦らせつつ述べていく。
そして、そのように「悲喜の涙を抑えて由来の縁を註」すことを通して、自らの課題と撰述の動機・志願を明確にした後、後代への「流通(るずう)」を願って論述を終っていくのである。

この「後序」の記述から知られるように、『教行信証』の撰述は、建仁元年(1201・親鸞29歳)の回心(吉水入室)において、法然と同一の「如来よりたまわりたる信心」(『歎異抄』)を獲得し、元久2年(1205・33歳)の選択付嘱・真影図画によって師法然その人によってその信心を証誠され、結果、法然と同じく流罪を被った門弟として、自らの責任において、法難によって傷つけられた先師法然の「真宗興隆」の仏事を復興しようとする営為であると言える。

赦免以後の親鸞の後半生は、この法然の仏事の復興に捧げられたと言っても過言ではない。

関東での教化活動が、法難によって瓦解した吉水教団の関東における再興であるのに対して、『教行信証』の撰述に代表される帰洛後の著述活動は、種々の論難によって傷つけられた法然の主著『選択集』の真実義を開顕しようとした思想的営為であったと考えられる。

そして、そのような課題をもった『教行信証』が「愚禿釈親鸞集」という撰号をもつことの思想的必然性をもまた、この「後序」の文は語っているように、筆者には思われるのである。


註@前稿「「善信」と「親鸞」(上)」註JK参照。


         a. 「非僧非俗」の自覚


「後序」はまず、

竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛(さかり)なり。
しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷(まど)うて邪正の道路を弁(わきま)うることなし。
ここをもって興福寺の学徒、 太上天皇諱尊成、今上諱為仁  聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。
これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。
予はその一なり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに「禿」の字をもって姓とす。(原漢文、『定親全』1、380−1頁)

として、自らが「禿の字をもって姓とす」る由来を語っている。

この記録は、歴史的事実としては、承元の法難に連座した親鸞が、赦免に際して、流罪の際に与えられた「藤井」の姓を「禿」と改め、「(官度)僧」への復帰を拒否したことを示している。A

それでは、この時親鸞が「禿」の字を「姓」として選び採ったことにはどのような意味があるのであろうか。

前に引いた「後序」の文に拠れば、「禿」の姓を親鸞は、法難を通して獲得した「非僧非俗」の自覚の主体的表明であると抑えている。

筆者は、「非僧」の「僧」とは、「後序」の冒頭に「教に昏くして真仮の門戸を知らず」と抑えられた「諸寺の釈門」であり、「非俗」の「俗」とは「行に迷うて邪正の道路を弁うることな」き「洛都の儒林」―「ミヤコ/ミヤコ/ゾクガクショウ(俗学生(匠))ナリ」の左訓あり―を指すものである、と考える。
「禿」とは、真実の仏教、真実の仏道の行(=法然の選択本願念仏の仏道)を知らない在り方(僧・俗)とその仏教理解への訣別の名告りであり、また、真に仏道と呼べる仏道(=真宗)と値遇し得たという歓喜の名告りでもあるのである。

「僧」、すなわち「諸寺の釈門」における仏教理解とは、法然が自ら「わがごときは、三学のうつわ物にあらず」(『和語灯録』)と捨離・放下した「戒・定・慧の三学」をもって正統とするものである。

「戒・定・慧の三学」とは、戒律をもって自らの身心を浄く持ち、禅定・止観を行じて三昧に入って智慧を開発し、諸法の実相を如実知見する行であり、なかんずく「定」、止観こそがいわば仏教の正統正道とされてきた修道方法である。

『興福寺奏状』(元久2年・解脱房貞慶筆)における法然批判も、このような伝統的仏教理解に基づいたものである。

戒こそが仏道の大前提であり、それゆえ、たとえ「実のごとくに受けずと雖(いえど)も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧(ざんぎ)を生ずべきの処」であるのに、専修念仏者は「あまつさえ破戒を宗として」戒の存在そのものをも無視する。
それゆえその姿勢は「仏法の滅する縁、これより大なるはなし」と批難されねばならないとするのである。(「第八 釈衆を損ずる失」)

禅定・止観こそが仏道の本来の行であるとするがゆえに、第十八願の本意は「観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨て」ない、いわゆる“観勝称劣”にある、と法然の本願理解に疑義を挟み、称名は「最下」の行、すなわち「下機を誘(こしら)うるの方便」に過ぎないと貶め(「第七 念仏を誤る失」)、法然の専修念仏、すなわち称名一行への「偏執」が、諸行を無視のみならず軽蔑せしめ、あらゆる出離の要路を塞いで仏法を毀滅に導く、と説くのである。(「第四 万善を妨ぐる失」)

それゆえ親鸞における「非僧」とは、何より先師法然が、

なんぞ余行を棄ててただ念仏というや。
答えていわく、これに三の意あり。
一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。……
一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くというは、善導の『観経疏』のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもっぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」という釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといえども、上の本願に望むるに、意ただ衆生をしてもっぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。
三輩ともに上の本願によるがゆえに、「一向専念無量寿仏」という。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。
初めの義はすなわちこれ廃立のために説く。
いわく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。……
いまもし善導によらば、初めをもつて正となすのみ。
(『選択本願念仏集』・三輩章、原漢文、『真聖全』1、948−51頁)

「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもっぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」という。
定散の諸行は本願にあらず。
ゆえにこれを付属せず。
またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といえども、仏の本願にあらず。
ゆえに付属せず。
念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆえに、もつてこれを付属す。
「仏の本願に望む」というは、『双巻経』の四十八願のなかの第十八の願を指す。
「一向専称」というは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。
本願の義、つぶさに前に弁ずるがごとし。……
つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもって付属流通せず。
ただ念仏の一行をもって、すなわち後世に付属流通せしむ。
知るべし、釈尊の諸行を付属したまわざる所以は、すなわちこれ弥陀の本願にあらざるゆえなり。
また念仏を付属する所以は、すなわちこれ弥陀の本願のゆえなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなわち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。
ゆえに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。
念仏往生は機に当り、時を得たり。(同上・付属章、同上、980−3頁)

と提唱した、「廃立」の継承であることが知られるのである。

「俗」、すなわち「洛都の儒林」における仏教理解とは、いわゆる「顕密仏教」(黒田俊雄)という語で表現できる。

顕密仏教、いわゆる顕密体制・権門体制下において期待・要求されてきた仏教とは、端的に言えば「護国」の仏教である。

律令体制下においては僧は官度僧として国家の管理下にあったが、領地(荘園)の私的領有によって律令制が有名無実化していくとともに、寺家・公家、後には武家もが権門勢家としてそれぞれに荘園を保持し、そこからの収益(年貢)によってそれぞれの家門を維持運営していくこととなった。

