法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2001年7月〜12月分
 
2001年7月発行 掲載分
 
  分を尽くして用に立つ

 先日ある本(佐々木正『いまを生きるための歎異抄入門』(平凡社新書))を読んでいたら、そこに次のような詩が紹介されていました。

   「祈り」

 神よ
 変えることのできることについて
 それを変えるだけの勇気を与えたまえ
 変えることのできないものについては
 それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ

 そして
 変えることができるものと
 変えることができないものとを
 識別する知恵を与えたまえ
 (ラインホルト・ニーバー)

 作者はキリスト教の神学者ですので、神に祈るという形を採っていますが、そこでは私達が生きていく上での深い智慧が語られています。

 明治期の真宗大谷派の学僧清沢満之(きよざわ・まんし)先生(1863〜1903)にもよく似た表現があって、清沢先生は、

我等の大迷は如来を知らざるにあり。
如来を知れば、始めて我等の分限あることを知る。
すなわち、我等の如意なるものと、如意ならざるものあるとは、この分限内のものと分限外のものとあるが為也。(『当用日記』)

と述べて、「分限(ぶんげん)」(能力の範囲)という言葉を強調しておられます。

 さらに先生は「変えることのできるもの」、「如意なるもの」は「分限内のもの」であり、「変えることのできないもの」、「如意ならざるもの」は「分限外のもの」であること、そしてその「分限」を知らないこと、「何が分限内のものにして、何が分限外のものたるやを知らない」ことこそが私たちの「大迷(たいめい)」であって、私達の苦悩は分限内と分限外を見誤まること、変えられるものを変えられないと思い込み、変えられないものを変えられると思い間違うことから起こるのだと言っておられます。

 この詩を読んだ時、私はあるひとつの出来事を思い出しました。

 私がこうして皆さんの前で文章を披露したり、法話をしたりするようになってから大分経ちますが、いまだに慣れてはおりません。法座の数日前からだんだんと気分が重くなってきますし、前日になっても話す内容が決まっていない時などはまさしく七転八倒の苦しみを味わいます。

 数年前のある夜もそうでした。
 いくら考えても話のネタが決まらない。ああでもないこうでもないと油汗を流していた私の心の中にこんな想いが湧いてきたのです。

(俺がこれだけ苦労したって、明日は何人集まるか分からない。俺の話なんぞ別に誰も真剣に聞いてくれるはずもないし、まともに理解してもらえるどうかさえも怪しい。なのに、何でここまでしなきゃならんのだ。)

 それでも何とか形を作って翌日を乗り切ったのですが、我ながら不満の残る出来でした。
 そうしたら何と、よりにもよってその日に限って質問が来たのです。

「ご院家(いんげ)さん、今日のお話にあったこの言葉はどんな意味ですか?」

 その質問に答えながら私は内心恥ずかしさで一杯でした。

(こんな私の拙い話でさえ真剣に聞いてくだり、質問までしてくださる方がいる。にもかかわらず自分はいい加減な話でお茶を濁してしまった。) 

 情けないやら申し訳ないやらで、穴があったら入りたいような心境でした。

 しかし私はこの出来事を通して実に大事なことに気付かされたのです。
 前夜私が懐いた「自分の話なんぞ誰も…。」という想いは、一見謙虚そうでありながら実は非常に傲慢な考えであったことに気が付いたのです。
(「誰もまともに聞いてない」なんていったいどこの誰が決めたのか?その人がこれまでどんな人生を歩み、どんな思いを背負い、何を求めてこの場に座っているのかをお前は知っているとでも言うのか。何にも知らないくせに、思い上がるのもいい加減にしろ!)
 この出来事は私にそう痛棒を喰らわせてくれたのです。

 「聞く人が真剣に聞くか聞かない」とか、「聞く人がどう思いどう受け止めるか」とかは、詰まるところ私の問題ではなく、聞く人自身の問題、つまり私の「分限外」の問題であって、私にとって本当に問題なのは、自分が今まで真宗の教えをどう聞いてきたのか、何をどう考えさせられてきたのかを明らかにすることであって、それを法座の席でどれだけ分かりやすい言葉でどれだけ具体性を持った話として伝えていけるか、ということ。つまり自分の能力の範囲(分限内)でどれだけベストが尽くせるかということなのです
 自分がその時その時の自分の話にどれだけ納得できるかどうかが問題なのであって、極端に言えば聞く人は関係ないのです。誰のために話すのかといえば、結局は自分自身のため、自分がより深く頷くために話をしているということなのです。

