「善信」と「親鸞」 豅 弘 信
― 「後序」を読む ― 前稿に続いて、元久2年に親鸞が「綽空」から改めた「名」が何であるかを解明すべく論述を進めたい。
前稿で行った「善信」改名説の検討に続いて本稿では「親鸞」改名説の検討に移るわけであるが、この説の最大の難点は、改名の契機となった「夢告」の記録が残っていないことにある。 そこで筆者は今回、改名の記録が記された「後序」の文の記述そのものを精読することを通して、親鸞が元久2年に「親鸞」と改名することの必然性、もしくは蓋然性を論証していきたいと考える。 「後序」は『教行信証』撰述の「理由」を語る「総序」に対して、「事由」(具体的成立事情)を語るものと了解されてきた。
しかもそれは、多くの先学が指摘する通り、歴史的経緯を年代順に記録したのではなく、まず、建永2年(改元して承元元年・1207)に執行された「念仏停止(ちょうじ)」、いわゆる“承元の法難”の発端とその経過を述べて自身の還俗と流罪生活を語り、建暦元年(1211)の赦免と翌建暦2年1月の法然の死を述べた後、あたかも自らの原点を再確認するかのように、吉水入室と選択付嘱・真影図画の記録を、往時の感動を甦らせつつ述べていく。 この「後序」の記述から知られるように、『教行信証』の撰述は、建仁元年(1201・親鸞29歳)の回心(吉水入室)において、法然と同一の「如来よりたまわりたる信心」(『歎異抄』)を獲得し、元久2年(1205・33歳)の選択付嘱・真影図画によって師法然その人によってその信心を証誠され、結果、法然と同じく流罪を被った門弟として、自らの責任において、法難によって傷つけられた先師法然の「真宗興隆」の仏事を復興しようとする営為であると言える。 赦免以後の親鸞の後半生は、この法然の仏事の復興に捧げられたと言っても過言ではない。 関東での教化活動が、法難によって瓦解した吉水教団の関東における再興であるのに対して、『教行信証』の撰述に代表される帰洛後の著述活動は、種々の論難によって傷つけられた法然の主著『選択集』の真実義を開顕しようとした思想的営為であったと考えられる。 そして、そのような課題をもった『教行信証』が「愚禿釈親鸞集」という撰号をもつことの思想的必然性をもまた、この「後序」の文は語っているように、筆者には思われるのである。
として、自らが「禿の字をもって姓とす」る由来を語っている。 この記録は、歴史的事実としては、承元の法難に連座した親鸞が、赦免に際して、流罪の際に与えられた「藤井」の姓を「禿」と改め、「(官度)僧」への復帰を拒否したことを示している。A それでは、この時親鸞が「禿」の字を「姓」として選び採ったことにはどのような意味があるのであろうか。 前に引いた「後序」の文に拠れば、「禿」の姓を親鸞は、法難を通して獲得した「非僧非俗」の自覚の主体的表明であると抑えている。
筆者は、「非僧」の「僧」とは、「後序」の冒頭に「教に昏くして真仮の門戸を知らず」と抑えられた「諸寺の釈門」であり、「非俗」の「俗」とは「行に迷うて邪正の道路を弁うることな」き「洛都の儒林」―「ミヤコ/ミヤコ/ゾクガクショウ(俗学生(匠))ナリ」の左訓あり―を指すものである、と考える。 「僧」、すなわち「諸寺の釈門」における仏教理解とは、法然が自ら「わがごときは、三学のうつわ物にあらず」(『和語灯録』)と捨離・放下した「戒・定・慧の三学」をもって正統とするものである。 「戒・定・慧の三学」とは、戒律をもって自らの身心を浄く持ち、禅定・止観を行じて三昧に入って智慧を開発し、諸法の実相を如実知見する行であり、なかんずく「定」、止観こそがいわば仏教の正統正道とされてきた修道方法である。 『興福寺奏状』(元久2年・解脱房貞慶筆)における法然批判も、このような伝統的仏教理解に基づいたものである。
戒こそが仏道の大前提であり、それゆえ、たとえ「実のごとくに受けずと雖(いえど)も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧(ざんぎ)を生ずべきの処」であるのに、専修念仏者は「あまつさえ破戒を宗として」戒の存在そのものをも無視する。 禅定・止観こそが仏道の本来の行であるとするがゆえに、第十八願の本意は「観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨て」ない、いわゆる“観勝称劣”にある、と法然の本願理解に疑義を挟み、称名は「最下」の行、すなわち「下機を誘(こしら)うるの方便」に過ぎないと貶め(「第七 念仏を誤る失」)、法然の専修念仏、すなわち称名一行への「偏執」が、諸行を無視のみならず軽蔑せしめ、あらゆる出離の要路を塞いで仏法を毀滅に導く、と説くのである。(「第四 万善を妨ぐる失」) それゆえ親鸞における「非僧」とは、何より先師法然が、
