日本宗教学会『宗教研究』第366号(第84巻第3輯)掲載(2010年12月) | |
「三夢記」考 豅 弘 信
親鸞夢記に云わくこの文書に記された三つの夢告―建久2年(1191・親鸞19歳)9月14日の磯長聖徳太子廟夢告、正治2年(1200・28歳)12月28日の無動寺大乗院夢告、そして建仁元年(1201・29歳)4月5日の六角堂夢告のうち、第三の六角堂夢告は、専修寺蔵の真仏『経釈文聞書』に、
と記され、同じ真仏筆の「六角堂夢想偈文」(断簡)が、これも専修寺に伝来していることから、年時の問題はあるが、史実を反映したものと考えて差し支えはない。 しかし、その他二つの夢告は、室町末期の成立と思われる伝存覚作『親鸞聖人正明伝』(2)、江戸中期の五天良空作『高田開山親鸞聖人正統伝』といった後代のいわゆる談義本系親鸞伝に初めて登場し、覚如の『親鸞聖人伝絵』や荒木門徒系の『親鸞聖人御因縁』といった初期の親鸞伝には登場していない。 またこの「建長二年文書(「三夢記」)」も史料の形態自体、干支が斜め書きであるなど江戸期成立の特徴を示しており、内容・形態からして後代の偽作文書と見なされてきた。しかし、古田武彦が『親鸞思想――その史料批判』(冨山房、1975年)等において親鸞の真作であると主張し、以後真作説が俄然有力となったという経緯がある。 古田はまた、夢告の文中に「善信」の名が含まれることなどから、建久2年の太子廟夢告が、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)「後序」にと記された元久2年(1205)閏7月29日の「綽空」から「善信」への改名を促した「根本夢告」であるとしている。 この元久2年の改名は従来「善信」への改名であり、改名を促した夢告は、建久2年の太子廟夢告もしくは建仁元年(あるいは建仁3年)の六角堂夢告であると理解されてきた。 これに対して筆者は、元久2年の改名は「善信」へのそれではなく「親鸞」への改名であると考え、種々論考を発表してきた。(4) 「建長二年文書(「三夢記」)」が偽作文書であれば当然太子廟夢告の史実性も疑わざるを得ないものとなり、従来の通説はその論拠の一つを失うこととなる。
1. 古田説をめぐる論争
第二は、文末の自署名が「愚禿釈親鸞」とあり、「釈」の字を含んだ署名の形式は親鸞74歳から83歳までの10年間(釈の十年)の「寛元四歳」(74歳)書写『自力他力事』の「愚禿釈親鸞」、「宝治第二」(76歳)制作『浄土高僧和讃』の「釈親鸞」、「建長三歳」(79歳)の専修寺蔵古写書簡「有念無念」の「釈親鸞」、「建長七歳」(83歳)書写『一念多念分別事』の「愚禿釈善信」の四例に限られており、建長2年(78歳)はまさにその間に当たる。 第三は制作年時の「建長第二」の表記が「宝治第二」の年時表記を持つ『高僧和讃』(76歳)と近接しており、親鸞の70歳代後半に特有の用法である。この古田の 「建長二年文書(「三夢記」)」真作説に対しては赤松俊秀が早く『本願寺聖人伝絵 序説』(真宗大谷派出版部、1973年)で反論し、近年では山田雅教が「伝親鸞作「三夢記」の真偽について」(『高田学報』75、1986年)、「再論 伝親鸞作「三夢記」の真偽について」(同、92、2004年)において批判の筆を執っている。 これらに対して古田は『親鸞思想』の「あとがきに代えて――赤松俊秀氏に答える」、「新・親鸞の史料批判――建長二年文書(「三夢記」)の信憑性に関し、山田論文に答える」(以上、『古田武彦著作集』 2(明石書店、2003年)所収)でそれぞれ反論を展開している。 