「善信」実名説を問う(下) 豅 弘 信
前号前章において筆者は、覚如が「善信」房号説の嚆矢であることを述べた。 論述の意図は、「善信」実名説が覚如説を母胎としながらその出自を否定し、中世当時の人名に関する慣習を無視した上で成り立つ、覚如説のいわば変異型とも言えるものであることを言わんとすることにあった。 覚如説の前提を抜きにして「後序」の「名の字」は「善信」(実名)であるという理解が果たして成り立つであろうか。覚如説の前提を外して「後序」を読んだ時、筆者はそこに「善信」の名が登場していないことに愕然とした。 「藤井善信」という罪人名も登場してはいない。 「後序」にはただ「愚禿釈の鸞」の名告りがあるのみである。 「名の字」が「善信」であれば、なぜ親鸞は「名の字」と、あえてそれを秘するような言辞を用いたのかと疑問を抱かざるを得ない。旧稿「「善信」と「親鸞」---元久2年の改名について――」にも述べたように、筆者はこの「 名の字」の記述を、実名「親鸞」の重複頻出を避けるための「省略」であると考えている。 覚如説の先入見を廃して読めば、親鸞は初めから「名の字」とは「釈親鸞」であると読めるように書いたのではなかろうか。 「後序」は『教行信証』撰述の「事由」(具体的成立事情)を語る箇所であり、当然その撰述の主体である「愚禿釈親鸞」の名告りの「事由」もまた語っていると理解できる。 もしこの「名の字」が「善信」であるとすれば、「愚禿釈親鸞集」との撰号を持つ著作において親鸞はそのどこにもその名告りの時期や経緯を記していないことになるのである。 「善信」説を採る諸先学はこの「名の字」についてどう語っておられるのであろうか。 古田武彦氏は、「本師聖人、今年は七旬三の御歳なり」等の記述から、「後序」の該当部分にはその原になった文書――元久2年当時に書かれた選択付属・真影図画の記録文書があり、文末に「釈善信」と署名された原文書の「 名の字」の記述を『教行信証』(坂東本)に書写する際にそのまま残したことによって「釈善信」が消えた結果となった、と推定されている。@ 「後序」は、その一頁八行書きの形式や筆跡等から親鸞が60歳頃に書かれたことが知られているが、親鸞はその後も『教行信証』全体の推敲・改訂を続けており、「後序」においても、「太上天皇諱尊成」に「後の鳥羽の院と号す」、「今上諱為仁」に「号土御門院」、「皇帝諱守成」に「佐土院」との註記が、70歳(仁治3年・1242)から77歳(建長元年・1249)の間のいずれの時にか書き入れられている。 元久2年に原文書が書かれた可能性は否定できないものの、「後序」や『教行信証』本文に「善信」という名が頻出しているのならともかく、どこにも登場していない状態で、曖昧な箇所をそのまま残し続けたとは考え難いのではないだろうか。 今回取り上げるM.I氏は、「名(ミョウ)の字」とはあくまで「名前を伏せている」のであり、その理由は「承元の弾圧によって遠流に処せられる時(1207年)、還俗の罪名である「姓名(ショウミョウ)」に、そのまま利用されてしまったから」であり、「罪名とされた事自体が、「善信」が房号でないことを反証している」とされている。A I氏は「名」は「ナ」ではなく「ミョウ」と読むべきであり、流罪に際し与えられた「姓名(ショウミョウ)」――親鸞においては「藤井善信(よしざね)」――との連関からこの「名(ミョウ)の字」が「善信」であることが読み取れるとされている 。 氏自身の語に拠れば「後序」は「暗号」文書であり、親鸞が「後序」を「暗号」化しなければならなかった理由は、「藤井善信」の「よしざね」という読みに込められた侮蔑性にあると言われる。 僧侶の名は音読み、俗人の名は訓読みという慣習に従って「善信」の読み「ぜんしん」が「よしざね」と改められたわけであるが、これが「よしのぶ」ではなく「よしざね」という読みが選ばれたことに侮蔑がある