 この経験を通して私は、「親鸞は弟子一人も持たず」(『歎異抄』)とおっしゃった親鸞聖人のお言葉や、「如来の仕事を盗むなかれ」と仰った清沢先生のお言葉が、本当に人間が教えられ目覚めさせられるのは、人間の小賢しいはからいによってではなく、人知を超えた仏様の不可思議なるお働き(如来の仕事)によってであって、師匠だの弟子だのといった狭い人間関係の中でそれを云々しようとするのは己れの「分」、凡夫の「分限」を知らない僭越極まりない振る舞いであると教えてくださっていることに気付きました。

 そしてまた蓮如上人は、「往生は一人一人のしのぎなり」(『蓮如上人御一代記聞書』)というお言葉を通して、求道・聞法という営みは、その人その人一人一人の主体的な責任においてのみ歩まれるものであることをやはり教えてくださっていました。

 そう気付いた時、私は例えば法座にみえる方の人数がそれほど気にならなくなりました。
 それまではやはり集まる人の数ばかりが気になっていたのですが、そのように「数」にばかり執(とら)われているということは結局、「人」が見えていない。その場にみえたその人が仏法に耳を傾けるにいたるまでの背景、歴史に目が向けられていないということではないでしょうか。

 まったく気にならないと言えば嘘になります。人間ですから、自分の努力の成果を確かめたい。それも目に見える「数」として知りたい、という煩悩(ぼんのう)はもちろんあります。
 しかし問題は数ではないのだと頷けてから、法座の日が多少悪天候でも「来る人は来る」とうそぶけるようになりましたし、「何人しか集まらなかった」ではなく、「何人も来てくださった」と思えるようにもなってきました。(決して負け惜しみではありません。)
 そして、そう思えると、日頃「数」に振り回されて一喜一憂している心が不思議と静まる、落ち着くのです。

「心が落ち着くということが真理だという証明になる。……真理は必ず人間を落ち着かせる。そういう意味が、仏教でいう真理です。」(『大乗の魂』)

 安田理深(やすだ・りじん)先生のお言葉です。

(「西念寺婦人会だより」2001年7月号掲載)

〔参考文献〕
佐々木正『いまを生きるための歎異抄入門』(平凡社新書・2001)
安田理深『大乗の魂』(大地の会・1977)
『清沢満之全集 第7巻』(法蔵館・1955)

 
 
 
2001年9月発行 掲載分
 
  「人の為(ため)」と書くと「偽(にせ)」、偽(いつわ)りとなりますね。
人の為には何もできませんよ。

(『わたしが出会った大切なひと言』より)

 先日米子で作品展のあった相田みつをさんの詩です。

  「のに」

あんなに世話を
してやったのに
ろくなあいさつもない

あんなに親切に
してあげたのに
あんなに一所懸命
つくしたのに
のに……
のに……
のに……

〈のに〉がでたときはぐち
こっちに〈のに〉がつくと
むこうは
「恩に着せやがって……」
と 思う

庭の水仙が咲き始めました
水仙は人に見せようと思って
咲くわけじゃないんだなあ
ただ咲くだけ
ただひたすら……

人が見ようが見まいが
そんなことおかまいなし
ただ いのちいっぱいに
自分の花を咲かすだけ
自分の花を―

花は ただ咲くんです
それをとやかく言うのは人間
ただ ただ ただ―
それで全部
それでおしまい
それっきり

人間のように〈のに〉なんてぐちは
ひとつも 言わない
だから 純粋で
美しいんです
(『にんげんだもの』より)