その論争の逐一を挙げることはしないが、筆者なりの古田説への疑問点を挙げれば、第一の点に関して言えば、赤松が早くに指摘したように当該箇所には送り仮名がなく(5)、また、山田の指摘に拠れば江戸期の漢文であれば「睿南無動寺ノ大乗院ニ在テ」と読むことが可能であり(6)、「ニの畳用」とは断定できないと考えられる。 第二の点に関して言えば、『親鸞思想』所載の〈親鸞の自署名と年時様式〉一覧には、以下のような、「釈の十年」から逸脱した「釈」の使用例が載っていない。親鸞の真蹟に関して言えば、まず60歳頃の執筆と推定される『教行信証』真蹟坂東本の撰号「愚禿釈親鸞集」、及び本文中の「愚禿釈の親鸞」(「総序」「別序」)「愚禿釈の鸞」(「後序」)等の用例がある。(7) 次に寛喜2年(58歳)書写との奥書を持つ真蹟本『唯信鈔』(専修寺蔵)の「愚禿釈親鸞」の用例を古田は小川貫弐の「80歳代の執筆」説に従い一覧から除外しているが、平松令三はこの『唯信鈔』を、寛喜2年の書写本を康元2年(85歳)に再写し、 1月27日書写の『唯信鈔文意』(真蹟・専修寺蔵)と併せて信証に与えたものと推定しており(8)、どちらの年時を採っても「釈の十年」には該当しない。(真蹟ではこの他にも、正嘉 2年(86歳)撰述の『尊号真像銘文(広本)』に「和朝愚禿釈親鸞『正信偈』文」の記述があるが、古田は「《過去の一時点に書かれた正信偈銘文の表題》の転記」であり、「年時記載は存在しない」ので「〈年時記載つき署名の統計〉には、当然入っていない」としている。) 真蹟本以外でも、仁治2年(69歳)書写の『唯信鈔』(大谷大学蔵)奥書の「愚禿釈親鸞」、建長8年(84歳)真仏書写の『入出二門偈頌』(専修寺蔵・旧法雲寺蔵)撰号の「愚禿釈親鸞作」の用例がある。 また、74歳から83歳までの「釈の十年」の間にも、古田の〈親鸞の自署名と年時様式〉一覧の四例以外に、以下のような「釈」の使用例がある。 宝治2年(76歳)制作の『浄土和讃』には「讃阿弥陀仏偈和讃」末尾の「已上四十八首 愚禿釈親鸞作」、「現世利益和讃」末尾の「已上弥陀一百八首 釈親鸞作」の記述があるが、古田は「『浄土和讃』が『浄土高僧和讃』と一連のもの」であり、「「宝治第二、七十六歳」時点(もしくはそれ以前)の執筆と見なされ」るとして一覧から除外している。従来「模本」とされてきたが近年親鸞真蹟と認められた(9)真宗大谷派蔵「安城御影」の讃文(建長7年・83歳)にも「和朝釈親鸞法師『正信偈』曰」とある。 また、真蹟本ではないが寛元4年(74歳)書写本『唯信鈔』(専修寺蔵)奥書の「愚禿釈親鸞」(10)、建長6年(82歳)書写本『唯信鈔』(滋賀県真念寺蔵)奥書の「釈親鸞」、あるいは建長7年(83歳)書写本『浄土文類聚鈔』(真宗大谷派蔵)奥書の「愚禿釈親鸞」などが古田の一覧には載っていない。(11) また、親鸞は同じ文書中でさえ「釈」のある記名とない記名とを併用しており、宝治2年制作の『浄土和讃』、『高僧和讃』(奥書に「釈親鸞作」の記名あり)にはそれぞれ「讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作」「浄土和讃 愚禿親鸞作」、「浄土高僧和讃 愚禿親鸞作」といった撰号が、前掲の真宗大谷派蔵「安城御影」讃文には「和朝釈親鸞法師『正信偈』曰」の記述と「愚禿親鸞」の署名が、『尊号真像銘文(広本)』では文中の「和朝愚禿釈親鸞『正信偈』文」の記述に対し「愚禿親鸞」の奥書がある。 また、末尾に「釈親鸞」の署名のある建長3年閏9月20日付の古写書簡「有念無念」の冒頭には「愚禿親鸞曰」とあり、同日付同一文面の『末灯鈔』第一通末尾の署名は「愚禿親鸞」となっている。 