。 しかし、ここでまず疑問なのであるが、「後序」の文は、法難の詳細を知らない人間には読めないように意図して書かれたのであろうか。 現在の私たちは、例えば『歎異抄』や『血脈文集』の「流罪記録」から、親鸞の罪人名が「藤井善信(よしざね)」であると知っている。 しかし、親鸞の罪人名を知らなければ、これらの史料の助けを借りなければ「後序」が理解できないように、「名の字」が「善信」であると理解できないようにわざと親鸞は書いたのであろうか。 「後序」も含めて、親鸞の著述には振り仮名、左訓、字訓、圏発(四声点)等々、読者の理解のための種々の便宜、配慮がなされている。 その親鸞があえて、補助資料なしには理解できないような「暗号」化した文書を残したであろうか。 前述したように親鸞は「後序」に「善信」という名も「藤井善信」という罪人名も書いていない。 また、仮に「よしざね」の読みにI氏の言うような侮蔑の意図があったとしても、それが名を秘さねばならないほどの侮蔑であったのだろうか。 親鸞が承元の法難に対して大変な憤りを覚えていたことは間違いないであろう。 承元の法難によって、法然を始め門弟7名が流罪(うち2名が執行猶予)、4名が死罪に処せられている。 『律令』に規定された刑罰は、「名例律」に拠れば、笞(ち・竹の棒で尻や背中を叩く)・杖(じょう・笞より太い棒で叩く)・徒(ず・懲役刑)・流(る・配流)・死(死刑)であるが、死罪には絞(絞首刑)と斬(斬首刑)とがあり、配流にも罪の軽重に応じて近流(ごんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)がある。C 「斬首」とは、『律令』「賊盗律」に、
とあるように、2名以上によって君主の殺害を計画(未実行)した「謀反(むへん)」、もしくは御陵・皇居の損壊を計画し実行した「大逆」、言うなれば国家の転覆を図った者に処せられる厳罰であり、「遠流」は、同じく「賊盗律」に、 凡そ妖書及び妖言を造れらば、遠流。…… とあるように、妖書妖言をもって民衆を惑わした者に科せられる処罰である。 元久2年(1205)10月、興福寺より専修念仏の停止と法然及び門弟の処罰を求めて朝廷に『奏状』が提出された。 これに対する回答として12月29日、「偏執は禁止するが刑罰は与えない」という宣旨が下されたが、これを不満とした興福寺側は翌元久3年2月使者(五師三綱)を送って法然・安楽房遵西・成覚房幸西・住蓮房・法本房行空らの処罰を要求し、朝廷側はこれに対して「偏執傍輩に過ぐるの由」との風聞のある安楽房・法本房の処罰という妥協案を示し事態の収束を図った。 この結果、両名の罪名を明法博士に勘案上申させるよう宣旨が下され、それに対する回答(宣旨の文案)も後鳥羽上皇のもとに上奏されていたが、上皇はその宣旨を下さず留保し、興福寺側の催促にも応じていなかった。 しかし、『愚管抄』巻六が、
と伝えた「事件」――12月、上皇の熊野行幸による不在の間に院の小御所の女官(上皇の愛妾伊賀の局)や道助法親王(仁和寺の御室)の母であり上皇の妃である坊門の局などが安楽・住蓮をひそかに小御所に招き、そのまま宿泊させた――によって事態は急変する。翌建永2年(1207、10月に承元と改元)1月下旬、専修念仏停止の宣旨が重ねて下され、2月、逮捕・拷問の後、刑が執行された。 以上の経緯から死罪4名・流罪8名という厳罰の実態は、後宮を荒らされたと感じた後鳥羽上皇の私的な憤りによるものであったことが知られる。 しかし、『律令』に基づく法治国家という体面上からすれば、処罰はあくまで『律令』(賊盗律)の規定に従って適正に履行された、つまり極刑に処せられるだけの重大な犯罪行為があったと言い繕わなければならない。 本来謀反・大逆に与えられるべき刑罰が与えられたというのにとどまらず、その刑罰に値する罪状があったとされた、つまり不当な処置を正当化するためにあえて罪状を捏造し、治天の君後鳥羽上皇殺害を企図した謀反人として4名が斬首に処され、専修念仏は仏教にあらざる異端妖説(危険思想)との烙印を押され禁制とされ、関係者が遠流に処されたのではないか、と筆者は推するのである。 この筆者の推論を裏付ける史料はない。 