と提唱した、「廃立」の継承であることが知られるのである。 「俗」、すなわち「洛都の儒林」における仏教理解とは、いわゆる「顕密仏教」(黒田俊雄)という語で表現できる。 顕密仏教、いわゆる顕密体制・権門体制下において期待・要求されてきた仏教とは、端的に言えば「護国」の仏教である。 律令体制下においては僧は官度僧として国家の管理下にあったが、領地(荘園)の私的領有によって律令制が有名無実化していくとともに、寺家・公家、後には武家もが権門勢家としてそれぞれに荘園を保持し、そこからの収益(年貢)によってそれぞれの家門を維持運営していくこととなった。 朝廷は諸寺を「宗」として勅許・公認し、諸寺は八宗の別こそあれ、基本的には密教的な「鎮護国家」の加持・祈祷の施設的役割を担っていたのである。 そしてそれは、
という、いわゆる「王法仏法相依」として語られてきたのであるが、それに対して、「ただ念仏」を標榜した専修念仏教団の勃興は、第一に、「護国の諸宗」(『停止一向専修記』)を自認してきた既成教団(諸寺)の権威を著しく傷つけるものであった。 法然が「七箇條制誡」において堅く戒めたものは、そのような既存の宗教的権威を否定する「余宗誹謗・神祇不拝」や、破戒造悪を勧めて戒律を否定する「造悪無碍」の振る舞いであった。 しかもこれらの行為は、単なる風紀の紊乱、既成教団の権威の失墜というにとどまらず、寺社の領有する荘園における年貢(仏貢)・労役(公事)―これらは諸仏諸神の霊威、具体的には滞納者への神罰仏罰の名のもとに徴収されていた―の忌避といった経済的実害をももたらしたのである。 専修念仏の流行によって「護国」の装置である諸寺が衰退すれば、ひいては国家の存立自体をも危うくするというのが、奏達に際しての旧仏教側の主張であり、『興福寺奏状』が冒頭に、勅許を得ずに一宗を名告ることの過失(「第一 新宗を立つる失」)を挙げ、「摂取不捨の曼陀羅」を重用して余宗の高僧たちを侮辱する過失(「第二 新像を図する失」)、神明不拝の過失(「第五 霊神に背く失」)を挙げた後、最後に「第九 国土を乱る失」を挙げたのは、これらの事情に基づくものである。 この「非俗」の自覚を親鸞の行実に照らして見れば、建保2年(1214)の「さぬき」での浄土三部経千部読誦と中止、あるいは寛喜3年(1231)のいわゆる“寛喜の内省”に端的にそれを見ることができるであろう。 『恵信尼書簡』は、それらの出来事を次のように記している。
『恵信尼書簡』に拠れば、親鸞は三部経読誦の動機を「衆生利益(すぞうりやく)のため」と語っている。 親鸞は、「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真成報仏恩」(『往生礼讃』)の善導の教言を引いて、「名号の外には何事の不足にて、必ず経を読まんとするや」と、「四五日ばかりありて、思いかえして」読経を中止したとあるから、ここで言われる「衆生利益」は、本願の名号の教人信とは全く別の関心を示すものと考えられる。 また、善導の五正行には、正定業である称名に対する助業として、「一心に専らこの『観経』・『阿弥陀経』・『無量寿経』等を読誦」(『観経散善義』)する読誦正行が挙げられているが、あくまで自身の往生の行としての読誦がその第一義であるから、三部経読誦がこの読誦行に当たるとも考えがたい。 そこで、これらの出来事が起きた当時の世相を尋ねてみると、これらはいずれも飢饉の年の出来事であることが知られる。 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、建保2年、諸国が「炎旱」(旱魃)に見舞われたことが記されており、早々に秋の年貢の軽減が検討されたり、5月には、鶴ヶ岡八幡宮での降雨祈願の祈祷が修され(28日の項)、6月には、将軍源実朝の要請によって「葉上僧正」(栄西)が「祈雨の為に八戒を持ち、法華経を転読し」たことが記されている。(3日の項) また寛喜3年も、天候不順のため3月には「今年世上飢饉、百姓多く以て餓死せんと欲す」(19日の項)と伊豆・駿河2ヵ国で出挙米の施しが指示され、親鸞が病臥した4月から翌5月にかけては、「天変」、「風雨水旱」、「疾疫」、「餓死」の終息と「天下泰平国土豊稔」を祈って、「御修法之を始行す」(4月11日の項)、「諸国の国分寺に於て最勝王経を転読す可きの旨、宣旨」(19日の項)、「薬師護摩を修す」(5月7日の項)、「御所に於て一万巻の心経供養」(9日の項)、「鶴岳八幡宮に於て、供僧已下三十口の僧をして、大般若経を読誦せしむ」(17日の項)といった記事が頻出している。 (寛喜の飢饉) 『恵信尼書簡』が伝える三部経読誦、あるいは夢中の『大経』読誦は、このような旱魃・飢饉を背景としたものであり、「衆生利益」とは、上野国佐貫の地で飢饉によって「老少男女おほくのひとびとのしにあいて候らん」(『末灯鈔』)ありさまを目にした親鸞が、読経による効験(炎旱・天変の終息)を期して修した、各地の寺社で修された「天下泰平」の祈祷と軌を一にしたものであったことが推察される。 寛喜の内省における夢中の『大経』読誦の理由は、
とあることから一見、17年前の読誦中止が心の奥底に気がかりとして「なおも少し残るところのありける」と親鸞が語っているようにも読めるが、その後に、
とあるから、「よくよく思慮あるべ」き「人の執心自力の心」の「なおも少し残るところのありけるや」と親鸞は語っているのであり、17年前と同じような飢饉の惨状を目にした親鸞に、17年前と同様の「念仏の信じんよりほか」の「衆生利益」の関心が動いたことを示すものだと思える。 「人の執心自力の心」とは、具体的には、読経の功徳を衆生利益(天下泰平)のためにを回向しようとする、中世当時で言えばごく普通の宗教的関心であるが、このような意味での「衆生利益」は、持戒堅固、三昧発得の清僧の読経・授戒にして初めて可能であると言える。(事実当時は「一生不犯」の僧尼が特別な霊力・呪力をもつと信じられ、広く一般の尊敬を集めていた。(『吾妻鏡』治承4年8月18日の条他)B) そして、そのような宗教関心の根底には、「いずれの行もおよびがたき身」「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざる」といういわゆる機の深信に比して、あたかも自らが「自余の行もはげみて、仏になるべかりける身」(以上、『歎異抄』)であるかのように錯覚盲信する、善根を積み得る自己、善行を行じ得る自己への無意識裡の楽天的な信頼・執著、すなわち「わがみをたのみ、わがこ ころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(『一念多念文意』)根深い自力我執があることが知られる。 そのような“積善可能な自己”という盲目的無自覚的な自己信頼に対する徹底的な断念、いかなる善をも積み得ない自己という諦観、すなわち「地獄は一定すみかぞかし」の自覚をくぐって獲得されたものが、親鸞における「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」(以上、『歎異抄』)との「念仏の信心」なのである。 以上のことから、「非僧非俗」とは、何よりもまず法然の選択本願念仏の教説に帰した自覚であり、法然によって示された「廃立」の、親鸞における具体的実践であったことが知られる。 親鸞は、当時の僧界・俗界双方の常識的仏教理解に「非」を唱え、旧仏教の標榜する三学を修して“断惑証理”を目指す自力聖道門を棄て、顕密体制下において国家権力から期待される「護国」の役割をも棄て、本願の名号の自信教人信一つに生きたのである。
『涅槃経』金剛身品には、「(釈尊は)『涅槃経』の中に諸の比丘を制して、奴婢・牛羊・非法の物を畜養すべからず、……異部経の中に於て、比丘是の如き等の非法の物を蓄うる有らば、某甲(それがし)国王、法の如く之を治して、駆つて俗に還らしめよと説きたまう」とある比丘が説くのを聞き、怒ってこの法師を害した「破戒にして、法を護らざる者」としての「禿居士(とくこじ)」、あるいは、「飢餓の為の故に、発心出家」し「持戒・威儀具足せる清浄比丘の正法を護持する有るを見て、駆逐して出でしめ若しは殺し若しは害す」る「禿人(とくにん)」が説かれている。 親鸞は「禿」の字に「カフロナリ」と左訓を振っているが、この『涅槃経』が語る「禿人」「禿居士」を、無住は『沙石集』に「禿居士(カフロコジ)」として語っておりC、このことから、当時、“禿居士イコール飢餓による出家者・破戒無慚の者・袈裟を着た賊”という通念が存在していたことが知られる。 このような「禿」に対する共通理解が存在する時代に、『歎異抄』の流罪記録が伝えるように、「禿」を姓とすると奏上したことが事実であるならば、自らを「道心もないまま飢餓のために出家し、清浄持戒の比丘を見ては害をなし、その結果国王によって還俗せしめられた破戒・不護法の者」と公言したこととなり、赦免後、僧籍に復帰しなかったことと併せて、専修念仏者として「真言止観を破し、余仏・菩薩を謗し」、「念仏門に於て戒行なしと号して、専ら淫酒食肉を勧め、適(たまたま)律儀を守る者を雑行と名」(以上、「七箇條制誡」)けたことへの深刻な反省の表明と受け取られたとしても不思議ではない。 『親鸞聖人血脈文集』が、
