法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2017年1月〜12月分
 

 
2017年2月発行 掲載分

 
 
「生きる上で最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
転ぶたびに起き上がり続けることにある。」 (ネルソン・マンデラ



今年皆さんに差し上げた年賀状には上の、南アフリカ共和国の弁護士・政治家であるネルソン・マンデラ氏(1918―2013)の言葉を添えてみました。

氏は母国のアパルトヘイト(人種差別政策)に抵抗して27年間投獄されましたが、1990年に釈放され、1993年にはノーベル平和賞を受賞。
翌年、同国初の黒人大統領に就任し、民族・人種間の和解と協調に向けて尽力されました。

ここで言う「転ぶ」とは、人がその生涯において様々な出来事や障害物に出遭って、挫折や失敗、あるいは絶望を余儀なくされることを指すのですが、氏によれば人生において大事なことは転ばないことではなく、転んでもいいから何度でも立ち上がることであり、立ち上がり続けることこそがその人の人生の本当の価値を決める、というのです。

そこで質問なのですが、人はなぜ「転ぶ」のでしょうか。

実際に人が転ぶ(転倒する)場面を思い出してみてください。

歩き始めたばかりの幼児はよく転びます。
それは頭が大きくてバランスを崩し易いからです。
また、高齢者が転び易いのは、足が自分で考えているほど高く上がっていないために、ちょっとした段差に引っかかるからです。

でもそれら段差や身体のバランスの悪さは、いわば縁(外的要因)であって、因(本当の原因)ではありません。

人が「転ぶ」本当の原因は何かと言えば、「歩く」からです。
歩かなければ、立って足を前に出さなければ「転ぶ」ということはありません。

人がなぜ転ぶのかと言えばそれは歩くからであり、人がなぜ生きることに傷つくのかと言えば、それは生きているからです。
予想外の事態に足元をすくわれたり、自分自身の油断や慢心が直接の引き金になったりしたとしても、生きているからこそ、前に進もうするからこそ人は転ぶのです。
ある程度の年齢に達していて、「転んだことがない」と言う人はおそらく一人もいないでしょう。

もちろん誰だって転ぶことは嫌いです。
好き好んで転びたいと思う人はいません。

ただ、振り返ってみればと、あの時転んでおいて良かったな。
あの時冷や汗の出るような思いをしておかなかったならば、自分は恥ずべきことを恥ずかしいとも思わない「天狗」のままで、「恥知らず」のままで来てしまっていただろうな。
そう思えるような経験が、私の乏しい人生経験の中でさえ、いくつかあります。

また、今の若い人たちを見ていると「転ぶこと」を極端に恐れているようにも見えます。
「もう、おしまいだ」「人生終わった」という言葉が簡単に口から飛び出して来るように思えます。

もちろん本人たちにしてみれば未経験の、容易ならざる事態でしょうし、社会全体が不寛容になってきているという面もあるでしょう。
でも一番の原因は若いがゆえの、転んだ経験がないからこその言葉なのではないでしょうか。
転んだからこそ見えてくることもあるはずです。

(何だ、みんな結構転んでいるじゃないか)

と。

「転」という字は訓読みだと「ころぶ」ですが、音読みにすると「てん」、動詞にすると「転ずる」になります。
そして、仏教ではこの「転ずる」ということを非常に重視します。

「転ぶ」ことは確かに痛いし恥ずかしい。
でも転ぶことを通して何らかの教訓なり知識なりを得ることができたら、それは「ただ痛かっただけ」の記憶ではなくなります。
確かに辛い体験だったけれどもあれは自分にとって大事な学習の機会だった。
あの悲しい出来事が自分の人生を、その後の自分の生き方、歩き方を決定付けた。
こう心から頷くことができれば、その体験・出来事の意味は変わってきます。
つまり、意味が「転じた」のです。

私の恩師は大学で教鞭をとられる前は、郷里(広島県の山間部)で高校の教師をしておられました。

昭和30年代前半から40年代の初め。
ちょうど日本が「高度経済成長」へと向かう時代で、それまで卒業後はそのまま家業に従事していた農家の子供たちが、集団就職で大勢都会に出ていくようになる。
そんな時代だったそうです。