もちろん散逸がその主たる理由とは考えられるものの、例えば『明月記』に藤原定家が「去比(やんぬるかな)、聊(いささ)か事有るが故にと云々。その事已(すで)に軽きに非ず。また、子細を知らず、染筆に及ばず。」と記したように、その処罰の厳しさと捏造された罪状の余りの理不尽さに関係者が一様に口を閉ざしたという事情もあるのではないか、と筆者は想像するのである。 「御弟子中狼籍子細あるよし、無実風聞」(『歎異抄』)とは、後宮の女官との密通という言わば風紀上の問題ではなく、国家体制転覆の謀議と異端妖説の流布という「冤罪」を指すのではなかろうか。 その地位や栄華に惑溺せずひたすら「後世」を恐れた女官達の宗教的要求、その要求に真摯に応えた人間に謀反人の烙印を押し、末法濁世の唯一の出離の要路である専修念仏を妖言妖説として禁圧する不当不正義に対して、親鸞は「後序」において「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す」と弾劾したのであり、それを後押しした僧界(「諸寺釈門」)、俗界(「洛都儒林」)を「教に昏くして真仮の門戸を知らず」「行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」、つまりは「真宗」(真の仏教)に無智であると批判し、「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす」と僧俗双方との訣別を宣言したのである。 親鸞から見れば、自分が法然の門弟――その信念の継承者であるがゆえに罪に問われたのである。 I氏の説は、このような「弾劾」文書の趣すらある「後序」の記述と全く矛盾するものであると言える。 また、赦免に際して親鸞は以後「禿」の字を姓とすることを朝廷に奏上している。 頭に毛髪のない、いわゆる「はげ」の状態を示す「禿(かぶろ)」とは、その語自体、官僧(諸寺の釈門)として剃髪しているわけでもなく、俗人(洛都の儒林)として髷を結い烏帽子を被ることもできない者としての「非僧非俗」を表す言葉であるが、同時に『沙石集』巻四に、
と伝えられるような、道心もないまま飢餓のために出家し、持戒の者を恣に害する破戒無慚、袈裟を着た賊としての「禿居士(かぶろこじ)」を意味する語でもあると思われる。 つまり親鸞は、『興福寺奏状』で批難されたごとくに、自分は専修念仏者として他宗を貶め、他の神仏・菩薩を崇敬もせず、諸悪を造って恥じなかったその結果、国王によって還俗せしめられた者であると名告ったのである。 親鸞は「破戒無慚」を意味する「禿」は記しながら、一方で「よく女と共寝する」意の「善信」は隠したのであろうか。 親鸞は救世観音から「行者宿報設女犯…」の夢告を受けて法然の門を叩き、「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。……ひじりで申されずば、め(妻)をまうけて申すべし」Eという「在家」の仏教を指授され、同じ『教行信証』に「愛欲の広海に沈没し」とまで書いた人物ではないであろうか。 この点はI氏も
とされているが、それならばなおさら「隠す必要もなく恥ずべきでもないことを侮辱されたから隠した」とする氏の論理展開は理解できない。 しかも「後序」で秘したはずの「善信」がそれ以外の消息や著作では隠されていない。 『教行信証』真蹟坂東本は60歳頃から書き始められ、75歳頃に一応の完成を見(寛元5年(1247)2月、尊蓮が書写)、建長7年(1255)6月に専信が書写した以降も親鸞自身によって推敲の手が加えられている。このように『教行信証』を手元から離さず推敲・改訂を加えていたその間、親鸞は「善信」を使い続けている。F 親鸞からすれば他のどの著作や消息よりも『教行信証』をこそ後世に残したかったはずであるが、その『教行信証』には一切「善信」の名を載せてはいないのである。 氏の所説は矛盾と分裂に満ちた親鸞像を提示していると言わざるを得ない。