と記し、『本願寺聖人伝絵』が、
と伝えたような宮廷の評価も、あながちただの美辞麗句とは言えなくなる。 そして「禿」に対する直接的言及ではないにしろ、存覚が「愚禿」の「愚」を、
として、謙譲の意を示す語と註釈したのも、このような了解の伝統を受けたものとも考えられる。 しかし、ここで親鸞が名告った「禿」の姓は、一見既存の権威に恭順の意を表したごとくに見せてはいるものの、その真意からすれば、戒を仏道の前提のみならず全体、必要条件のみならず十分条件と捉えた既存の仏教の破壊者であるとの宣言であり、同時に、仏法の何たるかも知らず、仏法の仏法たる所以も考えることなく、真に帰すべき仏法を弾圧し、真の和合衆(僧伽)である「専修念仏のともがら」(『歎異抄』)を打罵し、殺害したのはいったいどちらであるのかという、弾圧する側の「行証久廃」の内実を逆に照射していくという皮肉(アイロニー)に満ちた名告りであるとも言えるのである。 そしてそのことは、「信巻」の掉尾で『往生拾因』の文を引く中に、
として無戒・破戒の者への弾圧を「五逆罪」と規定していることからも知られる。D 明恵・貞慶といったごく一部の真摯な持戒堅固の清僧ならいざ知らず、
と揶揄されるほどの圧倒的多数の破戒者という現実の前で、「実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生ずべき」(前掲『興福寺奏状』)という戒意識の有無のみを問題にすることは、北陸関東での流浪生活を経験してきた親鸞からすれば、笑止な偽善・自己弁護でしかなかったとさえ考えられるのである。 そしてさらに、法然・親鸞の眼を通した時、聖道門仏教が、実は「在世正法の時機」、すなわち釈尊という先駆者の正しき指導、感化のもとにあって、釈尊という証果の正しき具体相(目標・モデル)を眼にし、耳にすることが出来た時代にのみ成就するものであり、「末法」という「大聖を去ること遥遠」(『安楽集』)にして、釈尊の威神力(感化力)の喪失した時代においては、釈尊の人格も伝説の中で理想化され、超人化され、その証果もまた難行の末、三大阿僧祇劫の果ての究極の理想として、「底下の凡愚」(『正像末和讃』)という機の現実と遊離した、高尚かつ難解―「理深く解微」(『安楽集』)―な抽象的論議の中に溶解してしまうという、仏教の退転の歴史が露呈されてくるのである。E
と説かれる「末法」に、「無戒」(戒そのものすら無く、当然戒を受けたことも無い)にして「我が法の中において、剃除鬚髪し、身に袈裟を着たらん名字の比丘」、すなわち沙弥、半僧半俗の在家の入道者に他ならない。 『灯明記』によればこの沙門は、「酒の因縁」によって仏弟子となり、「正しく妻(め)を蓄え子を侠(わきばさ)」み、「己が手に児の臂(ひじ)を牽(ひ)きて、共に遊行して、かの酒家より酒家に至」り、「わが法の中において非梵行を作」す「無戒名字」の身でありながらも、仏弟子であるがゆえに「世の福田・世の真宝・世の尊師」と尊重されねばならない、とされている。 そしてその根拠は、『大悲経』において、釈尊が阿難に向って、
と、たとえわずかに「一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜん者」であってもその功徳によって畢竟「涅槃に入る」と証誠した、その仏言にあるとされる。 このような「一称仏名一生信」の無戒名字の比丘こそ、法然のもとに参集して、弥陀の本願を信じその仏の名を称える「専修念仏のともがら」に他ならない。 それゆえ親鸞は、自らが『尊号真像銘文』に、
と記し、釈道安(314〜385)が提唱しF、
の記述のごとく、出家して釈尊の門下に入ったものは、以前の四姓(カースト)が何であれ、何れも「釈迦の子」「釈種子」、あるいは「釈子」と称したという釈尊在世の故実にその起源を尋ねることができる沙門の共通の姓「釈」、すなわち戒―南都であれば『四分律』に依った「具足戒」(比丘の「二百五十戒」、比丘尼の「三百四十八戒」)、叡山であれば『梵網経』に依った「大乗戒」(円頓戒・菩薩戒・一心金剛戒 、十重禁・四十八軽戒)―を受けた出家者が名告るべき「釈」姓を、
として、無戒名字の比丘(=愚禿)の自覚のもとに名告ったのである。