勤務しておられた高校でも、時代に合わせて商業科を設立して就職指導―勤務時間が決まっていて何時から何時まで働く。休憩時間以外はむやみに腰かけない、といったことから教えていかねばならず、そのための講習会が催されたそうです。

昭和39年(1964)頃のこと、広島市内のある社長さんが「就職の心構え」という題で講演されたのですが、壇上に登って挨拶されたその方は、開口一番

「みなさんは、南無阿弥陀仏という言葉を知っていますか。
 人間は必ず死ぬんですよ。
 自分が死ぬということを計算に入れないような人生観は、全然信用することができません。」

と発言されたそうです。

この言葉を聞かれた師は感銘と共にこう直感されたそうです。

「この人は被爆の経験を持った人に違いない。
そして、この人は安芸門徒(あき・もんと)であろう」

と。

安芸の国(広島県の旧称)は、古くから親鸞聖人の言葉に耳を澄ませ、それを人生の指針として来られた人々(門徒)の多い土地柄です。

昭和20年(1945)8月6日、広島市に原子爆弾が投下され、20万人ほどの人が亡くなりました。
運良く生き延びた人も「いつ原爆症が発症するか」という不安を抱えながら生きねばならなくなりました。
(恩師もそのお一人です)

おそらくこの方は、投下直後の市内の惨状を目撃し、自らも被爆して、自分はこれからどう生きていけばいいのか、と自問なさったのではないでしょうか。
そして真宗の教えの聴聞を通して、自身の生き方を、それも襤褸(らんる・ぼろきれ)のごとく死んでいった人たちの死を、その無念の想いを無駄にしない生き方を模索してこられたのではなかったでしょうか。

その求道の歩みがどんなものであり、どれほど苦しいものであったのか、私には正直想像もつきません。

しかし、その歩みの成果の一つが、田舎の商業科の高校生に対する就職の心構えを語る際に発した最初の言葉。
これから都会に出て働く若者に、「まともな人間」として生きていってもらうために一番に伝えるべきこと、「根っこ」として覚えておいてもらいたい大事なことはこれだ、ではなかったでしょうか。

師はそれを、

南無阿弥陀仏という言葉を知らないで、まともな人間と言えますか。
人間は死ぬのだということを真剣に考えないようでは、まともな人間とは言えないのですよ。
しかも自分が死ぬのだという、死を視野に入れて自分の人生を考える。
それが一番健康で確かな、自分をそして人間を見る眼なのですよ」

と「まともな人間になることを願う」言葉、正しい人間として生きていく道を指し示す「大変親切な問いかけ」として、私たちに紹介してくださいました。

「転ぶ」の言葉だけでは表現し切れない程の深刻な体験であっても、人はそこから起き上がろうとします。
人はそれすらも単なる悲劇としてだけで終わらせたくはないのです。

そこに私は、

「たとえどんな出来事に出遭ったとしても、私は自分の人生を空しいまま終わらせたくはないのだ」

という、執念にも似た人間の持つ根源的な願いと、

「それこそがお前の真の願いである。
 どうかその願いを満足させてくれ。
 そのためにこそ仏の法を聴聞して、あらゆる悲劇の意味を転じて、起き上がり続ける人生をこそ歩んでくれ」

と語りかけ、命じてくださる釈迦・弥陀二尊の悲心とを感じずにはいられないのです。


(『西念寺婦人会だより』2017年2月号に掲載)

【参考文献】
寺川俊昭「平和を支える宗教教育」
(『往生浄土の自覚道』、法藏館、2004年所収)

 
2017年3月発行 掲載分

 
 

        「よきひと」との出遇い


「人間は何からできていますか。」

突然こんな質問をされたとしたら、皆さんならどうお答えになりますか。

試しにインターネットで検索したところ、

「無数の細胞からできている」
「体重のおよそ3分の2が水分、 次に多いのはタンパク質、その次が炭水化物、脂肪、その他ミネラル」
「アミノ酸から……」
「いろいろな元素から……」