朝廷は諸寺を「宗」として勅許・公認し、諸寺は八宗の別こそあれ、基本的には密教的な「鎮護国家」の加持・祈祷の施設的役割を担っていたのである。
(個人的なレベルで言えばそれは、九条兼実が法然を、建礼門院が明恵を招いて授戒を要請した例に見られるように、現世利益的な効験を仏教者に期待するといった形で現れている。)

そしてそれは、

仏法・王法猶し身心のごとし、互にその安否を見、宜しくかの盛衰を知る。
                              (『興福寺奏状』 、原漢文、東本願寺『親鸞聖人行実』43−4頁)

仏法・王法互に守り互に助く。
喩うるに鳥の二翅のごとし。
猶し車の両輪に同じ。                                      (『停止一向専修記』 、同上、104頁)

という、いわゆる「王法仏法相依」として語られてきたのであるが、それに対して、「ただ念仏」を標榜した専修念仏教団の勃興は、第一に、「護国の諸宗」(『停止一向専修記』)を自認してきた既成教団(諸寺)の権威を著しく傷つけるものであった。

法然が「七箇條制誡」において堅く戒めたものは、そのような既存の宗教的権威を否定する「余宗誹謗・神祇不拝」や、破戒造悪を勧めて戒律を否定する「造悪無碍」の振る舞いであった。

しかもこれらの行為は、単なる風紀の紊乱、既成教団の権威の失墜というにとどまらず、寺社の領有する荘園における年貢(仏貢)・労役(公事)―これらは諸仏諸神の霊威、具体的には滞納者への神罰仏罰の名のもとに徴収されていた―の忌避といった経済的実害をももたらしたのである。

専修念仏の流行によって「護国」の装置である諸寺が衰退すれば、ひいては国家の存立自体をも危うくするというのが、奏達に際しての旧仏教側の主張であり、『興福寺奏状』が冒頭に、勅許を得ずに一宗を名告ることの過失(「第一 新宗を立つる失」)を挙げ、「摂取不捨の曼陀羅」を重用して余宗の高僧たちを侮辱する過失(「第二 新像を図する失」)、神明不拝の過失(「第五 霊神に背く失」)を挙げた後、最後に「第九 国土を乱る失」を挙げたのは、これらの事情に基づくものである。

この「非俗」の自覚を親鸞の行実に照らして見れば、建保2年(1214)の「さぬき」での浄土三部経千部読誦と中止、あるいは寛喜3年(1231)のいわゆる“寛喜の内省”に端的にそれを見ることができるであろう。

『恵信尼書簡』は、それらの出来事を次のように記している。

臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。
たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。
さて、これこそ心得ぬ事なれ。
念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、 と思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。
人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。
                                 (『定親全』3書簡篇、195−6頁)

『恵信尼書簡』に拠れば、親鸞は三部経読誦の動機を「衆生利益(すぞうりやく)のため」と語っている。

親鸞は、「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真成報仏恩」(『往生礼讃』)の善導の教言を引いて、「名号の外には何事の不足にて、必ず経を読まんとするや」と、「四五日ばかりありて、思いかえして」読経を中止したとあるから、ここで言われる「衆生利益」は、本願の名号の教人信とは全く別の関心を示すものと考えられる。

また、善導の五正行には、正定業である称名に対する助業として、「一心に専らこの『観経』・『阿弥陀経』・『無量寿経』等を読誦」(『観経散善義』)する読誦正行が挙げられているが、あくまで自身の往生の行としての読誦がその第一義であるから、三部経読誦がこの読誦行に当たるとも考えがたい。

そこで、これらの出来事が起きた当時の世相を尋ねてみると、これらはいずれも飢饉の年の出来事であることが知られる。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、建保2年、諸国が「炎旱」(旱魃)に見舞われたことが記されており、早々に秋の年貢の軽減が検討されたり、5月には、鶴ヶ岡八幡宮での降雨祈願の祈祷が修され(28日の項)、6月には、将軍源実朝の要請によって「葉上僧正」(栄西)が「祈雨の為に八戒を持ち、法華経を転読し」たことが記されている。(3日の項)

また寛喜3年も、天候不順のため3月には「今年世上飢饉、百姓多く以て餓死せんと欲す」(19日の項)と伊豆・駿河2ヵ国で出挙米の施しが指示され、親鸞が病臥した4月から翌5月にかけては、「天変」、「風雨水旱」、「疾疫」、「餓死」の終息と「天下泰平国土豊稔」を祈って、「御修法之を始行す」(4月11日の項)、「諸国の国分寺に於て最勝王経を転読す可きの旨、宣旨」(19日の項)、「薬師護摩を修す」(5月7日の項)、「御所に於て一万巻の心経供養」(9日の項)、「鶴岳八幡宮に於て、供僧已下三十口の僧をして、大般若経を読誦せしむ」(17日の項)といった記事が頻出している。 (寛喜の飢饉

『恵信尼書簡』が伝える三部経読誦、あるいは夢中の『大経』読誦は、このような旱魃・飢饉を背景としたものであり、「衆生利益」とは、上野国佐貫の地で飢饉によって「老少男女おほくのひとびとのしにあいて候らん」(『末灯鈔』)ありさまを目にした親鸞が、読経による効験(炎旱・天変の終息)を期して修した、各地の寺社で修された「天下泰平」の祈祷と軌を一にしたものであったことが推察される。

寛喜の内省における夢中の『大経』読誦の理由は、

名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、と思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。 (同上)

とあることから一見、17年前の読誦中止が心の奥底に気がかりとして「なおも少し残るところのありける」と親鸞が語っているようにも読めるが、その後に、

人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。
                                             (同上、196頁)

とあるから、「よくよく思慮あるべ」き「人の執心自力の心」の「なおも少し残るところのありけるや」と親鸞は語っているのであり、17年前と同じような飢饉の惨状を目にした親鸞に、17年前と同様の「念仏の信じんよりほか」の「衆生利益」の関心が動いたことを示すものだと思える。

「人の執心自力の心」とは、具体的には、読経の功徳を衆生利益(天下泰平)のためにを回向しようとする、中世当時で言えばごく普通の宗教的関心であるが、このような意味での「衆生利益」は、持戒堅固、三昧発得の清僧の読経・授戒にして初めて可能であると言える。(事実当時は「一生不犯」の僧尼が特別な霊力・呪力をもつと信じられ、広く一般の尊敬を集めていた。(『吾妻鏡』治承4年8月18日の条他)B)

そして、そのような宗教関心の根底には、「いずれの行もおよびがたき身」「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざる」といういわゆる機の深信に比して、あたかも自らが「自余の行もはげみて、仏になるべかりける身」(以上、『歎異抄』)であるかのように錯覚盲信する、善根を積み得る自己、善行を行じ得る自己への無意識裡の楽天的な信頼・執著、すなわち「わがみをたのみ、わがこ ころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(『一念多念文意』)根深い自力我執があることが知られる。

