法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2021年1月~12月分)
 
 
 

 
 
「顕如譲状」の謎
 

東本願寺第12代法主教如上人(1558~1614)は東本願寺の実質的な初代(創設者)であり、従来からあった本願寺からこの方が分派・独立されたことによって、本願寺は現在のような東西二派(西本願寺=浄土真宗本願寺派、東本願寺=真宗大谷派)に別れたわけですが、教如上人は父顕如上人(本願寺第11代法主)が文禄元年(1592年)11月24日に50歳で示寂された跡を受けて、いったんは本願寺法主職を継承しておられます。
ところが約一年後の文禄2年(1593)閏9月のはじめ、顕如上人の正室如春尼公(教如上人の生母)が有馬温泉で静養中であった豊臣秀吉に、顕如上人が三男の准如上人に宛てた天正15年(1587)12月6日付の本願寺法主職の「譲状(ゆずりじょう)」があると言って、教如上人の法主職の解任を訴え出ます。
これを受けて秀吉は同年閏9月12日、教如上人と坊官の下間頼廉、下間仲之らを大坂城に召し出し、教如上人の過失を挙げ、十一か条を示して、10年後に准如上人に法主職を譲るよう厳命します。
教如上人はこれを承服されたのですが、下間頼廉がこの裁定に異を唱え、激怒した秀吉は敎如上人の即時退隠を命じ、同月16日に准如上人が継職の運びとなりました。
秀吉の死後、徳川家康に接近した敎如上人に関ヶ原の合戦を経て天下人となった家康が慶長7年(1602)2月、寺地を寄進して東本願寺が創設されることとなります。
……ちなみに教如上人が退隠させられる原因を作った下間頼廉は、その後准如上人に仕えて西本願寺を支えていったそうです。
この騒動の背景には、大坂本願寺が織田信長と戦ったいわゆる石山合戦(1570~1580)末期以来の、信長軍との和睦・恭順を唱える穏健派(顕如上人側)とあくまでも徹底抗戦を唱える強硬派(教如上人側)との対立がありました。
顕如上人は天正8年(1580)3月、一足先に和睦を受け入れて本願寺を出て紀伊・鷺ノ森に退去され、教如上人はその後も本願寺に残り籠城(大坂抱様)を続けるも8月に退去を余儀なくされます。(本願寺は教如上人退去直後に火災で全焼)
本願寺を退去された教如上人は鷺ノ森に向かわれますが、顕如上人は対面を拒み、教如上人を義絶されます。
その後、教如上人は天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」で信長が斃れるまで流浪の生活を送られます。
本能寺の変後の6月27日、教如上人は義絶を解かれ新門跡としての活動を開始されますが、大坂抱様の際に上人を担いだ強硬派は破門されたままでした。
文禄元年の顕如上人の示寂に伴い法主職を継がれた教如上人は早速に強硬派の破門を解いて自らの側近に起用、反面穏健派を排除します。
その結果、排除・罷免された穏健派が失地回復を図って起こしたものが、翌年の如春尼公による秀吉への訴えであると思われます。
秀吉が教如上人に示した十一か条からも充分にそのことが窺われます。
(1)……
(5)代ゆづり(譲)状これある事、先代〔注・顕如〕よりゆづり状もこれある由の事。
(6)先門跡〔注・顕如〕せつかん(折檻)の者め(召)し出され候事。
(7)めし出され候人よりも、罷りいで候者ども、不届きに思し候事。……
(10)右のごとくたしなみ候はば、十年家をもちて、十年めに理門〔注・准如〕へあい渡さるべき事、是はかた手うちの仰付られ様にて候得共、新門跡〔注・准如〕このうち御目をかけられ候間、かくのごとく由に候。
(11)……右めしいだし候いたづらもの共めしつれ。御奉公候へとの儀に候。
さて下の画像 が件の「顕如譲状」です。
 
 
 

【原 文】
譲渡状
大谷本願寺御影堂御留守職之事 可為阿茶者也
先年雖書之 猶為後代 書置之候
此旨於違背輩在之者 可加堅成敗者也
仍譲状如件
天正十五丁亥暦極月六日 光佐(花押)
阿茶御かたへ
 
【読み下し文】
譲り渡し状
大谷本願寺御影堂御留守職のこと、阿茶〔注・准如〕たるべきものなり。
先年これを書くといえども、なお後代のためにこれを書き置きそうろう。
この旨、違背のやからこれあるにおいては、堅く成敗を加うべきものなり。
よって譲状くだんのごとし。
天正十五丁亥暦極月六日 光佐(花押)
阿茶御かたへ」
 