治承元年(1177)、延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われ、明雲僧正が天台座主職を解かれて伊豆国に配流と決まったが、配流の途中比叡山大衆が明雲を奪還し叡山に帰還したという事件が『平家物語』巻二に描かれている。 また、『歎異抄』『血脈文集』から承元の法難における法然の罪人名が「藤井元彦」、親鸞が「藤井善信」であったことが知られている。 『百錬抄』巻十三の嘉禄3年(1227)7月7日(異本では「5日」)付の記事
に拠れば、嘉禄の法難の際配流に処せられた隆寛には「山遠里」、空阿弥陀仏には「原秋沢」、成覚房幸西には「枝重」という還俗名がそれぞれを付けられたという。 「罪名とされた事自体が、「善信」が房号でないことを反証している」「実名を読み返させてこそ、罰したことになる」とI氏は言うが、これら六例の内、「善信」を除く五例までは実名が残されてはいない。 氏は罪名には実名との連関があり、そこに侮蔑性を見なければならないとされるが、筆者は少なくとも「山遠里」以下の三つの名から実名との連関性も侮蔑性も読み取ることができない。 あくまでも個人的な感想であるが、「松枝」にしろ「山遠里」「原秋沢」「枝重」にしろおよそ人名とは思われない。 むしろこの適当さが罪人に対する侮蔑であると言えるかも知れないが、これらに較べて「元彦」「善信」という名はむしろ人間的であり、好意すら感じさせられる。 これを、法然とその門弟になされた理不尽な措置への「後ろめたさ」の所産である、と考えるのはうがち過ぎであろうか。 しかし、ここでは結論を急がず、「善信(よしざね)」の「ざね(さね)」に本当に侮蔑性があるかどうかを検討してみたい。 いくつかの辞書に拠れば、「さね(さ寝)」は自動詞「さぬ(さ寝)」(ナ行下二段活用)の連用形「さね」から転じた名詞であり、「寝ること。特に、男女がいっしょに寝ること」(『日本国語大辞典』)という意味が載せられていたが、「男女が共寝する」の用例は、『万葉集』巻第十四の「東歌」、
の二例であった。 『万葉集』は巻二十の天平宝字3年(759)正月一日の大伴家持の歌をその末尾に置いており、天平宝字3年から法難のあった建永2年(1207)2月までその時差は450年ほどにも及ぶ。 (ただし『万葉集』の成立については、江戸期の契沖以来の“2度撰”説―全20巻の内、1巻から16巻までがいったん成立した後、大伴家持によって17巻以降が補われて完成したとする―もある。 ちなみに『後撰和歌集』巻十一には「三条右大臣」(藤原定方・873〜932)の歌
に、「男女が共寝する」意味の掛詞(かけことば)として「実葛(さねかずら)」が用いられている。 この歌は、藤原定家(1162〜1241)の選んだ『小倉百人一首』にも入れられているので、当時、「さねかずら」が「男女の共寝」を意味することは、歌人の教養として宮廷人の間では共有されていたことが知られる。 I氏には、これらの例に留まらず、「承元の法難」当時、「さね(さ寝)」が一般的に用いられたことを示す実例を提示していただきたい。 ただし、仮に当時「さね」に「男女の共寝」の意味があることが広く一般的に知られていたとしても、それが侮蔑語として機能していたかどうかは別問題である。 それは以下の理由による。 もし当時「さね(ざね)」が何らかの侮蔑を広く連想させたのであれば、その侮蔑性が及ぶ範囲は「よしざね」だけにとどまらない。 しかし、当時の史料を開けば、当時の高位高官で「さね(ざね)」と読む字のある名をいくつも発見できる。 ちなみに専修念仏停止の執行された建永2年の『公卿補任』には次のような例が見られる。