そのような“積善可能な自己”という盲目的無自覚的な自己信頼に対する徹底的な断念、いかなる善をも積み得ない自己という諦観、すなわち「地獄は一定すみかぞかし」の自覚をくぐって獲得されたものが、親鸞における「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」(以上、『歎異抄』)との「念仏の信心」なのである。

以上のことから、「非僧非俗」とは、何よりもまず法然の選択本願念仏の教説に帰した自覚であり、法然によって示された「廃立」の、親鸞における具体的実践であったことが知られる。

親鸞は、当時の僧界・俗界双方の常識的仏教理解に「非」を唱え、旧仏教の標榜する三学を修して“断惑証理”を目指す自力聖道門を棄て、顕密体制下において国家権力から期待される「護国」の役割をも棄て、本願の名号の自信教人信一つに生きたのである。


註A前稿「「善信」と「親鸞」(上)」註A参照。
B松野純孝『親鸞 ―その生涯と思想の展開過程』(三省堂・1959)45―7頁参照。


         b. 「禿」の字義


三学の修行においても、護国の祈祷においても、その出発点は持戒にある。それゆえ「禿」の字もやはり戒との関連において考えられるべきであろう。

『涅槃経』金剛身品には、「(釈尊は)『涅槃経』の中に諸の比丘を制して、奴婢・牛羊・非法の物を畜養すべからず、……異部経の中に於て、比丘是の如き等の非法の物を蓄うる有らば、某甲(それがし)国王、法の如く之を治して、駆つて俗に還らしめよと説きたまう」とある比丘が説くのを聞き、怒ってこの法師を害した「破戒にして、法を護らざる者」としての「禿居士(とくこじ)」、あるいは、「飢餓の為の故に、発心出家」し「持戒・威儀具足せる清浄比丘の正法を護持する有るを見て、駆逐して出でしめ若しは殺し若しは害す」る「禿人(とくにん)」が説かれている。

親鸞は「禿」の字に「カフロナリ」と左訓を振っているが、この『涅槃経』が語る「禿人」「禿居士」を、無住は『沙石集』に「禿居士(カフロコジ)」として語っておりC、このことから、当時、“禿居士イコール飢餓による出家者・破戒無慚の者・袈裟を着た賊”という通念が存在していたことが知られる。

このような「禿」に対する共通理解が存在する時代に、『歎異抄』の流罪記録が伝えるように、「禿」を姓とすると奏上したことが事実であるならば、自らを「道心もないまま飢餓のために出家し、清浄持戒の比丘を見ては害をなし、その結果国王によって還俗せしめられた破戒・不護法の者」と公言したこととなり、赦免後、僧籍に復帰しなかったことと併せて、専修念仏者として「真言止観を破し、余仏・菩薩を謗し」、「念仏門に於て戒行なしと号して、専ら淫酒食肉を勧め、適(たまたま)律儀を守る者を雑行と名」(以上、「七箇條制誡」)けたことへの深刻な反省の表明と受け取られたとしても不思議ではない。

『親鸞聖人血脈文集』が、

愚禿者、坐流罪之時、望勅免之時、改藤井姓、以愚禿之字、中納言範光卿をもて勅免をかぶらんと、経奏聞、範光の卿をはじめとして、諸卿みな愚禿の字にあらためかきて奏聞をふること、めでたくもうしたりとてありき。
そのとき、ほどなく聖人もゆるしましまししに御弟子八人あい具してゆるされたりしなり。
京中にはみなこの様は、しられたるなり。(『定親全』3書簡篇、177頁)

と記し、『本願寺聖人伝絵』が、

皇帝諱守成号佐渡院聖代建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免。
此時聖人右のごとく禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。(『定親全』4言行編(2)、31−2頁)

と伝えたような宮廷の評価も、あながちただの美辞麗句とは言えなくなる。

そして「禿」に対する直接的言及ではないにしろ、存覚が「愚禿」の「愚」を、

 「愚禿」というは、「愚」はこれ惷(しょう)なり。
智に対し、賢に対す。
聖人の徳は智なり、賢なり。
実には愚惷にあらず。
今「愚」というは、これ卑謙の詞なり。
「禿」は称して姓と為す。(『六要鈔』、原漢文、『真聖全』2、203頁)

として、謙譲の意を示す語と註釈したのも、このような了解の伝統を受けたものとも考えられる。

しかし、ここで親鸞が名告った「禿」の姓は、一見既存の権威に恭順の意を表したごとくに見せてはいるものの、その真意からすれば、戒を仏道の前提のみならず全体、必要条件のみならず十分条件と捉えた既存の仏教の破壊者であるとの宣言であり、同時に、仏法の何たるかも知らず、仏法の仏法たる所以も考えることなく、真に帰すべき仏法を弾圧し、真の和合衆(僧伽)である「専修念仏のともがら」(『歎異抄』)を打罵し、殺害したのはいったいどちらであるのかという、弾圧する側の「行証久廃」の内実を逆に照射していくという皮肉(アイロニー)に満ちた名告りであるとも言えるのである。

そしてそのことは、「信巻」の掉尾で『往生拾因』の文を引く中に、

二つには大乗の五逆なり。
『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。……
三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。
                                   (原漢文、『定親全』1、192頁)

として無戒・破戒の者への弾圧を「五逆罪」と規定していることからも知られる。D

明恵・貞慶といったごく一部の真摯な持戒堅固の清僧ならいざ知らず、

末代ニハ、妻モタヌ上人、年ヲ逐テ希ニコソ聞シ。
後白川ノ法皇ハ、カクスハ上人、セヌハ仏ト仰ラレケルトカヤ。コノヒジリハ、カクスマデモナカリケリ。
今ノ世ニハ、カクス上人、猶スクナク、セヌ仏イヨイヨ希ナリケリ。
                (『沙石集』、岩波書店『日本古典文学大系 沙石集』480頁)

と揶揄されるほどの圧倒的多数の破戒者という現実の前で、「実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生ずべき」(前掲『興福寺奏状』)という戒意識の有無のみを問題にすることは、北陸関東での流浪生活を経験してきた親鸞からすれば、笑止な偽善・自己弁護でしかなかったとさえ考えられるのである。

そしてさらに、法然・親鸞の眼を通した時、聖道門仏教が、実は「在世正法の時機」、すなわち釈尊という先駆者の正しき指導、感化のもとにあって、釈尊という証果の正しき具体相(目標・モデル)を眼にし、耳にすることが出来た時代にのみ成就するものであり、「末法」という「大聖を去ること遥遠」(『安楽集』)にして、釈尊の威神力(感化力)の喪失した時代においては、釈尊の人格も伝説の中で理想化され、超人化され、その証果もまた難行の末、三大阿僧祇劫の果ての究極の理想として、「底下の凡愚」(『正像末和讃』)という機の現実と遊離した、高尚かつ難解―「理深く解微」(『安楽集』)―な抽象的論議の中に溶解してしまうという、仏教の退転の歴史が露呈されてくるのである。E

