法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学真宗学会『親鸞教学』第96号掲載(2011年2月)
 
 
 

善信実名説を問う

豅   弘 信


  二  分裂する親鸞像


      ア 「名之字」について


前号前章において筆者は、覚如が「善信」房号説の嚆矢であることを述べた。

論述の意図は、「善信」実名説が覚如説を母胎としながらその出自を否定し、中世当時の人名に関する慣習を無視した上で成り立つ、覚如説のいわば変異型とも言えるものであることを言わんとすることにあった。

覚如説の前提を抜きにして「後序」の「名の字」は「善信」(実名)であるという理解が果たして成り立つであろうか。

覚如説の前提を外して「後序」を読んだ時、筆者はそこに「善信」の名が登場していないことに愕然とした。
親鸞はどこにも「元久2年に「善信」と名告った」「自分の実名は「善信」であった」と書いていないのである。

「藤井善信」という罪人名も登場してはいない。
親鸞は自らの罪名をどこにも記していない。
(我々がその名を知り得るのはあくまで『歎異抄』『親鸞聖人血脈文集』等の、いわゆる「二次史料」に拠ってである。)

「後序」にはただ「愚禿釈の鸞」の名告りがあるのみである。

「名の字」が「善信」であれば、なぜ親鸞は「名の字」と、あえてそれを秘するような言辞を用いたのかと疑問を抱かざるを得ない。

旧稿「「善信」と「親鸞」---元久2年の改名について――」にも述べたように、筆者はこの「 名の字」の記述を、実名「親鸞」の重複頻出を避けるための「省略」であると考えている。

覚如説の先入見を廃して読めば、親鸞は初めから「名の字」とは「釈親鸞」であると読めるように書いたのではなかろうか。

「後序」は『教行信証』撰述の「事由」(具体的成立事情)を語る箇所であり、当然その撰述の主体である「愚禿釈親鸞」の名告りの「事由」もまた語っていると理解できる。

もしこの「名の字」が「善信」であるとすれば、「愚禿釈親鸞集」との撰号を持つ著作において親鸞はそのどこにもその名告りの時期や経緯を記していないことになるのである。

「善信」説を採る諸先学はこの「名の字」についてどう語っておられるのであろうか。

古田武彦氏は、「本師聖人、今年は七旬三の御歳なり」等の記述から、「後序」の該当部分にはその原になった文書――元久2年当時に書かれた選択付属・真影図画の記録文書があり、文末に「釈善信」と署名された原文書の「 名の字」の記述を『教行信証』(坂東本)に書写する際にそのまま残したことによって「釈善信」が消えた結果となった、と推定されている。@

「後序」は、その一頁八行書きの形式や筆跡等から親鸞が60歳頃に書かれたことが知られているが、親鸞はその後も『教行信証』全体の推敲・改訂を続けており、「後序」においても、「太上天皇諱尊成」に「後の鳥羽の院と号す」、「今上諱為仁」に「号土御門院」、「皇帝諱守成」に「佐土院」との註記が、70歳(仁治3年・1242)から77歳(建長元年・1249)の間のいずれの時にか書き入れられている。

元久2年に原文書が書かれた可能性は否定できないものの、「後序」や『教行信証』本文に「善信」という名が頻出しているのならともかく、どこにも登場していない状態で、曖昧な箇所をそのまま残し続けたとは考え難いのではないだろうか。

今回取り上げるM.I氏は、「名(ミョウ)の字」とはあくまで「名前を伏せている」のであり、その理由は「承元の弾圧によって遠流に処せられる時(1207年)、還俗の罪名である「姓名(ショウミョウ)」に、そのまま利用されてしまったから」であり、「罪名とされた事自体が、「善信」が房号でないことを反証している」とされている。A

I氏は「名」は「ナ」ではなく「ミョウ」と読むべきであり、流罪に際し与えられた「姓名(ショウミョウ)」――親鸞においては「藤井善信(よしざね)」――との連関からこの「名(ミョウ)の字」が「善信」であることが読み取れるとされている 。

氏自身の語に拠れば「後序」は「暗号」文書であり、親鸞が「後序」を「暗号」化しなければならなかった理由は、「藤井善信」の「よしざね」という読みに込められた侮蔑性にあると言われる。

僧侶の名は音読み、俗人の名は訓読みという慣習に従って「善信」の読み「ぜんしん」が「よしざね」と改められたわけであるが、これが「よしのぶ」ではなく「よしざね」という読みが選ばれたことに侮蔑がある 。
当時のひらがな表記には濁音がなく、「ざね」は「さね」と記される。
その「さね」は「さ寝」(「女性と共寝する」という意の古語)に通じ、「よしざね」には「よく女と共寝する男」という侮蔑の意味が込められている。
これが親鸞が「善信」の名を隠した理由であると氏は言うのである。B

しかし、ここでまず疑問なのであるが、「後序」の文は、法難の詳細を知らない人間には読めないように意図して書かれたのであろうか。

現在の私たちは、例えば『歎異抄』や『血脈文集』の「流罪記録」から、親鸞の罪人名が「藤井(よしざね)」であると知っている。

しかし、親鸞の罪人名を知らなければ、これらの史料の助けを借りなければ「後序」が理解できないように、「名の字」が「善信」であると理解できないようにわざと親鸞は書いたのであろうか。

「後序」も含めて、親鸞の著述には振り仮名、左訓、字訓、圏発(四声点)等々、読者の理解のための種々の便宜、配慮がなされている。

その親鸞があえて、補助資料なしには理解できないような「暗号」化した文書を残したであろうか。
これが第一の疑問である。

前述したように親鸞は「後序」に「善信」という名も「藤井善信」という罪人名も書いていない。
書いていないことが即「秘した」であるとは限らない。
「書く必要を感じなかった」という理由もまた考え得るのではないだろうか。

また、仮に「よしざね」の読みにI氏の言うような侮蔑の意図があったとしても、それが名を秘さねばならないほどの侮蔑であったのだろうか。
付けた側に侮蔑の意図があったとしても親鸞がそれを恥じたかどうかは別問題である。
そもそも親鸞に罪人とされたこと自体を恥じる意識があったのだろうか。