この「顕如譲状」、文禄2年(1593)に歴史の表舞台に登場して以来、400年以上にわたって、その真偽が論争されてきたのですが、近年、金龍静氏が「譲状」の筆跡等の観点から真作説を主張、それに対して上場顕雄氏が反駁されるなど再び論争が展開されております。

金龍静「顕如譲状考」(稲葉伸道『中世寺社と国家・地域・資料』、法藏館、2017年
YouTube「なぜ?本願寺が東西に分かれたか!(顕如譲状考)」Che-lee
上場顕雄「本願寺顕如「譲状」と筆跡・花押 ―疑文書考―」(『同朋大学仏教文化研究所紀要』37、2017年)
  同  「研究ノート 顕如譲状の真偽問題」(真宗大谷派教学研究所編『教化研究』 162、東本願寺出版、2018年
私なんぞは、筆跡云々はさておき、新門跡として二度にわたる秀吉の九州遠征(天正15年の島津征討時、天正10年・文禄元年の朝鮮出兵時の名護屋)の陣中見舞いに赴き、また豊臣政権の中で着実に人脈(豊臣秀長、千利休)を築くなどしていた長男を廃して、元服前の三男に譲ろうというのも戦国期のリーダーの行動としてはあまりにも不可解だし、如春尼公にしても前年12月10日の顕如上人の葬儀を教如上人に導師として取り仕切らせながら一年後に譲状を出してくるなど、ツッコミどころ満載の代物に思えるのですが……
ちなみに真作説の方から
「『譲り状』が偽物だと思うのならば、なぜ秀吉の前で教如はそう主張しなかったのか?」
という疑問が出されているとも耳にしますが、私からすれば笑止千万、
「あなたは歴史を勉強したことがないのか?」
と。
独裁者秀吉が十一か条を示した時点で既にこれは「決定事項」。教如上人からすればまさしく「詰んでいる」のであって、
「下手に反論しようものならばどんな懲罰が用意されているか知れたものではない。(例えば、天正18年(1590年)の北条氏征討後に秀吉から尾張・北伊勢の旧領から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃(徳川家康旧領)への移封(国替え)を命じられてそれを拒んだ織田信雄(織田信長の三男)は、改易(所領没収)の上流罪となっています。)
 ここは慎んでご下命を承る他はない。
 退隠までまだ10年ある。10年後には状況も変わっていようし、また、10年あればいくらでも変えられよう。(事実、秀吉は5年後、慶長3年・1598年8月に死去します)」
と上人が考えられたとしても一つも不思議ではない、と思うのですが。
……裁定に異議を唱えた下間頼廉が後に准如上人に仕えたというのもいかにも怪しい。(もしかして出来レース?)
 
 
(12月22日) 
 

 
 
 
 
釈尊成道の日によせて 
 

本日12月8日は「成道会」(じょうどうえ)、釈尊(釈迦牟尼世尊、お釈迦さま)が成道―ブッダガヤの菩提樹(アシュバッタ、ピッパラ)の下で正覚(さとり)を開かれた―とされる日です。
 
 
 
 
【 ブッダガヤ・大菩提寺(マハーボディ寺院) 】 
 
 
 【 金 剛 法 座 】
 
 
 
 【 菩 提 樹 】 (以上、Sanjay Kumar氏撮影)
 