これらの事例から見ても、「釈」の有無に親鸞が特別な意味を見ていたとは考えにくく、古田の主張する「釈の十年」はその想定自体が成り立ち得ないものである、と筆者は考えざるを得ない。 第三の「建長第二」という年時表記に関しても、すでに山田が指摘している通り、28歳時点の記録である大乗院夢告の記事にも「正治第二」の記述があり、この表記が70歳代後半特有のものとは思われない。 また、『高僧和讃』の奥書は、
であり、その年時記載は古田が指摘するような「宝治第二」ではなく、「宝治第二(干支)歳」と考えるべきであって、 「建長二年文書(「三夢記」)」の「建長第二(干支)」と同一の表記様式であるとは言えないのではなかろうか。(13) これらの問題点についてはすでに種々指摘がなされており、古田も反論を加えているが、その反論が必ずしも的を射てはいない、というのが筆者の偽らざる印象である。ただし、今回、筆者が着目するのは
「建長二年文書(「三夢記」)」の文面ではなく、
本論序章でもふれたように、これが建長2年に覚信尼に与えられたという点についてである。 【注】(5)赤松俊秀、前掲書、39頁。
「建長二年文書(「三夢記」)」はその末尾に「釈覚信尼へ」という宛名が記されている。 また、「建長二年文書(「三夢記」)」の下段に親鸞の「書簡」が表装されており、それには、
と「かくしんへ」の宛名が記されている。 この「書簡」によれば、建長2年4月5日に書かれた「いにしえの夢の御文」(「建長二年文書(「三夢記」)」)は、同じく親鸞直筆の「四十八の御願文」ともども、「かたみ」として、同日書かれたこの「書簡」を添えて覚信尼に送られたことになる。 この「書簡」の文面に関して山田は、「いきて候えば、また対面候いて」と、親鸞と覚信尼が遠方で離れ離れに暮らしているような書きぶりであるが、当時覚信尼は京都在住だったと思われ、「対面」は容易のはずであり、また、「かたみ」とか「いきて候えば」といった表現も、親鸞自身この年10月に『唯信鈔文意』を完成しており 、健康面に不安があったとも思われないことから、当時の親鸞・覚信尼の置かれていた実情とそぐわない、と疑問を呈している。 この点は筆者も同感であるが、ここではまず建長2年当時、覚信尼がすでに「覚信(尼)」という法名を名のっていたのかについて考えてみたい。 親鸞・恵信尼夫妻の末娘覚信尼は元仁元年(1224)の誕生であり、「文書」が与えられたとされる建長2年(1250)当時は27歳である。 古田は、寛元3年(1245・覚信尼22歳)に夫日野広綱が亡くなり、その後小野宮禅念と再婚して建長5年(1253・30歳)に唯善が生まれているので、当時彼女は寡婦であり、この時期すでに「覚信尼」という法名を自称していたとしている。『親鸞思想』所載の「略年表」には、
とあり、古田が玄智(1734ー1794)の『大谷本願寺通紀』に拠って論を展開していることが知れる。 『本願寺通紀』巻五に拠れば、覚信尼――俗名弥女(いやおんな)は貞応元年(1222、実際は元仁元年)に生まれ、堀川忠親、次いで久我通光に仕えた後、日野広綱と結婚、覚恵・光玉を産み、寛元
3年広綱と死別した。 (しかし、西本願寺には弘安6年(1283)11月24日付の「ゐ中の人々の御中へ」宛の「置文」の案文(「覚信尼最後条案」)が蔵されており、実際にはその直後の60歳での死去と推定される。) また、長子覚恵について『通紀』は、延応元年(1239)に生まれ、寛元3年7歳で父広綱を、弘安4年43歳で母覚信尼を喪い、徳治2年(1307) 4月12日に69歳で亡くなったと記している。(15) 『常楽台主老衲一期記(存覚一期記)』の記述(16)から、覚恵の死が徳治2年4月12日であることは確実であるが、例えば『最須敬重絵詞』巻六には、
