法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学真宗学会『親鸞教学』第75号掲載(2000年3月)
 
 
 

善信親鸞
 
                      ― 元久2年の改名について― (上)

豅   弘 信

      はじめに
 

真宗門徒が宗祖と仰ぎ、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)を始めとする多数の著述を遺したのは、それらの著作の撰号や奥書、および書簡への署名などから、「愚禿釈親鸞」と名告った人物であることが知られている。
一時期、その実在が疑われたこと(親鸞抹殺論・架空人物説)もあったが、鷲尾教導氏による西本願寺宝庫よりの『恵信尼書簡』の発見等によってその実在が再確認されて現在に至っている。@

では、親鸞はいったいいつの時点から「親鸞」と名告ったのであろうか。

『歎異抄』蓮如書写本末尾の流罪記録、

親鸞、僧儀を改めて俗名を賜う、
仍(よ)って僧に非ず俗に非ず、
然る間禿の字をもって姓となし奏聞を経られおわんぬ。
かの御申し状、今に外記(げき)の庁に納まると云々。
流罪以後、愚禿親鸞と書かしめ給うなり。(原漢文、『定親全』4言行篇(1)、42頁)

を信頼するならば、「流罪以後」、すなわち建永2年(1207・10月に改元して承元元年)2月の流罪執行以後 (もしくは建暦元年(1211)11月17日の赦免以後)、罪名の「藤井善信」を止め、「愚禿親鸞」と自ら署名し始めたことになる。

ただし、現在確認される「愚禿親鸞」の使用例は、ごく初期のものとしては、寛喜2年(1230)、親鸞58歳時の『唯信鈔』書写本(専修寺蔵・信證本)の奥書、

草本に云(いわ)く、
承久三歳仲秋中旬第四日、安居院の法印聖覚の作。
寛喜二歳仲夏下旬第五日、彼の草本真筆をもって、愚禿釈の親鸞、これを書写す。
                            (原漢文、『定親全』6写伝篇(2)、71頁)

あるいは、文暦2年(1235)、63歳の時、この寛喜2年の写本をひらがなで転写した際の奥書(専修寺蔵『見聞集』『涅槃経』の紙背に現存)、

御年五十五なり。文暦二年乙未三月五日、御入滅なり。
本に云く、「承久三歳仲秋中旬第四日 以安居院法印聖覚 寛喜二歳仲夏下旬第五日以彼草本真筆書写之」。
文暦二歳乙未六月十九日、愚禿親鸞、これを書す。
                     (原漢文、『定親全』6写伝篇(2)「解説」、233頁)
などがある。
また、『教行信証』真蹟坂東本の最も古い執筆部分は63歳頃の筆跡と推定されており、そこには「愚禿釈親鸞」の撰号が記されている。

「禿」の字に関しては、『教行信証』「化身土巻(末)」掉尾のいわゆる「後序」に、

これに因(よ)って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流(おんる)に処す。
予(よ)はその一なり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに「禿」の字をもって姓とす。(原漢文、『定親全』1、380−1頁)
として、「承元の法難」による強制的な還俗とその後の流人生活を経てA獲得した「非僧非俗」の自覚に基づいて主体的に選び取った「姓」であることが親鸞自らの筆で記されている。

しかし、「親鸞」という名を選び取った経緯はどこにも記録されてはいないかに見える。

今回筆者が注目するのは、同じく「後序」が伝える選択付嘱・真影図画の記事、

元久乙(きのと)の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏(そか)中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画(ずえ)し奉る。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。
また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。……
しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。
これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴(しるし)なり。
仍(よ)って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註(しる)す。
                             (原漢文、『定親全』1、381―3頁)
に記される元久2年(1205)閏7月29日の改名の記録である。

この事件を、例えば『真宗新辞典』(法蔵館・1983)の「しんらん 親鸞」の項は、

翌年[筆者註・元久2年]選択集の附属をうけ、法然真影の図画を許された。このころ善信と改名。
と記している。

この記述が示すように、この元久2年の改名は「綽空」から「善信」への改名であり、それに対して「親鸞」は、越後流罪中のいつの時期からか名告り始められた名である、と一般的に考えられている。(以下、便宜上これを「善信」改名説と呼ぶ)

この「善信」改名説の嚆矢は、親鸞の曾孫覚如と考えられ、覚如はその著『拾遺古徳伝』巻6において「後序」の改名の記事を、

またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。
それよりこのかた善信と号すと。云々(『真聖全』3、731頁)

と解説し、息男存覚もまた、『六要鈔』巻6で、

「又依」等とは、太子の告げに依りて改名の子細、即ち初巻の撰号の解に載せ訖(お)わりぬ。
「令書名之字畢」とは、善信これなり。(、原漢文、『真聖全』2、206頁)

