「住職日記」(2015年1月~12月分) | |
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「講演 親鸞の伝承と史料批判」(古田武彦、2007年6月8日、大谷大学にて) この講演(2007年7月8日真宗連合学会第54回大会での研究発表「親鸞思想と日本海」)の中で古田武彦先生は、『続日本紀』神亀元年(724)3月の流罪規定 「庚申、定二諸流配遠近之程一。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐六国、為レ遠。諏方・伊豫為レ中。越前・安芸為レ近。」 を根拠(金科玉条)にして、 「越後は当時、遠流(おんる)の対象国ではなかった。」 とし、さらに、 「親鸞は越後ではなくまず佐渡に流された。 と言っていらっしゃいます。 しかし、親鸞聖人とほぼ同時代の公家九条兼実(1149―1207)の日記『玉葉』の文治2年(1186)正月22日条には、 「遠流の国々 とあって、当時越後が間違いなく「遠流」の対象であったことが知られます。 また、ここで挙げられている具体的根拠は、和田某氏の偽作と悪評の高い『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)を含む「和田家文書」とタクシーの運転手さんから聞いた話だけです。 講演によれば、新潟県の直江津市から長野へ行く途中の上越市板倉の関山(せきやま)に「ひじりのいわや」と呼ばれる洞窟があり、そこに親鸞聖人が住んでおられたという伝承が現地では根強くあるそうです。 ただ、古田先生、この講演録では 「去年11月10日、八王子にある大学セミナーハウスで二日間にわたる講演をした際、その前の晩〔9日:筆者補足〕に「東日流外三郡誌」寛政原本にお目にかかったのです。」 と言いながら、 「講演が終わった14日にタクシーでそこを出た。」 と言っておられるので、 (10日から二日間講演したのなら講演が終わるのは11日じゃないのか?) とツッコミたくなるところではありますし、私の手元にある真宗連合学会刊『真宗研究』第52輯に載った「論文」(タイトル「親鸞思想と日本海」)には、 「昨年(2006)の11月13日(月曜日)、東京のタクシーの中偶然お聞きした運転手のお話によって、その方の出身地(板倉)の「伝承」では、 「親鸞聖人は佐渡から来られた。」 とされていることを知ったのである。」(247~8頁) とあって、あたかもその伝承を初めて知ったかのような書きぶりですが、 「昨年(2006)の11月10日(金曜日)、わたしははじめて念願の「東日流外三郡誌」の寛政原本に接した。八王子の大学セミナー(「筑紫時代」)の講師室(宿泊)だった。」(248頁) とあって、 (なんだ、古田先生、自分から話を振ってるじゃないか。) と。 具体的な日付に関して言えば、もうどこから突っ込んだらいいものやら……。 (さすがにタクシーに乗って運転手の証言を聞いた日付に関しては、論文の「註」で口頭発表の「14日」はまちがいで「13日」が正しいと訂正してはいらっしゃいますが……。) ひと言お断りしておきますが、「タクシーの運転手」の証言だから信用できないとか言っているわけではありませんよ。 まず、「ひじりのいわや、親鸞居住説」についてですが、上越市板倉に「関山の洞窟に親鸞聖人が住んでおられた」という伝承があるのはおそらく事実でしょう。 (極端な例ではありますが、青森県戸来(へらい)村(現在は三戸郡新郷村大字戸来)にある、いわゆる「キリストの墓」は、昭和10年(1935)8月に新宗教団体の教祖・竹内巨麿(たけうち・きよまろ)によって初めて「発見」されたそうですから。) 少なくともこの講演からは、伝承を裏付ける古文書を探索するなどの「研究者」なら当然行うべき「裏取り」作業をなさった形跡が、一切窺えません。 タクシーの運転手の「証言」にしても、一人の証言だけではなく他の複数の、それも現地板倉の人に聞き取りをするとかも一切なさっておられないようです。 何より、この運転手さん、古田先生の『親鸞聖人が佐渡から来たという話があるか」という質問に同意しただけで、別に「親鸞聖人が佐渡にいったん流刑になって、そこから越後にやってきた」という「親鸞、佐渡流刑説」に賛成したわけではないのです。 この講演録を読んだある人は、 「タクシーの運ちゃんも大変だわ。 と苦笑しておられました。 また講演中、古田先生は、 「『東日流外三郡誌』の「金光抄」に、金光上人が佐渡にいた親鸞と問答をしたことが書かれている。」 とおっしゃられていますが、「金光抄」には親鸞聖人の名が、元久2年(1205)に(古田説では「善信」に)すでに改名していたはずの元の名「綽空」で記されているそうです。 古田先生は論文では、 「「善信」は(教行信証後序に示唆されているように)法然自身による「認証」名称である。 とおっしゃっていますが、私から見ると、例によってあらかじめ批判に対する「予防線」を張っていらっしゃる(もっとはっきりと言えば、詭弁)としか思われません。 また、『東日流外三郡誌』の偽作者と目された故和田某氏についても、 「和田〔名前〕氏は、この「綽空」をもって「日蓮の弟子」と信じこんでおられたのである。 