「西念寺婦人会だより」2008年1月〜12月分 | |
2008年1月発行 掲載分 | |
『千の風になって』 一昨年の大晦日の「紅白歌合戦」を機に昨年大ブレイクした歌があります。 こう書いただけで「ああ、あの歌か」と頷かれた方もおられたかも知れません。 もともとは、急病によって妻を喪った友人とその子供たちのために、作家でシンガーソングライターの新井満さんがアメリカに伝わっていた作者不明の原詩を翻訳して曲をつけたものだそうですが、数年前に新聞で紹介されるや瞬く間に評判になり、ついには昨年の大ブレイクに至ったとのことです。 私の個人的経験からしても、例えばご法事にお伺いしたお宅のテーブルの上にCDが置いてあったり、お内仏(仏壇)の脇に本があったり、会食の会場でBGMとして流れていたりと、お身内を亡くされた人たちの心に強く訴えかける力を持った歌だということが知られ、また歌のもつ力の凄さを今更ながら思い知らされた気がします。 「私のお墓の前で/泣かないでください」で始まるこの歌は、「そこに私はいません/眠ってなんかいません」(あるいは「死んでなんかいません」)と続き、「千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」と朗々と歌われていきます。
最初の「私のお墓の前で/泣かないでください」というフレーズだけ聞くと、もしかしたら「お墓に参ってはいけないのか」と早合点する人もあるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
という意味だろうと私は思います。
逝ってしまった人はそれこそ「自分のことをいつまでも忘れないで欲しい」という思いを胸に抱いて、残された者は胸の中にポッカリと開いた穴の大きさ、言わば「喪失感」の大きさから亡き人の存在の大きさをあらためて知り、「もう一度会いたい」と切実に思う 。
これら双方の思いを、大自然を吹き渡る「風」に託して結び合わせたのがこの『千の風になって』という歌なのでしょう。 「千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」という歌詞の後には、
という歌詞が続きます。
古来から豊かな自然と四季に恵まれてきたこともあって、私たち日本人は自然の事象の中からいろいろなことを感じメッセージを読み取ってきました。
これこそが、亡き人の、個人の名前を超えた『願い』というものではないのでしょうか。 亡き人の思いを感じ取る手がかりは何も自然の事象だけとは限りません。 私たちが亡き人を遠い過去の人にしてしまわず、亡き人の思い、願いに耳を澄まそうとする限り、です。
気がつけば私たちの存在すべて―身と心、ものの見方、感じ方、考え方すべて―が「貰いもの」、先人からの頂きものであります。 私たちが生きていく上での、これが否定できない「事実」というものでしょう。 眼前の雑事のみに心奪われがちな日常ではありますが、この「事実」を忘れず、この「事実」に立って、亡き人を自分の中で生かしながら、亡き人と共に日々を営んでいきたいものであります。 (「西念寺婦人会だより」2008年1月号掲載)
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2008年3月発行 掲載分 |
『今月の言葉』 「今月の言葉」は、旧友から届いた年賀状に書かれていた浄土真宗の碩学曽我量深先生のものです。 前回の『法話』で取り上げた『千の風になって』と相通じる内容でしたので今回取り上げてみました。 両者の違いをあえて挙げれば、『千の風になって』が私たちの「外」、自然の事象の中に故人を感じるのに対して、「今月の言葉」は私たちの「内」に、身と心の中に生きる故人(祖先)を感じ、出会っていくということでしょうか。 「祖先が私の中で生きている」というのは、少し意識すれば日常生活の中ですぐに思い当たります。 「身の中に生きる祖先」とは、自分が両親とよく似た身体を持つということからまず知られます。 このことからでしょうか、古代中国には「自分の身体は両親の遺体(なきがら・この世に遺してくれた身体)である」という考え方があったそうです。※1 「心の中」の方は、それこそ故人の面影や一緒にすごした日々の思い出、忘れないひと言など、私たちの心は間違いなくそれらから出来上がっています。 また、私たちが普段自分のオリジナルだと思って発している「考え」や「意見」。その元となるものの見方・考え方。それらはすべていつかどこかで誰かから教え与えられたものです。 身も心も、私の全体が祖先からの贈り物、賜りもので出来上がっていると言えます。 このように曽我先生の「言葉」の前半はよくわかるのですが、問題は後半部分です。 祖先が私に対して助かってくれと願っている、あるいは、自分を助けてくれと願っている、というのはどういうことでしょう。 日本語の「助かる」という言葉は実に多くの場面で用いられます。 しかし、曽我先生の言われる「助かる」、浄土真宗(親鸞聖人の仏教)におけるそれはもっと根本的な意味だと思われます。 親鸞聖人がおっしゃる「助かる」をもっとも端的に示している『和讃』があります。