と父の説を継承し、以後諸師のほとんどがこれに順じている。

しかし、筆者は、この時の改名こそが「綽空」から「親鸞」への改名であり、親鸞はこの時をもって、師法然の印可のもと、「親鸞」と名告り始めたと考えるのである。(以下、「親鸞」改名説と呼ぶ)

確かに「後序」はこの改名が「親鸞」へのそれであると明記してはいない。
しかしまた「善信」だとも明記されていない。
夢告に依って「綽空」の名を捨て、法然の真筆をもって讃文とともに記されたこの「名の字」が、定説の通り「善信」だとするならば、なぜそれが明記されていないのか。
このことは筆者が初めて「後序」を眼にして以来の疑問であった。

そして、「善信」改名説を採るならば、「愚禿釈親鸞集」との撰号をもつ『教行信証』の、しかもその撰述の事由を語ったとされる「後序」に、「親鸞」と名告った時期やその経緯が一切記されていないことはきわめて不自然と言わねばならないはずである。
しかし、通説のもたらす先入観からであろうか、さしたる違和感も感じないまま、今日に至ったのである。

また、この先入観の形成に、文明開版本・三帖和讃の『正像末浄土和讃』の「愚禿善信集」、「皇太子聖徳奉讃」の「愚禿善信作」の撰号の存在も大きく影響したと思われる。

今回筆者は、「善信」説がもつ種々の矛盾点を検証し、「親鸞」説の妥当性、もしくは蓋然性を「後序」の文の検討を通して論証していきたい。


@赤松俊秀『人物叢書 親鸞』(吉川弘文館・1961)、重見一行『教行信証の研究』(法蔵館・1981)等参照。
A親鸞が「禿」を姓とした時期は、「後序」の文のこの箇所の構成―法然及び門弟が死罪・流罪に処せられた記事と流罪が5年に及んだという記事の間に改姓の記事が位置する―に拠れば流罪執行の直後(35歳)のようにも読める。
しかし、親鸞は同時にこの「禿」の字に「非僧非俗」の意味をも込めており、『歎異抄』『血脈文集』の「流罪記録」に拠れば、改姓を朝廷に奏上している。
このことから、「『禿』の字をもって姓とす」るとは、「非僧」―具体的には、赦免後も官僧・天台僧に復籍しないこと―を公式に表明(奏上)したことを意味することが知られる。
これに対して流罪直後に改姓を奏上したのであれば、それは単に罪人名としての「藤井」姓を拒否したに過ぎず、上述したような積極的な「非僧」の意味を読み取ることは困難だと思われる。
流罪中に「禿」姓を名のった可能性も完全には否定しきれないが、その場合でも、赦免時に再度奏請することが必要となる。
以上の理由から、当該箇所の「後序」の文はかならずしも時系列を表したものではない、と筆者は考えるのである。
なお、「禿」姓の名のりについての筆者の見解は続稿「「善信」と「親鸞」 ―元久2年の改名について―(下)をご参照いただきたい。



      1. 「善信」改名説の問題点

              ― 諱(いみな・実名)と字(あざな・仮名) ― 
 

         a. 「善信」は房号か?
 

「善信」改名説の最大の問題点は「善信」が房号であると考えられる点である。

この問題を検討するにはまず、日本中世の人名に関する慣習にふれなければならない。

当時、人名には諱(実名)と字(仮名)があり、僧においては房号が字として通用していた。

日常の会話の場において他者がその人を呼ぶ際には字(通称)で呼び、自らが自分を表わす際には諱・字両方を用いたが、諱は自らが名告る時のみに限られていた。※1
諱とは元来「忌み名」であり、死者を生前の本名・実名で呼ぶ際に用いた名であり、それゆえ生存中の相手を他人が口頭でその諱で呼ぶことは重大な禁忌(タブー)であった。B

例えば、親鸞は師法然房源空をその没後、「真宗興隆の大祖源空法師」(『教行信証』・原漢文)、「本師源空」(『高僧和讃』・和文)と記し、口頭では「法然聖人」(『歎異抄』)、あるいは「大師聖人」(『消息』等)と呼んでいたが、生前の法然その人に向って「源空聖人」と呼び掛けることはなかったはずである。

そして、法然は「沙門源空」(「七箇條起請」・原漢文)と署名し、「十悪の法然房・愚癡の法然房」(『和語燈録』)もしくは「源空」(『歎異抄』)と自らを称していたのである。

以上のことから知られるように、「善信」が房号であったならば、「善信」説を採ることは、法諱(実名)を改めて房号(仮名)を名告るという、きわめて不自然な主張をしていることになるのである。