とあり、仮に正安元年(1299)を50歳とすれば建長2年(1250)の誕生となる。 このように諸史料の記述は一致せず、現在覚恵の誕生年時、広綱の生没年時は不明とされている。 また、『通紀』では建長5年の誕生とされる唯善(18)であるが、文永5年(1268)3月12日付の『恵信尼書簡』第十通にとあり、実際には文永3年(1266・覚信尼43歳)の誕生である。 また、弘安3年(1280)10月25日付の「大谷敷地寄進状案」に唯善は母覚信尼、兄覚恵(「専証」名)と共に「一名丸」の童名で署名しており(20)、建長5年の生まれであればすでに28歳、童名での署名はまず考えられない。 ちなみに北西弘は、広綱との結婚を久我通光死去の宝治2年(1248)頃、覚恵の誕生を翌建長元年(1249)頃、広綱の死を建長7年(1255)頃と推定している。 また、禅念との再婚についても、親鸞存命中であれば後年の大谷廟堂の相続をめぐる係争の際に唯善がそれを強調したはずであるから、親鸞没後の文永2年(1265)頃のことであろうとしている。(21) また、建長8年(1256)7月9日付の『恵信尼書簡』第一通には覚信尼が下人の譲状を焼失したとの記述があり、この記述から、12月15日付真仏宛の親鸞の真蹟「書簡」(専修寺蔵)に「この10日の夜に焼亡に遭った」と記した火災が前年建長7年の出来事であったとの推定がなされている。 この建長7年12月10日の火災で覚信尼が譲状を焼失したとすれば、火災前、広綱と死別した覚信尼が親鸞のもとに身を寄せており、恵信尼からの下人の譲渡(派遣)が父娘の扶助のためになされたとも考えられ、すでに唯善が生まれていたとする『通紀』の記事はますます信頼性を失うこととなる。 このように古田の依拠する『本願寺通紀』の記述は諸史料、特に『恵信尼書簡』と照らして誤りが多く、覚信尼が建長2年当時寡婦でありすでに「覚信尼」と名のっていたとする古田説には疑問を呈せざるを得ない。 (赤松俊秀は、建長8年9月15日付の『恵信尼書簡』第二通の「わうごぜん(王御前)へ」の宛名を挙げ、建長2年は出家以前であるとした(22)が、古田はこの用例は建長2年の「覚信尼」名を否定し得るものではないと回答している。) また、建長2年に覚信尼が寡婦であったとすれば、当然父親鸞のもと――「五条西洞院わたり」(『御伝鈔』)か?――に寄寓していた可能性が高く、覚信尼が対面困難な遠方から手紙をよこしたとする添付「書簡」の記述がなおさら頷けなくなるのである。
また、この「書簡」の、
との記述からは、これらの文書の授与が覚信尼の懇望に応えてなされたものであることが窺われる。 そしてその懇望も、漠然と何か「かたみ」となる品を望んだと言うよりも、覚信尼自身が書簡で「わざとも――「意識して。わざわざでも。また、格別に。特に。」(24)――申し入れ」、つまりあえて「四十八の御願文、いにしえの夢の御文ども」を「かたみ」に、と申し入れたとも受け取れる記述となっている。 しかし、「四十八の御願文、いにしえの夢の御文ども」は親鸞が覚信尼に贈るのに妥当なものであったと言えるだろうか。また、これらの文書は、本来「かたみ」として与えられるべき性格のものなのであろうか。 覚信尼に与えるのにこれらの文書が妥当でないと筆者が考える理由は、覚信尼にはおそらくこれらの文書が「読めなかった」からである。 