親鸞が承元の法難に対して大変な憤りを覚えていたことは間違いないであろう。

承元の法難によって、法然を始め門弟7名が流罪(うち2名が執行猶予)、4名が死罪に処せられている。

『律令』に規定された刑罰は、「名例律」に拠れば、笞(ち・竹の棒で尻や背中を叩く)・杖(じょう・笞より太い棒で叩く)・徒(ず・懲役刑)・流(る・配流)・死(死刑)であるが、死罪には絞(絞首刑)と斬(斬首刑)とがあり、配流にも罪の軽重に応じて近流(ごんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)がある。C

「斬首」とは、『律令』「賊盗律」に、

凡そ謀反(むへん)及び大逆せらば、皆斬。
父子、若しくは家人・資財・田宅は、並びに没官。……
祖孫・兄弟は皆遠流に配せよ。
籍の同異を限らず。
()し謀反と雖(いうと)も、詞理衆を動すに能わず、威力人を率いるに足らずは、亦皆斬。(『日本思想体系 律令』87頁)

とあるように、2名以上によって君主の殺害を計画(未実行)した「謀反(むへん)」、もしくは御陵・皇居の損壊を計画し実行した「大逆」、言うなれば国家の転覆を図った者に処せられる厳罰であり、「遠流」は、同じく「賊盗律」に、

凡そ妖書及び妖言を造れらば、遠流。……
伝用して以て衆を惑せらば、亦之の如く……。(同上、99―100頁)

とあるように、妖書妖言をもって民衆を惑わした者に科せられる処罰である。

元久2年(1205)10月、興福寺より専修念仏の停止と法然及び門弟の処罰を求めて朝廷に『奏状』が提出された。

これに対する回答として12月29日、「偏執は禁止するが刑罰は与えない」という宣旨が下されたが、これを不満とした興福寺側は翌元久3年2月使者(五師三綱)を送って法然・安楽房遵西・成覚房幸西・住蓮房・法本房行空らの処罰を要求し、朝廷側はこれに対して「偏執傍輩に過ぐるの由」との風聞のある安楽房・法本房の処罰という妥協案を示し事態の収束を図った。

この結果、両名の罪名を明法博士に勘案上申させるよう宣旨が下され、それに対する回答(宣旨の文案)も後鳥羽上皇のもとに上奏されていたが、上皇はその宣旨を下さず留保し、興福寺側の催促にも応じていなかった。

しかし、『愚管抄』巻六が、

院の小御所の女房、仁和寺の御むろの御母まじりにこれを信じて、みそかに安楽など云う物よびよせて、このようとかせてきかんとしければ、又ぐして行向(ゆきむかい)どうれいたち出(いで)きなんどして、夜さえとどめなどする事出きたりけり。
                    (岩波書店『日本古典文学大系 愚管抄』294−5頁)

と伝えた「事件」――12月、上皇の熊野行幸による不在の間に院の小御所の女官(上皇の愛妾伊賀の局)や道助法親王(仁和寺の御室)の母であり上皇の妃である坊門の局などが安楽・住蓮をひそかに小御所に招き、そのまま宿泊させた――によって事態は急変する。翌建永2年(1207、10月に承元と改元)1月下旬、専修念仏停止の宣旨が重ねて下され、2月、逮捕・拷問の後、刑が執行された。

以上の経緯から死罪4名・流罪8名という厳罰の実態は、後宮を荒らされたと感じた後鳥羽上皇の私的な憤りによるものであったことが知られる。
(上横手雅敬氏は4名に対する死刑執行は公的な処罰ではなく、後鳥羽院による私刑であるとしている。D)

しかし、『律令』に基づく法治国家という体面上からすれば、処罰はあくまで『律令』(賊盗律)の規定に従って適正に履行された、つまり極刑に処せられるだけの重大な犯罪行為があったと言い繕わなければならない。

本来謀反・大逆に与えられるべき刑罰が与えられたというのにとどまらず、その刑罰に値する罪状があったとされた、つまり不当な処置を正当化するためにあえて罪状を捏造し、治天の君後鳥羽上皇殺害を企図した謀反人として4名が斬首に処され、専修念仏は仏教にあらざる異端妖説(危険思想)との烙印を押され禁制とされ、関係者が遠流に処されたのではないか、と筆者は推するのである。

この筆者の推論を裏付ける史料はない。
そもそも刑の執行時の詳しい状況を語る史料自体が伝わっていない。

もちろん散逸がその主たる理由とは考えられるものの、例えば『明月記』に藤原定家が「去比(やんぬるかな)、聊(いささ)か事有るが故にと云々。その事已(すで)に軽きに非ず。また、子細を知らず、染筆に及ばず。」と記したように、その処罰の厳しさと捏造された罪状の余りの理不尽さに関係者が一様に口を閉ざしたという事情もあるのではないか、と筆者は想像するのである。

「御弟子中狼籍子細あるよし、無実風聞」(『歎異抄』)とは、後宮の女官との密通という言わば風紀上の問題ではなく、国家体制転覆の謀議と異端妖説の流布という「冤罪」を指すのではなかろうか。

その地位や栄華に惑溺せずひたすら「後世」を恐れた女官達の宗教的要求、その要求に真摯に応えた人間に謀反人の烙印を押し、末法濁世の唯一の出離の要路である専修念仏を妖言妖説として禁圧する不当不正義に対して、親鸞は「後序」において「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す」と弾劾したのであり、それを後押しした僧界(「諸寺釈門」)、俗界(「洛都儒林」)を「教に昏くして真仮の門戸を知らず」「行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」、つまりは「真宗」(真の仏教)に無智であると批判し、「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす」と僧俗双方との訣別を宣言したのである。