それゆえ「善信」説を採る諸師には、その整合に苦心した跡が見うけられる。

存覚は『六要鈔』(延文5年・正平15年(1360)著)において、

この故に今「愚禿釈」等と云う。
「親鸞」というは、これはその諱なり。
俗姓は藤原。勘解の相公有国の卿の後、皇太后宮の大進有範の息男なり。
昔、山門青蓮の門跡に於いて、その名は範宴少納言の公、
後に真門黒谷の門下に入って、その名は綽空、仮実相兼ぬ。
しかるに聖徳太子の告命に依りて改めて善信とのたまう。
厳師諾あり。
これを仮号と為て後に実名を称す。
その実名とは今載する所の是れなり。(原漢文、『真聖全』2、440頁)
として、吉水入室の際に名告った「綽空」は「仮実相兼ぬ」―仮号かつ実名Cであり、聖徳太子の夢告によって法然の受諾のもと、仮名としての綽空のみを善信と改め、その後に実名としての綽空を親鸞と改めたと述べるのである。
(これによれば、親鸞は改名以後も「善信房綽空」と名告っていたことになる。)

また乗専の『最須敬重絵詞』(文和元年・正平7年(1352)、覚如没の翌年の編) 巻1においては、

六角堂に百日の参詣をいたしたまひて、ねがわくは有縁の要法をしめし、真の知識にあうことをえしめたまへと、丹誠を抽で祈り給うに、九十九日に満ずる夜の夢に、末代出離の要路念仏にはしかず、法然聖人いま苦海を度す、かの所に到りて要津を問うべきよし慥(たし)かに示現あり。
すなはち感涙をのごい、霊告に任せて吉水の禅室にのぞみ、……
干時、建仁元年辛酉聖人二十九歳、聖道を捨て浄土に帰し、雑行を閣(さしおき)て念仏を専らにし給ける始めなり。
すなわち所望によりて名字をあたえたまう。
その時は綽空とつけ給けるを、後に夢想の告ありける程に、聖人に申されて善信とあらため、又実名を親鸞と号し給き。
しかありしよりのち、或いは製作の『選択集』をさづけられ、或いは真影の図画をゆるされて殊に慇懃の恩誨にあづかり、あくまで巨細の指授をかうぶり給いけり。
                                        (『真聖全』3、822頁)

として、六角堂夢想・吉水入室(「綽空」と改名)の後に、再度の夢告によって、法然の承諾のもと、房号を「善信」と改めたと述べている。

建仁元年の六角堂夢想の後にもう一度夢告があり、しかもその時同時に実名を「親鸞」と改めた、というこの『敬重絵詞』の記述によれば、親鸞は流罪以前の吉水時代に「善信房親鸞」と名告っていたことになり、注目に値する。
しかし、『敬重絵詞』のこの記述にしたがえば、改名が選択付嘱・真影図画以前のこととなり、法然の受諾のもとで親鸞が実際に改名したのは元久2年の真影図画の折であるから、改名の契機となったもう一つの夢告の時期が選択付嘱の前であった可能性は残されてはいるものの、夢告の時期を「九十五日のあか月」(『恵信尼書簡』)ではなく「九十九日に満ずる夜」とした誤りともあわせて、この記事を100パーセント信頼することはできない。

この記事から想像できるのは、当時すでに吉水期の親鸞行実が正確に伝わっていなかったということであるが、吉水入室後の再度の夢告という記述はやはり注目に値すると思われるので、これらの問題については、後程詳しくふれることとする。

さて「善信」の名であるが、親鸞は終生「善信」の名を用いており、「善信」を捨てて「親鸞」を名告ったわけではない。

『歎異抄』「後序」が伝える吉水時代のいわゆる信心一異の諍論の記事によって、

「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(『定親全』4言行編(1)、34―5頁)

と、彼が「善信」と自称し、師法然を始め、勢観房・念仏房ら吉水の門侶もまた、

「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにてはあるべきぞ」(同上、35頁)
「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。
 善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。
 されば、ただひとつなり 。
 別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」(同上、35―6頁)

と、彼を「善信房」と呼んでいたことが知られる。

また、妻恵信尼が親鸞の死の直後、末娘覚信尼に宛てて関東時代の親鸞の行実を書き送った際に、常陸下妻で見た堂供養の夢を語る一段において、夢の中の登場人物が「善信の御房」と呼び、寛喜の内省を語る一段において恵信尼自身が同じ呼称を用いている。(以上、『恵信尼書簡』参照)

これらの事実からだけでも「善信」が諱(忌み名)ではあり得なかったことが知られる。

また、帰洛後、親鸞が関東に送った消息の中でもしばしば自身を「善信」と呼び、文応元年(1260)の乗信房宛の書簡(『末灯鈔』第6通)では、文中で

まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず……(『定親全』3書簡篇、75頁) 

と名告り、末尾に、

 文応元年十一月十三日 善信八十八歳
乗信御房                                  (同上、76頁)                       

と署名している。

そして、正確な年次は不明ながら、最晩年の遺言状とも想定される、常陸の門弟宛に「いまごぜん(今御前)のはは(母)」の扶養を依頼した書簡においても、

 十一月十二日   ぜんしん(花押)
ひたちの人々の御中へ                          (同上、34頁)