専修寺には建長8年(1256)に真仏が書写した親鸞作『四十八誓願(四十八大願)』が伝わっているが、「建長二年文書(「三夢記」)」同様、返り点・送り仮名付きの漢文で記されている。 僧侶であってもその大多数にとっては経文を読誦すること自体が困難なことであり、経文を読誦暗唱しその大意を知ってはいても、詳しい内容まで理解できた僧侶はさらに稀少であったという。 まして女性においては、である。 『恵信尼文書』には、『書簡』と共に、音読み仮名書きの『大無量寿経』の文が伝えられている。 比叡山を「やま」と呼び、「ちくぜん(筑前)」の女房名をもち、また日記を付ける習慣があったことなどから、恵信尼は貴族三善為教の娘として京都で成長した(25)と思われるが、経文を漢文として読む能力はなく、振り仮名による音読が限界であったと思われる。 その娘覚信尼も久我通光に仕えたとされるが、親鸞の上洛までの年少期は関東で過ごしたと思われ、教育環境から見て母以上の、しかも自ら望んで漢文聖教を懇望するほどの読解力があったとは考えがたい。 親鸞による膨大な和讃や仮名聖教の制作、『一念多念文意』『唯信鈔文意』末尾の識語、
あるいは「現世利益和讃」の「和讃」の語の左訓「やわらけ ほめ」などは、このような当時の時代状況を反映したものと思われる。 親鸞には多数の門弟があったが、そのうち親鸞から直筆漢文聖教を与えられたり書写を許されたりした者は、『教行信証』を書写した尊蓮・専信、付属を受けた蓮位、『入出二門偈』『西方指南抄』等を書写した真仏、『愚禿鈔』等を書写した顕智などと限られている。また、真仏の子信証が『入出二門偈』、覚信が『西方指南抄』『四十八誓願』、覚然が『弥陀経義集』といった真仏書写の漢文聖教を所持(27)しており、覚信の子慶信も書簡に『弥陀経義集』を読んだと記している(28)ので、これらの弟子には漢文の読解能力があったことが知られる。 (彼らはこれら以外にも親鸞の消息や仮名聖教を多数与えられている。) これら の高弟達に比して親鸞は弟子一般に対しては、寛喜2年(1230)以来たびたび聖覚の『唯信鈔』を書写、寛元4年(1246)には隆寛の『自力他力事』も書写して、これらを送付しその熟読を勧めている。 また、宝治2年(1248)には『浄土和讃』『高僧和讃』も完成しており、覚信尼に与えるのであればむしろこれらの仮名聖教の方が妥当であったと思われる。
4. 聖教としての「三夢記」 親鸞の青年期の三つの夢告を記した「建長二年文書(「三夢記」)」だけを覚信尼が懇望したのであれば 、父の行実・生涯を偲ぶよすがとして欲したと理解できなくもない。 しかし、覚信尼は同時に『四十八誓願』をも懇望しており、父の信仰・思想を偲ぶというのであれば、他に適当な父の著作がすでにあったにもかかわらず、読めもしない漢文の、それも『四十八誓願』をあえて望むというのはいかなる心境にもとづくものか、疑問と言わざるを得ない。 覚信尼の懇望はやはり歴史的事実ではなかった、と判断せざるを得ない。 また、仮に懇望があったとしても、親鸞が覚信尼にこれらを与えることはあり得なかったと筆者は考える。 それが前述したように、「建長二年文書(「三夢記」)」や『四十八誓願』が「かたみ」として言わば私的に贈与されるべき性格の文書であるかという問題なのである。 元久2年(1205)、親鸞は法然から『選択本願念仏集』の書写と真影の図画を許されており、おそらくその形式を継承したのであろう、建長7年(1255)、専信に自著『教行信証』の書写を許し、同じく自らの影像(「安城御影」)と本尊(「黄地十字名号」)を与えている。 