法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2001年10月〜12月分)

若 気 の 至 り

 覚如上人の『親鸞伝絵』(御伝鈔)には、親鸞聖人の吉水時代のエピソードとしていわゆる「信行両座の決判」と「信心一異の諍論」が紹介されています。

 「信心一異の諍論」とは、聖人が師法然上人の信心も自分の信心も同一であると発言したことから起こった論争で、その顛末は聖人の弟子唯円が著した『歎異抄』にも記されています。

 「信行両座の決判」とは、人は「南無阿弥陀仏」と阿弥陀を信ずる「信」によって救われるのか、それとも「南無阿弥陀仏」と口に称える「行」によって救われるのかという問題について、法然門下の弟子たちをおのおのの理解するところにしたがって「信不退」「行不退」の座にそれぞれ別れて座らせるという試みで、聖人の進言によって実現したものです。
 その結果、聖人、法然上人、聖覚法印、法蓮房信空、法力房蓮生(熊谷直実)の5名が「信不退」。その他の弟子たちはみなどちらに座るということもないまま沈黙していたのでした。

 覚如上人はその場の情景を「この時、門葉(もんよう)、あるいは屈敬(くっけい)の気をあらわし、あるいは鬱悔(うっけ)の色をふくめり」と表現しています。

 私はこの「鬱悔」を、自分も「信不退」に座るのであったという後悔と若輩の新参者に恥をかかされたことへの鬱屈、と理解していましたが、最近どうもそればかりではないように思えてきました。

 というのは、親鸞聖人が加わった頃の法然教団はすでに比叡山延暦寺、南都興福寺からの轟々たる批難にさらされていましたから、年長格の心ある弟子たちは、何としても法然上人と教団とを守らねばならない。そのためには弟子一同一丸となって、くれぐれも自重し慎重に行動しなくてはならない。そういう想いだったのではないでしょうか。

 門弟たちが一枚岩であることを期待されているその最中に、聖人は結束に亀裂を生じさせるような、もっと言えば「踏み絵」を踏ませるようなふるまいをあえてしてしまったわけです。

 「鬱悔」の「鬱」はむしろ、長老たちの「思慮分別のない若僧がとりのぼせおって」という苦々しい思いを意味していたのではないでしょうか。

 前に述べたように、「信心一異の諍論」は『歎異抄』に載っていますが、この「信行両座の決判」は載っていません。 もしかすると聖人は唯円に対してこの「信行両座」のエピソードを話さなかったのかも知れません。
 もしかしたら聖人にとってこの「信行両座」は、まさしく「若気の至り」、あまり思い出したくない恥ずかしい「記憶」であったかも知れない。そんな気がするのです。(何ら学問的根拠のない個人的な感慨なのですが)

(12月25日)

 
 

親 切 心

 以前、恩師の寺川俊昭先生から、安田理深先生(1900〜1982)のこんな言葉を教えていただいたことがあります。

教学と教化をいうとき、教学にはある意味で方法がある。それは祖師たちの思索である。それに対して教化には、何らの方法もないのではないか。もしあるとすれば、それは唯一つ、親切心だけではなかろうか。

 教学仏教、もしくは仏法を学ぶにあたっては祖師、仏教の歴史に刻まれた偉大な先輩方の思索に学ぶという方法があるけれども、教化―仏法を人に伝えるのには最善、最良の、これといって決まった方法があるわけではない。あるのは目の前の相手に対してどれだけ「親切」であり得るかである。
 と、こう安田先生はおっしゃるのですが、この「親切心」を私なりに解釈してみますと、目前のその人の実人生の厳しさに思いを致すこと、その人の人生苦にどれだけ共感と尊敬の念を持てるかということではないかと思います。

 法然上人、蓮如上人といった先達の行実を読むにつけ、そこに登場する門弟や在家信者への懇切丁寧な応対ぶりには、「何もそこまで……」と言いたくなることもしばしばです。
 思えばこれらの方々は、ご自身の人生経験を通して、人間がどれだけ愚かで、罪深く、悲しい生き物であるかよくご存知であり、それゆえに本願の念仏によってしか救われないものだという確かな信念をお持ちだったのでしょう。

 あの厳めしいお顔の親鸞聖人でさえ、肉親を亡くした人を弔問する時の心得として、

かかる輩(やから)には、悲しみに悲しみを添うるようには、ゆめゆめ弔(とぶら)うべからず。もししからば、弔いたるにはあらで、いよいよ侘(わ)びしめたるにてあるべし。
酒はこれ忘憂(ぼうゆう)の名あり。これを勧めて笑うほどに慰めて去るべし。さてこそ弔いたるにてあれ。
                                        (『口伝鈔』)

として飲酒、すなわち「不飲酒戒(ふおんじゅかい)を破る」ことをあえて勧めたお言葉があります。(ちなみに「不飲酒戒」とは、「五戒」(在家の仏教信者が守るべき五つの戒)のひとつです。)