と署名している。

このように親鸞は、吉水期から最晩年にわたって「善信」の名を用いているが、それと並行して「親鸞」の名も用いている。

前に挙げた60歳前後の『唯信鈔』書写本・奥書における使用に始まり、帰洛後の教化の具体的言説を伝える『歎異抄』が、

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(第二章、『定親全』4言行編(1)、5頁)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
                                     (第五章、同上、8頁)

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。(第六章、同上)

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(後序 、同上、37頁)

と、日常会話において用いられた「親鸞」の名告りを伝えているDし、帰洛後の消息にも文中・署名を問わず「親鸞」の名が用いられている。

そして、最後の著作とされる『弥陀如来名号徳』にいたるまでそれは継続する。

長野・正行寺蔵本の『弥陀如来名号徳』の奥書、

草本に云く、
   文応元年庚申十二月二日、これを書写す。
                 愚禿親鸞八十八歳、書き了(おわ)りぬ。
                                   (『定親全』3和文篇、233頁)

に拠れば、この『弥陀如来名号徳』は、前に挙げた乗信房宛書簡(文応元年11月13日の日付・「善信」と署名)とほぼ同時期に記されており、「善信」・「親鸞」いずれもが諱であるとすると、二つの諱を同時期に用いていることにな り、きわめて不自然なことと言わねばならない。
(この他にも、建長4年(1252・推定)の書簡(『親鸞聖人御消息集(広本)』第4通)には文中に「善信」、末尾の署名に「親鸞」。康元元年(1256)10月書写の『西方指南抄』巻中末の本文中に「善信」、奥書に「愚禿親鸞」といった「善信」「親鸞」同時併記の実例が見られる。)

余談ではあるが、「善信」改名説を採られる諸論考の中で、この点について明確な説明がなされたものを、筆者は寡聞にして知らない。
むしろ、あえて「無視」「沈黙」しておられるのではないかという印象すら感じるのである。

しかしこれらの事実は、「善信」を房号と考えれば、何の矛盾も生じないのである。

この、いわゆる“「善信」イコ―ル房号”説は、前掲の『六要鈔』、『最須敬重絵詞』にも見られるように、決して目新しいものではない。
何より「善信」改名説の嚆矢である覚如自身が、前掲の『拾遺古徳伝』巻6(正安3年(1301)著)の元久2年の改名について、

またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。
それよりこのかた善信と号すと。云々(『真聖全』3、731頁)

として「善信と号す」(「善信と名のる」ではないことに注目)と記し、善信が房号であることを示唆している。
(ちなみに『報恩講私記』(永仁2年(1294)著)において覚如は、

皆是夢中(ゆめのうち)に告(つげ)を得、幻の前に瑞(ずい)を視し故なり。
況(いわん)や自ら名のりて親鸞と曰(のたま)う、
                           (原漢文、『定親全』4言行編(2)、153頁)

として実名「親鸞」に対しては「名のる」と記している。)

また、巻7の「承元の法難」の記事において、

流罪のひとびと、…善信房親鸞 越後のくに国府 罪名藤井の善信
                                    (『真聖全』3、737頁)

として、「善信」を明らかに房号であると記しているのである。

そしてこの『拾遺古徳伝』の記事からは、親鸞が承元の法難以前にすでに「善信房親鸞」と名告っていた可能性さえ窺われるのである。

しかし、結論を急ぐ前に、ここでは「善信」を房号と考える上での否定的な材料を挙げて検討を加えてみたい。

その一つが「愚禿善信」の用例であるが、論文冒頭で挙げた文明5年(1473)の蓮如開版本・三帖和讃の撰号の他に、大谷大学蔵端の坊旧蔵本『一念多念分別事』(室町末期の写本)の奥書、

本に云く、
   建長七歳乙卯四月廿三日
               愚禿釈善信八十三歳、これを書写す。
                           (原漢文、『定親全』6写伝篇(2)、80頁)

に見ることができる。

これらの用例は「善信」が房号ならば、本来考えられない名告りである。

しかし、文明本・三帖和讃にせよ、端の坊旧蔵本にせよ、親鸞在世当時の記述をはたして忠実に伝えているかははなはだ疑問と言わなければならない。

これらの室町期の諸本の存在からはむしろ、「愚禿(釈)善信」の用例は、「善信」改名説が定着して「善信」が房号であることが見失われた後に、写伝の過程で混入したものであると想像されるのである。E

また、『西方指南抄』巻中末所収の「七箇條制誡(七箇條起請)」末尾には、

元久元年十一月七日      沙門源空
           信空 感聖 尊西 証空 源智……
           善信 行空         已上
                   已上二百余人連署了
                                (『定親全』5転録篇、170−1頁)

との「善信」の署名が見られる。

漢文による公文書である「起請文」に署名する際は、※2法然を始め門弟の多くは諱を記しており、嵯峨・二尊院に伝わる原本に拠れば、親鸞はその折11月8日に「僧綽空」と、当時の諱で署名している。