親鸞は『大集経』によってこの時代(「この世」)を「闘諍堅固なるゆえに白法隠滞したまえ」る「第五の五百年」(仏滅後二千年以上経過した)の「末法」(以上、『正像末和讃』参照)として捉えている。
道綽の『安楽集』によれば、聖道門が「今(末法)の時に証しがた」き理由は「大聖(釈尊)を去れること遙遠なる」、「理は深く解は微なる」の2つであると言う。
そのような状況の中では当然、仏教者間において「何が真の仏教か」「何が真の悟りか」を巡っての熾烈な議論が、さらには「誰が真の釈尊の後継者(集団)か」を巡って、利得・権益争いまで絡んだ、激越―当然暴力も伴った―な勢力争いが展開されることとなる。
また、そのような状況下で真摯に仏教者たらんとすれば、自らの道がこれで正しいのか、自らの修する行が間違いなく涅槃に究竟(くきょう)するのかという「不安」と、いかなる修行によっても釈尊のごとくには成り得ないという「嘆き」に潜在的に脅かされ続けなければならないし、またそれゆえに持戒堅固であること、少なくとも戒自体を尊重する意識のあること、あるいは「勅許(国家の承認)」の下にあること、といった外なる権威によって自らが「仏教」であること、「仏教者」であることを弁証していかなくてはならない、と言えるのである。 「浄土の真宗は証道今盛りなり」(「後序」)との記述や「真宗興隆の大祖源空法師」(同前)、「本師源空」(「行巻」、『高僧和讃』)等の師法然に対する「尊称」からも知られるように、親鸞にはこのような意味での「末法」の悲歎は見られない。 「愚禿釈親鸞」として用いられる「釈」の姓には、仏弟子の仏弟子たる根拠は、「戒」においてではなく、真に弥陀の仏願に随順し、真に釈迦諸仏の教意に随順する「深信」の獲得にあり、「一心にただ仏語を信じて身命を顧みずして決定して行(=称名念仏)に依」り、「経に依って行を深信する者」(以上、「信巻」引用『観経散善義』)こそが、教主釈迦は「すなわちわが親友ぞ」と讃嘆(ほ)め、十方諸仏が重愛をもって証誠護念して、「本願一実の直道・大般涅槃無上の大道」(「信巻」)に堅固不退転ならしめられる「真仏弟子」である、という親鸞の確信が込められているのである。
そして、もし本願の信以外の要件によって仏弟子であると自認するならば、それは実は仏意に昏い者であり、それゆえ、「聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる」(『浄土和讃』)存在であるか、あるいはすでに「外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せ」(『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」)る者である、といった彼の厳しい主張が、
という御自釈からも読み取れるのである。 以上のことから知られるように、「禿」の字は「無戒」の象徴であるが、すでに「一称仏名一生信」の「釈」(仏弟子)の意義を内包しており、その「釈」は「無有出離之縁」(「三学のうつわ物にあらず」「いずれの行もおよびがたき身」)の機の自覚を通して獲得し得る境位である。 それゆえ、無戒でありながら仏弟子であり得る、というよりむしろ、無戒なるがゆえに仏弟子と成り得、仏弟子であるがゆえに無戒に安んじ得るとさえ親鸞は言うのである。 そして、このような「末世の名字僧」を禁圧することは、「己の分を思量」することのない「穢悪・濁世の群生」の、「末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る」(以上、「化身土巻(本)」)行為であり、自らを、
と語り、『末法灯明記』に『大集経』、『賢愚経』、『大悲経』等を引いて、
と記した比叡山の祖最澄の意に背く行為に他ならない、というのが『灯明記』の引文および「禿」の字に込められた親鸞の主張なのである。
筆者それを、「禿」の字にすでに「愚」と「釈」の意義が内包されていることによるものと考える。 親鸞に「禿」の名告りを促し、その自覚を深めたものが越後での流人生活の体験であったことは、想像に難くない。 彼は越後国府で約5年間流人として暮しているが、『延喜式』の規定に依れば、最初に1年間のみ、日に米1升、塩1勺の支給があり、翌年からは粮種ともに停められるため、流人は必然的に自給自足の生活を余儀なくされるのである。G そのため流人親鸞、すなわち藤井善信は、自炊し、自らの手で、あるいは人や牛馬を使役して耕作し、収穫の一部は市で売買、または交換して食料や生活必需品を入手し、残りは翌年の種籾に蓄えねばならなかった。 