 聖人が仏法に生き、仏法を語ることには真摯かつ厳格でありつつ、人世の哀しみ(この場合は愛別離苦(あいべつりく=愛する者と別離する苦しみ))によく寄り添われたことを示すエピソードだと思います。
 当世風の言葉で言えばおそらく聖人はかなりの「人間通」でいらっしゃったのではないでしょうか。

 「孤高の仏教者・親鸞」というイメージはどうやら再検討の必要がありそうですね。

(12月19日)

 
 
     ふと涙 あふれきし時 み仏の
              こころをむねに いだくしあわせ

 去る8日の「内仏報恩講」の後、あるご門徒が紹介してくださったご自作の歌です。初めて“お念仏”に出遇われた感動の中で自然に口をついて出たものだそうです。
 独り占めしては申しわけないのでご紹介することにしました。

(12月11日)

 
 

「現代人」って誰?

 「「大漁」雑感」という題で書いた「今月の法話」(2001年12月)ですが、あれには実は続きがあります。

 息子の通う幼稚園は結構離れたところにあるので、朝夕スクールバスでの送迎があります。
 ですから保護者は午前と午後の各1回、所定の時間に所定の場所で子どもを送り迎えすれば良いのですが、息子がバスに乗り降りするその「所定の場所」というのが何と魚屋の前なのです。

 午後の迎えは大概私の役目なのですが、迎えに出る度にその魚屋で、今朝水揚げされたばかりの新鮮な魚介類が並んでいるのを目にするわけです。
 それらを見る度、私の頭の中を駆け巡るのは、
「これを刺身で食べると美味いだろうな。こっちのは煮付けが……、いやいや焼くのも捨てがたい」
といった、「いわしのとむらい」どころではない思いです。

 「あらゆるものを「道具」、それも欲望を満足させるための道具としか見られなくなっている「現代」人」、それはまぎれもない私のことだったのでした。

 ……今度、魚屋さんの前で「おとむらい」してこようかな。
 営業妨害以外の何ものでもないですね。

 「お寺さん、アンタ何してはりますのや?」
 「イヤ、ちょっと「いわしのおとむらい」を…」
 「やめなはれ!」

 ……お後がよろしいようで。

(12月5日)

 
 

“金子みすゞ”を生み出したもの

 「今月の法話」(2001年11月)でもとりあげた童謡詩人金子みすゞ(1903〜1930 本名・金子テル)ですが、「大漁」とならんで有名な彼女の作品に、「わたしと小鳥とすずと」があります。

「 わたしと小鳥とすずと

 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面(じべた)をはやくは走れない。

 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように、
 たくさんなうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と、それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。」

 この詩を読む時私は、最後の「みんなちがって、みんないい」から、いつも『仏説阿弥陀経』の「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」(極楽浄土の蓮華はみな青、黄、赤、白というそれぞれの色で光を放って輝いているという意)という1節を連想していたのですが、その連想があながち的外れではなかったことがわかりました。

 金子みすゞを発掘した童謡詩人矢崎節夫氏のご著書『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局・1993)によれば、彼女の故郷山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)は、古くからの漁師町、それも捕鯨でたいそう栄えたところだったそうです。

 捕鯨というのはたいそう勇壮で、多くの富を村にもたらすものでありましたが、その反面、犠牲者も多く、海は鯨の血で染まり、生きていくことの罪深さ、無惨さ、無常さを否応なしに感じさせるものだったそうです。

 そのせいか仙崎にはお寺が多く、人々の信仰心は篤く、「鯨位牌」や鯨の「過去帖」、鯨の胎児の墓である「鯨墓」、そして鯨のための法要「鯨法会(くじらほうえ・浄土宗では「鯨回向」と呼ぶ)」まであるそうです。

 そして、この地には世界最古の日曜学校といわれる「小児念仏会(こどもねんぶつえ)」があり、みすゞの時代も市内各寺院で盛んに行われていたそうです。

 満26歳の若さで自ら命を絶った彼女の墓のある金子家の菩提寺は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)遍照寺ですし、3歳のときに父を亡くした彼女は、自宅の仏壇で母と祖母が父に向かってあれやこれやの出来事を報告する姿や、朝にお仏飯を供え、朝夕に灯明をともして手を合わせる姿を見て育ちました。彼女自身もよく手を合わせていたそうです。

 また、驚くべきことには、彼女の小学生時分には、金子家の2階で西福寺(大津郡三隅町)の和田道実住職を中心に仙崎小学校の教員ら6名が集まって『歎異抄』を読んだり、法話を聞いたりする会がもたれており、彼女も祖母や母と共によくその会に顔を出していたとのことでした。

 今回私が調べたところによれば、長門市内26ヶ寺の仏教寺院の内、真宗寺院が17ヶ寺(すべて本願寺派)、浄土宗寺院が4ヶ寺。そのうち所在地に仙崎町もしくは仙崎という地名をもつものは真宗が5ヶ寺、浄土宗が3ヶ寺ありました。