等々の「回答」がありました。
ただ、これらの答えはいずれも身体を構成するものを科学的な視点から分析したものです。

これらの回答を、

「私たちの身体は、今まで食べてきた食べ物、つまりはいろいろな命からできている。」

と言い換えることもできるでしょう。

では、人の心、精神は何からできているのでしょう。
現代の科学的見地からすれば「脳の働き」「神経の電気信号」といった答えになるのでしょうか。

もちろん「正解」は一つではありません。

ただ、仏教という教え、殊に浄土真宗という教えの眼を通して考えてみた時、その答えは、

「人間(私)は無数の人たちとの出遇いによってできている。」

ということになるのではないでしょうか。

『雑阿含経』にこんな一節があります。

ある時、釈尊(お釈迦さま)に、お弟子で侍者の阿難(あなん・アーナンダ)尊者が尋ねられました。

「大徳(釈尊)よ、わたしどもが善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊をもつことは、この聖なる修行のなかばにもひとしいと思うのですが、いかがでありましょうか。」

それに対して釈尊はこうお答えになりました。

「アーナンダよ、そのように言ってはいけない。
 アーナンダよ、そのように言ってはいけない。
 アーナンダよ、善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである。」

釈尊はさらに言葉を続けられました。

「善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有する者は、聖なる修行を修め成就することを、もはや約束されている。」
「みんなは、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができる。
病まねばならぬ身でありながら、病に勝つことができる。
あるいはまた、死なねばならぬ身でありながら、死の怖れから免れることができる。
アーナンダよ、このことを考えてみても、善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊をもつことは、この聖なる修行のすべてである、という意味が解るであろう。」

釈尊の言われる「修行の道」を「人生」に置き換えることも可能でしょう。

「人生においてどんな師、どんな仲間と出遇えるかは、その人の人生の全てを決めてしまうほどの意味を持つものだ。」

こう考えた時、私は親鸞聖人のご生涯を想い起さずにはいられませんでした。

私たちは当たり前に親鸞聖人と呼んでいますが、実はそのご生涯についてはほとんどわかっていません。
ご自身がお手紙の最後に書かれた年月日と年齢、奥様(恵信尼公)のお手紙の記述などから生没年(承安3年・1173―弘長2年・1263)、青年時代は比叡山で修行され、壮年期には関東で伝道活動に励んでおられたことなどはわかりますが、どこで生まれたとか、両親は何という名前か、子供は何人いたのかといった私的な事柄はご自身の口では一切語っておられず、例えば越後に流刑になった後なぜ関東に行かれたのか、関東で充分な生活基盤もできていたはずなのになぜ60歳台になって故郷の京都に戻られたのかなど、わからないことだらけなのです。

その聖人が唯一ご著書で書き遺しておられるのが、自分は29歳で法然上人の弟子となって、33歳で「自分の教えを間違いなく受け止めている」と師から認めて頂いたが、35歳の時はからずも共に流罪となり、その後赦免されたものの二度とお会いすることのないまま、私が40歳の時に上人は亡くなられた、という「師との出遇いと別れ」なのです。


親鸞聖人は自分を師と慕う人々の前で、

「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。(自分は一人の弟子も持っていない)」(『歎異抄』第6章)
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(私は師の教えを聞いて信じることの他には何もない)」(同上・第2章)

と語り続けられました。

つまり聖人は生涯「法然上人の一弟子」であり続けた方であり、師の教えを明らかにすること、師の教えを人々に伝えることにのみ自分の「人生の意味」「存在価値」を見出した方だと言えるのです。

聖人にとってその出遇いがいかに大きな、その後の人生を決定づける出来事であったかが知られます。

自分自身の人生を振り返ってみても、「あの時のあれが人生のターニングポイント(分岐点)だった」といった重要な出遇いもあれば、そうではない、記憶にさえ残らないもの、あるいは逆に「あんな奴と遭いさえしなければ」といったものまであります。

ただ、どんな出遇いにも別れが付きものです。別れのない出遇いはありません。

「もし上人に出遭わなかったならば、自分は終生暗い迷いの中を彷徨ったまま、愚痴と後悔と怨みをまき散らしながら虚しく野垂れ死んだに違いない。
 それを思えば私はこの命を懸けてでも……」

先師法然上人のお仕事を受け継ぐ。
聖人のご一生はこの一念に貫かれたものではなかったでしょうか。

先にご紹介した阿難尊者ですが、釈尊との死別の際には号泣して周囲の顰蹙を買ったりしたものの、その後阿羅漢の悟りを開き、釈尊の言葉を集成する編集会議(仏典結集)では、釈尊の侍者であった経歴とその類い稀な記憶力を発揮して中心的役割を果たします。
私たちが釈尊の言行を知ることができるのはひとえにこの「多聞第一」と讃えられた阿難尊者の功績によるものです。


