「住職日記」(2017年1月~12月分) | |
|
|
親鸞聖人は、『大無量寿経」下巻の「本願成就の文」 「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」ことに、「乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転」を、師法然聖人のように「念仏往生の願成就の文」として 「臨終の一声に至るまで称名念仏すれば、命終の時、来迎にあずかって即時に浄土に往生することを得て、浄土において不退転に住する。」と読むのではなく、 「現生の、信の一念が発起するその時、即時に往生(=不退転に住する)を得る。」と読んで、次のように注釈しています。 「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。 すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。 弥勒は竪の金剛心の菩薩なり。 「次如弥勒」ともうすは、「次」は、ちかしという、つぎにという。 『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまえり。 親鸞聖人はこれらの文で、「信心をうればすなわち往生することを得る」(未来の往生が約束される)ではなく、明らかに「信心をうればすなわち往生す」と訓んでいます。 これらの文は、親鸞聖人が兄弟子の聖覚法印の著作『唯信鈔』や隆寛律師の『一念多念分別事』に引かれた漢文の文を注釈して関東の門弟たちに送った和語聖教の中の文ですが、もし仮にこれらを当時の「南都北嶺のゆゆしき学生たち」(奈良の興福寺や比叡山の学僧たち)が読んだらどんな印象をもったでしょうか。 現代の私たちは、言わば「耳慣れ雀」(『蓮如上人御一代記聞書』)で、これらの文章を見慣れているからこそ何とも思わないのですけれど、当時のオーソドックスな仏教学徒が読んだらおそらくは、(こいつは狂人か?さもなくば、とんでもないホラ吹きのペテン師だ!!)と大激怒したのではないでしょうか。 (しかも、そういった反応は、旧仏教側からばかりでなく、味方のはずの浄土宗側からも起きたかも知れません。) 「智慧第一の法然房」として僧俗の尊敬を集めていた師匠の法然上人に対してでさえ、生前は『興福寺奏状』、没後は『摧邪輪』『延暦寺大衆解』などによって 「本願や念仏を誤解している。」 等々の思想的批難が浴びせられ、著書『選択本願念仏集』の版木が焼かれ、しかも墓まで暴かれかけたのに、ましてや「『下根劣機のための方便の行』に過ぎないはずの称名念仏一つで、破戒(肉食妻帯)し放題の凡夫が必ず大涅槃の覚りを開く」だの、「念仏の衆生は弥勒菩薩(56億7千万年後の仏)と等しい」だのと書かれた『教行信証』を迂闊に公開(出版)なんぞしていたらどんな恐ろしいことになったでしょう。 |
|||||||||||||||
親鸞聖人は63歳の頃、すでに生活基盤も確立していたであろう関東を離れて京都に帰られます。 「完成したばかりの『教行信証』をもって京都の思想界・仏教界に殴り込みをかける。」 そんな意気軒高な気持ちで帰って来てはみたものの、実際の京都の情勢はそんな生易しいものではありませんでした。 周囲、それも聖覚法印あたりから、 「そんな危ない真似は絶対にやめろ。」 と必死で諌められて、やむなくあきらめ、 「当分時機を待とうか。 ということになったではないか、と私は想像するのです。 そして、聖人の生前、『教行信証」』は尊蓮・専信らの弟子によって書写され後世へと伝えられましたが、初めて出版されたのはその死から29年ほど経った正応4年(1291)、孫弟子性海(聖人の直弟子性信の弟子)の手によってだったそうです。 ……さて今回の私のこの「妄想」、いかがだったでしょうか?
|
|||||||||||||||
|
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.