と言っておられますが、古田先生が「こんな文書はないか」と聞くと、和田氏が「捜してみる」と言った数日後、「こんなのが見つかった」と言って、必ず古田説を裏付ける史料が都合よく「発見」されることが度々だったとも言われていますし、正直、 (詐欺師がカモに手の内を明かすものか。) という感想しか浮かびません。 また、「親鸞聖人は最初佐渡に流されて、その後越後に移された」とおっしゃられるのであれば、なぜ流刑地の「国替え」が行われたのでしょうか。 佐渡と言えば、『玉葉』によれば越後と同様「遠流」の地であり、承久の変後には順徳上皇が、その後には日蓮上人が流されたことで有名ですが、 「縄文時代や江戸時代ならともかく鎌倉時代の佐渡では流罪者に大した「労役」をさせられないから、国府のある越後へ運ばれた。」 とはずいぶんいい加減な理由付けだと思わざる思えません。 流罪者に「労役」が不可欠の処罰であるというのならば、なぜ奈良時代以来、佐渡が「遠流」の地と定められてきたのでしょうか。 「綸言汗の如し」と言う言葉があります。 「厳制五箇条裁許官符」(現存せず)によって発表され、しかも罪人がすでに現地に到着していながら、流罪先を中途変更するどんな「理由」があったのでしょうか。 「愚禿悲歎述懐和讃」の 五濁邪悪のしるしには 末法悪世のかなしみは 仏法あなずるしるしには を聖人自身の奴隷労働の体験の証拠とするのは、ご本人もおっしゃるように裏付け資料の無い「想像」の産物でしかありません。 同じ「愚禿悲歎述懐和讃」の 罪業もとよりかたちなし の解釈に至ってはもう、牽強付会にも程がある、と言うか何というか。
古田シンパの皆さん、ホントに、どなたか、止めて差し上げてはいかがですか? (2月9日) 【追 記】 ちなみに講演中言及されている「和田家文書」の画像はコチラ↓ http://www.tagenteki-kodai.jp/Shiryo_07.html 真贋論争喧しかった『東日流外三郡誌』論争の顛末はこちら↓をクリック。 |
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ちなみに、この本↑で描かれている古田先生のキャラクターは、私が御高著『親鸞思想―その史料批判―』所収の『三夢記』(「建長二年文書」)、蓮光寺旧蔵本『親鸞聖人血脈文集』関連の論文を読み込んた際に感じた印象とピッタリ一致しました。
「アレッ、古田先生って確か『歎異抄』末尾の「流罪記録」は親鸞が書いた文章だって言ってなかったっけ?」 で、調べてみたら確かにありました。 古田武彦講演(2000年10月14日(火)) 親鸞流罪記録について」 この中で確かに古田先生、http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jshinran/jruzai.html「この私が主張したAの部分「大切の証文」は、親鸞自身が書いたものである。筆跡は蓮如ですが、親鸞自作の文章である。 とおっしゃっており、古田先生、2000年10月の時点ではこう考えておられたわけです。 これを思い出した時、私は最初、 (えっ、それじゃあ、古田先生は、「親鸞が自分で『流罪記録』を書いていながら、『自分は最初、佐渡に流された』ことはなぜか書かなかった」と言ってることになるんじゃないの?) と思いました。 ところが、2007年6月の学会発表(「親鸞思想と日本海」)では古田先生は、 「流罪の記録として著名なのは、歎異抄末尾の流罪記録である。…… 「遠流の人々已上八人」 と記している。 また、流罪地そのものも、肝心の法然の場合、名義上の流罪地たる「土佐」のみ記して、実際の滞留地「讃岐」を記すことがない。 要は、この流罪記録は、後代(「承久の変、以降」)の、アバウトな第二史料であること、この一事は疑うことができない。」 と書いておられました。 もちろん研究者といっても人間ですから考えが変わることもおありでしょう。 ただね、先生、件の発表ではこの文に続いて、 「しかるに、従来はこの第二史料(他にも血脈文集等)に立脚して、この「目」によって、第一史料である教行信証後序というという人(親鸞)自筆の第一史料を〝解釈〟してきた。 やはり、これとは逆に、第一史料を同時代の法制(令制)によって理解し、その上に立って第二史料の批判を行なう。 とまで啖呵を切ってらっしゃいますからねえ。 残念だったのは、使用された法制が「同時代のものではなかった」ことでしょうか。 もっとも私の印象では、古田先生の論理展開の特徴は、初めに着想があって、後はそれを補強するために、ひたすら史料に対する恣意的解釈と思い入れたっぷりの情緒的な文章表現を繰り返す、というものであって、正直な感想を言えば、 「おまゆう」(お前が言うか?お前が言うな!) といったところです。 ところで、古田先生は「『歎異抄」流罪記録は親鸞の文書」説をいつ撤回されたのでしょうか。 「かつて自分が東大の『史学雑誌』に論文投稿した「流罪記録は原始専従〔「修」の誤り〕念仏集団で作られた文書であるという説は間違いだった。」 とあんなにも潔く、それ以前の説を撤回されていたのに。 それにしても講演中「親鸞は佐渡から関東に行った」(「親鸞流罪記録について」)とまでお間違えになるとは……(2017年3月7日) |
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