親鸞から見れば、自分が法然の門弟――その信念の継承者であるがゆえに罪に問われたのである。
「善信」とは聖徳太子から授けられ法然から認められた名、言わば継承者の「証(あかし)」であったはずであり、不当な弾圧によってその「証」を辱められたから隠さねばならない、と果たして親鸞が考えたであろうか。

I氏の説は、このような「弾劾」文書の趣すらある「後序」の記述と全く矛盾するものであると言える。

また、赦免に際して親鸞は以後「禿」の字を姓とすることを朝廷に奏上している。

頭に毛髪のない、いわゆる「はげ」の状態を示す「禿(かぶろ)」とは、その語自体、官僧(諸寺の釈門として剃髪しているわけでもなく、俗人(洛都の儒林)として髷を結い烏帽子を被ることもできない者としての「非僧非俗」を表す言葉であるが、同時に『沙石集』巻四に、

経には「我滅後に、飢餓の為に出家し、戒行を持(たも)つものあるべし。是を意楽損害の者とす」といえり。
解脱の為にあらず。
是は猶人天有属の善也。
破戒無慚なるを、禿居士とも云い、袈裟を着たる賊とも云えり。
はずかしかるべし。(岩波書店『日本古典文学大系 沙石集』186頁)

と伝えられるような、道心もないまま飢餓のために出家し、持戒の者を恣に害する破戒無慚、袈裟を着た賊としての「禿居士(かぶろこじ)」を意味する語でもあると思われる。

つまり親鸞は、『興福寺奏状』で批難されたごとくに、自分は専修念仏者として他宗を貶め、他の神仏・菩薩を崇敬もせず、諸悪を造って恥じなかったその結果、国王によって還俗せしめられた者であると名告ったのである。
(もちろんこの名告りは既存の権威への屈服を意味するものではなく、親鸞は改姓によって恭順の意を見せながら、実は自分が既成仏教の破壊者であることを宣言したのである。
この「禿」姓は、仏法の何たるかも知らずに末代の三宝を破壊した者が誰であるのかを逆に照射していく、皮肉(アイロニー)に満ちた名告りであるとさえ言える。)

親鸞は「破戒無慚」を意味する「禿」は記しながら、一方で「よく女と共寝する」意の「善信」は隠したのであろうか。

親鸞は救世観音から「行者宿報設女犯…」の夢告を受けて法然の門を叩き、「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。……ひじりで申されずば、め(妻)をまうけて申すべし」Eという「在家」の仏教を指授され、同じ『教行信証』に「愛欲の広海に沈没し」とまで書いた人物ではないであろうか。

この点はI氏も

「もちろん親鸞聖人にとって妻帯という問題は、決して人に隠さなければ成らないような恥ずべきことであったわけではありません。
妻帯しつつそこで念仏を生きることが、最も大乗という仏教を具体的に証しするものであると頷くことで、妻帯されたのだと理解しております。」
   (「「名之字」推考」(『親鸞像の再構築(三)』(大谷大学真宗総合研究所))41頁)

とされているが、それならばなおさら「隠す必要もなく恥ずべきでもないことを侮辱されたから隠した」とする氏の論理展開は理解できない。

しかも「後序」で秘したはずの「善信」がそれ以外の消息や著作では隠されていない。

『教行信証』真蹟坂東本は60歳頃から書き始められ、75歳頃に一応の完成を見(寛元5年(1247)2月、尊蓮が書写)、建長7年(1255)6月に専信が書写した以降も親鸞自身によって推敲の手が加えられている。

このように『教行信証』を手元から離さず推敲・改訂を加えていたその間、親鸞は「善信」を使い続けている。F

親鸞からすれば他のどの著作や消息よりも『教行信証』をこそ後世に残したかったはずであるが、その『教行信証』には一切「善信」の名を載せてはいないのである。

氏の所説は矛盾と分裂に満ちた親鸞像を提示していると言わざるを得ない。


@『親鸞思想――その史料批判』540頁参照。
A以上、「自己(綽空)の名告り――法然との出遇いを通して――」(『南御堂』(真宗大谷派難波別院)2007年3月号)
B『宗祖と越後』(真宗大谷派高田別院)27頁参照。
C『日本思想体系3 律令』(岩波書店)15頁参照。
D「「建永の法難」について」(上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』)
E『和語燈録』巻五(『真聖全』4、683頁)。
F鶴見晃「親鸞の名のり」(表1、2)(『教化研究 』第144号)参照。


      イ  還俗名「藤井善信」の侮蔑性


次に、「藤井善信」の罪人名が氏の言うように「善信」実名説の証拠となり得るかどうか、当時僧侶が罪を問われて還俗させられた事例を見てみたい。

治承元年(1177)、延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われ、明雲僧正が天台座主職を解かれて伊豆国に配流と決まったが、配流の途中比叡山大衆が明雲を奪還し叡山に帰還したという事件が『平家物語』巻二に描かれている。
(『平家物語』に拠れば、明雲の還俗名は「大納言大輔(たゆう)藤井の松枝」である。)

また、『歎異抄』『血脈文集』から承元の法難における法然の罪人名が「藤井元彦」、親鸞が「藤井善信」であったことが知られている。
(ただし法然の罪人名が「源元彦」であったとする伝承もある。G)

『百錬抄』巻十三の嘉禄3年(1227)7月7日(異本では「5日」)付の記事

七月七日。
専修念仏者配流官符請印。
隆寛律師 還俗して「山遠里」と名づく。陸奥に配す。後日他所に改めらるると云々。
空阿弥陀仏 「原秋沢」と改名す。薩摩。
成覚 「枝重」と改名す。壱岐島。(原漢文、『国史大系』216頁)

に拠れば、嘉禄の法難の際配流に処せられた隆寛には「山遠里」、空阿弥陀仏には「原秋沢」、成覚房幸西には「枝重」という還俗名がそれぞれを付けられたという。

「罪名とされた事自体が、「善信」が房号でないことを反証している」「実名を読み返させてこそ、罰したことになる」とI氏は言うが、これら六例の内、「善信」を除く五例までは実名が残されてはいない。
(実名不詳の空阿弥陀仏も「原秋沢」が実名であったとは考え難い。)
にもかかわらずI氏は「善信」だけは例外だと言うのである。