親鸞にとって著作の授与や書写の許可は、門弟への教化指導の一環であったと同時に、信頼のおける人物にこれらを付属して後代への流通(伝持と公開)を託すという、言わば「無辺の生死海を尽くさん」(『安楽集』)との志願に立った行為であったと思われる。 また、「京(筆者注・親鸞)よりふみをえたる」と詐称した「あいみむばう(哀愍房)」の例(31)から知られるように、親鸞自筆の消息・聖教を所持することは、門弟においても、その高弟であることの対外的な証明となり得たのである。『四十八誓願』はもちろん、「建長二年文書(「三夢記」)」も単なる夢の記録や父の思い出を偲ぶよすが(形見)ではなくあくまで「聖教」であり、その授与は私的な贈与ではなく、付法という公的な行為であると見なければならない。 真仏書写の「親鸞夢記云」の文が、その『経釈文聞書』に、『蓮華面経』『法事讃』『教行信証』等の文と共に収められていることからもそれは知られるのである。前述したように、 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽 文 のいわゆる「行者宿報偈」(筆者は「女犯偈」ではなくこの略称を用いる)は現在、真仏筆の『経釈文聞書』「親鸞夢記云」の文及び「六角堂夢想偈文」(断簡)に伝えられている。 『経釈文聞書』は、冒頭の『蓮華面経』『法事讃』の文から善鸞事件との関連が指摘されている(32)が、「六角堂夢想偈文」がもとは親鸞真蹟「浄肉文」の紙背にあり、「浄肉文」の現状から見て、まず真仏が紙の裏面右端から四句二行分の「偈文」を書いた後、親鸞が同じ紙の表右端から「浄肉文」を記していること(33)、近年親鸞真蹟と認められた『観音菩薩往生本縁経』の文(断簡)(34)と同じ文が『経釈文聞書』で「親鸞夢記云」に続いて記されていることなどから見て、少なくとも「親鸞夢記云」『本縁経』の文は、親鸞と真仏が同じ場所にいた時期、つまり真仏が親鸞のもとに滞在していた康元元年(1256)10月下旬から翌正嘉元年閏3月下旬頃までの間に、「浄肉文」紙背の「夢想偈文」ともども、親鸞の許可のもとで書写されたものと考えられる。 またこの「行者宿報偈」は現在、親鸞の吉水入室の契機となった「九十五日のあかつき(暁)の御じげん(示現)のもん(文)」(『恵信尼書簡』第三通)であると見られている。 今井雅晴は同じ第三通の吉水入室の記事の助動詞「き」(自分の過去の体験を表す)の用法から見て、親鸞の吉水参学を恵信尼自身が直接見聞していた、つまり恵信尼自身が当時吉水の法座に参聴していたことが窺われるとしている。(35)恵信尼は自らの念仏往生の確信を、
と語り、娘に対しても「念仏申して共に極楽に生まれん」と勧めている。また、この「極楽へ参れば暗からず」との記述から、親鸞の 「土はまたこれ無量光明土なり」(「真仏土巻」) の教説を連想することも可能である。 つまり、恵信尼は親鸞にとって妻ではあるが、同時に吉水以来の「同朋」であり、言わば信頼すべき「専修念仏のともがら」として「夢記」を与えたと考えるべきではなかろうか。 親鸞が恵信尼に与えた「夢想偈文」は、真仏書写のそれと同様、漢文で書かれていたであろうが、聖徳太子が文を結んだとする『恵信尼書簡』と、白衲の袈裟を着した僧形の救世菩薩が告命したとする「親鸞夢記云」との記述の相違からみて、前後の文のない「偈文」のみであったと思われる。 また、真仏筆「夢想偈文」の、返り点・送り仮名付きではあるが書き下し(延書)にはせず、音読みの振り仮名を付した形態から見て、読解よりむしろ音読・暗唱を主眼として与えられたものと思われる。(37) 真仏書写の『四十八誓願』を所持した覚信も、この他親鸞真蹟の『尊号真像銘文(略本)』、真仏書写本の『西方指南抄』を与えられており、上洛の途次「一日市 (ひといち)」で発病した際、帰郷を 勧める同行に