この他、すでに政界を隠退、出家していた九条兼実(元摂政・関白、太政大臣)、三条実房(元左大臣)の例もある。 また『尊卑文脈』によって時代を遡れば、藤原氏だけでも基実(兼実の兄・家実の祖父)、忠実(基実・兼実の祖父)、師実(忠実の祖父・頼通の長男)といった「氏の長者」が「さね(ざね)」の読みのある実名を持っている。 これらの実例から見て「さね(ざね)」に侮蔑の意味はないと考えられるし、もしI氏の言うような意図を持って「よしざね」の読みを用いたとすれば、これらの高位高官に対しても侮蔑もしくは皮肉として機能することになりはしないであろうか。 また、あえて「女性とよく共寝する破戒僧」という意味をもたせたとすれば、周囲を見回せば僧侶の大半が公然とではないにしろ妻妾を持ち、実子を「真弟子」「真弟」と呼んで法義・住房・財産を相続させている状況(真弟相続)の中、その程度の隠喩はさしたる侮蔑中傷にならないどころかむしろそれらの僧侶に対する皮肉と受け取られる危険性すらある。 「この侮蔑はあの罪人に限ったもの」とする弁明が通用するほど公家社会が寛容であったとは思われない。
この問題提起に対してI氏は「後序」には「きちんとその時期と意味も明記している」と言われる。 I氏は、「後序」の構成の構造は、 「三十五歳 承元の弾圧 という、「わざと編年体を破っ」た構成になっており、「前半が35歳から40歳に、後半が29歳から33歳へと次第」し、「その中間に「然るに愚禿釈の鸞」という名告りが記されている」ことから、
としている。 つまり、I氏は、「改名した」という明確な記述はないものの、建暦2年(1212)1月25日の法然の死の記述の直後に「愚禿釈の鸞」の名告りが位置する「後序」の構成から、法然の死を契機として「親鸞」と改名したと明記していると理解すべきであると言うのである。 しかし、「建仁辛の酉の暦、愚禿釈の鸞、雑行を棄てて本願に帰す」でなく「然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」であるのは、この「愚禿釈の鸞」がその後に記されている建仁元年の吉水入室と元久2年の選択付嘱・真影図画といった体験の主体であるからに他ならない。
という「対句」表現から一見してそれが知られるし、「然るに愚禿釈の鸞」の「然るに」も、「先行の事柄に対し、後続の事柄が反対・対立の関係にあることを示す。ところが。しかし。さるに。」もしくは「話の冒頭に用いる慣用語。 逆接の意味は持たない。さて。ところで。」(以上、『日本国語大辞典』)という、その前とは明らかに異なった話題が始まる際に用いられる接続語であり、I氏の言うような前の事柄を承けるという文章の展開を示すものではない。 「後序」ではこの箇所で初めて「愚禿釈の鸞」と記しているとはいえ、前半部分で承元の法難の経緯とその意味を推究――「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば」――した主体も「愚禿釈親鸞」である。 この「然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦……」とは、
という論旨の展開を示すものに他ならないのである。 また、I氏は「禿」への改姓を35歳としているが、親鸞は「禿」姓に「非僧非俗」の意味を込めており、『歎異抄』『血脈文集』に拠れば、改姓を朝廷に奏上している。 このことから「禿」姓の名告りは私称ではなく、「非僧」――赦免後も官僧・天台僧に復籍しない――の公式表明であることが知られるし、「非俗」と言っても流罪中の親鸞は「俗人」以外の何者でもない。 つまり、「非僧非俗」とは、自らの社会的身分を再選択できる建暦元年(1211)11月17日の赦免後に初めて意味をなす自己規定であると言え、流罪直後の奏上では単に罪人名の「藤井」姓を拒否したに過ぎない。 もちろん流罪中に私的に「禿」姓を名告った可能性もあるが、その場合でも、赦免時には再度の奏請が必要となる。(この点はI氏も、改姓は流罪直後としながら赦免時に奏請したとしている。H) つまり「禿」への公式な改姓は39歳以降と考えられ、「後序」の前半部分が完全な編年体を採っていると断定はできなくなる。 さらに言えば、「後序」は現行の構成でなければならなかったわけではない。 どのような構成にするかは著者親鸞の自由裁量であり、29歳の吉水入門から始めて40歳での師の入滅に至る完全な編年体を採る選択肢もあり得たはずである。 また、I氏は、この時の「親鸞」への改名について、