氏は罪名には実名との連関があり、そこに侮蔑性を見なければならないとされるが、筆者は少なくとも「山遠里」以下の三つの名から実名との連関性も侮蔑性も読み取ることができない。

あくまでも個人的な感想であるが、「松枝」にしろ「山遠里」「原秋沢」「枝重」にしろおよそ人名とは思われない。
和歌の題材ともなりそうな情景を適当に付けたようにも見える。

むしろこの適当さが罪人に対する侮蔑であると言えるかも知れないが、これらに較べて「元彦」「善信」という名はむしろ人間的であり、好意すら感じさせられる。
また法然には古来皇族が臣籍降下した際に賜った「源」姓が与えられたという伝承すらある。

これを、法然とその門弟になされた理不尽な措置への「後ろめたさ」の所産である、と考えるのはうがち過ぎであろうか。

しかし、ここでは結論を急がず、「善信(よしざね)」の「ざね(さね)」に本当に侮蔑性があるかどうかを検討してみたい。

いくつかの辞書に拠れば、「さね(さ寝)」は自動詞「さぬ(さ寝)」(ナ行下二段活用)の連用形「さね」から転じた名詞であり、「寝ること。特に、男女がいっしょに寝ること」(『日本国語大辞典』)という意味が載せられていたが、「男女が共寝する」の用例は、『万葉集』巻第十四の「東歌」、

まかなしみ さ寝に吾(わ)は行く 鎌倉の水無瀬川(みなのせがわ)に 潮満つなむか(岩波書店『日本古典文学大系 万葉集 三』413頁)
伊香保(いかほ)ろの 八尺のゐでに 立つ虹(のじ)の 現(あらわ)ろまでも さ寝をさ寝てば(同上、423頁)

の二例であった。
(この他にも動詞の「さぬ」、派生語の「さ寝(な)す」「さ寝(ぬ)らく」「さ寝処(ねど)」「さ寝(ね)さ寝(ぬ)」などの用例が『万葉集』で確認できた。)

『万葉集』は巻二十の天平宝字3年(759)正月一日の大伴家持の歌をその末尾に置いており、天平宝字3年から法難のあった建永2年(1207)2月までその時差は450年ほどにも及ぶ。

(ただし『万葉集』の成立については、江戸期の契沖以来の“2度撰”説―全20巻の内、1巻から16巻までがいったん成立した後、大伴家持によって17巻以降が補われて完成したとする―もある。
「さね(寝)」及び動詞・派生語はいずれも16巻以前に現れるので、それに従えば使用年代はさらに遡ることとなる。)

万葉時代の古語に起源をもつこの「さ寝(男女の共寝)」が13世紀初頭の当時、侮蔑語として通用するほど広く人口に膾炙していたのであろうか。

ちなみに『後撰和歌集』巻十一には「三条右大臣」(藤原定方・873〜932)の歌

名にしおはば 相坂(あふさか)山の さねかづら
  人に知られで くるよしも哉(がな)
                 (岩波書店『新日本古典文学大系 後撰和歌集』203頁)

に、「男女が共寝する」意味の掛詞(かけことば)として「実葛(さねかずら)」が用いられている。

この歌は、藤原定家(1162〜1241)の選んだ『小倉百人一首』にも入れられているので、当時、「さねかずら」が「男女の共寝」を意味することは、歌人の教養として宮廷人の間では共有されていたことが知られる。

I氏には、これらの例に留まらず、「承元の法難」当時、「さね(さ寝)」が一般的に用いられたことを示す実例を提示していただきたい。

ただし、仮に当時「さね」に「男女の共寝」の意味があることが広く一般的に知られていたとしても、それが侮蔑語として機能していたかどうかは別問題である。
「善信(よしざね)」の名に侮蔑の意が籠められているという氏の見解に筆者は賛同できない。
「さね(ざね)」には、氏の言うような意味も含めて、いかなる侮蔑性も籠められてはいないと筆者は考える。

それは以下の理由による。

もし当時「さね(ざね)」が何らかの侮蔑を広く連想させたのであれば、その侮蔑性が及ぶ範囲は「よしざね」だけにとどまらない。
つまり、ひらがなで「さね」と書く「さね(ざね)」の音を持つ字を実名に用いることは他の者にとっても憚られたのではないだろうか。

しかし、当時の史料を開けば、当時の高位高官で「さね(ざね)」と読む字のある名をいくつも発見できる。

ちなみに専修念仏停止の執行された建永2年の『公卿補任』には次のような例が見られる。

藤家実(近衛家実、従一位・関白、太政大臣)、同頼実(従一位・東宮傅、前太政大臣)、同実教(正二位・前中納言)、同実明(従二位・前参議)、同実保(従三位)、同実宣(正四位下、蔵人頭)……。

この他、すでに政界を隠退、出家していた九条兼実(元摂政・関白、太政大臣)、三条実房(元左大臣)の例もある。

また『尊卑文脈』によって時代を遡れば、藤原氏だけでも基実(兼実の兄・家実の祖父)、忠実(基実・兼実の祖父)、師実(忠実の祖父・頼通の長男)といった「氏の長者」が「さね(ざね)」の読みのある実名を持っている。

これらの実例から見て「さね(ざね)」に侮蔑の意味はないと考えられるし、もしI氏の言うような意図を持って「よしざね」の読みを用いたとすれば、これらの高位高官に対しても侮蔑もしくは皮肉として機能することになりはしないであろうか。

また、あえて「女性とよく共寝する破戒僧」という意味をもたせたとすれば、周囲を見回せば僧侶の大半が公然とではないにしろ妻妾を持ち、実子を「真弟子」「真弟」と呼んで法義・住房・財産を相続させている状況(真弟相続)の中、その程度の隠喩はさしたる侮蔑中傷にならないどころかむしろそれらの僧侶に対する皮肉と受け取られる危険性すらある。