「むなしくすぐる(空過)」。 自分の人生が空虚なままで終わっていく。 それは人間にとって最大の不幸であると言えます。
これが「空しく過ぐる人なかれ」と願う阿弥陀仏の「本願」です。 何かにつまずいて生きる気力を失った時、私たちはよくこんな「愚痴」をこぼします。
一度もこんな愚痴をこぼしたことがない、という人はおそらく世界中で一人もいないでしょう。 しかし、これらの愚痴は、ある意味で大変傲慢かつ罪深いものでもあります。 子孫である私たちがそんな有様では祖先の人生が無駄だった―「いったい何のために自分は懸命に生きて次の世代にバトンを渡してきたのか。死んでも死に切れない」(助からない)―ことになります。 私が助かれば祖先も助かる。 先日亡くなった高校時代の先生とかつて交わした会話が思い出されます。
(「西念寺婦人会だより」2008年3月号掲載)
〈参考文献〉 |
2008年5月発行 掲載分 |
「見てござる」 あらためて申し上げるまでもないことかも知れませんが、私たち浄土真宗の御本尊は阿弥陀仏、阿弥陀如来さまです。 「阿弥陀仏(如来)」とは、「阿弥陀」という名前の仏様のことを示すわけですが、この「阿弥陀」とは、もともとは「無限」を表すサンスクリット語「アミタ」の音をそのまま写したもので、「無限のいのち」「無限の光」という意味を表しています。 ではその「無限のいのち、光」という名を持つ阿弥陀如来とはどんな仏さまなのでしょうか。 私たちの先達は阿弥陀さまを
と仰いできました。 「見てござる」、つまり、「見ていらっしゃる」「見ていて下さる」。 話が横道にそれますが、俗説によれば、「親」という漢字は「木の上に立って見る」という意味だそうです。
もっともこの説は漢字の起源そのものからすると全くの間違いだそうで、現在の「親」という字を見て後から誰かが考えた意味づけなのだそうですが、「親」というものの役割をよく示した、いかにも成る程とうなずいてしまいそうな、よくできた話です。
この「阿弥陀仏」イコール「見てござる親さま」という話を初めて聞いた時には私も、「ふ〜ん。そんなものかな」といった程度にしか考えていませんでした。 最近の子育て論では「過保護はいいが、過干渉はいけない」と言われます。 しかし、実際の「子育て」と言えば……。 ただ見ていても、子供が自分からやるのを持っていても一向に物事が前に進まない。 またそうは言っても、衣食住すべてに手のかかった赤子も、成長するにつれ、だんだん手を出す機会が減り、しまいには口を出すことさえはばかられるようになっていき、やがて親は見ているくらいしかできなくなっていきます。 また、見ている相手が子供ではなく、例えば病人だとしたらどうでしょう。 病気が軽いうちならばあれこれと世話を焼くこともできますが、やがて病気が重くなり、医者に見放され、最期を待つばかりの重態となった時、私たちにできることは、目をそらさずにその人を見ていることだけではないでしょうか。 手を出していられる、してあげられることのあるうちはまだましであり、まだ楽なのです。
自分の大切な人が苦しむのを見ていることしかできない時、私たちはそのただ「見る」、見続けるという単純な行為ひとつにどれだけのエネルギーの消費を強いられるでしょうか。 また、どれほど親しい関係であっても、人間関係の中では「目をそらす」という選択肢もあり得ます。
しかし、阿弥陀仏という親さまはいかなる時も、子供である私たちがどんな状況に置かれた時でも、またどれほど堕落してしまったとしても、目を離さずに見つめ続けていて下さるというのです。 浄土真宗のお仏壇(内仏)は、阿弥陀さまの居られる西方極楽浄土を表しています。
私たちは日々お内仏に向かい手を合わせ、お念仏申しますが、「南無阿弥陀仏」とは「私は阿弥陀という名前の仏を南無し―この上なく尊いものとして信じ敬い―ます」という意味の言葉です。 私たちのご先祖は亡き人の面影を通して阿弥陀さまの心を知り、亡き人の面影にまでなって私たちにその大悲の心を注いで下さる阿弥陀さまのそのまなざしに慰められ、励まされ、時には叱られて背筋を伸ばされ、日々を送ってきたのではないでしょうか。
(「西念寺婦人会だより」2008年5月号掲載) |
2008年9月発行 掲載分 |
生きている 先日、私はある会合で、東南アジアのある国の孤児院を支援しておられる女性のお話をお聞きしました。
また、この方は、実際に赴いた孤児院でこんな経験もなさったそうです。
聞けば、その孤児院は10人足らずのスタッフで160人ほどの子供たちの面倒を見ているそうです。 なぜなら、この孤児院の支援活動は、息子さんが自分の死と引き換えにこのお母さんに与えてくれた新しい生き方、新しい生きる目的・意味だからです。
死んでしまった息子さんを、もう一度死なせてしまわないために。 亡くなった息子さんから、そして孤児院の子供たちから、「力」―生きる意味とエネルギーと―を与えてもらいながらこの方は日々を生きておられるのでしょう。 ……「生きている」ということは、決して「私」の力ではない、のです。 (『西念寺婦人会だより』2008年9月号掲載) |
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