ちなみに『西方指南抄』巻中末の奥書は、

  康元元年丙辰十月十四日
               愚禿親鸞八十四歳、これを書写す。
                                   (原漢文、同上、218頁)

と、『西方指南抄』執筆時の諱「親鸞」を用いているから、本文と奥書との統一性、あるいはまた他の門弟の署名との統一性を考えるならば、「善信」ではなく「親鸞」と書いた方が妥当であるにもかかわらず、ここでは「善信」と記しているのである。
このことはどう考えるべきであろうか。

事実、この一例のみをもって「善信」が実名である、この記述が「綽空」を「善信」に改めた唯一の証拠である、と主張する研究者も存在する。F
しかし、それならばなぜ親鸞は翌元久2年(1205)以降の諱―つまり、元久元年(1204)の「七箇條起請」署名時には用いていなかった諱―である「善信」をあえて記したのであろうか。
より正確を期するのであれば当然「起請文」署名時の諱である「綽空」を書くべきではないだろうか。

筆者はむしろ、この「善信」の記名が、元久元年の時点で、親鸞がすでに「善信」の房号を用いていたことの証左となるのではないかと考える。

『西方指南抄』は、康元元年(1256)から書写が進められ、翌康元2年正月2日に6巻全ての書写・校合が終了するが、※3直後より高弟真仏による書写が進められ、書写後は覚信に付属された。(親鸞自筆本、真仏書写本、いずれも現在まで専修寺に伝来されている。)
このことから、『西方指南鈔』はその編集・書写の途上から高田門徒への付嘱を意図して執筆されていたことが想像できる。

吉水期の「善信」と流罪(赦免)以降の「親鸞」という2つの名を併記する『歎異抄』の例から見ても、当時、関東教団内においては、「善信」と「親鸞」が同一人物であることは周知の事実であった。
彼らの間には「善信」イコ―ル「親鸞」という共通理解があったと考えられる。

しかし、「綽空」イコ―ル「親鸞」という共通理解が―『教行信証』の付嘱を受けた性信・蓮位・専信・真仏らの一部の高弟を除き―彼らにあったとは考え難い。

そういった事情からすれば、吉水時代の一時期にのみ名告った諱「綽空」では誰のことなのかが伝わらない。
ましてや「起請文」に署名した当時、諱が「親鸞」であろうはずもない。
それゆえ元久元年(32歳)当時すでに用い、現在(84歳)も使用している、連続性のある房号「善信」をあえて記載したのではないか、と筆者は推測するのである。

以上、「善信」が房号であることの論証に紙数を費やしてきたが、次いで「善信」改名説の発端について検証していきたい。



※1『親鸞教学』に本稿を発表した際には、この後に「しかし、文章に表記する際はその限りではなく、殊に公文書の性格をもつ漢文体においては自称他称にかかわらず諱が用いられることが常であった。/いずれにせよ、」という一文があったが、その後「漢文体の公文書」における字(房号・阿弥陀仏号)による呼称(他称)例を発見したので、文意を撤回し削除した。
B『日本国語大辞典』(小学館・1973)「いみ‐な」の項参照。
C平松令三氏によれば、「仮実相兼ぬ」というような例は当時なく、『六要鈔』の記事は信頼できないとされている。(『歴史文化ライブラリー 親鸞』(吉川弘文館・1998) 126頁参照)
D『歎異抄』の成立は親鸞没後27年(正応元(1288)年)頃と推定されるから、実際の対話の場では「親鸞」ではなく、「善信におきては…」と、「善信」の名が用いられていた可能性も否定できない。
E正和年間(1312〜7)頃に天台宗長泉寺別当の孤山隠士が記したとされる「愚闇記」(または「愚暗記」・『真宗史料集成』4所収)には、

当世一向念仏して在家の男女を集め、愚禿善信と云う流人の作したる和讃を謡い、長じて同音に念仏を唱うる事有り……

として「愚禿善信」の用例があり、当時この呼称が−少なくとも越前においては−広く用いられていたことが窺われる。
F井上円『「名之字」考』(『新潟親鸞学会紀要 第4集』(2007)91―2頁)
※2本稿発表時は、以下「法然を始め門弟はみな諱を記して」であったが、その後、二尊院蔵「七箇條制誡(七箇條起請)」(原本)を読み、諱ではなく字(阿弥陀仏号)による署名を多数確認したため、「門弟の多くは諱を」に訂正した。
※3本稿発表時には「高田専修寺伝来の門弟書写本は覚信書写である」とする旧来の定説(『真宗年表』等)に基づき、以下「即座に門弟覚信による書写が開始され、親鸞自筆本もまた高弟真仏に付嘱され、現在まで専修寺に伝来している。(このことから、)」と記していたが、近年「門弟書写本は真仏が書写した覚信所持本である」との見解が主流となっており(『影印高田古典』第4巻(真宗高田派教学院・2002)「解説」、『親鸞聖人行実』(東本願寺・2008))、それに基づき文面を差し替えた。「『善信』の記述は高田門徒への付嘱を念頭においてなされた」という論旨そのものに変更はない。