「この侮蔑はあの罪人に限ったもの」とする弁明が通用するほど公家社会が寛容であったとは思われない。
当人の意図はどうあれ憶測と噂だけでその身・地位が危うくなるほどの陰湿さをもち、内部の人間にはきわめて繊細かつ過敏な「遊泳感覚」を必要とされるような公家社会の中で、あえて「危ない橋を渡る」人間がいたとも思えないのであるが。


註G『法然上人伝記(九巻伝)』、『本朝祖師伝記絵詞(四巻伝)』、『法然上人伝法絵流通』、『法然上人伝絵詞』他。


      ウ 「親鸞」への改名時期


「善信」改名説を採った際に生じる疑問の一つに、なぜ「後序」に「親鸞」と名告った時期や経緯の記述がないのか、がある。

この問題提起に対してI氏は「後序」には「きちんとその時期と意味も明記している」と言われる。

I氏は、「後序」の構成の構造は、

「三十五歳  承元の弾圧
     「姓名を賜る」→「禿の字を姓に」
 三十九歳  勅免    改行
 四十歳    師の入滅
               「然るに愚禿釈の鸞」
 二十九歳  本願に帰す
 三十三歳  選択集付属「釈の綽空」
   〃     真影の図画「名之字に改める」」

という、「わざと編年体を破っ」た構成になっており、「前半が35歳から40歳に、後半が29歳から33歳へと次第」し、「その中間に「然るに愚禿釈の鸞」という名告りが記されている」ことから、

「「禿の字」を姓としたのは、35歳とその前に断っているわけであるから、この「然るに愚禿釈の鸞」という名告りは、29歳の時点の名告りでないことが分かるようになっている。
また後ろには、33歳の時点の名が「釈の綽空」と念を押している。
つまり「建仁辛の酉の暦、愚禿釈の鸞、雑行を棄てて本願に帰す」ではないのである。
あくまでも「然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」である。
ということは、この「然るに愚禿釈の鸞」は、その直前の39歳の時点の勅免、40歳の師の入滅を受ける形で領解しなければならない。
つまりは親鸞という名告りは、師法然の入滅を直接的な契機としての名告りであることを、明らかに示そうとしているのである。」
            (以上、「「名之字」考」(『新潟親鸞学会紀要 第4集』)93〜4頁)

としている。

つまり、I氏は、「改名した」という明確な記述はないものの、建暦2年(1212)1月25日の法然の死の記述の直後に「愚禿釈の鸞」の名告りが位置する「後序」の構成から、法然の死を契機として「親鸞」と改名したと明記していると理解すべきであると言うのである。
(「善信」の名のみならず、改名時期も「暗号」化されていると氏は言うのであろうか。)

しかし、「建仁辛の酉の暦、愚禿釈の鸞、雑行を棄てて本願に帰す」でなく「然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」であるのは、この「愚禿釈の鸞」がその後に記されている建仁元年の吉水入室と元久2年の選択付嘱・真影図画といった体験の主体であるからに他ならない。

然愚禿釈鸞 建仁辛酉暦棄雑行兮帰本願
         元久乙丑歳蒙恩恕兮書選択……

という「対句」表現から一見してそれが知られるし、「然るに愚禿釈の鸞」の「然るに」も、「先行の事柄に対し、後続の事柄が反対・対立の関係にあることを示す。ところが。しかし。さるに。」もしくは「話の冒頭に用いる慣用語。 逆接の意味は持たない。さて。ところで。」(以上、『日本国語大辞典』)という、その前とは明らかに異なった話題が始まる際に用いられる接続語であり、I氏の言うような前の事柄を承けるという文章の展開を示すものではない。

「後序」ではこの箇所で初めて「愚禿釈の鸞」と記しているとはいえ、前半部分で承元の法難の経緯とその意味を推究――「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば」――した主体も「愚禿釈親鸞」である。
なぜなら「後序」を含む『教行信証』におけるすべての思索、表現は、その撰号「愚禿釈親鸞集」(「化身土巻」の撰号も同じ)から知られるように、終始一貫「愚禿釈親鸞」の名告りのもとになされているからである。

この「然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦……」とは、

「ところで、この『教行信証』を書き、「聖道の諸教は行証久しく廃れ……」と述べ、師法然とともに流罪に処せられた予・愚禿釈の鸞とはいかなる者であるかと言えば、建仁元年に、……」

という論旨の展開を示すものに他ならないのである。

また、I氏は「禿」への改姓を35歳としているが、親鸞は「禿」姓に「非僧非俗」の意味を込めており、『歎異抄』『血脈文集』に拠れば、改姓を朝廷に奏上している。

このことから「禿」姓の名告りは私称ではなく、「非僧」――赦免後も官僧・天台僧に復籍しない――の公式表明であることが知られるし、「非俗」と言っても流罪中の親鸞は「俗人」以外の何者でもない。

つまり、「非僧非俗」とは、自らの社会的身分を再選択できる建暦元年(1211)11月17日の赦免後に初めて意味をなす自己規定であると言え、流罪直後の奏上では単に罪人名の「藤井」姓を拒否したに過ぎない。

もちろん流罪中に私的に「禿」姓を名告った可能性もあるが、その場合でも、赦免時には再度の奏請が必要となる。
(この点はI氏も、改姓は流罪直後としながら赦免時に奏請したとしている。H)

つまり「禿」への公式な改姓は39歳以降と考えられ、「後序」の前半部分が完全な編年体を採っていると断定はできなくなる。

さらに言えば、「後序」は現行の構成でなければならなかったわけではない。

どのような構成にするかは著者親鸞の自由裁量であり、29歳の吉水入門から始めて40歳での師の入滅に至る完全な編年体を採る選択肢もあり得たはずである。
現行の構成をとりながらでも、建暦2年の改名の事実を記し、「名の字」ではなく「釈の善信」と記していたら、それこそ綽空・善信・親鸞の三つの名の連続性がより明確になったであろうことは間違いない。