釈尊が得られた正覚の内容については、初期仏教の経典の記述に基づいて、「十二支縁起」※1を覚ったとか、「三明」※2(宿命明・天眼明・漏尽明)を覚ったとか等、諸説がありますが、浄土真宗的に言えば、親鸞聖人が「釈尊の出世本懐経」(釈尊がこの経を説くためにこの世に出現したされる経典)とされた『大無量寿経』の、阿難がいまだかって見たこともないような威容を釈尊が現したこと(五徳瑞現)と、その理由を問う阿難に対して釈尊が、
「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。……
 如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。
 世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」
「しかれば、『大経』には、「如来所以興出於世 欲拯群萠恵以真実之利」とのべたまえり。
 この文のこころは、「如来」ともうすは、諸仏をもうすなり。
「所以」は、ゆえ、ということばなり。
「興出於世」というは、仏のよにいでたまうともうすなり。
「欲」は、おぼしめすともうすなり。
「拯」は、すくうという。
「群萠」は、よろずの衆生という。
「恵」は、めぐむともうす。
「真実之利」ともうすは、弥陀の誓願をもうすなり。
 しかれば、諸仏のよよにいでたまうゆえは、弥陀の願力をときて、よろずの衆生をめぐみすくわんとおぼしめすを、本懐とせんとしたまうがゆえに、真実之利とはもうすなり。
 しかればこれを、諸仏出世の直説ともうすなり。」(親鸞聖人『一念多念文意』)
と応えた、との記述等に基づいて、釈尊その人こそが阿弥陀仏の本願に出遇って念仏して救われたのだ、と申し上げたいところです。
正確な出典は未詳なのですが、古来インドでは何かに感動した時、例えば雄大な大自然!?を見た時に、「アミタ」(量ることができない、無限・無量)という言葉を発してその感動を表現した、という話があります。
また、「南無阿弥陀仏」の「南無」はその起源をたどれば古代サンスクリット語の敬意・尊敬・崇敬を示す間投詞(感動詞)「ナマス」「ナモ」の音写だそうです。
つまり「南無阿弥陀仏」という言葉はその起源をさかのぼれば、「ナモ・アミタ!!」(嗚呼、無限なるものよ)という感嘆の叫びであったということになります。
さてここからは私めの「妄想」をつらつらと……
おっと、その前に予備知識をもう一つ。
東京大学名誉教授でいらした仏教学者の故玉城康四郎博士(1915~1999)は「仏教における法の根源態」(『平川彰博士還暦記念論集・仏教における法の研究』、1975年)という論文以来、『律蔵』「大品」の感興偈(ウダーナ)に三度登場する「諸法が顕現する」(pa_tubhavanti dhamma_※3との記述に着目して、釈尊の成道を「業熟体にダンマ(法)が顕現した」「釈尊における”法経験〟〝法の直接経験〟」であると捉えておられるそうです。
(ちなみに玉城先生は「法」を「言葉を越え、形を離れたものでありながら、現実に経験され得るもの」「形なき純粋生命」「法は過去・現在・未来において普遍的である」と定義しておられます。)
では今度こそ……
「正覚を開くまでこの座を立たない」と誓って菩提樹の下で瞑想を行じていた釈尊が、8日目の朝、ふと目を開くと東の空に明けの明星(金星)が輝くのが見えた。

 
 
 
明 け の 明 星 】 
 

釈尊が思わず「ナモ・アミタ」と感嘆の声を上げたまさにその瞬間に、「ダンマ(法)の顕現」―我執(「無明の闇」)が摧かれ破られる体験、すなわち回心―が起こり、アミタ(無限)に対する有限卑小なる自己として「曠劫已来、常に没し常に流転」してきた自身の過去世を実感する(宿命明)と共に、流転をもたらした人間の迷いの構造(十二支縁起、無明(むみよう)→行(ぎよう)→識(しき)→名色(みようしき)→六処→触(そく)→受→愛→取→有(う)→生(しよう)→老死)を明晰に理解した。(機の深信)
このような「超越的な飛躍・跳躍」とも言える宗教体験に対して、現在の私たちは「回心」とか「見性」、あるいは「念仏申さんと思い立つ心の発起」といった言葉で表わす伝統を持っていますが、当時の釈尊からすれば自分のこの宗教体験をうまく言葉に表すこともできない、人に理解させることも、ましてや実際に人にこれを体験させることなどと絶対に不可能だと思えたのではないでしょうか。
梵天勧請前の釈尊が、絶望のあまり「このまま何も語らずに涅槃に入ろう(つまり、死んでしまおう)」と思われたのも無理からぬことだったかも知れません。
そしてそれ以後の仏教は、釈尊がその「跳躍」体験に至るまでの修行(瞑想等)を重視してもっぱらそれ(八正道、戒・定・慧)を説き、大乗経典の編纂時に到って初めて「跳躍」体験(ダンマの顕現)の「内景」を探索して、『大無量寿経』の法蔵菩薩の物語が編まれることになったのではないでしょうか。
以上、おこがましくも、「仏の名号をもって経の体とす」(親鸞聖人『教行信証』「教巻」)、「大乗仏教は釈尊以前の仏教」「弥陀の本願は釈尊以前の仏教」(曽我量深)、「初めに名号あり」「根源語・根元語」(安田理深)等の先師の教言に触発されての、私家版「釈尊成道の物語」でした。
お粗末!!<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
  
             
 
 

コルカタ・インド博物館所蔵「降魔釈迦像」】 
 
 
 
YouTube「ブッダの生涯6(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)」より 】
 
 