そしてそれは、本来、「行乞」をむねとすべき比丘の身が、「八不浄物―田宅、田園、穀粟米麦、奴婢、群蓄、金銀財宝、象牙刻鏤、釜鍋―を貪蓄」し、「奴婢・僕使・牛羊象馬・乃至銅鉄・釜・大小銅盤・所須の物を受畜し、耕田種植・販売市易して、穀米を儲くる」(以上、『末法灯明記』)という、在世正像の時機では許されない生活なのである。 また、その間、親鸞は恵信尼との間に信蓮房明信をもうけている。(建暦元年(1211)3月3日) 恵信尼との生活がいつ開始されたかは不明であるが、妻子、殊に子をもつということは、たえず「利養」を貪求し、飢饉ともなれば「わが身は次にして、人をいたわしく思うあいだに、まれまれ得たる食い物をも、かれに譲」り、それゆえ「さりがたき妻、おとこをもちたるものは、その思いまさりて深きもの、かならず先立ちて死ぬ。」「親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。」(以上、『方丈記』)と語られるような「恩愛」に繋縛される生活の始まりを意味する。 「信巻」のいわゆる「愚禿悲歎述懐」が語る「愛欲の広海・名利の太山」とは、このような親鸞の家庭生活の内実を物語るものではなかろうか。 そして、そのような具体的な生活を通して感得・自覚された自己の実像が「愚禿釈」の「愚」であったと思われる。 また、親鸞における「愚」の自覚には何よりも先師法然におけるいわゆる「還愚」―愚に還る―の思想の継承という意味がある。 法然が、「十悪の法然房」「愚癡の法然房」(以上、『和語燈録』)と自称し
と語った「還愚」の継承を親鸞は、文応元年11月の乗信房宛書簡に次のように語っている。
ここで語られる「愚者」とは具体的には、当時吉水の草庵を訪れた遁世聖や尼入道、津戸為守・熊谷直実・宇都宮頼綱らの御家人武士、安房の助(阿波介)といった陰陽師、天野四郎といった盗賊、そして、四国配流の途上訪ねてきた播磨・高砂の浦の漁師夫婦や室の泊の遊女といった「一文不通・一文不知」の「愚癡無智のひと」(『末灯鈔』)であるが、この書簡を記した親鸞の念頭には当然北陸関東で出遇った「文字のこころもしらず、あさましき愚癡きわまりなき」「いなかのひとびと」(『唯信鈔文意』跋文)が想起されていたであろう。 彼らは、善導が「出家」に対する「在家」を、
と定義したごとく、生活に追われ、「田あれば田を憂」い、「田なければまた憂えて田あらんと欲」(以上、『大経』)い、常に煩悩を惹起し、心身ともに煩悶憂苦しつづけなければならない存在、
すなわち「凡愚」であり、そのため清心(道心)を発すこともまれで、たまたま発しても持続できない。したがって発心修行を第一義とする仏道に対しては自ずから、
と抗議、嘆息せざるを得ない人々であった。 また、彼らはその生業から言えば、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの」「野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがら」「あきないをもし、田畠(でんぱく)をつくりてすぐるひと」(『歎異抄』)であり、いずれも生活のために破戒(殺生)を余儀なくされ、戒を意識すれば生活そのものが成り立たなくなるような生活の中で、
と、「屠沽の下類」と賤視され、来世の果報を怖れながらも、
と、いかなる諸仏諸菩薩による救済をも断念せざるを得ない人々であった。 自らも含めて、そのような人々こそが『大経』が説く本願の機、すなわち「凡小・群萌」(「教巻」)であり、ともに本願に帰していくべき「同行」「(とも)同朋」であるとの共感(シンパシー)をもって親鸞は「われら」と呼んだのである。
そして、そのような確信を育んだのもまた、関東行化の中で生まれた「明法御房の御往生」(『末灯鈔』)等の具体例であったのである。
とあるように、煩悩に繋縛されて、仏道を歩むことを必ずしも喜ばず快まない、恥ずべく傷むべき身である、という悲しみを伴った自覚であると同時に、喜ばず快まざるに正定聚の数に入り真証の証に近づく、というはからずも無上仏道に召された仏弟子であるとの自覚の名告りである。H それゆえ『教行信証』において「愚禿釈親鸞」の名が用いられる時、そこにはいずれも真実の仏教、およびその伝統(三経七祖)、畢竟法然興隆の選択本願念仏の仏道と出遇い得た感動、喜びが語られているのである。
