「善信」実名説を問う(上) 豅 弘 信
親鸞は『顕浄土真実教行証文類』「後序」に元久2年(1205)、師法然より『選択本願念仏集』の書写と真影の図画を許されたことを記録している。
先年発表した拙稿「「善信」と「親鸞」 ――元久2年の改名について――(上・下)」(『親鸞教学』第75・76号/2000年)において筆者は、閏7月29日、法然によってその真影に名号と『往生礼讃』本願加減の文とともに記された「
名の字」は従来了解されてきた「善信」ではなく「親鸞」、つまりこの時の改名は「綽空」から「善信」ではなく「親鸞」への改名であり、親鸞は流罪以後ではなく法然門下にあったこの時点から「親鸞」と名告っていたこと、従来実名とされてきた「善信」は吉水期以来終生用い続けた房号であることの論証を試みた。 発表後すでに多年を経過したが、筆者自身の見解に基本的に変化はない。@ しかし、旧稿発表とほぼ同時に本多弘之氏によって「親鸞」改名説の提示とそれに伴う「歴史的親鸞像の見直し」が提唱され(『新講 教行信証 ――総序の巻』(2003年)他)、近年M.I氏(「「名之字」考」(『新潟親鸞学会紀要 第4集』(2007年)他)、A.T氏(「親鸞の名のり ――「善信」房号説をめぐって――」(『教化研究 第144号』(真宗大谷派教学研究所・2009年)他)らによって、
とする「善信」改名説が再提示され、大谷大学真宗総合研究所において公開学習会(『親鸞像の再構築(三)』(2009年)参照)が持たれる等、論争の機運が高まっているように見受けられる。
今回筆者は論争に一石を投じるべくI・T両氏の論考を取り上げ、第一章では主にT氏、第二章ではI氏の論考について批判検討を加えていくこととする。
一 存覚説の信憑性
という二つの主張を同時に含むものであった。 それに対してI氏、T氏らが提示した「善信」改名説は、
というものである。 しかし、「善信」改名説の嚆矢である親鸞の曾孫覚如におけるそれは、「善信」を実名としてではなく、あくまで房号と位置づけている。つまりI氏・T氏らによって批判されている「善信」房号説の嚆矢もまた覚如なのである。 覚如は『拾遺古徳伝』巻六において元久2年の改名を、 と解説している。 これが真宗史上初めて「名の字」を「善信」であるとした「善信」改名説の嚆矢であるが、そこでは「善信」は「号す」と、房号として扱われている。 これに比して覚如は、『報恩講式』には、 況(いわん)や自ら名のりて親鸞と曰(のたま)う、として、実名「親鸞」に対してはあくまで「名のりて」と記している。 また、『古徳伝』巻七の承元の法難の記事においても として、「善信」を房号、「親鸞」を実名と記している。 (この『古徳伝』の記事からは、覚如が用いた原史料――承元元年(1207)の法難当時のもの――に「善信房親鸞」と記されていた可能性すら窺うことができる。 覚如の『口伝鈔』上巻第六条には、常陸の信楽房が親鸞の門下を離れた際に蓮位が「門下を離れた以上、彼に与えた本尊・聖教を取り戻すべきでは」と進言したのに対して、
本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだしかるべからざることなり。 この時親鸞はさらに続けて、 當世たがいに違逆のとき、本尊・聖教をとりかえし、つくるところの房号をとりかえし、信心をとりかえすなんどいうこと、国中に繁昌と云々、かえすがえすしかるべからず。(同上) と発言した、と覚如は記している。この記事は親鸞在世当時、師弟間に確かな契りが結ばれた際に師は弟子に本尊・聖教、そして房号を与え、破門の際にはそれらを剥奪する――「悔い返し」の――慣習があった、もしくはあったと覚如が認識していたことを示している。 この記事から推するに、覚如は、元久2年の出来事を、親鸞が法然から本尊(法然の真影)・聖教(『選択集』)、そして房号(「善信」)を与えられた出来事であったと認識していたと思われる。