また、I氏は、この時の「親鸞」への改名について、

「この大事な名(筆者注・「善信」)を罪名「よしざね」と使われてしまったのである。
これを受け入れることはできないし、また「ぜんしん」を止めることも、変更するわけにもいかない。
そこで聖人は、新しい名をもう一つ名告ることにした。
それが「親鸞」という名なのである」(『宗祖と越後』16頁)

とするきわめて曖昧かつ微妙な表現を取っておられる。

氏に拠れば建暦2年の親鸞の改名は実は名を改める――今までの物事を取り除いて新しくする――のではなく、「善信」の他に新しい実名「親鸞」をもう一つ名告ると自分で決めたことであり、だからその後も「善信」も同様に実名として用いて「二つの名を生きていく」というのである。

一人の人物が複数の実名を持った例はある。
しかしそれはあくまで旧名を捨て新しい名を名告っていく場合である。
親鸞の場合も元久2年の改名以後は「綽空」を用いていない。

同時に複数の実名を持つことがあり得るのかどうか、親鸞の時代にそのような実例があるのかどうか、寡聞にして筆者は知らない。
氏にはぜひ実例を示していただきたい。

ただ、I氏は論文中しばしば実名の持つ「重さ」について言及されている。

いわく「『七箇条制誡』の署名はすべて実名でなければならない」「房号を罪名に使っても罰したことにはならない。」等々。

I氏はまた、親鸞は二つの実名を「使い分け」ているとも言われる。

氏は「「名之字」推考」において、

「善信」というのを一切やめて「親鸞」としたということではないようです。
「善信」というのは法然上人の教えを受けとるという姿勢です。
阿難のような位置に自分を置くという意味を持った名前が、「善信」の意味だと思うのです。
それに対して「親鸞」は、仏滅後の仏弟子が仏の教えに相応するというその課題を名前にしたのが「親鸞」だと私は思います。
その仏滅後は、世親、曇鸞においては釈尊亡き後という課題ですけれども、親鸞においては法然上人が亡くなった後という意味がそこに加わってきて、それが浄土宗の学者として生きようとするそういう親鸞だと思うのです。
親鸞という名前は、はっきり言えば学者の名前です。
浄土宗の学者としての名前だと私は受け止めます。
しかし「善信」も「親鸞」と仏弟子の名前であることに違いはありません。
                                  (『親鸞像の再構築(三)』50頁)

として、「善信」を「法然上人の教えを受けとるという姿勢」「阿難のような位置に自分を置くという意味を持った名前」であるとされ、それに対して「親鸞」は「仏滅後の仏弟子が仏の教えに相応するというその課題を名前にした」「法然上人が亡くなった後、浄土宗の学者として生きようとする名前」であるとされている。

しかし複数を同時に所有し、状況に応じて使い分けができるような実名に「重さ」があるとは筆者には到底思えない。

I氏の言う「使い分け」に関しても、「法然上人の教えを受けとる」ことと「浄土宗の学者として生きる」ことの間に明確な線引きができるとも、また親鸞の中で実際にできているとも思えない。
そもそもこれらの二つの立場を使い分けるということが、文章の修辞としてならともかく、現実に一人の人間の精神の内面において成り立つのであろうか。
親鸞の内面において、法然の弟子として師教を聞信することとその遺弟として師教に相応すべく思索することは一つのこと、むしろ不可分離の事柄ではないか、と筆者は考えざるを得ない。

例えば、「ひたち(常陸)の人々の御中へ」宛てて「いまごぜ(今御前)のはは(母)」と「そくしょうぼう(即生房)」の扶助を依頼した最晩年の書簡(署名「ぜんしん」)が、いかなる意味において法然の教えを受けとる阿難のごとき姿勢を示しているというのであろうか。

また、「愚禿釈善信」の奥書をもつ隆寛の『一念多念分別事』の書写(建長7年(1255、親鸞83歳))が、他の著作活動、例えば「愚禿(釈)親鸞」の奥書を持つ同じ隆寛の『自力他力事』(寛元4年(1246、74歳)や聖覚の『唯信鈔』の書写(寛喜2年(1230、58歳)、文暦2年(1235、63歳)他)とどう違うというのであろうのか。

さらに言えば、親鸞は康元元年(1256、84歳)から翌年正月にかけて『西方指南抄』を、正元元年(1259、87歳)には『選択集』延書本をそれぞれ書写しており、師法然の思想 、行実や法語を未来に伝えんとするこれらの行動こそまさしく法然の弟子としての「善信」の名でなされるべきであると筆者には思われるが、実際にはこれらの奥書すべてに「愚禿親鸞」と記されている。
(『選択集』に関して言えば、法然に書写を許されたまさにその同じ年に、氏によれば「善信」に改名しているにもかかわらずに、である。)


註H『宗祖と越後』10〜12頁参照。


      エ 『七箇条制誡』の署名をめぐって


『西方指南抄』中巻末には元久元年(1204)、比叡山に提出された『七箇條制誡』が収められ、その末尾には、

元久元年十一月七日  沙門源空
                      信空 感聖 尊西 証空 源智 行西 聖蓮 見仏
                      導亘 導西 寂西 宗慶 西縁 親蓮 幸西 住蓮
                      西意 仏心 源蓮 蓮生 善信 行空 已上
                                          已上二百余人連署了
                                 (『定親全』5転録篇、170−1頁)

と、法然及び22名の弟子の名が載せられ、親鸞はここで自らを「善信」と記している。

二尊院蔵の「原本」に拠れば、元久元年当時、親鸞は翌11月8日、87番目に「僧綽空」と当時の実名で署名している。
(ちなみに『西方指南抄』中巻末の奥書には「康元元年丙辰十月十四日 愚禿親鸞八十四歳書写之と、康元元年(1256)、『指南抄』執筆時点の実名「親鸞」が記されている。)

親鸞は「僧綽空」をここであえて「善信」と改めているわけであるが、これはいかなる理由によるものであろうか。

I氏は、この記述が「「綽空」の字を改めて「善信」と記したことがわかる唯一の使用例」I、つまり「善信」が実名である唯一の証拠だとされるが、それならば親鸞はなぜ翌元久2年(1205)以降の実名――つまり、『七箇条制誡』署名の時点では用いていなかった「善信」を記したのであろうか。