と述べて上洛を果たした信心の堅固さや、
と称えて亡くなった臨終の光景、さらには彼の死を悼んで親鸞が落涙したとまで伝えられる(38)ほど、親鸞から深く信頼された弟子であったことが知られている。 彼らと比較して、建長2年、27歳の覚信尼が「建長二年文書(「三夢記」)」『四十八誓願』の付属に価する親鸞高弟の専修念仏者であったと言えるだろうか。 筆者ははなはだ疑問と言わざるを得ない。 弘長2年(1262)11月28日の親鸞の死を書簡で知らせてきた覚信尼に対して、恵信尼はその返信をまず、 こぞ(去年)の十二月一日の御ふみ、同はつか(二十日)あまりに、たしかにみ(見)候ぬ。 と書き出し、自身と親鸞とにまつわる出来事を記した後、
と結んで、臨終の様子がどうであろうと、その往生は疑いないことであるとしている。 これらの記述からは、父の死を看取った覚信尼がその往生に疑問を抱いたことが窺われるし、その理由として、高僧の臨終に現れるとされた奇瑞が親鸞の臨終にはなかったこと、「糸引き」等の臨終行儀(41)を行わなかったこと、それどころか臨終にかなり苦しんだことすら想像されるのである。 『恵信尼書簡』や『教行信証』専修寺本の識語から、親鸞の死には覚信尼、益方(有房)、門弟では顕智や専信が立ち会ったことが知られる。 『教行信証』浄得寺本(西本願寺本の写本)の識語には、亡くなった翌日の29日東山に葬送され、30日に収骨が行われたと記されている。(42) その翌12月1日に覚信尼は急ぎ母に父の訃報を認(したためている。 発病後の看護、死後の葬送・収骨といった多忙を極めたスケジュールが一段落し、高弟の顕智や専信には聞けなかったであろう、しかし深刻な疑問を、この日覚信尼は書簡で母親に秘 (ひそ)かに漏らしたのではなかろうか。 この手紙は同月の「はつかあまり」(20日頃)に恵信尼に届いているが、これに対して恵信尼は翌年2月10日に返信を認め、
と、親鸞が存命であれば書く必要もなかったが、没後の今、生前どのような人として生き、そして往生したかを少しでも理解して欲しくて書き記した、と結んでいる。 言うまでもなく、親鸞の信念の特質は「現生正定聚」にあり、臨終の善悪は問わないというものであった。
これらの教説に比して、『恵信尼書簡』の記述からは、父の信仰・思想や行実に暗い娘の姿が浮かび上がってくる。 「建長二年文書(「三夢記」)」を与えられたとされる建長2年より12年後の弘長2年、39歳の時点においてすら、覚信尼には父親鸞に対してこの程度の理解しかなかったのであり、まして建長2年時点の覚信尼に親鸞が安易に 「建長二年文書(「三夢記」)」等を与えたとは到底考えられないのである。
また、もし「建長二年文書(「三夢記」)」の授与が史実であるならば、覚信尼は父親鸞が六角堂の救世菩薩から「玉女として汝に随伴し、その一生涯を荘厳し、臨終には引導して極楽に生まれさせよう」との預言(記別)を授かった人間だと知っていたことになる。 父が観音の授記を受けたことを知っていた娘が果たしてその往生を疑うであろうか。 実はこれが、筆者が「建長二年文書(「三夢記」)」を偽作と考える最大の理由なのである。 中世当時、「夢」は、現代人の考えるような深層意識の表れなどではなく、人間を超えた世界の、神仏その他からのメッセージであり、未来を予言するものでもあった。 