※1十二支縁起(じゅうにしえんぎ)または十二因縁(じゅうにいんねん)
【十二因縁】
〔名〕 仏語。無明、すなわち無知を根底においた生存の見方で、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二を人間あるいは生物の生存を構成する要件として立てたもの。これらはすべて、前者によって後者があり、前者が消滅すれば後者も消滅するという、因果的な連鎖の関係にあるとされる。有力な解釈の一つとして、この十二の要件の関係を三世にわたる関係を示すとするものもある。十二縁。十二縁起。十二縁門。十二縁生。十二懸連。〔法華義疏(7C前)〕
           (出典:『精選版 日本国語大辞典』)
  《十二の支分》
無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 無知。過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
行(ぎょう、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 生活作用、潜在的形成力、志向作用。物事がそのようになる力=業。
識(しき、巴: viññāṇa, 梵: vijñāna) - 識別作用。好き嫌い、選別、差別の元。
名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。物質的現象世界。名称と形態。実際の形と、その名前。
六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感受機能、感覚器官。眼耳鼻舌身意の6感官。六入(ろくにゅう)ともいう
触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
受(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。
愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛、妄執。
取(しゅ、upādāna) - 執着
有(う、bhava) - 存在。生存
生(しょう、jāti) - 生まれること
老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死
※2三明(さんみょう)
〘名〙 (「明」は智の意) 仏語。仏・阿羅漢(あらかん)が備えている三つの智慧。すなわち、過去の事を明らかに知る宿命明、未来の事に通達する生死(天眼)明、現在の事を明らかにして煩悩を断ずる漏尽明(ろじんみょう)をいう。三明智。
※経国集(827)一四・和海和尚秋日観神泉苑之作〈滋野貞主〉「三明湿照龍池閣、二道薫迎秋蕙楼」
※三代実録‐貞観三年(861)三月一四日「先資七廟。滌想三明。恬神八解」 〔雑阿含経‐三一〕
           (出典:『精選版 日本国語大辞典』)
※3『律蔵』「大品」ウダーナ(感興偈)の三つの詩
夕暮れの詩
実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
というのは縁の理法を知っているから
夜中の詩
実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
というのはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから
明け方の詩
実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている。
  
 
(12月8日)
 


「生者必滅・会者定離は世の習いにて候



去る11月26日、大谷大学名誉教授(真宗学)・幡谷明先生(法名:乗願院釈崇信)が亡くなられました。
 
 
 
直接の指導教授ではなかったものの、同じ山陰地方の出身(幡谷先生は島根県浜田市・顕正寺)ということもあってか、在京時代は随分と眼をかけていただいた覚えがあります。 
昨年7月に急逝された鍵主良敬先生(文学部仏教学科時代の指導教授かつ仏教青年会顧問)といい、在京時代にお世話になった先生方が次々とこの世を去って行かれました。
神戸和麿先生(2013年3月2日、満73歳)
安富信哉先生(2017年3月31日、満73歳)
小野蓮明先生(2019年11月27日、満82歳)
鍵主良敬先生(2020年7月10日、満87歳)
寺川俊昭先生(2021年9月28日、満93歳)
幡谷 明先生(2021年11月26日、満93歳)
「生者必滅・会者定離は世の習い」とはいうもののやはり寂しいですね。
後に残された者、課題を託された者の一人として一層奮励努力しなければならない、と充分承知しているつもりではあるのですが……
 
(11月29日)
 
 
 
 令和3年9月28日
 
寺川俊昭師ご逝去

法名:願慧院釈俊昭
大僧正
(石法山西願寺第16世住職)

積年に及ぶ懇切なるご教導に
衷心より深謝申し上げます


合 掌         
 

On September 28, 2021,
Rev. Shunshou Terakawa passed away.

I would like to express my heartfelt gratitude
for his many years of teaching.
 

 
Sincerely yours  
 
 
《 2018年8月8日、御自坊西願寺にて 》

 (10月1日)

 

初レビュー発見。

 
 

Amazonで買い物のついでに自著『親鸞改名の研究』のページを覗いてみたら、何と、カスタマーレビューが!(……しかも星5つ!!)
2019年6月の出版から2年3ヶ月目にして初めて頂戴した「書評」。
ご指摘が的を射ているかどうかはともかく、反応があるのはやはり嬉しいものです。
興奮のあまり、「他にもないか」とエゴサーチ(自分の名前で検索をかけること)が始まってしまいそう……(^_^.)
 
(8月27日)
 
 

 謹 賀 新 年

 
 
【親鸞聖人「安城の御影」(模写・西本願寺蔵)】
 
 
「仏の御恩をおぼしめさんに
 御報恩のために お念仏 こころにいれてもうして
 世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ とおぼしめすべし
                   (親鸞聖人)
 
  旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 (2021年1月1日)

 
 


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