信(まこと)に知りぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。
すでに時を失し機に乖(そむ)けるなり。
浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
                   (「化身土巻(本)」、原漢文、『定親全』1、309−10頁) 


註C「経ニハ「我滅後ニ、飢餓ノ為ニ出家シ、戒行ヲ持(たも)ツモノアルベシ。是ヲ意楽(いぎょう)損害ノ者トス」トイヘリ。解脱の為ニアラズ。是ハ猶人天有属(うぞく)ノ善也。破戒無慚ナルヲ、禿居士(かむろこじ)トモ云(い)、袈裟ヲ着タル賊トモ云ヘリ。ハヅカシカルベシ。」(岩波書店『日本古典文学大系 沙石集』 186頁)
Dこの他、

五濁増のときいたり 疑謗のともがらおおくして
 道俗ともにあいきらい 修するをみてはあたをなす
                  (『高僧和讃』、『定親全』2和讃篇、118頁)

本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて ながく三途にしずむなり(同上、119頁)

五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそいて
 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり
                         (『正像末和讃』、同上、164頁)

菩提をうまじき人はみな 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きわもなし(同上、165頁)

といった和讃等からも親鸞の真意は知られる。
E法然『選択本願念仏集』冒頭引用の『安楽集』の文参照。


         c. 「禿」の具体相
               ― 無戒名字の比丘 ―


そしてこの「禿」の具体相は、「化身土巻(本)」に「最澄制作」として引かれる『末法灯明記』において、

しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。
もし戒法あらば破戒あるべし。
すでに戒法なし、何の戒を破せんに由ってか破戒あらんや。
破戒なおなし、いかにいわんや持戒をや。
かるがゆえに『大集』に云わく、「仏涅槃の後、無戒洲に満たん」と、云云。……
たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。
これ誰が信ずべきや。(原漢文、『定親全』1、317―8頁)

と説かれる「末法」に、「無戒」(戒そのものすら無く、当然戒を受けたことも無い)にして「我が法の中において、剃除鬚髪し、身に袈裟を着たらん名字の比丘」、すなわち沙弥、半僧半俗の在家の入道者に他ならない。

『灯明記』によればこの沙門は、「酒の因縁」によって仏弟子となり、「正しく妻(め)を蓄え子を侠(わきばさ)」み、「己が手に児の臂(ひじ)を牽(ひ)きて、共に遊行して、かの酒家より酒家に至」り、「わが法の中において非梵行を作」す「無戒名字」の身でありながらも、仏弟子であるがゆえに「世の福田・世の真宝・世の尊師」と尊重されねばならない、とされている。

そしてその根拠は、『大悲経』において、釈尊が阿難に向って、

かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。
遺余あることなけん。
何をもってのゆえに。かくのごとき一切沙門の中に、乃至一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜんものの所作の功徳、終に虚設ならじ。
我仏智をもって法界を測知するがゆえなり、と云云。(同上、325頁)

と、たとえわずかに「一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜん者」であってもその功徳によって畢竟「涅槃に入る」と証誠した、その仏言にあるとされる。

このような「一称仏名一生信」の無戒名字の比丘こそ、法然のもとに参集して、弥陀の本願を信じその仏の名を称える「専修念仏のともがら」に他ならない。

それゆえ親鸞は、自らが『尊号真像銘文』に、

釈というは、釈尊の御弟子とあらわすことばなり。(『定親全』3和文篇、91頁)

と記し、釈道安(314〜385)が提唱しF、

爾(そ)の時四大河、海に入り已れば、また本(もと)の名字なし。
ただ名づけて海となす。
これもまたかくのごとく、四姓あり。
いかんが四となすや。
刹利・婆羅門・長者・居士種、如来の所において鬢髪(しゅほつ)を剃除(ていじょ)し、三法衣を著け、出家学道せばまた本の姓なし。
ただ沙門・釈迦の子と言うのみ。……
この故に諸比丘、諸有の四姓の鬢髪を剃除し、信堅固をもって出家学道する者は、彼まさに本の名字を滅し、自ら釈迦の弟子を称すべし。
然る所以は、我れ今正に是れ釈迦子、釈種中より出家学道せり。
比丘まさに知るべし。
生子の義を論ぜんと欲せば。まさに沙門・釈種子是れなりと名づくべし。
                    (『増一阿含経』巻21、原漢文、『大正蔵』2、658頁c)

目連、猶お五大河の盡(ことごと)く海に帰して其の本名を失い、これを名づけて海となすがごとく、かくのごとく目連、我が法中において四種の姓、刹利・婆羅門・毘舎・首陀、信堅固をもって家より家を捨て学道し、本名を滅して皆称して沙門・釈子となす。
                       (『四分律』巻36、原漢文、『大正蔵』22、824c)

の記述のごとく、出家して釈尊の門下に入ったものは、以前の四姓(カースト)が何であれ、何れも「釈迦の子」「釈種子」、あるいは「釈子」と称したという釈尊在世の故実にその起源を尋ねることができる沙門の共通の姓「釈」、すなわち戒―南都であれば『四分律』に依った「具足戒」(比丘の「二百五十戒」、比丘尼の「三百四十八戒」)、叡山であれば『梵網経』に依った「大乗戒」(円頓戒・菩薩戒・一心金剛戒 、十重禁・四十八軽戒)―を受けた出家者が名告るべき「釈」姓を、

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
                            (「後序」、原漢文、『『定親全』1、381頁)

として、無戒名字の比丘(=愚禿)の自覚のもとに名告ったのである。

親鸞は『大集経』によってこの時代(「この世」)を「闘諍堅固なるゆえに白法隠滞したまえ」る「第五の五百年」(仏滅後二千年以上経過した)の「末法」(以上、『正像末和讃』参照)として捉えている。
親鸞にとって「末法」の世であることを如実に認識させた事件こそが「闘諍」(とうじょう・仏教者同士が相争い傷付け合うこと、すなわち既成教団(聖道門)によって専修念仏者が禁圧されるという「承元の法難」であった。

道綽の『安楽集』によれば、聖道門が「今(末法)の時に証しがた」き理由は「大聖(釈尊)を去れること遙遠なる」、「理は深く解は微なる」の2つであると言う。
前にも若干触れたが、筆者はこれを、1500年乃至2000年の時間の経過によって、釈尊の悟りの内実がいかなるものであり、その悟りによっていかなる人間像が生み出されるのか、が「不明」になった状態を指すと考える。
あるのはただ、その間の膨大な、しかし煩瑣な議論によって神秘化され歪曲・肥大化した釈尊像であり、その証果像である。