また覚如はその著作において親鸞が「善信」(『御伝鈔』上三段)、「善信房」(同・上七段、『口伝鈔』第十四条)、「善信の御房」(『御伝鈔』上六段、『口伝鈔』第一条、第八条、第十二条、第十四条)と呼ばれる場面を描いている。これらの記述からも覚如が「善信」を房号、それも吉水期以来のものと考えていたことが知られるのである。 イ 「実名敬避俗」 なぜ他者から呼ばれることが「善信」が房号であることの証左となり得るかと言えば、当時人名に関して、人の名はその人の本性を表し、その人の存在自体と分かちがたくほとんど一体であるとする「名詮自性」の観念があった。
である。 雄略天皇が若菜を摘む乙女を見初めてその名を尋ねたのであるが、当時名を尋ねることは求婚を意味し、乙女が自分の名を教えれば結婚を承諾したことを意味したのである。 つまり名を他人に知らせることは名の持っている霊的なものを他人に委ねるという意味があり、反対にその人の名を知ることがその人の存在そのもの、運命や生命をも自由にし得る、文字通り「生殺与奪の権を握る」――時には呪詛の対象とする――ことすら意味したのである。 この結果、名を他人に知らせることを避け、日常生活において人の名を憚って呼ばない「実名敬避俗」(「実名敬避」の習俗・習慣)が生じた。 また、懲罰の一環として名を改悪したり剥奪したりすることが行われたのもこの「名詮自性」の観念に基づいてのことである。 そして日常生活においては、名(実名)を呼ばない代わりに、他人に知られても危険のない名、あるいは霊性の籠っていない名として通称や仮名(字(あざな))が用いられた。A僧侶を例にとれば、「官僧」である場合、通称として住持する寺院名や官職名(「僧正・僧都・律師」といった僧官・「法印・法眼・法橋」といった僧位他)、あるいは公卿の職名で呼ぶ公名(きみな・君名または卿名(きょうな))などが通称として用いられた。 (例)安居院の法印・宰相法印(諱・聖覚)、長楽寺の律師(隆寛)、大納言律師(公全、後に正信房(聖信房)湛空)、善法院僧都(尋有)…… ちなみに公名は、堂上公家の子息が幼少で入寺し、未得度の稚児だった折、父の職名で呼んだことに起因するという。 また、覚如の『御伝鈔』第一段の記述「範宴少納言公と号す」に拠れば、親鸞の叡山時代の実名は「範宴」、通称が「少納言の公」であったとされるが、親鸞の父日野有範の職名は「皇太后宮の大進」であり、誰かの猶子となって呼ばれた公名の可能性もある。 また当時、幼少より仏門に入り受戒した「官僧」以外にも、官僧から遁世した「聖(ひじり)」、あるいは俗世間で活動した後に剃髪して僧形をとったものの妻帯し公的に活動するなどの在家生活を行った「沙弥(しゃ)」があり、彼らは房号、あるいは阿弥陀仏号(阿号)などを字とした。 (例)法然房(源空)、善恵房(証空)、聖光房・弁阿弥陀仏(弁長)、念仏房・念阿弥陀仏(良鎮)、空阿弥陀仏、阿弥陀丸(教信沙弥)…… 「聖」に対しては尊称として「上人(聖人)」号が用いられ、「沙弥」に対しては「入道」号が用いられた。また、居住した――「別所」の――地名や遁世・出家以前の官職名も盛んに用いられた。 (例)黒谷の法然上人、笠置の解脱上人(貞慶)、栂尾の明恵上人(高弁)、高野山僧都・蓮華谷の僧都(明遍)、白河上人(法蓮房信空)、宇都宮入道(実信房蓮生、俗名・弥三郎頼綱)、熊谷入道(法力房蓮生、俗名・次郎直実)、三室戸大進入道(俗名・日野有範)、栗沢信蓮房(明信)、益方大夫入道(道性、俗名・有房)…… 覚如は永仁3年(1295・26歳)、初めて『親鸞伝絵』を制作しているが、同年10月12日制作の奥書をもつ西本願寺本の題号は『善信聖人絵』、同年12月13日に初稿本を書写したとの奥書をもつ専修寺本の題号は『善信聖人親鸞伝絵』である。 いずれも大谷廟堂の寺院化によって親鸞の位置付けが一念仏聖から「本願寺」の開基・開山へと変化したことに伴うものである。 ただ、当時は仮名も実名と同様公的に用いられ、仮名である房号・阿号の記載された公文書も見ることができる。 三善長兼の日記『三長記』の元久3年(1206)2月14日条は、 新宰相御教書院宣なりを送りて曰く、法々・安楽両人を召し出だすべし。 として、法本房行空・安楽房遵西の房号が「院宣」に記されていることを伝えている。 また、『一向専修停止記』には、貞応3年(1224)5月17日、比叡山が提出した『奏状』に続いて、嘉禄3年(1227)6月29日付の専修念仏停止の「宣旨」と天台座主によって比叡山全体に出された「通達」、同じく7月5日付の「宣旨」と「通達」が載せられているが、7月5日付「宣旨」には、其の上、且く仏法の綾夷を禁じ、且く衆徒の鬱訴を優すに依りて