とするきわめて曖昧かつ微妙な表現を取っておられる。 氏に拠れば建暦2年の親鸞の改名は実は名を改める――今までの物事を取り除いて新しくする――のではなく、「善信」の他に新しい実名「親鸞」をもう一つ名告ると自分で決めたことであり、だからその後も「善信」も同様に実名として用いて「二つの名を生きていく」というのである。 一人の人物が複数の実名を持った例はある。 同時に複数の実名を持つことがあり得るのかどうか、親鸞の時代にそのような実例があるのかどうか、寡聞にして筆者は知らない。 ただ、I氏は論文中しばしば実名の持つ「重さ」について言及されている。 いわく「『七箇条制誡』の署名はすべて実名でなければならない」「房号を罪名に使っても罰したことにはならない。」等々。 I氏はまた、親鸞は二つの実名を「使い分け」ているとも言われる。 氏は「「名之字」推考」において、
として、「善信」を「法然上人の教えを受けとるという姿勢」「阿難のような位置に自分を置くという意味を持った名前」であるとされ、それに対して「親鸞」は「仏滅後の仏弟子が仏の教えに相応するというその課題を名前にした」「法然上人が亡くなった後、浄土宗の学者として生きようとする名前」であるとされている。 しかし複数を同時に所有し、状況に応じて使い分けができるような実名に「重さ」があるとは筆者には到底思えない。 I氏の言う「使い分け」に関しても、「法然上人の教えを受けとる」ことと「浄土宗の学者として生きる」ことの間に明確な線引きができるとも、また親鸞の中で実際にできているとも思えない。そもそもこれらの二つの立場を使い分けるということが、文章の修辞としてならともかく、現実に一人の人間の精神の内面において成り立つのであろうか。 親鸞の内面において、法然の弟子として師教を聞信することとその遺弟として師教に相応すべく思索することは一つのこと、むしろ不可分離の事柄ではないか、と筆者は考えざるを得ない。 例えば、「ひたち(常陸)の人々の御中へ」宛てて「いまごぜ(今御前)のはは(母)」と「そくしょうぼう(即生房)」の扶助を依頼した最晩年の書簡(署名「ぜんしん」)が、いかなる意味において法然の教えを受けとる阿難のごとき姿勢を示しているというのであろうか。 また、「愚禿釈善信」の奥書をもつ隆寛の『一念多念分別事』の書写(建長7年(1255、親鸞83歳))が、他の著作活動、例えば「愚禿(釈)親鸞」の奥書を持つ同じ隆寛の『自力他力事』(寛元4年(1246、74歳)や聖覚の『唯信鈔』の書写(寛喜2年(1230、58歳)、文暦2年(1235、63歳)他)とどう違うというのであろうのか。 さらに言えば、親鸞は康元元年(1256、84歳)から翌年正月にかけて『西方指南抄』を、正元元年(1259、87歳)には『選択集』延書本をそれぞれ書写しており、師法然の思想
、行実や法語を未来に伝えんとするこれらの行動こそまさしく法然の弟子としての「善信」の名でなされるべきであると筆者には思われるが、実際にはこれらの奥書すべてに「愚禿親鸞」と記されている。
と、法然及び22名の弟子の名が載せられ、親鸞はここで自らを「善信」と記している。 二尊院蔵の「原本」に拠れば、元久元年当時、親鸞は翌11月8日、87番目に「僧綽空」と当時の実名で署名している。 親鸞は「僧綽空」をここであえて「善信」と改めているわけであるが、これはいかなる理由によるものであろうか。 I氏は、この記述が「「綽空」の字を改めて「善信」と記したことがわかる唯一の使用例」I、つまり「善信」が実名である唯一の証拠だとされるが、それならば親鸞はなぜ翌元久2年(1205)以降の実名――つまり、『七箇条制誡』署名の時点では用いていなかった「善信」を記したのであろうか。 また氏は「「善信」と名告った後は、それ以前の「綽空」も、あるいは「範宴」も、直せるだけのものはすべて自ら「善信」と改めて行ったと領解すべき」Jとされているが、『指南抄』以外の例は示されておらず、「善信」に書き換えなければならない必然性も判然としない。 