そのような状況の中では当然、仏教者間において「何が真の仏教か」「何が真の悟りか」を巡っての熾烈な議論が、さらには「誰が真の釈尊の後継者(集団)か」を巡って、利得・権益争いまで絡んだ、激越―当然暴力も伴った―な勢力争いが展開されることとなる。
そして、その不毛な争いを止め、正す権威(釈尊)はもはやどこにも存在しない。

また、そのような状況下で真摯に仏教者たらんとすれば、自らの道がこれで正しいのか、自らの修する行が間違いなく涅槃に究竟(くきょう)するのかという「不安」と、いかなる修行によっても釈尊のごとくには成り得ないという「嘆き」に潜在的に脅かされ続けなければならないし、またそれゆえに持戒堅固であること、少なくとも戒自体を尊重する意識のあること、あるいは「勅許(国家の承認)」の下にあること、といった外なる権威によって自らが「仏教」であること、「仏教者」であることを弁証していかなくてはならない、と言えるのである。
法然に対する旧仏教側の批判がきわめて暴力的であったのは、このような聖道門仏教全体が抱えるある種の「コンプレックス」(精神的病根)が暴発したと見ることも可能ではないだろうか。

「浄土の真宗は証道今盛りなり」(「後序」)との記述や「真宗興隆の大祖源空法師」(同前)、「本師源空」(「行巻」、『高僧和讃』)等の師法然に対する「尊称」からも知られるように、親鸞にはこのような意味での「末法」の悲歎は見られない。

「愚禿釈親鸞」として用いられる「釈」の姓には、仏弟子の仏弟子たる根拠は、「戒」においてではなく、真に弥陀の仏願に随順し、真に釈迦諸仏の教意に随順する「深信」の獲得にあり、「一心にただ仏語を信じて身命を顧みずして決定して行(=称名念仏)に依」り、「経に依って行を深信する者」(以上、「信巻」引用『観経散善義』)こそが、教主釈迦は「すなわちわが親友ぞ」と讃嘆(ほ)め、十方諸仏が重愛をもって証誠護念して、「本願一実の直道・大般涅槃無上の大道」(「信巻」)に堅固不退転ならしめられる「真仏弟子」である、という親鸞の確信が込められているのである。

「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。
みずからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土にはうまれずとなり。(『唯信鈔文意』 、『定親全』3和文篇、165−6頁)

そして、もし本願の信以外の要件によって仏弟子であると自認するならば、それは実は仏意に昏い者であり、それゆえ、「聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる」(『浄土和讃』)存在であるか、あるいはすでに「外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せ」(『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」)る者である、といった彼の厳しい主張が、

「真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。
「弟子」とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。
この信・行に由(よ )って必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰(い)う。
                             (「信巻」、原漢文、『定親全』1、144頁)

という御自釈からも読み取れるのである。

以上のことから知られるように、「禿」の字は「無戒」の象徴であるが、すでに「一称仏名一生信」の「釈」(仏弟子)の意義を内包しており、その「釈」は「無有出離之縁」(「三学のうつわ物にあらず」「いずれの行もおよびがたき身」)の機の自覚を通して獲得し得る境位である。

それゆえ、無戒でありながら仏弟子であり得る、というよりむしろ、無戒なるがゆえに仏弟子と成り得、仏弟子であるがゆえに無戒に安んじ得るとさえ親鸞は言うのである。

そして、このような「末世の名字僧」を禁圧することは、「己の分を思量」することのない「穢悪・濁世の群生」の、「末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る」(以上、「化身土巻(本)」)行為であり、自らを、

ここにおいて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕(か)けり。謹んで迷狂の心に随いて三二の願を発す。(『願文』 、原漢文、岩波書店『原典 日本仏教の思想2 最澄』287頁)

と語り、『末法灯明記』に『大集経』、『賢愚経』、『大悲経』等を引いて、

これらの諸経に、みな年代を指して、将来末世の名字比丘を世の尊師とすと。
もし正法の時の制文をもって、末法世の名字僧を制せば、教・機あい乖き、人・法合せず。
これに由って『律』に云わく、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。
この上に経を引きて配当し已訖(おわ)りぬ。
                    (「化身土巻(本)」引用、原漢文、『定親全』1、325頁)

と記した比叡山の祖最澄の意に背く行為に他ならない、というのが『灯明記』の引文および「禿」の字に込められた親鸞の主張なのである。


F慧皎『高僧伝』巻五(『大正蔵』50、352頁c―353頁a)参照


         d. 親鸞における「愚」
               ― 「在家」生活 ―


周知のごとく『教行信証』の撰号は「愚禿釈親鸞集」であるが、「後序」には、直接的には「禿」の姓の由来のみしか記されていない。

筆者それを、「禿」の字にすでに「愚」と「釈」の意義が内包されていることによるものと考える。
「釈」の内実についてはすでに触れた。
(また、「後序」の改名記録によれば、元久2年(1205)閏7月29日に法然真影の讃文に記された新たな「名の字」には、同年4月14日に『選択集』に記された「釈の綽空」の旧名と同様、「釈の親鸞」として、「釈」の字が当然添えられていたものと思われる。 )

親鸞に「禿」の名告りを促し、その自覚を深めたものが越後での流人生活の体験であったことは、想像に難くない。

彼は越後国府で約5年間流人として暮しているが、『延喜式』の規定に依れば、最初に1年間のみ、日に米1升、塩1勺の支給があり、翌年からは粮種ともに停められるため、流人は必然的に自給自足の生活を余儀なくされるのである。G

そのため流人親鸞、すなわち藤井善信は、自炊し、自らの手で、あるいは人や牛馬を使役して耕作し、収穫の一部は市で売買、または交換して食料や生活必需品を入手し、残りは翌年の種籾に蓄えねばならなかった。

そしてそれは、本来、「行乞」をむねとすべき比丘の身が、「八不浄物―田宅、田園、穀粟米麦、奴婢、群蓄、金銀財宝、象牙刻鏤、釜鍋―を貪蓄」し、「奴婢・僕使・牛羊象馬・乃至銅鉄・釜・大小銅盤・所須の物を受畜し、耕田種植・販売市易して、穀米を儲くる」(以上、『末法灯明記』)という、在世正像の時機では許されない生活なのである。

また、その間、親鸞は恵信尼との間に信蓮房明信をもうけている。(建暦元年(1211)3月3日)

恵信尼との生活がいつ開始されたかは不明であるが、妻子、殊に子をもつということは、たえず「利養」を貪求し、飢饉ともなれば「わが身は次にして、人をいたわしく思うあいだに、まれまれ得たる食い物をも、かれに譲」り、それゆえ「さりがたき妻、おとこをもちたるものは、その思いまさりて深きもの、かならず先立ちて死ぬ。」「親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。」(以上、『方丈記』)と語られるような「恩愛」に繋縛される生活の始まりを意味する。