、根本と謂うを以て、隆寛・成覚・空阿弥陀仏等、其の身を遠流に処せしむべきの由、不日に宣下せらるる所なり。 このように公文書には実名しか記載されないわけではなく、「公文書に記載されているから実名である」と早計に判断することはできない。 また、このような仮名・通称は同時代ないしは当事者周辺では自在に用いられたものの、その結果、実名が伝わらなくなったり、誰を指したか不明になったりする例が少なくなかった。当時の文書には「実名を知らざる兵衛入道の事」(『一向専修停止記』)、「善綽房西意摂津くににして誅す佐々木判官(実名しらず)が沙汰と云々」(『拾遺古徳伝』)といった実名不詳を伝える表記をいくつも見ることが出来るし、『恵信尼消息』第十通は恵信尼の息子信蓮房明信が「五でうどの(五条殿)」のために野積の山寺で不断念仏を始めたとの記事を載せているが、この「五条殿」が誰であるか不明である。 と、法然が九条兼実邸を訪れた際、同席の「三井の大納言僧都覚心」を不審げに見たので、聖覚が「大納言僧都御房」と紹介し、僧都自らが「覚心」と名告った、というエピソードを紹介している。 文中、大納言も僧都も世間に多くあり、「大納言僧都」という通称(公名・僧官名)では初対面の法然に通じなかったため実名をもって自己紹介したと解説されているが、この時聖覚がなぜ「覚心」と伝えなかったかといえばまさしく実名を憚ったからに他ならない。 また、『古今著聞集』巻十六には「聖覚法印の力者法師築地つきを罵る事」というエピソードがある。 持明院の「なつめ堂」の築地塀を修繕する者たちが雑談中「聖覚の」と呼んだのを、たまたま聖覚の輿を担いで通りがかった力者法師(従者)が聞きとがめ、彼らを睨みつけ「おやまき」「ははまき」と激しく罵ったが、その罵りが主人である自分を罵っているようにも聞こえた、と後に聖覚が苦笑しながら人に語ったというのである。 従者の発言
は、格助詞「の」を「動作・作用・状態の主格を表す」ととれば、
と壁の修理人を罵った言葉になるが、「連体修飾格として性質・状態をあらわす」格助詞ととれば、
と聖覚を罵った言葉になる。 しかし従者はなぜ「聖覚の」と呼んだ者たちを「おやまき(ははまき)」と罵ったのであろうか。 現代の感覚からすれば「聖覚の」と敬称抜きで呼び捨てにしたことを従者が怒ったと理解しがちであるが、筆者は「安居院の法印」等の通称で呼ぶべきところを「聖覚の」と実名で呼んだことに従者は激しい怒りを覚えた、と理解すべきであると考える。 このエピソードは「実名敬避」という禁忌(タブー)を犯した者に対して「おやまき(ははまき)」(母子相姦)というこれも禁忌を破った許しがたい者という激しい罵倒をもって応じたという、言わば「実名敬避」の禁忌の厳しさを物語る事例ではないだろうか。
「善信」房号説に対して、親鸞自身が「善信房」と使った用例が提示されていないCとの批判があるが、房号とは自らが用いるよりもむしろ会話の中で他者からどう呼ばれているかによって知られる性格のものなのである。
ウ 「仮実相兼ぬ」について 覚如の長男存覚は『六要鈔』巻一において、
として、吉水入室の際に名告った「綽空」は「仮実相兼ぬ」――仮号かつ実名――であり、聖徳太子の夢告によって法然の受諾のもと、「善信」と改めたと記している。 旧稿において筆者は、
との記述を、仮号としての「綽空」を「善信」と改め、後に実名としての「綽空」を「親鸞」と改めた、つまり元久2年の改名以後親鸞は「善信房綽空」と名告っていた、と存覚が述べていると解釈したのである。 これに対してT氏はこの箇所を、