この『西方指南抄』所収『七箇条制誡』の「善信」の署名を、旧稿において筆者は、「善信」が吉水期以来の房号であることを反証するものであると考えた。 つまり署名当時の実名「綽空」と記しても読者――直接には『西方指南抄』を託した真仏・覚信ら高田門徒――には誰を指すのか不明であり、当時の実名はもちろん「親鸞」ではない。 それゆえ当時(32歳)すでに用い、現在(84歳)も使用している連続性のある房号「善信」をあえて記したのではないか、と筆者は推測したのである。 しかし、I氏はこれに対して、
と批判されたのである。 「署名はすべて実名でなされている」という氏の主張に根拠がないことは前号前章で述べた。 また、「房号で署名したと主張する者は署名の厳しさと重さを推測できない」という批判も、筆者には、氏が二つの『七箇条制誡』(元久元年の「原本」と康元元年の『西方指南抄』所収の写本)の文書としての性格を混同しておられるとしか思えない。 つまり、元久元年の「原本」は「比叡山の大衆の批難と怒号を鎮めるために起草された」公文書であるが、康元元年の『西方指南抄』所収写本は師法然の行実・思想を伝えるべく製作された『西方指南抄』の中の一史料、つまり伝記史料であり、不完全な「写し」である。 筆者があえて「不完全な」という表現を採ったのには二つの理由がある。 一つには、門弟の名が親鸞を含む22名しか記されていないことである。 法然門下の最長老法蓮房信空から始まり19人目の源蓮までを「原本」の通りに記し、「原本」では89番目の法力房蓮生、親鸞、40番目の法本房行空の3名が続いている。 この結果、門下の主要な弟子である善恵房証空、勢観房源智、承元の法難で死罪となった善綽房西意、流罪を宣告された成覚房幸西、行空の名は載っているものの、死罪となった安楽房遵西(30番目)、流罪となった禅光房澄西(47番目)、法然に同道して讃岐まで赴いた覚明房長西(104番目)らの名は記されていない。 なぜ親鸞は22名しか記さなかったのか、いかなる基準に基づいて自分以外の21名を選んだのかについて実際のところは不明である。 親鸞は「原本」を直接写したのではなく、入手したとある写本を『指南抄』執筆時に写し、それを中巻末の冒頭に収めたと思われるのである。 「原本」と『指南抄』所収本の本文を比較すると、まず冒頭の一文が「原本」では
とあるのに対して所収本では
となっているのに始まり、「既除」が「免除」、「恣」が「恐」、「寧」が「輩」となるなど多くの字の変化や脱落が見られる。 これだけならば親鸞自身の誤写と考えられないわけでもないが、決定的なのは文末の「已上二百余人連署了」の記述である。 「原本」の署名は190人であり、署名人数には通し番号が振ってある。(ただし11月8日(署名二日目)の最初(81番目)の「僧尊蓮」に誤って「八十」と振ってあるので通し番号を信頼した場合には「百八十九人」ということになる。) つまりこの「已上二百余人連署了」の記述は親鸞が見た底本に基づいたものだと考えられるし、22名の署名もおそらくそれ影響されてのことであると思われる。 『指南抄』所収の『七箇条制誡』は原本を直接写したものではなく、親鸞が入手した写本を底本としたものであると考えられること、これが筆者が「不完全な写し」と述べる第二の理由である。 つまり『指南抄』所収本は50年余の歳月と最低2回(1回は親鸞)以上の書写を経た、すでに公文書(『起請文』)としての性格を喪失した伝記史料であり、伝記編纂者の裁量による読者の便宜のための変更は当然許されるべきものであったと筆者は考えるのである。 ここで視点を変えて、『西方指南抄』執筆当時の親鸞及びその門弟の状況を振り返ってみる。 親鸞真蹟本『西方指南抄』各巻の奥書に拠れば、親鸞は康元元年(1256)10月13日に上巻末を書き終え、翌康元2年正月1日まで校合を続けている。