このように親鸞が歓喜とともに出遇った「愚」をして「釈」たらしめる仏道、すなわち「禿」の仏道とは、人間に何らの資格・能力・努力をも要求しない、本願との値遇にのみその成立根拠をもつ「非行・非善」(『歎異抄』)の仏道である。 この法然興隆の「浄土宗」こそが「大乗のなかの至極」(『末灯鈔』)、すなわち「真宗」(真の仏教)であることを顕らかにすること(真宗開顕)が、法然の遺弟としての親鸞の課題であり、その課題に取り組む上で、天親・曇鸞の教説に依拠(よ)ることを自他に対して宣言したのが、「親鸞」の名告りではないだろうか。 元久2年4月14日の選択付嘱に際して書かれた「釈の綽空」の名は、おそらく吉水入室に際して法然から与えられた名であり、道綽と源空から取られたものであろう。 法然はその『選択集』の冒頭に、
として『安楽集』の文を挙げ、末法濁世の時と機に相応した浄土一門への帰入、すなわち“捨聖帰浄”を勧めている。 このことから「綽空」の名には、“浄土宗の独立”という法然の根本課題の継承を託した、という意味が込められていると考えられる。 それに対して、「親鸞」への改名は、そのような法然から託された課題を主体的に受けとめた時、自らの思索の方向性を示すものとしてその名を選び取ったという意味があるように思われる。 浄土真宗の開顕というその後の親鸞の教学課題は、端的に言えば「論主の一心」「他力の信」(以上、『高僧和讃』「曇鸞讃」)、すなわち「本願力回向の信」の開顕という一言に集約できよう。 親鸞の教学において中核的役割を占める天親・曇鸞の教説を逐一検討するのは別の機会に譲るとして、今回は真宗開顕の書である『教行信証』が、
として、本文(「正宗分」)の冒頭にあたる「教巻」劈頭のいわゆる真宗大綱の文に往還二種の回向を挙げていること、また「別序」に、
と、本願の信を開顕するにあたっては「一心の華文」、すなわち『浄土論』に依拠(よ)ったと記していることを指摘しておくに止める。 以上のように筆者は、元久2年の改名を「綽空」から「親鸞」へのそれであると考えるのであるが、そう断定する上でいくつかの問題が残されている。 第一には、すでに挙げたように、「夢告に依って綽空の字を改め」たと語られるその「夢告」がいつの、どんな内容のものであるか確認できないという点であるが、この問題の解決にはそれこそ新史料の発見を待つ他ない。 第二には、善導教学の学びに沈潜していたとされる吉水修学のこの時期に、親鸞の中で天親・曇鸞の教学に依るという方向性がはたしてすでに明確に自覚されていたのか、という問題である。 当時の修学の跡を伝える『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』には、『観経』第八像観の「諸仏如来、是法界身。……是心作仏。是心是仏。諸仏正遍知海、従心想生。」の語への註記(裏書)に「『註論』云。…」として、一箇所だけ曇鸞の『浄土論註』の文が引用されている。 この『観経集註』『小経集註』は、文中に宗曉の『楽邦文類』―建暦元年(1211・親鸞39歳)に泉涌寺俊芿によって将来される―が引用されていることや、善導の著作五部九巻の内、『般舟讃』―建保5年(1217・親鸞45歳)に禅林寺静遍によって仁和寺宝庫から発見され、貞永元年(1232・60歳)に開版される―が引用されていないことなどから、吉水時代よりから漸次に註釈を書き入れて、39歳以後のまもなくに脱稿されたと考えられる。I
このことから見て、親鸞が吉水時代すでに『論』『論註』を目にしてはいたことは確実であるが、元久2年当時、それが将来的に自らの思索の中核をなすものであると確信できるほど、そして後年『教行信証』の中で自在に展開させていったほど、自家薬篭中の物としていたとは考え難い。 しかし、ほのかな予感、見通し程度のものはあったのではないか。 なぜなら、師法然がすでに各種の法語において元来曇鸞の用語である「自力・他力」の語を数多く用いていたし、その後の親鸞の―法然の「選択本願の念仏」の教説の核心を如来回向の信と捉え直した―思索に大きな意味をもったと思われる法然の語、例えば「如来よりたまわりたる信心」(『歎異抄』)との法語、あるいは、『大経』勝行段の理解として、
と、兆載永劫の修行―によって成就した「弥陀一仏の所有の四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切外用の功徳、みなことごとく…摂在す」る「万徳の所帰」(以上、『選択集』)としての名号―を衆生に回向する、と如来の真実功徳の施与を語った法語等を、現在我々は眼にすることが出来る。 また、「この世にとりては、よきひとびとにてもおわします」「法然聖人の御おしえを、よくよく御こころえたるひとびと」(『末灯鈔』)と親鸞が慕った先輩隆寛が『論註』に着目し、後年、その著述に多く引用している。(隆寛の処女作『弥陀本願義』は「承元の法難」の翌承元2年(1208)、隆寛61歳時の成立である。) そして何にもまして決定的なことには、書写を許されたばかりの『選択集』「教相章」において法然自らが、