と読んでいる。 つまりT氏は、存覚は「綽空」のみならず「善信」もまた仮号かつ実名であったと書いていると了解し、元久2年以降、「親鸞」と改める――この時期は不明であると氏は言われる――までの間、親鸞の実名は「善信」であり、改名以後、関東・帰洛期を通じて「善信」は房号として用いられた、とする「善信」実名説を主張しておられるのである。 筆者は旧稿において、『歎異抄』のいわゆる信心一異の諍論の記事において勢観房、念仏房、そして法然が「善信房」と呼び、『恵信尼消息』第三通の常陸下妻での堂供養の夢の記事、第五通の寛喜の内省の記事において夢中の人物、そして恵信尼が「善信の御房」と語ったことを採り上げて、「善信」が吉水期以来、終生用いられた房号であると述べたのであるが、氏は『六要鈔』の記事を前述のように読むことによって、『歎異抄』が伝える「善信房」の呼称が吉水期の房号を伝えたものではないとされたのである。 しかし、筆者はこの『六要鈔』の文は、文の展開(「これを仮号と為て後に実名を称す」)から見て、あくまで「善信」を仮号として、一旦「善信房綽空」と名告り、後に実名を「親鸞」と称したと読むべきであると考える。 もしT氏のように解釈するのであれば、「後にこれを仮号と為て実名を称す」――(一旦仮号も実名も「善信」と名告って、)後に「善信」を仮号として実名を「親鸞」と称すという文の展開でなければならないのではないだろうか。T氏はまた、改名の経過について覚如も存覚と同じ見解を持っていたとされている。 氏が論文中に引かれた覚如の所伝のどこからこのような結論が導かれるのか正直筆者は困惑せざるを得ないのであるが、しかし、それならばまず前掲の『拾遺古徳伝』の記述も「善信と号す」ではなく「善信と名のる」でなければならないはずである。 この『六要鈔』の記述に対して平松令三氏は、当時「仮実相兼ぬ」という例はなく信頼できない、とされているDが、T氏は房号がなく、仮号と実名が同一である人物が存在したとする例を挙げて、この記述の信憑性を強調されている。 例えば聖覚には房号がなく、存覚(実名「光玄」)も、徳治2年(1307)、18歳の折、「たとえ遁世していなくとも将来大谷廟堂の跡を継ぐ身である以上、房号を持つべき」とした祖父覚恵の遺言によって「尊覚」の号を授けられ、後に「存覚」と改めたEが、それ以前には房号がなかったと述べている。 しかし、終生官僧であった聖覚には房号は必ずしも必要ではなく、「安居院の法印」「宰相法印」の通称で事足りるし、存覚に房号がない時代があったとしても、当時彼は官僧であり、当然官僧としての呼称――「大納言」という公名や「法印権大僧都」という位官Fをもって呼ばれていたはずである。 房号がないことが即実名と仮名が一つであることを意味するわけではない。 また、承元の法難において安楽房遵西、善綽房西意、性願房とともに死罪に処せられた住蓮房についてT氏は、『三長記』元久3年(1206)2月21日条の、興福寺側の使者(五師)が法然らの処罰を求めた
という記述を挙げ、
としながら、元久元年(1204)の『七箇条制誡(七箇条起請文)』の第16番目にある「住蓮」の署名を採り上げて、
としている。 しかし、「住蓮」が房号であることを窺わせる当時の史料は『三長記』だけではなく、慈円の『愚管抄』(承久2年(1220)頃成立)巻六には、
という記述がある。 ここでも「住蓮」は「安楽・住蓮」として遵西の房号「安楽」と並べて記されている。 この「京田舎さながらこのようになりける程に」との記述からは、当時専修念仏が都鄙を問わず大流行し、その流行に乗って「安楽」という房号とともに「住蓮」という呼称(房号)が広く人口に膾炙していた事実が窺われるのである。 T氏は、『七箇条制誡』の署名の多くが実名でなされているから「住蓮」も実名であると主張されている。 署名の多くが実名でなされていることは筆者も否定しないが、署名のすべてが実名というわけではない。 何よりT氏自身が、190名の署名の中に15名の阿弥陀仏号(阿号)による署名があることを指摘し列挙しておられる。 「(22)生阿弥陀仏、(34)証阿弥陀仏、(73)好阿弥陀仏、(90)度阿弥陀仏、 ちなみにT氏は論文中、「「名之字」考」におけるI氏の「『七箇条制誡』の署名は実名である」という主張を高く評価しておられるが、I氏は「署名はすべて実名である」と断定しており、I氏の主張はT氏自身の手によってすでに否定されているのである。 