 仙崎はまさしく“念仏繁盛”の地でした。

 以下は私の想像ですが、金子家の仏壇では朝な夕なに「正信偈」、「和讃」、「御文」(お西ですから「御文章」)が勤まっていたことでしょうし、彼女も、幼い頃には友人とともにお寺の日曜学校に顔を出し、また報恩講や鯨法会には母や祖母に連れられて山門をくぐるという生活をおくっていたのではないでしょうか。

 手前味噌と思われるでしょうが、詩人“金子みすゞ”を生み出したもの、それはまぎれもなくお念仏の、私たち真宗門徒の伝統だったのです。

 現代の私たちの乾いた心に「癒し」と「潤い」を与えるとされる彼女の詩が、実は私たち親鸞門徒と同じ精神の根を持つものであったというこの事実は、驚きと感動と、そして少しばかりの自信を私に与えてくれました。

 彼女個人の資質や才能、その感受性や表現力を否定するつもりは毛頭ありません。そのような土地に生まれた者なら誰もが“みすゞ”になれるわけではありません。
 しかし、彼女はけして“突然変異”ではない。離れ小島のようにポツンとあるわけではないのです。

 私が言いたいのは、彼女が出現するに到る背景には、歴史を超えて脈々と続くお念仏の伝統、精神の地下水流があったということです。

 僭越極まりない言い方になりますが、日本の文学史研究においては作者の精神を育んだ宗教的側面への視点が若干欠落しているのではないでしょうか?
 素人の私でさえそう感じます。
 そしてそれは現代日本人の1種の精神的畸形をも物語るものではないか、とも思います。

 金子みすゞ愛好家のみなさん、どなたか上記の視点から研究してみてはくださいませんでしょうか?
 もしかしたら新しい“みすゞ”像が見つかるかもしれませんよ。

                                (11月12日)

 
 

親 ば か

 つい先日、家族で外食に出かけた時のことです。
 4歳半になる息子が突然、

「おとうちゃん、僕がおじいちゃんくらい(の歳)になったら、おとうちゃん死ぬ?
いなくなる?」

と聞いてきたのです。

 ちなみにこの子の祖父(私の父)は今年古稀ですから、その頃私は100歳以上になる勘定です。
 ですから、つい、

「そうだなあ。もういないかもしれんなあ〜」

と答えてしまいました。

 妻があわてて

「今、それを言っちゃあ駄目なの」

と制止した時にはすでに遅し。
 彼は口をへの字に結び、顔をゆがめて、

「死んじゃあ、いやだ」

と泣き出してしまいました。

 「死んだら嫌」と言ってもらえたことへのうれしさもありましたが、それよりも、この子も人の死、永遠の別れを意識するようになったのか、お前もこれから「生死に悩む凡夫」として生きていくのか、と思うと何だかいつもより息子が愛おしく感じられました。

 なあ、息子よ。いつか来るその日まで、僕と君が父子であるというこの事実を、精一杯楽しもうな。

 ……腹立つ時も多いけど。

(11月12日)

 
 

ホームページ開設にあたって

「西念寺ホームページ」の配信を始めました。

 混沌きわまりない現代の、しかもこの膨大な情報の洪水の中に、1寺院がホームページを開くことにどれほどの意味があるのか?それを考えるといささか心もとない思いもいたします。
 ふと気がつけば、私たちの日常生活の中からいつのまにか仏教語が消えてしまいました。「往生」とか「他力本願」といったもとは仏教語であったものも、その原義からは程遠い俗語と化し、さらにはそれさえもなかなか使われなくなっています。
 言葉が消えるということは当然それらが伝えてきた精神もまた希薄となってきているという証拠ではないでしょうか。
 世間を見まわせばそこに仏教のブの字もなく、仏教はもはや寺院の中だけのもの、あるいは特定の好事家のためだけのものになっていると言うと言い過ぎでしょうか?
 某オウム信者の漏らした「風景としての仏教寺院」という一言が重くのしかかります。 
 そんな時代状況の中、「座して死を待つよりは、討って出る」と言えばいささかオーバー過ぎますが、それでも、顔も名前も知らないどこかの誰かが、仏教の教え、親鸞聖人の教えと縁を結んでくださる手助けに少しでもなればと思い、開設に踏み切りました。

 最後にこのホームページの製作にご尽力いただきました山陰キャノン事務機米子営業所の大塚正司さん、藤井システムサービスの藤井あゆみさんに心より御礼申し上げます。
 私のTV出演のビデオ映像(何と約10分間!!)を流せるようにしてくれというハチャメチャな要求にも(多少顔が引きつっていたような気がしないでもないですが)笑顔で、その後のコロコロと変わる注文にも嫌な顔1つせず応えてくださいました。お2人のおかげで何とか開設までこぎつけることができました。感謝しております。

(2001年10月28日)

 
 

現在の「日記」  2002年1月〜4月分

 

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