「住職日記」(2005年7〜12月分) | |
日本人が失(な)くしたもの
「大漁」にあって「おさかな天国」にないもの=いのちを踏みにじる痛み。生きることの罪深さの自覚…… 「おさかな天国」にあって「大漁」にないもの=いのちを利用価値で図る視方。いのちの「道具」化…… 聞けば、今度は「やさい王国」がリリース(発売)されるとか……。 (11月1日) |
「一生造悪」(正信偈・道綽章)
10数年前、父(前住職)が病いに倒れた時、私の心を占めたのは、
という思いでした。
自分の都合のみを振りかざして父のことを顧みもしない。(病人にとって精神的な安定が一番であるにもかかわらず……) そんなわが身の有り様を如実に知らしめて下さったのは、たまたま頂戴した恩師からのお見舞いの電話でした。
この言葉を肝に銘じて、以後紆余曲折悦はあったものの結局郷里に定住。 しかし、先日、大切な友人から「持病」を告白された時、私の頭を即座によぎったのはやはり、
の一語でした……。 私は今日も「自分の都合(こと)」オンリーで生きています……。
(10月28日) |
プロ意識!? 「疲れてくると嫌な夢を見る」というのはどなたにもあることでしょうが、どんな夢を見るのかは人それぞれだと思います。 私の場合、子供の頃はご多分にもれず「おもらし(^^ゞ)」の夢でした。 夢の中で私は高校生に戻っていて、今日は試験だと家を出るのですが、どうしても学校に辿り着けないのです。 散々それを繰り返した後目が醒めて、「夢でよかった」という話になるわけです。 ところがこの仕事を始めてから別のパターンの夢が出現し始めました。 それは、
というものです。 話の展開は「試験の夢」と同じで、
気ばかり焦れど事態は一向に進展しない。 ちなみにこの話をあるご門徒のご婦人にしたところ……
と、腹を抱えて爆笑されてしまいました。(そ、そうなのか……?) |
(五條袈裟) |
最近見た「嫌な夢」の最新パターン。
というものでした。 この夢が一番「現実化」する可能性が高いような……((((^^ゞ) (9月26日) |
試されている私!? 10年程前でしょうか、あるお宅でのご法事の後、ある方がふと、
という言葉を口にされました。 何せひと昔前の、それもお斎(昼食)をいただきながらのことでしたので、記憶に今ひとつ自信がないのですが、確か、自分はどこそこの寺の檀徒で「お仏壇を大事にしていつもきれいにしておきなさいよ」と住職から言われたんだ、といった話の中で、それこそ唐突に出て来た一句であったように覚えています。 話の流れからして、この方なりの何らかの「宗教的な感覚」を語られたものだとは思うですが、 それ以来気に かかっている言葉です。 この感覚と近いかどうかは分かりませんが、私が子供時分から感じていたのは「(どこからか、何ものかに)見られている」という感覚でした。
それはおそらく私が寺の子として生まれ、日がな御本尊のお顔を眺めながら育ってきたことと決して無関係ではないと思いますが、当時の私からしてみれば、「見られている」というその感覚は必ずしも居心地の良いものではありませんでした。 それはさておき、現在(いま)の私が何ものかから見られ、試されているとすれば、それはもしかしたら未来の私自身、それも死を迎える瞬間の自分自身からかも知れません。
そう試され、問われているような気が、特に最近はするのです。 ……もっともそう堅苦しく考えずとも、私たちはたえず「世間」様から見られ、問われ、試されていることだけは確かなのですが。 そう、例えば「お前は本当に信頼できる人間か?」と、あるいは「使える(役に立つ)奴か?」といった形で。 (8月27日) |
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