         b. 覚如の「善信」改名説の問題点


前述したように「善信」改名説の嚆矢としては覚如が考えられるが、筆者には親鸞がいつから「善信」と号し、いつから「親鸞」と名告ったのか、そしてその契機となった夢告がいつの、どのような内容であったのか、覚如当時、すでに不明確になっていたように思える。
前に挙げた『敬重絵詞』の記事にも見られるように、当時は、吉水期の親鸞の行実に関しては、正確な事実経過が伝わっていなかったように思われるのである。

覚如が初めて「善信」説を提唱した『拾遺古徳伝』は、正安3年(1301)、覚如32歳の時に制作されているが、それより以前の永仁3年(1295)、26歳の年の10月中旬、覚如は初めて『親鸞伝絵』を制作している。

『伝絵』はその後、覚如自身の手によって改訂が繰り返されていくが、最も初期の形態を伝えると言われるものは、永仁3年10月製作の奥書をもつ『善信聖人絵』(西本願寺蔵・琳阿本)と、初稿本を同年12月中旬に書写したとの奥書をもつ『善信聖人親鸞伝絵』(専修寺本)である。

それらは、親鸞の吉水入室をそれぞれ

「建仁第一乃暦春の比 上人二十九歳」(西本願寺本)
                                (『定親全』4言行編(2)、102頁)
「建仁第三の暦春のころ 聖人廿九歳」(専修寺本 )             (同上、55頁)

とし、六角堂夢想をそれぞれ 

「建仁三年癸亥四月五日夜寅時」(西本願寺本)             (同上、104頁)
「建仁三年辛酉四月五日夜寅時」(専修寺本)               (同上、57頁)

として、六角堂夢想をいずれも建仁3年(1203)の出来事(但し専修寺本の干支「辛酉」は誤りで「癸亥」が正確)としている。

ちなみに康永2年(1343・覚如74歳)の製作である『本願寺聖人伝絵』(東本願寺蔵・康永本)は吉水入室を

「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳」(同上、5頁)

と、六角堂夢想を

「建仁三年辛酉四月五日夜寅時」(同上、6頁)

としている。

専修寺本、西本願寺本、康永本の詞書はいずれも覚如の直筆であって、これらの年次の誤りの原因について先学は種々論議されているGが、今回の論考ではその問題にはふれない。

ただ、『伝絵』のこれらの記述から筆者は、『伝絵』制作当時覚如は、親鸞が建仁3年4月の六角堂での夢告によって2年後の元久2年閏7月に「善信」と改名した、と考えていたのではないかと推測するのである。
(専修寺本・康永本の干支の誤りこそあれ、六角堂夢告を建仁3年4月の出来事とすることは三本に共通している。)

赤松俊秀氏によれば、彼の『恵信尼書簡』を初めて見たのは父覚恵が没した徳治2年(1307)、すなわち『伝絵』制作の12年後、38歳の時であり、それゆえ初稿本制作当時の覚如には、『恵信尼書簡』が伝える、親鸞が六角堂の夢告に促されて法然を尋ねたという歴史的事実の認識がなかったとされる。H

それゆえ前掲の『古徳伝』(覚如32歳時の制作)の吉水入室(ただし「建仁元年(辛酉)春」の出来事とする)の記事にも六角堂夢想の記述はない。

覚如は『伝絵』六角堂夢想の段に「彼の『記』にいわく」として、専修寺蔵・真仏書写の『親鸞夢記』を引用している。

『夢記』によれば、

親鸞夢記に云く、
六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白納の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信に告命して言く。  

行者宿報にて設い女犯すとも 我玉女の身成りて犯せられん
一生の間能く荘厳して 臨終に引導して極楽に生ぜしむ 

救世菩薩この文を誦して言く この文は吾が誓願なり。
一切群生に説き聞かすべしと告命したまえり。
この告命によりて数千万の有情にこれを聞かしむと覚えて夢悟め了わりぬ。
                               (原漢文、『 定親全』4、201〜2頁)

とあり、親鸞はここで太子の本地である六角堂の救世観音によって「善信」と呼び掛けられ、宿世の業報によって「女犯」する「行者」(親鸞)に妻として一生同伴し、よく往生浄土の仏道を歩ましむるという「吾が誓願」を伝えられている。

『恵信尼書簡』によれば、六角堂参篭95日目の「暁」(午前2〜4時頃)、聖徳太子の示現にあずかった親鸞は、「後世(ごせ)の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて」(『恵信尼書簡』)、

現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりとよろずをいといすてて、これをとどむべし。
いわく、ひじりで申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。……
これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。(『和語燈録』巻5、『真聖全』4、683〜4頁)

