法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2005年7〜12月分)
 

日本人が失(な)くしたもの
            〜いのちへの悼み〜

       「大 漁」
           (金子みすゞ(1903〜1930))

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。
 

       「おさかな天国」
           (作詞:井上輝彦/作曲:柴矢俊彦/歌:柴矢裕美)

 サカナ サカナ サカナ
 サカナを食べると
 アタマ アタマ アタマ
 アタマが良くなる
 サカナ サカナ サカナ
 サカナを食べると
 カラダ カラダ カラダ
 カラダにいいのさ

 さあさ みんなでサカナを食べよう
 サカナはぼくらを待っている! 

※「おさかな天国」
全国漁業協同組合連合会(全魚連)中央シーフードセンターが魚食の普及を目的に1991(平成3)年に制作。2002(平成14)年3月、ポニーキャニオンより発売され大ヒット となる。
 

 「大漁」にあって「おさかな天国」にないもの=いのちを踏みにじる痛み。生きることの罪深さの自覚……

 「おさかな天国」にあって「大漁」にないもの=いのちを利用価値で図る視方。いのちの「道具」化……

 聞けば、今度は「やさい王国」がリリース(発売)されるとか……。
 今度はどんな「歌詞」になることやら……

(11月1日)

 
 

「一生造悪」(正信偈・道綽章)
 

 教えを聞くしかないんだ 。
 自分だけが救われていない人間だ
 自分こそが聞かなければいけない人間なんだ。                          

(掲示板『こてこてワールド』2005/08/20
「きょうのことば」より)
 

 10数年前、父(前住職)が病いに倒れた時、私の心を占めたのは、

「困る」

という思いでした。

「困る。正直困る。
 今、親父に倒れられるのは……。
 俺にはまだ都会(ここ)でやりたいことがあるんだ。」

 自分の都合のみを振りかざして父のことを顧みもしない。(病人にとって精神的な安定が一番であるにもかかわらず……)
 大事な人だと思いながら、自分はその人を「利用価値」でしか視ていない。

 そんなわが身の有り様を如実に知らしめて下さったのは、たまたま頂戴した恩師からのお見舞いの電話でした。

「今は御父様(ご病人)のことを第一に考えてあげて下さい。」
「……はい!わかりました(仰せに順(したが)います)。
 ありがとうございました。」

 この言葉を肝に銘じて、以後紆余曲折悦はあったものの結局郷里に定住。
 幸いにも父は快復し、現在も未熟な私を後ろから支えてくれています。

 しかし、先日、大切な友人から「持病」を告白された時、私の頭を即座によぎったのはやはり、

「困る。(この人に居なくなられでもしたら、自分はどうなってしまうのか……)」

の一語でした……。

 私は今日も「自分の都合(こと)」オンリーで生きています……。
 

「命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。」
                              (蓮如上人『御文』1-6)

(10月28日)

 
 

プロ意識!?
                ―悪夢
 

  「疲れてくると嫌な夢を見る」というのはどなたにもあることでしょうが、どんな夢を見るのかは人それぞれだと思います。

 私の場合、子供の頃はご多分にもれず「おもらし(^^ゞ)」の夢でした。
 ところが、学校を卒業してからはそれが「試験に遅刻する」夢に変わりました。

 夢の中で私は高校生に戻っていて、今日は試験だと家を出るのですが、どうしても学校に辿り着けないのです。
 ふと気が付くとどういうわけか家に戻ってきてしまっている(あるいは、まだ出発できていない)。
 「大変だ」と泡を食って、自転車に飛び乗るのだけどこげどもこげども辿り着けない。
 それどころか次の場面では、大寝坊して試験の開始時間を大幅に過ぎたところで目を覚ます始末です。
 (このへんは夢ですから前後の脈絡など全くない話になっています。)

 散々それを繰り返した後目が醒めて、「夢でよかった」という話になるわけです。

 ところがこの仕事を始めてから別のパターンの夢が出現し始めました。

 それは、

 「法事の開始時刻が迫っているのに(もう過ぎているのに)、
   五條袈裟の紐
(正式名称は「威儀」)が結べない。

というものです。

 話の展開は「試験の夢」と同じで、

 結わえても結わえてもすぐ解(ほど)ける。
 一回着たのに別の用事が入ってまた脱がなくてはならない。
 気がついたら、まだ何の準備もできていない。……etc

 気ばかり焦れど事態は一向に進展しない。

 ちなみにこの話をあるご門徒のご婦人にしたところ……

「プ、プロにおなりになって……」(絶句)

と、腹を抱えて爆笑されてしまいました。(そ、そうなのか……?)
 

五條袈裟

(五條袈裟)


 で、この話これで終わりかというと実はそうではないのです。

 最近見た「嫌な夢」の最新パターン。
 それは、

「法座の壇上に立っているのに目の前の原稿ノートが真っ白(もちろん頭の中も……)」

というものでした。

 この夢が一番「現実化」する可能性が高いような……((((^^ゞ) 

(9月26日)

 
 

試されている私!?
                ―メメント・モリ(ラテン語・死を想え)
 

  10年程前でしょうか、あるお宅でのご法事の後、ある方がふと、

「何だか自分は(自分の生き方を)、何ものからか、試されているような気がする」

という言葉を口にされました。

 何せひと昔前の、それもお斎(昼食)をいただきながらのことでしたので、記憶に今ひとつ自信がないのですが、確か、自分はどこそこの寺の檀徒で「お仏壇を大事にしていつもきれいにしておきなさいよ」と住職から言われたんだ、といった話の中で、それこそ唐突に出て来た一句であったように覚えています。

 話の流れからして、この方なりの何らかの「宗教的な感覚」を語られたものだとは思うですが、 それ以来気に かかっている言葉です。

 この感覚と近いかどうかは分かりませんが、私が子供時分から感じていたのは「(どこからか、何ものかに)見られている」という感覚でした。

 それはおそらく私が寺の子として生まれ、日がな御本尊のお顔を眺めながら育ってきたことと決して無関係ではないと思いますが、当時の私からしてみれば、「見られている」というその感覚は必ずしも居心地の良いものではありませんでした。
 何せ「見られている」その自分というのがはっきり言って「ちっぽけで、惨めで、みっともない」自分でしかないわけですから……。
 ただそれは今にして思えば、「 仏さまから監視されていた」というのではなくて、私自身が勝手に自分を「値踏み」していたためのものであったように思います。

 それはさておき、現在(いま)の私が何ものかから見られ、試されているとすれば、それはもしかしたら未来の私自身、それも死を迎える瞬間の自分自身からかも知れません。

「お前はそれで(現在の在り方で)本当に良いのか?
 現在の生き方で、お前は本当に死んでいけるのか?
 安んじて、満足して死を迎えることができるのか?」

 そう試され、問われているような気が、特に最近はするのです。

 ……もっともそう堅苦しく考えずとも、私たちはたえず「世間」様から見られ、問われ、試されていることだけは確かなのですが。

 そう、例えば「お前は本当に信頼できる人間か?」と、あるいは「使える(役に立つ)奴か?」といった形で。

(8月27日)

 
 

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