「信巻」のいわゆる「愚禿悲歎述懐」が語る「愛欲の広海・名利の太山」とは、このような親鸞の家庭生活の内実を物語るものではなかろうか。

そして、そのような具体的な生活を通して感得・自覚された自己の実像が「愚禿釈」の「愚」であったと思われる。

また、親鸞における「愚」の自覚には何よりも先師法然におけるいわゆる「還愚」―愚に還る―の思想の継承という意味がある。

法然が、「十悪の法然房」「愚癡の法然房」(以上、『和語燈録』)と自称し

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚癡にかえりて、極楽にうまると。(『西方指南鈔』 巻下本、『定親全』5転録篇、290頁)

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能(よ)く能く学すとも、一文不知の愚どん(鈍)の身になして、尼入道の無ち(智)のともがらに同(おな)じくして、ちしゃ(智者)のふるまいをもせずして、只(ただ)一こう(向)に念仏すべし。
                               (『一枚起請文』、『真聖全』4、44頁)

と語った「還愚」の継承を親鸞は、文応元年11月の乗信房宛書簡に次のように語っている。

故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候しことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとて、えませたまいしをみまいらせ候き。
ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。
いまにいたるまで、おもいあわせられ候なり。
                       (『末灯鈔』第6通、『定親全』3書簡篇、75―6頁)

ここで語られる「愚者」とは具体的には、当時吉水の草庵を訪れた遁世聖や尼入道、津戸為守・熊谷直実・宇都宮頼綱らの御家人武士、安房の助(阿波介)といった陰陽師、天野四郎といった盗賊、そして、四国配流の途上訪ねてきた播磨・高砂の浦の漁師夫婦や室の泊の遊女といった「一文不通・一文不知」の「愚癡無智のひと」(『末灯鈔』)であるが、この書簡を記した親鸞の念頭には当然北陸関東で出遇った「文字のこころもしらず、あさましき愚癡きわまりなき」「いなかのひとびと」(『唯信鈔文意』跋文)が想起されていたであろう。

彼らは、善導が「出家」に対する「在家」を、

また在家というは、五欲を貪求すること相続してこれ常なり。
たとい清心を発せども、なお水に画くがごとし。
                        (『観経序分義』、原漢文、『真聖全』1、466頁)

と定義したごとく、生活に追われ、「田あれば田を憂」い、「田なければまた憂えて田あらんと欲」(以上、『大経』)い、常に煩悩を惹起し、心身ともに煩悶憂苦しつづけなければならない存在、

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。
                        (『一念多念文意』、『定親全』3和文篇、149頁)

具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす、悩は、こころをなやますという。(『唯信鈔文意』、同上、168頁)

すなわち「凡愚」であり、そのため清心(道心)を発すこともまれで、たまたま発しても持続できない。したがって発心修行を第一義とする仏道に対しては自ずから、

正法の時機とおもえども 底下の凡愚となれる身は
  清浄真実のこころなし 発菩提心いかゞせん
                         (『正像末和讃』、『定親全』2和讃篇、165頁)

自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
  常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき(同上、166頁)

と抗議、嘆息せざるを得ない人々であった。

また、彼らはその生業から言えば、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの」「野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがら」「あきないをもし、田畠(でんぱく)をつくりてすぐるひと」(『歎異抄』)であり、いずれも生活のために破戒(殺生)を余儀なくされ、戒を意識すれば生活そのものが成り立たなくなるような生活の中で、

屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。
これはりょうしというものなり。
沽は、よろずのものを、うりかうものなり。
これはあき人なり。
これらを下類というなり。(『唯信鈔文意』、『定親全』3和文篇、168頁)

と、「屠沽の下類」と賤視され、来世の果報を怖れながらも、

儚(はかな)き此の世を過ぐすとて、海山稼(かせ)ぐとせし程に、万(よろず)の仏に疎まれて、後生我が身を如何(いか)にせん。
            (『梁塵秘抄』、岩波書店『日本古典文学大系 梁塵秘抄』386頁)

と、いかなる諸仏諸菩薩による救済をも断念せざるを得ない人々であった。

自らも含めて、そのような人々こそが『大経』が説く本願の機、すなわち「凡小・群萌」(「教巻」)であり、ともに本願に帰していくべき「同行」「(とも)同朋」であるとの共感(シンパシー)をもって親鸞は「われら」と呼んだのである。

「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。
すなわちわれらなり。(『尊号真像銘文』、『定親全』3和文篇、94−5頁)

「凡夫」は、すなわち、われらなり。
本願力を信楽するをむねとすべしとなり。(『一念多念文意』、同上、148頁)

ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。……
りょうし・あき人、さまざまのものは、みないし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。
                                 (『唯信鈔文意』、同上168―9頁)

そして、そのような確信を育んだのもまた、関東行化の中で生まれた「明法御房の御往生」(『末灯鈔』)等の具体例であったのである。


註G『延喜式』卷26「凡諸國流人、不論良賎男女大小給粮、人日米一升、鹽一勺、到來年春量給。種子一秋之後、粮種共停。」(『新訂増補国史体系 延喜式・中篇』664頁)


         e. 「綽空」から「親鸞」へ


以上のことから知られるように「愚禿釈」とは、「信巻」愚禿悲歎述懐に、

誠(まこと)に知りぬ。
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。 (原漢文、『定親全』1、153頁)

とあるように、煩悩に繋縛されて、仏道を歩むことを必ずしも喜ばず快まない、恥ずべく傷むべき身である、という悲しみを伴った自覚であると同時に、喜ばず快まざるに正定聚の数に入り真証の証に近づく、というはからずも無上仏道に召された仏弟子であるとの自覚の名告りである。H

それゆえ『教行信証』において「愚禿釈親鸞」の名が用いられる時、そこにはいずれも真実の仏教、およびその伝統(三経七祖)、畢竟法然興隆の選択本願念仏の仏道と出遇い得た感動、喜びが語られているのである。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特(こと)に如来の恩徳の深きことを知りぬ。
ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。(「総序」)
                                               (同上、7頁)

ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出(い)でて、永く双樹林下の往生を離る、
善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発(おこ)しき。
しかるにいま特(まこと)に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。
速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと 欲(おも)う。
果遂の誓い、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな。
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。
いよいよこれを喜愛し、特(こと)にこれを頂戴するなり。(「化身土巻(本)」)
                                             (同上、309頁)

このように親鸞が歓喜とともに出遇った「愚」をして「釈」たらしめる仏道、すなわち「禿」の仏道とは、人間に何らの資格・能力・努力をも要求しない、本願との値遇にのみその成立根拠をもつ「非行・非善」(『歎異抄』)の仏道である。

この法然興隆の「浄土宗」こそが「大乗のなかの至極」(『末灯鈔』)、すなわち「真宗」(真の仏教)であることを顕らかにすること(真宗開顕)が、法然の遺弟としての親鸞の課題であり、その課題に取り組む上で、天親・曇鸞の教説に依拠(よ)ることを自他に対して宣言したのが、「親鸞」の名告りではないだろうか。