として『浄土論』の名を挙げ、それに続いて、『論註』冒頭の難易二道判の文を引用していたのである。 これらのことから見ても、師友の感化の下、親鸞が天親・曇鸞の教説に傾倒していく素地は充分あったと思われる。 そして、このような素地があったからこそ、『選択集』の書写、熟読を経て、「親鸞」への改名を促す「夢告」という体験が生まれ、その「夢告」をスプリングボードにして、法然から授かった「綽空」の名を捨ててまで「親鸞」と名告ることを決断できたのだ、と筆者は考えるのである。
従来の説のように法然によって真影に記された「名の字」が「善信」であると考えるならば、名を記さない何らかの理由が想定されねばならない。(例えば、「親鸞」の撰号と齟齬を来たすから、等) 筆者はこれを、挙げる必要がなかったための「省略」であると見ている。 つまり、この名は、各巻の撰号「愚禿釈親鸞集」(当然それは「後序」の含まれる「化身土巻(末)」にも存在する)として、また本文中に自らの名告りとしてすでに幾度となく記載された法諱「親鸞」であり、また、「後序」の、
といった文章の流れからすれば、「名の字」とは、吉水入室と選択付嘱・真影図画の体験を語る主体的名告りである「(愚禿)釈親鸞」に他ならないからである。J 親鸞は「後序」執筆当初から、元久2年に「親鸞」と名告ったと記していたのであり、『教行信証』を撰述した親鸞の課題感や、撰述の事由を語るという「後序」の役割を考えれば、当然そのことは想起できたはずである。
なぜなら、この覚如「善信」説の前提を外してあらためて「後序」を読んだ時、そこに「善信」の名が全く登場しないことに筆者は愕然としたからである。(つまり親鸞は「自分は元久2年に「善信」と名のった」とは一言も語っていないのである。) 筆者は今更ながらに、通念、定説というものがもつ意識されざる拘束力の強さ、恐ろしさを感じずにはいられないのである。
我々が現在「親鸞」の名から連想するものは『教行信証』および多くの著作・書簡を書いた「親鸞」である。 前稿に掲げたように、現存する親鸞の真筆における「愚禿釈親鸞」の最初の用例である専修寺蔵『唯信鈔』は、寛喜2年(1230)、親鸞58歳時の書写である。 そして『教行信証』自体、その筆跡の推移等から見て坂東本の成立(63歳頃)から一応の完成(75歳頃)、そして再治(83歳頃)と、校訂が繰り返されている。 また『教行信証』以降に著された「愚禿親鸞」の記名をもつ和讃・仮名聖教等も『教行信証』の思想の和語による再展開という意味をもつものであるから、現在我々が眼にする「親鸞」の署名は、すべて『教行信証』を撰述する主体、言い換えれば「顕浄土真実教行証」の課題を思索する主体の名告りであると言える。 このように私たちは「親鸞」がその全生涯を通じての課題を表現した名告りであることを、結果として知っている。 このような、いわば“完成品”としての「親鸞」の強烈なイメージからすれば、元久2年の改名ではいかにも時期尚早といった印象が生じるのも当然かと思われる。 しかし、親鸞自身が元久2年の時点で、この「親鸞」の名がその後の全生涯を貫通するものになることをどれだけ自覚的に予測し得たかは疑問である。(もしかしたら「親鸞」の次にまた新たな名を選ぶという展開さえ予想していたかも知れない。) それゆえ私は文中、あえて「見通し」「ほのかな予感」、もしくは「今後の思索の方向性」という表現をとったのである。 しかし、彼はその後の流罪生活を通して『大経』、『論』、『論註』を熟読し、名実ともに「親鸞」となって、生涯その名告りを保持する。 私にはむしろ、この時点で改名を決断したこと自体に、その契機となった「夢告」が彼に与えた衝撃の大きさと、師法然による「記名」がもつ意味の重大さとがうかがわれるのである。 また、以下は筆者の想像であり、何ら論証の史料をもたないことをあらかじめお断わりしておくが、もし仮に元久2年の改名を促した「夢告」の主が聖徳太子であるならば、この「親鸞」の名告りにおいても、またしても彼は観音・勢至二菩薩の「授記」(発遣)によって人生の新たな場面に踏み出したことになるのではないだろうか。(2008年5月8日記)
|
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.