 ちなみに、作家池波正太郎の言葉に「恩は着せるものではなく、着るものだ」というのがありますが、そういった処世訓、人生訓はともかくとして、「誰々のため」「何々のため」というのがもし本当―「偽」でない―ならば、それに対する見返りは本来必要ないはずです。例えばその行為に対する「ありがとう」「お世話になりました」といったお礼のひと言でさえも。

 しかし、何の言葉も帰ってこなかった時、私達は腹立ちまぎれに次のように口にします。
「別に礼が言ってほしくてやったわけではないが……〈あんなに世話してやったのに〉」

 でも腹が立ったということは「礼がほしかった」ことになりますよね。最初は礼を求めていないつもりでも、最後には礼のないことに腹を立てるのが私達です。

 本当は「誰々のために」ではなくて、「自分がそうしたいから」したはずですよね。ただ自分の行為が無駄でなかったのを確かめるためにはどうしても他人のひと言が要る。それがないと自分の行為が、さらには自分の存在までもが無意味であるかのように思えてしまう。だからこそ礼のひと言のあるなしであんなにも立腹するのではないでしょうか。

 自分のしたことに何らかの見返り、評価や意味、つまりは「利」を求めずに居られないのが、「花」ならぬ私達の本性―「凡夫(ぼんぶ)の地体(じたい)」(源信僧都『念仏法語・横川法語』)ではないでしょうか。

 仏教ではそんな私たちの日常意識を「世八法(せはっぽう)」という言葉で抑えています。「世八法」とはつまり「世間の八法(=うき世の8つならわし)」で、利益と損失、ほまれとそしり、非難と称賛、楽しみと苦しみの8つを言います。つまり私達はこの8つの中で生き、いかなる時でもたえずこの8つを計算に入れ、そして一喜一憂していくものだというのです。
 繰り返しになりますが、私達の行為は、一見「人の為」に見える行為でも、実はすべて「自分自身の為」にしているのです。

 「今月の言葉」は、真宗大谷派東京教区編『私の出会った大切なひと言』に集録されていたものですが、この言葉には次のような一文が添えられていました。

 いつも「主人のため」「子供のため」「他人のため」にしてあげていると思っていたが、ある時、この言葉に出会って、
「ああ、それは、みんな自分のためにしていることなんだ。自分がうれしいから、ほめられたいから、よく思われたいから、やっているにすぎないのだ」
 と分かり、慢心が打ちのめされた。
「人の為」にしてやるのではなく、自分のためにさせていただくことを喜んでいきたいと思う。(女性・62歳)

(「西念寺婦人会だより」2001年9月号に掲載)

〔参考文献〕
相田みつを『にんげんだもの』(文化出版局・1984)
真宗大谷派東京教区編『(蓮如上人500回御遠忌記念出版)私の出会った大切なひと言』
(ザ・マサダ・2000)

 
 
 
2001年10月発行 掲載分
 
  「米国同時多発テロ」に憶うこと

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身に引きくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
すべての者は暴力におびえる。すべての〔生きもの〕にとって生命は愛しい。己が身に引きくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ。
(釈尊『ダンマパダ』)


 去る9月11日の深夜、たまたま見ていたTVのニュース画面に、煙を上げるNYの世界貿易センタービルに突如現れたジェット機が激突、炎上するシーンが映し出されました。
 あまりの現実離れした光景に一瞬、
「エッ!? 何今の……。見間違いじゃないよね!?」
と、家人と顔を見合わせ呆然としたものです。
 その後、ブッシュ米大統領は即座に「報復」を宣言。以後アメリカは着々と戦闘準備を進め、日本も国際世論に乗り遅れまいと早々に自衛隊の後方派遣を決めたのは皆さんのご承知の通りです。

 無辜(むこ)の市民を標的とした無差別テロが許せない行為であるのは当然のことですし、自国を攻撃されたアメリカが掲げる「テロの根絶」(卑劣なテロリストを野放しにはしない。テロが今後多発しないよう徹底的に懲罰を与える)という論理も一応理解できます。何より被害者側の感情からすれば無理からぬこととは思えます。
 しかし、この報復のための軍事行動が新たな憎悪と報復のテロを生むといういわゆる「暴力の連鎖」を本当に断ち切れる保証があるのでしょうか。誰も断ち切れるとは信じていないのではないでしょうか。(しかも今回の事件以前にすでにテロと軍事行動の応酬があり、今回の事件もすでに「暴力の連鎖」の一環であると言えます。)