と、「女犯」(妻帯)が念仏往生の妨げとならないことを説く法然と値遇する。

このことから筆者は、このいわゆる「女犯偈」こそが「九十五日のあかつき(暁)の御じげん(示現)のもん(文)」(『恵信尼書簡』)であったと考えるIが、覚如はこの「女犯偈」が太子の「示現の文」であったことどころか、「示現の文」自体が何であったかを終生知らなかった可能性さえあるのである。

平松令三氏は、覚如が『恵信尼書簡』を初めて見た時点ですでに「六角堂夢想偈文」が欠失していた可能性を指摘されておりJ、それによれば38歳以降の覚如には親鸞の吉水入室が六角堂での夢告を契機としてなされたという認識はあっても、その夢告が「女犯偈」であったという認識は終生なかったことになる。

それゆえ覚如は『伝絵』において「女犯偈」を、吉水入室の契機として説くことはなく、あくまで東国伝道、念仏繁昌の予言と見ているのである。K(前掲の『最須敬重絵詞』の“二度の夢告”の記述は、おそらく覚如のこのような親鸞伝理解を承けてのものではなかろうか、と思われる。)

覚如が「善信」説を立てる際の典拠となったものは、元久2年の夢告による改名を伝える「後序」の記事と、前掲の真仏書写『夢記』であろう。(ちなみに『夢記』には夢告の時期は記されていない)

そこで、ここからは筆者の推測なのであるが、親鸞の吉水期の行実が正確に伝わっていなかった当時、親鸞がある夢告によって、あるいは六角堂での夢告によって「善信」と改名した(ただし夢告の時期は不明)といった伝承、あるいは建仁3年4月に何らかの夢告があった(ただし夢告があったという事実のみが伝わって、「綽空」に「親鸞」への改名を促したようなその内容までは伝わらなかった)といった伝承が存在したのではないだろうか。※4
それらの伝承によって、覚如は元久2年の改名の契機となった夢告を建仁3年の六角堂での「女犯偈」に措定したのではないだろうか。

しかし、歴史的事実としての六角堂夢想は吉水入室の直前、建仁元年の出来事であり、したがってそれから4年後の元久2年の改名を考える場合、改名の契機となった夢告は、それとは別の夢告、吉水入室以後のそれを想定すべきではないだろうか。※5

また、親鸞が「善信」と号し始めた時期も、もっと早い時期、まさに官僧から遁世して吉水に入室したその時からと考えるべきではないだろうか。
吉水入室の時以来、親鸞は、妻となって終生同伴すると誓い、法然のもとへ誘った太子の「護持養育」(「皇太子聖徳奉讃」)の恩徳と、妻帯(破戒)によって妨げられることのない仏道(=法然の専修念仏)を「一切群生に説き聞かしむべし」との「告命」とを憶念して、「善信」の号を終生用い続けたのではなかろうか。L

そして、吉水期の親鸞の諱「綽空」は、伝説によれば法然から与えられた名であると言われている。平安・鎌倉期は、父子・兄弟が名前に一字を共有する通字・系字の慣習が僧侶間でも一般的でありM、「綽空」の「空」は、当然「源空」のそれから採られたものと考えられる。

親鸞は太子・法然という、まさしく観音・勢至二菩薩の化身の引導によって、吉水入室を機に「善信房綽空」と名告ったことが想像できるのである。

以上の考察を通して、「善信」改名説はほぼ論破し得たように思うので、続いて「親鸞」改名説の検討に移ることとする。


註G論争の経過については平松令三・前掲書75―85頁参照。
H赤松俊秀・前掲書41―2頁参照。
I筆者は親鸞の六角堂参籠について次のように考える。

山を出(い)でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世(ごせ)を祈らせ給いけるに、(『定親全』3書簡篇、187頁)

と伝える『恵信尼書簡』によれば、親鸞は20年間に及ぶ比叡山での修学に破れ、疲れ果てて、「いずれの行もおよびがたき身」、「いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざる」「煩悩具足」(以上、『歎異抄』)の自己、「断惑証理」の聖道門仏教における「失格」者としての自身への深い絶望感の中で「後世を祈」り続けたと言う。
おそらくそれは単なる死への恐怖、もしくは三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕することへの怯えではなく、むしろ順次生においてもなお仏道を求め続けたいという「菩提心」の発露であったと思われる。
そしてその絶望感は、95日に及ぶ参籠の中でやがて、かつて師法然が、

およそ仏教おおしといえども、詮ずるところ戒・定・慧の三学をばすぎず、……
ここにわがごときは、すでに三学のうつわ物にあらず、この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。わが身にたえたる修行やあると、よろずの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらいしに、おしうる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあいだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかいて、てづから身ずからひらきて見しに、……
     (『和語灯録』巻5、『真聖全』4、679―80頁)

