“金子みすゞ”を生み出したもの
「今月の法話」(2001年11月)でもとりあげた童謡詩人金子みすゞ(1903〜1930 本名・金子テル)ですが、「大漁」とならんで有名な彼女の作品に、「わたしと小鳥とすずと」があります。
「 わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。」
この詩を読む時私は、最後の「みんなちがって、みんないい」から、いつも『仏説阿弥陀経』の「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」(極楽浄土の蓮華はみな青、黄、赤、白というそれぞれの色で光を放って輝いているという意)という1節を連想していたのですが、その連想があながち的外れではなかったことがわかりました。
金子みすゞを発掘した童謡詩人矢崎節夫氏のご著書『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局・1993)によれば、彼女の故郷山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)は、古くからの漁師町、それも捕鯨でたいそう栄えたところだったそうです。
捕鯨というのはたいそう勇壮で、多くの富を村にもたらすものでありましたが、その反面、犠牲者も多く、海は鯨の血で染まり、生きていくことの罪深さ、無惨さ、無常さを否応なしに感じさせるものだったそうです。
そのせいか仙崎にはお寺が多く、人々の信仰心は篤く、「鯨位牌」や鯨の「過去帖」、鯨の胎児の墓である「鯨墓」、そして鯨のための法要「鯨法会(くじらほうえ・浄土宗では「鯨回向」と呼ぶ)」まであるそうです。
そして、この地には世界最古の日曜学校といわれる「小児念仏会(こどもねんぶつえ)」があり、みすゞの時代も市内各寺院で盛んに行われていたそうです。
満26歳の若さで自ら命を絶った彼女の墓のある金子家の菩提寺は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)遍照寺ですし、3歳のときに父を亡くした彼女は、自宅の仏壇で母と祖母が父に向かってあれやこれやの出来事を報告する姿や、朝にお仏飯を供え、朝夕に灯明をともして手を合わせる姿を見て育ちました。彼女自身もよく手を合わせていたそうです。
また、驚くべきことには、彼女の小学生時分には、金子家の2階で西福寺(大津郡三隅町)の和田道実住職を中心に仙崎小学校の教員ら6名が集まって『歎異抄』を読んだり、法話を聞いたりする会がもたれており、彼女も祖母や母と共によくその会に顔を出していたとのことでした。
今回私が調べたところによれば、長門市内26ヶ寺の仏教寺院の内、真宗寺院が17ヶ寺(すべて本願寺派)、浄土宗寺院が4ヶ寺。そのうち所在地に仙崎町もしくは仙崎という地名をもつものは真宗が5ヶ寺、浄土宗が3ヶ寺ありました。
仙崎はまさしく“念仏繁盛”の地でした。
以下は私の想像ですが、金子家の仏壇では朝な夕なに「正信偈」、「和讃」、「御文」(お西ですから「御文章」)が勤まっていたことでしょうし、彼女も、幼い頃には友人とともにお寺の日曜学校に顔を出し、また報恩講や鯨法会には母や祖母に連れられて山門をくぐるという生活をおくっていたのではないでしょうか。
手前味噌と思われるでしょうが、詩人“金子みすゞ”を生み出したもの、それはまぎれもなくお念仏の、私たち真宗門徒の伝統だったのです。
現代の私たちの乾いた心に「癒し」と「潤い」を与えるとされる彼女の詩が、実は私たち親鸞門徒と同じ精神の根を持つものであったというこの事実は、驚きと感動と、そして少しばかりの自信を私に与えてくれました。
彼女個人の資質や才能、その感受性や表現力を否定するつもりは毛頭ありません。そのような土地に生まれた者なら誰もが“みすゞ”になれるわけではありません。
しかし、彼女はけして“突然変異”ではない。離れ小島のようにポツンとあるわけではないのです。
私が言いたいのは、彼女が出現するに到る背景には、歴史を超えて脈々と続くお念仏の伝統、精神の地下水流があったということです。
僭越極まりない言い方になりますが、日本の文学史研究においては作者の精神を育んだ宗教的側面への視点が若干欠落しているのではないでしょうか?
素人の私でさえそう感じます。
そしてそれは現代日本人の1種の精神的畸形をも物語るものではないか、とも思います。
金子みすゞ愛好家のみなさん、どなたか上記の視点から研究してみてはくださいませんでしょうか?
もしかしたら新しい“みすゞ”像が見つかるかもしれませんよ。
(11月12日)
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