 冒頭に掲げた言葉は釈尊、お釈迦さまの肉声を伝えるとされる『ダンマパダ(法句経)』の一節です。
 伝説によれば、釈迦族の王子ゴーダマ・シッダールタは少年時代、農耕祭の折に、農夫の掘り起こした土から這い出てきた虫を小鳥がついばむのを見て、
「哀れ、生き物は皆食(は)み合う」
と深く憂いたと伝えられています。
 また、当時のインドもまた強国が弱国を併呑する弱肉強食の世界であり、釈尊の晩年、母国カピラヴァストゥは隣国コーサラによって滅ぼされます。

 そのような争闘の時代のさなかにおいて釈尊は、

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」(『ダンマパダ』)

と「怨みを捨てる」ことを説かれたのです。

 しかし、怨みを捨てることはまさしく「言うは易し、行なうは難し」です。もし自分が被害者の立場になったらとても素直に頷けるとは思えません。
 復讐心を捨てるとまではいかなくても、座禅でも組めば少しは短気が直るかと試しに組んだところが、数年前に友人に貸したままのお金のことを思い出した、という話まであるのが私たちです。

 ただ、この「怨みを捨てよ」という教えと、「怨みを捨てられない自分」とのはざまで躓かれたのが、親鸞聖人の師、法然上人(1113〜1212)でした。

 美作(みまさか)の国(現・岡山県)の豪族であった上人の父漆間時國(うるまのときくに)は、上人が9歳の時、政敵の夜襲を受けて落命します。そのため上人は危難を逃れるために近在の寺に預けられるのですが、いまわの際に息子勢至丸(せいしまる・上人の幼名)を呼び寄せた父は、苦しい息の下でこう言い遺します。

「私が死んでもお前は敵(かたき)を憎んではならない。もしお前が仇(あだ)を討てば今度はその息子がお前を仇敵と付け狙い、互いの憎しみ合いは終わることがない。それよりも僧となって私の菩提を弔い自分自身の解脱をこそ求めなさい。それがお前にとって一番良い生き方なのだ」と。

 やがて成長した上人は比叡山に登って学問・修行に励み、その学識は当時の仏教界に知れ渡り、「智慧第一の法然房」と賞されるほどになるのですが、世評とは裏腹に上人の心は晴れませんでした。
 なぜなら上人は、「怨みを捨てよ(煩悩を断て)」との教えを受けながら、「仇が憎い。仇を討ちたい」との思いをどうしても捨てられなかったのです。

 武士の子としては仇を討ちたい。しかしそれでは父の遺言に背くことになる。まして自分は仏教者である。
 しかし、あれほどの真摯な学問や修行も自分のこの「瞋憎(しんぞう・いかりとにくしみ)」の煩悩を断ち切ることはできなかった。自分はこの自力修行の仏道(聖道門仏教)の落第生・落伍者― 「わがごときは、すでに戒・定・慧の三学のうつわ者にあらず」(『和語燈録』)―である。

 このような歎きをかかえた法然上人が、「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」(「正信偈」)の道としての念仏の教えに出遇われたのは実に43歳の時でした。

 瞋憎の心を捨てられない私が「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願」(『歎異抄』)によって悲しまれ、傷まれ、愛され、そして許されている。その感動の中で上人は、人は皆誰もが一人の例外もなく「如来の平等の慈悲」によって大悲される「凡夫」であることに気付かれたのです。
 我も人もみな「凡夫」(生きることに迷い、傷つき、本願に出遇うより他ない悲しき「迷悶者」(清沢満之)。「よろずの煩悩にしばられたるわれら」(『唯信鈔文意』))であるというその自覚によって、初めて「怨みを捨てないままで怨みを超える」道が上人の前に開かれたのでした。