また氏は「「善信」と名告った後は、それ以前の「綽空」も、あるいは「範宴」も、直せるだけのものはすべて自ら「善信」と改めて行ったと領解すべき」Jとされているが、『指南抄』以外の例は示されておらず、「善信」に書き換えなければならない必然性も判然としない。

この『西方指南抄』所収『七箇条制誡』の「善信」の署名を、旧稿において筆者は、「善信」が吉水期以来の房号であることを反証するものであると考えた。

つまり署名当時の実名「綽空」と記しても読者――直接には『西方指南抄』を託した真仏・覚信ら高田門徒――には誰を指すのか不明であり、当時の実名はもちろん「親鸞」ではない。

それゆえ当時(32歳)すでに用い、現在(84歳)も使用している連続性のある房号「善信」をあえて記したのではないか、と筆者は推測したのである。

しかし、I氏はこれに対して、

「この(筆者注・『七箇条制誡』に)署名をした門下の中に、法然上人を初めとして房号で署名したものが一人でもいるのであろうか。
もし房号で署名した者がいたとすれば、その人は署名という責任的行為自体を知らないのである。
しかもこれは、比叡山の大衆の批難と怒号を鎮めるために起草された「七箇条起請文」である。
それでもなお「善信」という房号を使ったと主張するのならば、その署名の厳しさと重さを推測できないのである。」(「「名之字」考」91〜2頁)

と批判されたのである。

「署名はすべて実名でなされている」という氏の主張に根拠がないことは前号前章で述べた。
「正観」(129番目)、「念仏」(133番目)は房号だと考えられるし、「生阿弥陀仏」(22番目)「証阿弥陀仏」(34番目)ら15名の阿弥陀仏号は厳密には房号ではないが、明らかに実名ではない。
元久元年当時実名以外での署名者が少なくとも17名は存在したのである。

また、「房号で署名したと主張する者は署名の厳しさと重さを推測できない」という批判も、筆者には、氏が二つの『七箇条制誡』(元久元年の「原本」と康元元年の『西方指南抄』所収の写本)の文書としての性格を混同しておられるとしか思えない。

つまり、元久元年の「原本」は「比叡山の大衆の批難と怒号を鎮めるために起草された」公文書であるが、康元元年の『西方指南抄』所収写本は師法然の行実・思想を伝えるべく製作された『西方指南抄』の中の一史料、つまり伝記史料であり、不完全な「写し」である。

筆者があえて「不完全な」という表現を採ったのには二つの理由がある。

一つには、門弟の名が親鸞を含む22名しか記されていないことである。

法然門下の最長老法蓮房信空から始まり19人目の源蓮までを「原本」の通りに記し、「原本」では89番目の法力房蓮生、親鸞、40番目の法本房行空の3名が続いている。

この結果、門下の主要な弟子である善恵房証空、勢観房源智、承元の法難で死罪となった善綽房西意、流罪を宣告された成覚房幸西、行空の名は載っているものの、死罪となった安楽房遵西(30番目)、流罪となった禅光房澄西(47番目)、法然に同道して讃岐まで赴いた覚明房長西(104番目)らの名は記されていない。

なぜ親鸞は22名しか記さなかったのか、いかなる基準に基づいて自分以外の21名を選んだのかについて実際のところは不明である。
しかし、筆者は親鸞が見た「底本」の影響があったのではないかと考えている。

親鸞は「原本」を直接写したのではなく、入手したとある写本を『指南抄』執筆時に写し、それを中巻末の冒頭に収めたと思われるのである。

「原本」と『指南抄』所収本の本文を比較すると、まず冒頭の一文が「原本」では

「普告予門人念仏上人等  可停止…事」
(普く予の門人と号する念仏上人等に告げたまわく。一つ、……を停止すべき事)
                                       (『親鸞聖人行実』18頁)

とあるのに対して所収本では

 普告予門人念仏上人等 可停止…事」
一つ、普く予の門人・念仏上人等に告げたまわく。……を停止すべき事)
                                    (『定親全』5転録篇、165頁)

となっているのに始まり、「除」が「除」、「恣」が「恐」、「寧」が「輩」となるなど多くの字の変化や脱落が見られる。
とりわけ第三条では「加之善導……弥甚也」の二十一文字分がそのまま脱落している。

これだけならば親鸞自身の誤写と考えられないわけでもないが、決定的なのは文末の「已上二百余人連署了」の記述である。

「原本」の署名は190人であり、署名人数には通し番号が振ってある。(ただし11月8日(署名二日目)の最初(81番目)の「僧尊蓮」に誤って「八十」と振ってあるので通し番号を信頼した場合には「百八十九人」ということになる。)

つまりこの「已上二百余人連署了」の記述は親鸞が見た底本に基づいたものだと考えられるし、22名の署名もおそらくそれ影響されてのことであると思われる。
(ちなみに署名の人数は、『法然上人行状絵図』巻三十一では「宿老たるともがら八十余人を えらびて連署せしめ」とあり、『法然上人伝記』巻五上では「署判之門人七十五人」となっている。)

『指南抄』所収の『七箇条制誡』は原本を直接写したものではなく、親鸞が入手した写本を底本としたものであると考えられること、これが筆者が「不完全な写し」と述べる第二の理由である。

つまり『指南抄』所収本は50年余の歳月と最低2回(1回は親鸞)以上の書写を経た、すでに公文書(『起請文』)としての性格を喪失した伝記史料であり、伝記編纂者の裁量による読者の便宜のための変更は当然許されるべきものであったと筆者は考えるのである。

ここで視点を変えて、『西方指南抄』執筆当時の親鸞及びその門弟の状況を振り返ってみる。

親鸞真蹟本『西方指南抄』各巻の奥書に拠れば、親鸞は康元元年(1256)10月13日に上巻末を書き終え、翌康元2年正月1日まで校合を続けている。10月14日に中巻末、10月30日に下巻本、11月8日に下巻末、翌年正月2日に上巻本を書き上げ、同日中巻本の校合を終了したとされている。