京都・二尊院蔵の『七箇条制誡』原本の門弟190名の署名の内、「源蓮」(19番目)、「実蓮」(100番目)、「正観」(129番目)、「有西」(130番目)の裏面にそれぞれ「信願房」、「大夫属入道本名定綱」、「正観房北野」、「伊与国喜多郡蓮観房」との註記がありH、これによれば129番目の「正観」は署名に際して自らの房号「正観房」を記したことが知られる。 また、133番目に見られる「念仏」であるが、この署名は、天台宗の僧でありながら隠遁して専修念仏の門に入り、嵯峨の往生院を創建、『歎異抄』の信心一異の諍論にも登場した念仏房のものと思われる。I(ちなみに署名百九十名の中には「良鎮」という念仏房の実名も「念阿弥陀仏」という阿号も見られない。) 念仏房はここで房号である「念仏」で署名している。 この念仏房が、文暦2年(1235)2月、多宝塔を建立して仏舎利を奉安しようとした際の「願文」に、彼は自らを、
と記している。 このことから、筆者は次のように考える。 『七箇条制誡』とは、法然が
と門下の念仏聖・沙弥たちに対して七箇条の禁止条項を挙げ、
と宣言したものである。 「制誡」に違背した者を法然は断固として破門し門弟は甘んじてその処分を受ける、という師弟間の「起請」(誓約)を示すものが、「元久元年十一月七日 沙門源空」以下の法然並びに門弟190名の署名である。 陳弁書(『送山門起請文』)に添えて比叡山に提出されることが前提にあったとしても、門弟からすれば署名はまず第一に法然に対しての誓約という意味があったはずである。 それゆえ門弟は法然門下の念仏聖・沙弥の自覚のもと、ある者は実名を、ある者は阿号を、そしてある者は房号をもって署名したのではなかろうか。 覚如が『口伝鈔』に記したように、入門の際に師から房号を授かるのが当時の慣習だったとすれば、法然から房号を授かった者は当然それを書いたのではないだろうか。 また、署名を見ると、「行西」が5名、「安西」が3名、「西縁」「幸西」「仏心」「念西」「蓮恵」「忍西」「向西」「実蓮」「実念」「蓮慶」「観尊」「進西」「西仏」「信西」「西念」「自阿弥陀仏」「観阿弥陀仏」がそれぞれ2名というように同一の名が計19例もある。 またこの他、141番目に署名した「空阿弥陀仏」も2人いる。 また、89番目に署名した熊谷直実の法名である「蓮生(れんせい)」も読みこそ違え2人いる。 これらの例から、当時法然の門下には同じ名を持つ者が珍しくなかったことが知られる。 それゆえ、たとえここに署名された「住蓮」が実名であるとしても、それが承元の法難で処刑された「住蓮房」その人であるとは断定できないのである。 いずれにせよ、『七箇条制誡』の署名は、「住蓮房」の実名が「住蓮」であり、房号も実名も「住蓮」一つであったとする主張の決定的証拠とはなり得ないと思われる。 また、この他にもT氏は真仏、顕智ら親鸞の門弟の名を挙げている。 平松令三氏に拠れば、真仏には『経釈文聞書』表紙の「真仏」、『皇太子聖徳奉讃』表紙の「釈真仏」といった自書署名があるが、反面親鸞の自筆書簡には「真仏御房」との宛名が記されている。 ただし、その理由について平松氏は、「真仏も顕智も正規の得度を受けていなかった――真仏は「入道僧」、顕智はその娘婿――ことによる」Kとされており、彼らが「入道僧」、つまり沙弥であれば他の沙弥と同様、日常生活においては実名の呼称を憚って口頭で「〇〇(地名・元の官職)入道」と呼ばれていたとも考えられる。 また、親鸞門弟の名については、T氏自身が指摘するように、信憑性が疑われているとはいえ、「真仏」を房号、「顕性」を実名と伝える西念寺本『親鸞門侶交名』――親鸞在世中の寛元3年(1245)提出の奥書あり――等の史料もあり、覚如が『口伝鈔』で伝えたように親鸞が彼らに本尊(名号、安城の御影)・聖教(『教行信証』他)、そして房号を授けていたとしたら、覚如の認識が正応3年(1290)から同5年まで関東に滞在した際に見聞した親鸞在世当時の東国教団の慣習に基づいたものだとしたら、親鸞から授けられた聖教類に親鸞から与えられた房号を記した可能性も充分考えられるのではないだろうか。 ちなみに、正嘉元年(1257)と推定される11月26日付書簡における