 昨春の西鉄バスジャック事件で重傷を負われた1人の女性客(山口由美子さん)は、後日TVで

「切りつけられた時、この子のかかえた苦しみの大きさ、闇の深さを感じて、恨むよりむしろかわいそうだ、悲しいという想いの方が大きかった」

と語っておられました。聞けばこの方は、娘さんの不登校を通して自らの人生観や心のありようを深く見つめた経験をお持ちで、その経験があったからこそこう感じられると思うとおっしゃっていました。

 また、神戸「少年A」事件で娘さんを亡くされた山下京子さんは著書の中でこう記しておられます。

「    最後にA君へ

 今あなたに会いたいような、絶対顔も見たくないような複雑な思いでいます。
 私たちの宝物だった、たった一人の愛娘を、あんなかたちで奪い取ったあなたの行為を、決して許すことはできません。
 母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。

 その一方で、これもまた母であるがゆえに、どんなに時間がかかってもあなたを更生させてやりたいと願う気持ちがあることも嘘ではありません。

 一見、相反する感情が、私の心の中に同居していて、その割合の比率は日々同じではないまま、不思議なバランスを保っています。

 もし私があなたの母であるなら……、
 真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい。言葉はなくとも、一緒に苦しみたい。(中略)

 氷のように冷たく固まってしまったあなたの心。そのうえ、それを深い海の底に沈めてしまった。
 でも、深い海の底からそれを捜し出し、ていねいにゆっくりと氷を溶かし、ゆったりとほぐすことのできるのは親の愛しかない。とりわけ、母の愛が太陽の温かさで包み込む以外に、道はないと思うのです。
 罪を罪と自覚し、心の底からわき出る悔恨と謝罪の思いがいっぱいにつまった、微塵のよどみもない澄みきった涙を、亡くなった2人の霊前で、苦しんだ被害者の方々の前で流すことこそ、本当の更生と信じます。
 それまで、共に苦しみ、共に闘おう。あなたは私の大切な息子なのだから。

 こんな気持ちは、加害者と被害者という立場を超えた、自分でも説明のつかない感情です。しかし、すべて私の正直な思いなのです。

 彼に対し、こんな思いを抱けるようになったのはいつの頃からでしょう。もちろん、最初は憎しみしかありませんでした。彼のやったことに対しては、これからも永久に許すことはできません。

 それにしても、私の中で何かがゆっくりと変わってきたことは事実でした。憎いはずの少年が、かわいそうに思えることが多くなり、あんなふうにならなければ誰にも止めてもらえなかったのかと考えると、別の意味で心がつぶされそうでした。あるいは、私自身、14歳の息子を持つ母だから、その思いがひとしおなのかもしれません。」
(『彩花へ 「生きる力」をありがとう』)

 おふたりに共通するのは、加害者と被害者という立場を超えて犯人の少年の「心の闇」に思いを致している点です。

 思えば釈尊もただやみくもに「怨みを捨てよ」と言うのではありません。
 「己が身に引きくらべて」、我人共に「暴力におびえ」「死を怖れ」「自分自身の生命を愛しい」と思う存在であることをよく知れとおっしゃっているのです。

 しかし、そのことに目を開くことが実はこの上なく困難なのでしょう。

 唯一絶対の神を立てる宗教がむしろそれによって自らの復讐心を正当化し、自らの立場を是(神の僕(しもべ))、他を非(悪魔)とすることからもそれは知れます。

 また反対に、太平洋戦争で長崎に原爆を落としたパイロットが、戦後すぐにその地を訪れた時、生き延びてそこで暮らしている人々が、肉親を喪ったことを悲しむ、自分と同じ「人間」であったことに初めて気づいて、自分の犯した罪に慄然としたという話もあります。

 釈尊、法然上人、そして2人のお母さん。
 この方たちはいったいどうやって、何と出遇うことによって自分の中の憎しみや怨みを乗り越えていかれたのでしょうか。

 山下さんは著書の中でそれを「生きる力」との出遇いと表現されています。
 「生きる力」、それは私たちの思いやはからいを超えて私たちを生かしめる力、私たち個々のいのちの根源にはたらく大いなるいのちそのもののはたらきでしょう。
 私はそれをあえて「阿弥陀の大悲」、「如来の本願力」と言い換えたい気がするのですが。

(「西念寺婦人会だより」2001年10月号掲載)