10月14日に中巻末、10月30日に下巻本、11月8日に下巻末、翌年正月2日に上巻本を書き上げ、同日中巻本の校合を終了したとされている。 一方、『三河念仏相承日記』に拠れば10月中旬真仏・顕智・専信らは上洛の途上にあり、13日、三河国薬師寺の念仏興行に会し、その後上洛。 真蹟本全六巻の書写校合が終わった康元2年1月2日以降、真仏による書写が進められ、専修寺蔵真仏書写本の奥書に拠れば、2月5日に下巻本の書写が終わり、以後各巻が写され、3月20日中巻末の書写終了の頃まで作業が続けられた。 真仏はその後しばらく京都に滞在した後、関東に帰り、翌正嘉2年(1258)3月に亡くなっている。 『影印高田古典』第四・六巻の「解説」に拠れば、親鸞真蹟本を真仏が写した後に真蹟本の本文が変更され、それらの変更が真仏書写本に反映された箇所がいくつかあるという。 真仏は真蹟本を機械的に写したわけではなく、親鸞と言葉を交わしながら、時には意見を述べながら書写作業を続け、結果、真蹟本にそれらが反映されたと見ることができる、とされている。 『七箇条制誡』を収めた中巻末は真仏らの上洛以前の康元元年10月14日に書き上げられており、真蹟本の該当箇所にも校正の跡は見られない。 しかし、真仏らの上洛の報は当然執筆中の親鸞にも届いていたはずであるし、読者としての彼らを念頭に置きながらの執筆であったと思われる。 ちなみに『歎異抄』は吉水時代の信心一異の諍論を伝えているが、筆者は、親鸞がこのエピソードを門弟に話した際にも同様の配慮が働いたのではないかと考えている。 論争の場においては「綽空が信心も」と当時の実名をもって語り、後年唯円らの前では吉水以来の房号「善信」を用いて「善信が信心も」と語った可能性も考え得るのではないだろうか。 この論争が行われた時期は元久2年の改名の前、それとも後のどちらであっただろうか。 「善信」改名説を採れば論争の時期は当然改名以降となるKが、筆者は改名以前の出来事ではなかったかと考えている。 親鸞からみれば、師に認められ、「如来よりたまわりたる信心」の教言によって「回向」の推究へと導かれた忘れ難い出来事であり、法然からすれば、専修念仏の原理をよく咀嚼し、しかも同僚先輩、さらには師の前で一歩も引かないその純粋さと強さに、『選択集』を付属するに足る弟子と認めた出来事だったのではないだろうか。
筆者が「名の字」は「親鸞」であると考えるにいたった発端は、これを「善信」とした場合に多くの矛盾と疑問が生じたからである。
(1)(4)の問題について回答を試みたものが、「善信」は当初実名兼仮名であり、「親鸞」と改名の後は房号として用いられたとするT氏の論考であり、(4)の疑問をあえて無視して(2)(3)への回答を試みたのが、「善信」をあくまで実名だとしたI氏の論考であった。 しかし本文中すでに指摘したように、いずれの論考にも論理の飛躍や根拠のない断定が見られ、説得力ある回答にはなっていない。 また、I氏の論調からは、「善信」を房号であるとする主張が「善信」という名を軽んじ貶める行為だと感じておられる印象すら受ける。 だとすれば、それは現代の感覚にとらわれ過ぎたゆえの誤解であると言わねばならない。 親鸞は「善信」という房号を終生用いているし、何より聖徳太子から「行者宿報の偈」を授かり「一切群生に説き聞かすべし」と告命された名であり、吉水の草庵において師法然から親しく呼びかけられた名でもある。 また、親鸞は、「善信の御房」と呼ばれる度に、師教の聞信という仏弟子の基本姿勢を確認し続けていたのかも知れない。 親鸞は「信巻」に『涅槃経』「迦葉品」の文、
を引いている。
親鸞はこの「信不具足」の教説を深く了知すべき釈尊の「金言」であると聞き取った。L 親鸞は生涯釈尊・法然の教言を「善く信じ」、論師「親鸞」として思索の限りを尽くしていったのであろう。
(『親鸞教学』第96号(大谷大学真宗学会・2011)に掲載の論文を加筆補訂)
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