との記述から、親鸞が常陸の慈善に「随信房」という房号を授与した事実が窺えるし、「真仏」「顕智」の署名に冠せられた「釈」の字についても、やや時代は下がるが、覚如にも、実名である「宗昭」にではなく、遁世後の号である「覚如」に「釈」を冠した「釈覚如」(西本願寺蔵『上宮太子御記』奥書・常福寺蔵『拾遺古徳伝』奥書)等の用例があることからすれば、「釈」の字を冠しているから「真仏」「顕智」が実名であるとの即断はできないと思われる。 いずれにせよ、当時の史料で確認できないとしても、伝わらなかった可能性の方が高く、その人に実名以外の通称がなかったと断定するわけにはいかない 。 なぜなら「名詮自性」の観念が人々を拘束し、「実名敬避俗」という慣習が厳に機能していた時代には通称がなければ日常生活そのものが成立しないのである。 存覚の「仮実相兼ぬ」る「綽空」とは――T氏の主張する「仮実相兼ぬ」る「善信」も同様に――、当時の時代常識から見て本来あり得ないものであり、この記述は実名「綽空」を房号「善信」へと改めたという覚如説の矛盾を整合するための存覚の苦心の産物であったと考えるべきではなかろうか。 覚如は『親鸞伝絵』に、親鸞の吉水入門を「隠遁のこころざしにひかれて」(上二段)のこと、つまりは官僧からの遁世であると記し、入門以後の親鸞を「黒衣」、遁世の念仏聖の姿で描かせている。 このことからすれば、入門から元久2年閏7月までの間親鸞が「善信」以外の仮号・通称を用いていたという認識が覚如にはあったことになる。 しかしその仮号・通称について覚如は何も書き残しておらず、このことも存覚が「綽空」を仮実相兼ねた名であるとしなければならなかった要因ではないだろうか。L 前述したように、筆者は旧稿において『歎異抄』『恵信尼消息』の記述に基づき「善信」は吉水期以降に親鸞が用いた房号であると述べた。 確かにT氏が指摘するように『歎異抄』が当時の論争の実態そのままを伝えているとは限らない。 しかし、あらゆる文章表現は「読者」の存在を意識することなしには成り立たない。 つまり著者と読者の間にある共通理解――親鸞が生前他者から「善信房」と呼ばれていたという共通認識がなければ、あのような呼称の表現は取り得ない。 正応元年(1288、親鸞没後27年)頃に「偏(ひと)えに同心行者の不審を散ぜんが為に」、「一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて」書かれた『歎異抄』の場合にも唯円と同じ面授の弟子が少なからず存命している。 覚如は永仁3年(1295)に『親鸞伝絵』を制作しているが、これも正応3年(1290)から2年間関東に赴き、親鸞の聖跡を巡拝、存命の弟子達と対面して収集した史料や伝承を元にしてのことである。 『恵信尼消息』の「善信の御房」という記述も、常陸国下妻で見た夢の内容そのままが書かれているという保証はない。 しかし、受取人の覚信尼に「父は「善信の御房」と呼ばれた人物である」という認識がなければ、恵信尼も「善信の御房」という表現は採り得ないはずである。 もし「善信」が実名であるならば、日常生活において親鸞が何と呼ばれていたかが新たに問題となってくる。 また、もし「善信」と実名で呼ばれていたとすれば、「実名敬避」が社会常識であった時代に、親鸞は一方では「聖人」と呼ばれて大変な尊崇を受けながら、一方では同時に常に実名で呼ばれるという無礼に晒され続けていたことになる。 「善信」実名説を唱える論者は「実名敬避俗」という慣習を無視軽視するあまり、このように複雑かつ不可解な親鸞及び関東教団像を提示しているのである。 この点は、「善信」が元久2年から「親鸞」と改名するまでは房号兼実名であり、それ以降は房号であったとするT氏の説においても同様のことが言える。 信心一異の諍論の際の論敵であったとされる勢観房源智は寿永2年(1183)の生まれであり、承安3年(1173)生まれの親鸞より10歳年少である。 T氏もまた不可解な吉水教団像を提示していると言えるのである。 以上、筆者は主にA.T氏の論考に対して「善信」実名説批判の筆を奮ってきた。次章においてはM.I氏の論考を検討していくこととする。 註D『歴史文化ライブラリー 親鸞』126頁参照。
〔「「善信」実名説を問う(下)」につづく〕 |
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