〔参考文献〕
『ブッダの真理のことば・感興のことば』〈岩波文庫・1978〉
中村元・田辺祥二『NHKブックス ブッダの人と思想』(日本放送出版協会・1998)
山下京子『彩花へ 「生きる力」をありがとう』(河出書房新社・1998)

 
 
 
2001年11月発行 掲載分
 
 

米国同時多発テロに憶う(その後)

 連日報道されるアフガン空爆や炭そ菌事件のニュースを見ていたら、昔読んだある文章と、最近読んだ1編の詩(童謡)を思い出しました。

「人のいのちは、日々(にちにち)にきょうやかぎりとおもい、時時(じじ)にただいまやおわりとおもうべし。無常のさかいは、うまれてあだなるかりのすみかなれば、かぜのまえのともしびをみても、くさのうえのつゆによそえても、いきのとどまり、いのちのたえんことは、かしこきもおろかなるも、ひとりとしてのがるべきかたなし。(『一念多念分別事』)

 杖とも柱ともたのむ一家の主人が勤めさきの工場で事故のために亡くなった。お葬式の翌日、小学5年になる腕白ざかりのそのひとの子どもが、道端に死んでいた鳩の死骸を見つけて、近所の子どもたちを集め、その死骸をうずめて墓をたて、お寺の住職にお経をあげてもらい、自分のわずかな小遣いをはたいてお布施までしたという。
 その子にとって、1羽の鳩の死といえども、それは見逃すことのできない一大事であったのであろうか。
 そのころ、家では、親戚のものが集まり、目を血走らせ、怒号しながら、事故の補償問題について話し合っていた、という。」

(松本梶丸『魂のつぶやき』より)

 もう1つは近年ブームの金子みすゞ(1903〜1930)の作品です。

        「大  漁」

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

 彼女を発掘した童謡詩人・矢崎節夫氏はその作品を評してこう述べています。

「詩のはじまりは、神さまへのおいのりだった。
ということばがあります。……

 私は、ずいぶん長い間、金子みすゞの童謡を、ひとことでいうとしたら、どういえばいいか、考えてきました。……あの、みすゞの童謡を読んだあとに感じる、心のやすらぎや、心のあらわれるような気持ちまで表現できることばはないでしょうか。

 こう考えていたとき、ふと思いだしたのが、小学生のときに読んだ、「詩のはじまりは、神さまへのおいのりだった」という、このことばでした。……みすゞの童謡は、みすゞのいのりの詩だったのです。……みすゞの童謡は、小さいもの、力の弱いもの、無名なもの、無用なもの、この地球という星に存在する、すべてのものに対する、いのりのうただったのです。」   

         (『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』解説より)

 「祈り」とは、それら「小さいもの、力弱きもの」に対する「悲しみ」のまなざしがあってのことでしょう。そしてそのまなざしは何より自分自身に対する「悲しみ」から始まるのではないでしょうか。

 「自分だけがかわいそう」というのではなく、自らの生の哀しさを通して生き物すべてが哀しいのだ、かわいそうだというまなざしに到り届く。
 「祈り」とはそこから生まれてくるものではないでしょうか。

 小学5年生のこの子も、死んだ鳩も、事故で死んだこの子の父親も、その妻も親戚も、何万尾のイワシも、大漁に喜ぶ漁師とその家族も、テロの犠牲者とその遺族も、空爆の下にいるアフガンの民も、そして他でもない私自身も、苦しみあえぎ、傷つくことに脅えながら、日々を必死に生きている。生きていた。
 嗚呼、生きるということは何と哀しいことか。

 すべてのいのちに注がれる深い深い「悲しみ」のまなざし、それを私たち真宗門徒の伝統では、「如来の大悲(仏さまの悲しみ)」、「すべてのいのちに幸いあれ」という祈りを「本願(仏さまの願い)」、「すべてのいのちよ、己がいのちの尊さに、己がいのちの有する深い意味に目覚めよ」と呼びかける声を南無阿弥陀仏―阿弥陀仏に南無せよとの「名号(仏さまの名のり)」と、いただいてきたのではないでしょうか。