元久2年4月14日の選択付嘱に際して書かれた「釈の綽空」の名は、おそらく吉水入室に際して法然から与えられた名であり、道綽と源空から取られたものであろう。

法然はその『選択集』の冒頭に、

道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。

 『安楽集』の上にいわく、

「問いていわく、
 一切衆生はみな仏性あり。
 遠劫よりこのかた多仏に値いたてまつるべし。
 なにによりてか、いまに至るまでなおみずから生死に輪廻して火宅を出でざるや。
 答えていわく、
 大乗の聖教によらば、まことに二種の勝法を得てもって生死を排(はら)わざるによる。
 ここをもって火宅を出でず。
 何者をか二となす。
 一にはいわく聖道、二にはいわく往生浄土なり。
 それ聖道の一種は、今の時証しがたし。
 一には大聖を去れること遙遠なるによる。
 二には理は深く解は微なるによる。
 このゆえに『大集月蔵経』にのたまわく、
「わが末法の時のうちの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじ」と。
 当今は末法、これ五濁悪世なり。
 ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。
 このゆえに『大経』にのたまわく、
「もし衆生ありてたとい一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずといわば、正覚を取らじ」と。

                          (原漢文、『真聖全』1、929頁)

として『安楽集』の文を挙げ、末法濁世の時と機に相応した浄土一門への帰入、すなわち“捨聖帰浄”を勧めている。

このことから「綽空」の名には、“浄土宗の独立”という法然の根本課題の継承を託した、という意味が込められていると考えられる。

それに対して、「親鸞」への改名は、そのような法然から託された課題を主体的に受けとめた時、自らの思索の方向性を示すものとしてその名を選び取ったという意味があるように思われる。
そして、閏7月29日の法然の真筆による真影への記名は、法然自身によってその方向性を印可・証誠されたという意味を示すものであろう。

浄土真宗の開顕というその後の親鸞の教学課題は、端的に言えば「論主の一心」「他力の信」(以上、『高僧和讃』「曇鸞讃」)、すなわち「本願力回向の信」の開顕という一言に集約できよう。

親鸞の教学において中核的役割を占める天親・曇鸞の教説を逐一検討するのは別の機会に譲るとして、今回は真宗開顕の書である『教行信証』が、

謹(つつし)んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について、真実の教行信証あり。(原漢文、『定親全』1、9頁)

として、本文(「正宗分」)の冒頭にあたる「教巻」劈頭のいわゆる真宗大綱の文に往還二種の回向を挙げていること、また「別序」に、

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。
広く三経の光沢を蒙(かぶ)りて、特(こと)に一心の華文を開く。
しばらく疑問を至してついに明証を出(い)だす。(同上、95頁)

と、本願の信を開顕するにあたっては「一心の華文」、すなわち『浄土論』に依拠(よ)ったと記していることを指摘しておくに止める。

以上のように筆者は、元久2年の改名を「綽空」から「親鸞」へのそれであると考えるのであるが、そう断定する上でいくつかの問題が残されている。

第一には、すでに挙げたように、「夢告に依って綽空の字を改め」たと語られるその「夢告」がいつの、どんな内容のものであるか確認できないという点であるが、この問題の解決にはそれこそ新史料の発見を待つ他ない。

第二には、善導教学の学びに沈潜していたとされる吉水修学のこの時期に、親鸞の中で天親・曇鸞の教学に依るという方向性がはたしてすでに明確に自覚されていたのか、という問題である。

当時の修学の跡を伝える『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』には、『観経』第八像観の「諸仏如来、是法界身。……是心作仏。是心是仏。諸仏正遍知海、従心想生。」の語への註記(裏書)に「『註論』云。…」として、一箇所だけ曇鸞の『浄土論註』の文が引用されている。

この『観経集註』『小経集註』は、文中に宗曉の『楽邦文類』―建暦元年(1211・親鸞39歳)に泉涌寺俊芿によって将来される―が引用されていることや、善導の著作五部九巻の内、『般舟讃』―建保5年(1217・親鸞45歳)に禅林寺静遍によって仁和寺宝庫から発見され、貞永元年(1232・60歳)に開版される―が引用されていないことなどから、吉水時代よりから漸次に註釈を書き入れて、39歳以後のまもなくに脱稿されたと考えられる。I

このことから見て、親鸞が吉水時代すでに『論』『論註』を目にしてはいたことは確実であるが、元久2年当時、それが将来的に自らの思索の中核をなすものであると確信できるほど、そして後年『教行信証』の中で自在に展開させていったほど、自家薬篭中の物としていたとは考え難い。
(しかし、この『観経集註』の『註論』の用語例からは、親鸞独特の『浄土論』(一論)理解―「経・論・釈」の区分からすれば本来「釈文」であるはずの『論註』を「論」と見、『論註』を通して『論』を読む、『論』『論註』を一つの論書として把握する―がかなり早い時期に成立していたことが知られ興味深い。)

しかし、ほのかな予感、見通し程度のものはあったのではないか。

なぜなら、師法然がすでに各種の法語において元来曇鸞の用語である「自力・他力」の語を数多く用いていたし、その後の親鸞の―法然の「選択本願の念仏」の教説の核心を如来回向の信と捉え直した―思索に大きな意味をもったと思われる法然の語、例えば「如来よりたまわりたる信心」(『歎異抄』)との法語、あるいは、『大経』勝行段の理解として、

弥陀如来は因位のとき、もっぱら我が名をとなえん衆生をむかえんとちかいたまいて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまう、
濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずば、なにをか期せむ。
                        (『三部経大意』 、『定親全』6写伝篇(2)、5頁)

と、兆載永劫の修行―によって成就した「弥陀一仏の所有の四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切外用の功徳、みなことごとく…摂在す」る「万徳の所帰」(以上、『選択集』)としての名号―を衆生に回向する、と如来の真実功徳の施与を語った法語等を、現在我々は眼にすることが出来る。

また、「この世にとりては、よきひとびとにてもおわします」「法然聖人の御おしえを、よくよく御こころえたるひとびと」(『末灯鈔』)と親鸞が慕った先輩隆寛が『論註』に着目し、後年、その著述に多く引用している。(隆寛の処女作『弥陀本願義』は「承元の法難」の翌承元2年(1208)、隆寛61歳時の成立である。)

そして何にもまして決定的なことには、書写を許されたばかりの『選択集』「教相章」において法然自らが、

初めに正しく往生浄土を明かす教というは、いわく三経一論これなり。
「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。
「一論」とは、天親の『往生論』これなり。(原漢文、『真聖全』1、931頁)