と語った「三学のほか」の「法門・修行」を求めての模索、「断惑証理」に替わる新しい人生(仏道修行)の指針を求めた模索―法然の場合は黒谷報恩蔵における一切経披閲であったわけであるが―となり、最終的には、親鸞自身に法然のもとを尋ねるべきか否かという具体的決断を迫るものへと変化していったと思われる。
法然は安元元年(1175、法然43歳・親鸞3歳)よりすでに20年以上も吉水において専修念仏の伝道を続けており、その間大原問答(文治2年・1186)・東大寺三部経講説(建久元年・1190)等も行われている。その教説は当然叡山修学中の親鸞の耳にも届いていたはずである。
聖道の修行に躓いてなおその「断惑証理」という基本理念に囚われ、「破戒(女犯)は往生の妨げとはならない」と説く法然を尋ねるか否かの逡巡の中にあった親鸞を最終的に発遣したものが「行者宿報設女犯……臨終引導生極楽」の偈文ではなかったか、と筆者は考えるのである。
J平松令三・前掲書94―5頁参照。
K松野純孝氏は「インタビュー 越後・関東時代の親鸞と恵信尼」(『真宗』2004年6月号)において、「『伝絵』『六要鈔』『最須敬重絵詞』等に拠れば、親鸞は、建仁3年4月の夢告(「女犯偈」)によって「善信」と改名したのであり、吉水入室の契機となった建仁元年の夢告の文はまだ発見されていない」という見解を示しておられる。
※4覚如が六角堂夢告を建仁3年の出来事と考えた原因について、筆者は現在、覚如が『親鸞夢記』を見た当時の関東に「『夢告』は「建仁3年4月5日寅の刻」の出来事であり、東国伝道の予言である」とする伝承(もしくは文書)が存在したのではないか、と考えている。
※5親鸞に改名を促した「夢告」を筆者は現在、建仁元年の六角堂での「女犯偈」と考えている。(「「六角堂夢告」考(下)」参照。)
L真仏書写『親鸞夢記』には「善信に告命して言わく」とあるから、六角堂夢想以前にすでに「善信」の房号を名告っていた可能性も考えられる。 (その場合は「善信房範宴」の名告りか?)
なお専修寺には、建長2年(1250)に親鸞が覚信尼に宛てた文書の体裁をとった『親鸞夢記』、いわゆる『三夢記(建長二年文書)』が存在し、それには建久2年(1191)、親鸞19歳時の磯長太子廟での夢告、

親鸞夢記云
建久二歳辛亥暮秋仲旬第四日の夜 聖徳太子善信に告勅して言く。
 我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
 諦聴諦聴我教令 汝命根当十余歳
 命終速入清浄土 善信善信真菩薩……
干時建長第二康戌四月五日
                 愚禿釈親鸞七十八歳
                            
書之
              釈覚信尼、

が記されている。
この夢告が歴史的事実だとすれば、「善信」と号し始めた時期がその頃である可能性もないわけではない。
また、古田武彦氏は『親鸞思想―その史料批判』(1975・冨山房)においてこの夢告の信憑性を主張され、「親鸞は建久2年の太子廟夢告によって元久2年に「善信」と改名した」としておられる。
この点(『三夢記(建長二年文書)』の真偽)について本稿発表時には「見解を留保」していたが、その後、山田雅教氏の論考(「伝親鸞作『三夢記』の真偽について」(『高田学報』 75・1986)、「再論 伝親鸞作「三夢記」の真偽について」(『高田学報』92・2004))を眼にし、古田氏の論拠(「ニ」の畳用、親鸞の「釈」の十年等)は否定されたと考えるにいたった。
現在、筆者は建久2年の太子廟夢告を歴史的事実であるとは考えていないし、その理由についても拙稿「「三夢記」考」(『宗教研究』366・ 2010)において詳述している。
M『日本史大事典』(平凡社・1993)「名 な」の項参照。
 

略号
『定親全』……『定本親鸞聖人全集』(法蔵館)
『真聖全』……『真宗聖教全書』(大八木書店)


(『親鸞教学』第75号(大谷大学真宗学会・2000)に掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に、また旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。


〔追 記〕
本稿の執筆にあたっては、平松令三氏『歴史文化ライブラリー 親鸞』(吉川弘文館・1998)に多大な教示を頂いた。殊に建仁元年の六角堂夢想以外のもう一つの夢告の存在の示唆には強く勇気づけられた。
また、本稿執筆終了(1999年4月)後、本多弘之氏の教示(『新講 教行信証 ―総序の巻』(草光舎・2003)他)により、真木由香子氏『親鸞とパウロ ―異質の信』(教文館・1988)の論考の存在を知った。本稿との論旨のあまりの重複ぶりに驚くとともに、「善信」房号説の先駆としての氏の慧眼に対してここであらためて賛意を示したい。(2008年3月13日記)
 

「「善信」と「親鸞」 ―元久2年の改名について―(下)につづく〕

 


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