一方、『三河念仏相承日記』に拠れば10月中旬真仏・顕智・専信らは上洛の途上にあり、13日、三河国薬師寺の念仏興行に会し、その後上洛。
10月25日に親鸞は「八字名号・十字名号」を書き讃を加えており(現在いずれも専修寺に伝来)、おそらくこの頃には一行は上洛を果たしていたと思われる。

真蹟本全六巻の書写校合が終わった康元2年1月2日以降、真仏による書写が進められ、専修寺蔵真仏書写本の奥書に拠れば、2月5日に下巻本の書写が終わり、以後各巻が写され、3月20日中巻末の書写終了の頃まで作業が続けられた。

真仏はその後しばらく京都に滞在した後、関東に帰り、翌正嘉2年(1258)3月に亡くなっている。

『影印高田古典』第四・六巻の「解説」に拠れば、親鸞真蹟本を真仏が写した後に真蹟本の本文が変更され、それらの変更が真仏書写本に反映された箇所がいくつかあるという。

真仏は真蹟本を機械的に写したわけではなく、親鸞と言葉を交わしながら、時には意見を述べながら書写作業を続け、結果、真蹟本にそれらが反映されたと見ることができる、とされている。

『七箇条制誡』を収めた中巻末は真仏らの上洛以前の康元元年10月14日に書き上げられており、真蹟本の該当箇所にも校正の跡は見られない。

しかし、真仏らの上洛の報は当然執筆中の親鸞にも届いていたはずであるし、読者としての彼らを念頭に置きながらの執筆であったと思われる。
真仏も書写の過程で見た「善信」の署名に納得したからこそ異を唱えなかったと見ることができる。

ちなみに『歎異抄』は吉水時代の信心一異の諍論を伝えているが、筆者は、親鸞がこのエピソードを門弟に話した際にも同様の配慮が働いたのではないかと考えている。

論争の場においては「綽空が信心も」と当時の実名をもって語り、後年唯円らの前では吉水以来の房号「善信」を用いて「善信が信心も」と語った可能性も考え得るのではないだろうか。

この論争が行われた時期は元久2年の改名の前、それとも後のどちらであっただろうか。

「善信」改名説を採れば論争の時期は当然改名以降となるKが、筆者は改名以前の出来事ではなかったかと考えている。

親鸞からみれば、師に認められ、「如来よりたまわりたる信心」の教言によって「回向」の推究へと導かれた忘れ難い出来事であり、法然からすれば、専修念仏の原理をよく咀嚼し、しかも同僚先輩、さらには師の前で一歩も引かないその純粋さと強さに、『選択集』を付属するに足る弟子と認めた出来事だったのではないだろうか。
 

I「「名之字」考」(『新潟親鸞学会紀要 』第4集)91頁
J同上、92頁
K事実、「善信」改名説を採る後代の親鸞伝は、「善信」の名の登場する「信行両座」「信心一異」のエピソードをいずれも改名直後の出来事としている。(『親鸞伝絵』、『親鸞聖人正明伝』他)


      おわりに


筆者が「名の字」は「親鸞」であると考えるにいたった発端は、これを「善信」とした場合に多くの矛盾と疑問が生じたからである。

(1) 「善信」とは房号ではないのか。(実名「綽空」から房号へと改めるという矛盾)
(2) なぜ「善信」と書かないで「名の字」としたのか。
(3) なぜ「後序」に「親鸞」と名告った時期や経緯の記述がないのか。
(4) 「善信」を「親鸞」に改めたにもかかわらず、なぜ「善信」と「親鸞」という二つの実名を同時期に、しかも同じ文書の中でさえ併用するのか。

(1)(4)の問題について回答を試みたものが、「善信」は当初実名兼仮名であり、「親鸞」と改名の後は房号として用いられたとするT氏の論考であり、(4)の疑問をあえて無視して(2)(3)への回答を試みたのが、「善信」をあくまで実名だとしたI氏の論考であった。

しかし本文中すでに指摘したように、いずれの論考にも論理の飛躍や根拠のない断定が見られ、説得力ある回答にはなっていない。
新たな問題が頻出し、矛盾に満ちた親鸞像が提示される結果となっている。

また、I氏の論調からは、「善信」を房号であるとする主張が「善信」という名を軽んじ貶める行為だと感じておられる印象すら受ける。

だとすれば、それは現代の感覚にとらわれ過ぎたゆえの誤解であると言わねばならない。

親鸞は「善信」という房号を終生用いているし、何より聖徳太子から「行者宿報の偈」を授かり「一切群生に説き聞かすべし」と告命された名であり、吉水の草庵において師法然から親しく呼びかけられた名でもある。

また、親鸞は、「善信の御房」と呼ばれる度に、師教の聞信という仏弟子の基本姿勢を確認し続けていたのかも知れない。

親鸞は「信巻」に『涅槃経』「迦葉品」の文、

また言わく、
信にまた二種あり。
一つには聞より生ず、二つには思より生ず。
この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。
また二種あり。
一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。
この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。已上抄出(『定親全』1、123頁)

を引いている。

「得道の人を信じ、その教えを聞思せよ。」

親鸞はこの「信不具足」の教説を深く了知すべき釈尊の「金言」であると聞き取った。L

親鸞は生涯釈尊・法然の教言を「善く信じ」、論師「親鸞」として思索の限りを尽くしていったのであろう。
(その意味では親鸞はまぎれもなく房号「善信」と実名「親鸞」の二つの名を生きたのである。)
 

L「欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。」(「信巻」・『『定親全』1、133頁)
 

略号
『定親全』……『定本親鸞聖人全集』(法蔵館)
『真聖全』……『真宗聖教全書』(大八木書店)
 

『親鸞教学』第96号(大谷大学真宗学会・2011)に掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に、また旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。

「「善信」実名説を問う(上)にもどる〕
 


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