として『浄土論』の名を挙げ、それに続いて、『論註』冒頭の難易二道判の文を引用していたのである。

これらのことから見ても、師友の感化の下、親鸞が天親・曇鸞の教説に傾倒していく素地は充分あったと思われる。

そして、このような素地があったからこそ、『選択集』の書写、熟読を経て、「親鸞」への改名を促す「夢告」という体験が生まれ、その「夢告」をスプリングボードにして、法然から授かった「綽空」の名を捨ててまで「親鸞」と名告ることを決断できたのだ、と筆者は考えるのである。


註H曾我量深「暴風馳雨 100聖教の曲読」(『曾我量深選集』4・331―2頁)参照。I『定親全』7・註釈篇「解説」参照。


      おわりに


論文の最後の当たって、冒頭でふれた今回の論考の出発点である、改名後の新しい名がなぜ「後序」に記されていないのかという問題について言及しておきたい。

従来の説のように法然によって真影に記された「名の字」が「善信」であると考えるならば、名を記さない何らかの理由が想定されねばならない。(例えば、「親鸞」の撰号と齟齬を来たすから、等)
しかし、前稿で述べた種々の理由から、この名は「善信」ではあり得ない。

筆者はこれを、挙げる必要がなかったための「省略」であると見ている。

つまり、この名は、各巻の撰号「愚禿釈親鸞集」(当然それは「後序」の含まれる「化身土巻(末)」にも存在する)として、また本文中に自らの名告りとしてすでに幾度となく記載された法諱「親鸞」であり、また、「後序」の、

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。……
空の真影申し預かりて、図画し奉る。……
また夢の告(つげ)に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢(おわ)りぬ。 (原漢文、『定親全』1、381−2頁)

といった文章の流れからすれば、「名の字」とは、吉水入室と選択付嘱・真影図画の体験を語る主体的名告りである「(愚禿)釈親鸞」に他ならないからである。J

親鸞は「後序」執筆当初から、元久2年に「親鸞」と名告ったと記していたのであり、『教行信証』を撰述した親鸞の課題感や、撰述の事由を語るという「後序」の役割を考えれば、当然そのことは想起できたはずである。
事実、「善信」説に疑問を抱いた先学も多数居られたと思われる。K
にもかかわらず、覚如の立てた「善信」説が通念、あるいは教権として我々の思考を支配し、不可侵の聖域として機能していた、いやむしろ今なお強烈に機能しているとさえ言える。

なぜなら、この覚如「善信」説の前提を外してあらためて「後序」を読んだ時、そこに「善信」の名が全く登場しないことに筆者は愕然としたからである。(つまり親鸞は「自分は元久2年に「善信」と名のった」とは一言も語っていないのである。)
「藤井善信」という罪人名すらそこには登場していない。(親鸞は「自分の罪名は「藤井善信」であった」とも語っていないのである。我々がその名を知り得るのはあくまで『歎異抄』あるいは『血脈文集』の流罪記録等の言わば2次史料によってである。)
「後序」にあるのはただ、「愚禿釈親鸞」の新たな名のりのみなのである。

筆者は今更ながらに、通念、定説というものがもつ意識されざる拘束力の強さ、恐ろしさを感じずにはいられないのである。
 

註J平松令三『歴史文化ライブラリー 親鸞』(吉川弘文館・1998)127頁、佐藤正英『親鸞入門』(ちくま新書・1998)94―5頁参照。
K『日野一流系図』(「範宴」の項に「善信房綽空 依夢告 改親鸞」との註記あり。/ 『真宗資料集成』7、520頁)、星野元豊『講解 教行信証・化身土の巻』(法蔵館・1976)、安良岡康作『歎異抄全講読』(大蔵出版・1990)、目幸黙僊「「禿人」親鸞」(『親鸞教学』第36号・1980)他。


略号
『定親全』……『定本親鸞聖人全集』(法蔵館)
『真聖全』……『真宗聖教全書』(大八木書店)
『大正蔵』……『大正新脩大蔵経』


(『親鸞教学』第76号(大谷大学真宗学会・2000)に掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に、また旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。


[追 記]
以上のような筆者の見解に対して、元久2年(1205)では「親鸞」の名告りの時期が早すぎるという疑問が生じるであろう。
事実、越後流罪期(1207―1211)の改名という通説と較べて2年乃至6年の時差がある。

しかしそれはやはり一種の固定観念が働くせいではないだろうか。

我々が現在「親鸞」の名から連想するものは『教行信証』および多くの著作・書簡を書いた「親鸞」である。

前稿に掲げたように、現存する親鸞の真筆における「愚禿釈親鸞」の最初の用例である専修寺蔵『唯信鈔』は、寛喜2年(1230)、親鸞58歳時の書写である。
これは「化身土巻」が記す元仁元年(1224・52歳)、すなわち『教行信証』撰述の具体的構想を決定的に方向付けたと思われる“嘉禄の法難”の発端である比叡山の奏上(『停止一向専修記』所収)よりも後であり、当然『教行信証』の撰述という思想的課題と取り組んでいる最中の署名であると思われる。

そして『教行信証』自体、その筆跡の推移等から見て坂東本の成立(63歳頃)から一応の完成(75歳頃)、そして再治(83歳頃)と、校訂が繰り返されている。

また『教行信証』以降に著された「愚禿親鸞」の記名をもつ和讃・仮名聖教等も『教行信証』の思想の和語による再展開という意味をもつものであるから、現在我々が眼にする「親鸞」の署名は、すべて『教行信証』を撰述する主体、言い換えれば「顕浄土真実教行証」の課題を思索する主体の名告りであると言える。

このように私たちは「親鸞」がその全生涯を通じての課題を表現した名告りであることを、結果として知っている。

このような、いわば“完成品”としての「親鸞」の強烈なイメージからすれば、元久2年の改名ではいかにも時期尚早といった印象が生じるのも当然かと思われる。

しかし、親鸞自身が元久2年の時点で、この「親鸞」の名がその後の全生涯を貫通するものになることをどれだけ自覚的に予測し得たかは疑問である。(もしかしたら「親鸞」の次にまた新たな名を選ぶという展開さえ予想していたかも知れない。)

それゆえ私は文中、あえて「見通し」「ほのかな予感」、もしくは「今後の思索の方向性」という表現をとったのである。

しかし、彼はその後の流罪生活を通して『大経』、『論』、『論註』を熟読し、名実ともに「親鸞」となって、生涯その名告りを保持する。

私にはむしろ、この時点で改名を決断したこと自体に、その契機となった「夢告」が彼に与えた衝撃の大きさと、師法然による「記名」がもつ意味の重大さとがうかがわれるのである。

また、以下は筆者の想像であり、何ら論証の史料をもたないことをあらかじめお断わりしておくが、もし仮に元久2年の改名を促した「夢告」の主が聖徳太子であるならば、この「親鸞」の名告りにおいても、またしても彼は観音・勢至二菩薩の「授記」(発遣)によって人生の新たな場面に踏み出したことになるのではないだろうか。(2008年5月8日記)


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