当時「夢」を乞う人は沐浴斎戒・精進・断食などの準備をし、一定の期間(三日、七日、二七日、三七日、九十日、百日)、聖所に通夜参籠して祈念した。 「暁」「丑の時」「寅の時」といった他界と俗界、生と死が交差する聖なる時間に念願かなって「夢の告げ」を得た人々は、その「夢」が伝えんとするメッセージを知るべく「夢あわせ」「夢解き」をし、良き未来ならば「夢語り」して周囲と共有し、悪しき未来ならば変更(「夢違え」)すべく、「夢祭」等の宗教的措置を行ったのである。(48) 『書簡』で恵信尼が親鸞往生の確証として示したのも「夢」に関わる三つの出来事であった。 建仁元年(1201)、親鸞に吉水入室を促した六角堂参籠95日目の暁の「夢」。 これらの「夢」によって恵信尼は、親鸞が聖徳太子に導かれて法然に入門し、以後折々の夢に励まされて専修念仏の自信教人信に生涯を捧げた人であり、自分を間違いなく導いてくれる観音菩薩の化現であるとの確信を得たのである。 これに対して、親鸞が門弟に「女犯偈」を書写させていたことから見て覚信尼はすでに「女犯偈」を熟知しており、『恵信尼書簡』の記述は「都の人々が「親鸞往生」に疑問をもっ」た(50) などの身内(恵信尼)の証言を必要とした周辺の事情を反映したものであ って、覚信尼自身の疑問に応えたものではない、とする見解もある。(51) しかし、覚信尼が手紙を認めたのは親鸞の死からわずか3日後であり、その死が広まる時間すらあったとは思えない。(京童などの存在からして親鸞の死が洛中に伝わるのには3日間で充分だとの見方もあるが、京童の噂の種になるには親鸞が洛中におけるそれなりの「著名人」であったことが前提になり、現存の史料からはそのような形跡はうかがわれない。) また、覚信尼自身もその間葬送の準備等に忙殺されており、周囲の風聞を斟酌する余裕があったとも思われない。 身内の証言が必要というが、幸便を得てそれに託すという当時の郵便事情からすれば、恵信尼の返信を得るのに多くの時間を要することは誰しも自明のことであったであろう。 また、早急な返信を要請されたであろうはずの恵信尼は受信後、翌年の2月10日まで筆を執っていない。 親鸞の往生に疑問を抱いた者がいたとしても、拾骨に立ち会った門弟専信・顕智が当然否定したであろうし、それが親鸞遺弟としての責務ですらある。 あえて身内の証言を、というならば、娘である覚信尼が自身の知る「行者宿報偈」とそれにまつわる吉水入室の伝承を語れば、「夢」の神秘性が信じられていた当時のこと、充分な説得力を持って受け入れられたと思われる。 以上の点から、恵信尼の証言を必要とする外的状況はなく、余人を前には口にできなかった自身の疑問を母親にならば、と秘かに書き送ったと筆者は考えざるを得ないのである。
以上の考察の結果、「建長二年文書(「三夢記」)」が実際に建長2年に覚信尼に付与された可能性はきわめて低く、筆者はこれを後代の偽作と判断せざるを得ない。 また、本論序章で若干言及した『正明伝』等の後代の親鸞伝も、『恵信尼書簡』『存覚一期記』の記述と齟齬をきたす内容である(52)ことから見て、「善信善信真菩薩」の一句を持つ建久2年の太子廟夢告が史実とは思われず、「後序」の記した元久2年の改名の契機ではないと考えざるを得ない。 元久2年の改名が「善信」へのそれであるとする旧来の説はその根拠の一つを失ったのである。
(『宗教研究』第366号(日本宗教学会・2010)掲載の論文を加筆補訂した)
|
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.