 そしてさらに言えば、自分自身を哀しむ心が、如来の大いなる悲しみと感応道交する、共鳴する、響き合うという体験こそが「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」であり、その体験を通して初めて私たちの心は、「なぜ自分だけが苦しむのか?」という閉鎖的な個人性と、「みんな苦しいんだから仕方がない」といったアキラメと開き直りとを破られていくのではないでしょうか。

            (「西念寺婦人会だより」2001年11月号掲載)

〈追記〉

 本文中でご紹介した松本梶丸氏は真宗大谷派本誓寺のご住職で、お寺の所在地は石川県松任市です。
 それから、原稿を仕上げた後に知ったのですが、金子みすゞ(本名・金子テル)さんの出身地は現在の山口県長門市仙崎。
 どちらも古くからの“念仏繁盛”の地でした。

〔参考文献〕
松本梶丸『魂のつぶやき』(文明堂・1978)
『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』(JULA出版局・1984)
矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局・1993)

 
 
 
2001年12月発行 掲載分
 
 

「大漁」雑感

  大 漁

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。(金子みすゞ)

 先月の「法話」でも紹介した「大漁」ですが、この詩はけっして作者のみの、いわゆる個人的な感慨を描いたものではないそうです。

 金子みすゞを発掘した矢崎節夫氏によれば、この詩が表現しているものは、彼女の故郷、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)全体に共有されていた感情、生命感覚であったようです。

 矢崎氏の著書『童謡詩人金子みすゞの生涯』には、

「大漁の時、まわりはみんな喜んでいるのに、網元の父は青い顔をしていました。その頃は、私たちまだ小さくて、どうしてなのかわかりませんでしたが、今思うと、テルさん(筆者注・みすゞの本名)の《大漁》という童謡のように、父もたくさんの小さないのちを奪ってしまったという思いで、きっといっぱいだったのでしょう。父は信仰心のあつい人でしたから。」

という彼女の知人・高橋歌子さんの談話が紹介されています。

 生きるためには他のいのちを奪わねばならない罪の身であるという自覚。イワシも自分もお互い死なねばならぬ身として、傷つくことに怯えながら必死に生きているのだという悲哀と共感。

 当時の仙崎村には、現代の私たちが失って久しい、生命への素朴な畏敬の念が生きていたのです。

 このエピソードを読んだ時、私はある出来事を思い出しました。

 何年か前、ある方の葬儀に出仕した折、祭壇の脇に細長いものが置いてあるを見かけました。
 よく見るとそれは立派な釣り竿でした。
 それを見れば故人が釣り好きであったことが一目瞭然なわけですから、誰の発案かは知りませんが、故人の人柄を示す恰好の遺品として飾られたのでしょう。

 しかし、それを目にした時、私は「何か変だな」と感じたのです。
 それがなぜなのか、その時の私にはわかりませんでした。
 その違和感の正体に気がついたのはその後大分経ってからです。

 それは、故人の趣味を示すための釣り竿が、私にはまるで、
「この人は、殺生(せっしょう)を道楽(どうらく)にして一生を終わった人です」
と喧伝しているもののように感じられたからだったのです。

 魚釣りという趣味が悪いと言っているわけではありません。

 ただ、故人は大病によって1度は死の淵を覗きながら、リハビリに励んで見事に社会復帰され、数年後に同じ病気の発作で亡くなられた方でした。
 その人との最後の別れの場に、その人の一生を象徴するものとして釣り竿を飾るということがはたして適切であったのかどうか?

 たかが釣り竿、されど釣り竿。

 私にはこの釣り竿1本がはからずも「現代」を象徴しているように思えました。

 「大漁」が伝えてくれた「悲しみ」をもって人間や世界を見る目線。それは私流に言えば「悲のまなざし」ですが、その「まなざし」を失った「現代」に一体何が起きているのでしょうか?

 答えは1つ。
 人間があらゆるものを「道具」としか、自分にとって有益かどうか、利用できるか否かでしか見られなくなっているということではないのでしょうか。

                        (「西念寺婦人会だより」2001年12月号掲載)

〔参考文献〕
矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局・1993)


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