人は忘れられない人との出遇いと別れを通して、その人の人生を背負って生きていきます。
その人との出遇いの意味を生かすも殺すも、その人と別れた後の自分の生き方にかかってくるのだと言えましょう。



※親鸞『教行信証文類」後序
ここをもって興福寺の学徒、
太上天皇 
諱尊成
今上 
諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。
予はその一なり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに「禿」の字をもって姓とす。
空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
皇帝
諱守成聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。
同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。
奇瑞称計すべからず。
『別伝』に見えたり。
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。
同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。
また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。
『選択本願念仏集』は……

(『西念寺婦人会だより』2017年3月号に掲載)

【参考文献】
増谷文雄『阿含経典(2)』 (ちくま学芸文庫、2012年)

 
2017年5月発行 掲載分

 
 
阿弥陀仏の四十八願というものを静かに自分独り朗読致しますとこれは余所事ではない自分の願いである。
自分の願いではあるが、自分の個人的願いではない。
現実の中に迷うて居るところの衆生の一人として、衆生全体を荷なって起つところの大精神というものがこの四十八願というものである。(曽我量深)


上の文章は、真宗大谷派の碩学曽我量深師(1875―1971)の言葉ですが、これを理解するには少し専門的な説明が要ります。

お釈迦様が説かれたとされる多数の経典の中で、親鸞聖人が、

「これこそが真実の教えである。
 お釈迦様がもっとも説きたかった経(出世本懐経)はこれである」

とされたのは『大無量寿経』(だいむりょうじゅきょう通称『大経』)というお経です。

『大経』には、西方浄土の主である阿弥陀仏が、昔「法蔵(ほうぞう)」という名の菩薩(ボサツ・修行者)であった時、「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」という師の前で、衆生(しゅじょう、一切の生きとし生けるもの)を救うために、自分の国を作って、その国にあらゆる衆生を生まれさせたいと思う、といういわゆる「建国」の願いを起こした、と説かれています。
そして法蔵菩薩はさらに、その国をどんな国にしたいのか、その国の主として自分はどんな仏になりたいのか、そしてどんな修行をした者をその国に生まれさせたいかを考え、四十八の具体的な願いを建てて修行し、その結果、極楽(安楽)という国を完成し、自身は「阿弥陀仏」(アミダ・無限の寿命を持ち、無限の光を放つ仏)という仏に成った、と説かれています。

そして、その四十八の願の中の本願(根本・中心)とされるのが、第十八番目の、「南無阿弥陀仏」と称える者を必ず浄土に往生させずにはおかないと誓った願、いわゆる第十八願、「念仏往生の本願」です。

親鸞聖人はこの物語を「正信偈」に、

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、 諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、 無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
 五劫、これを思惟して摂受す。
 重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。 
 あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、 清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、 超日月光を放って、塵刹を照らす。
 一切の群生、光照を蒙る。)

と書いておられます。

そして、その四十八の願の中の本願(根本・中心)とされるのが、第十八番目の、「南無阿弥陀仏」と称える者を必ず浄土に往生させずにはおかないと誓った願、いわゆる第十八願、「念仏往生の本願」です。
あらゆるものを助けたいという阿弥陀仏の願いを信じて念仏するという簡単な行であるから、あらゆるものがそれを行じて浄土に生まれることができるというのです。

以上のことを頭に入れて曽我先生の文を読んでみましょう。

『大経』に説かれる阿弥陀仏の四十八願、つまり「一切の生きとし生けるものを助けたい」という仏様の大いなる願いとは、単なるお経の中の話ではなく、他でもない「自分の願いである」。
しかしそれは「自分の願いではあるが、自分の個人的願いではない」。
つまり四十八願とは、私達皆が抱いているのだけれども、そんなものがあることすら気が付かない私達の「本当の願い」、種々の日常的な欲求、願望に振り回される中で見失っているけれども、私達の心の、身の奥底で間違いなく働き、私達を動かしている「願い」、そしてそれは自分一人の個人的な願いではなく万人の、全人類共通の「願い」を言い当てたものである、と曽我先生は言われるのです。

でもそんな「願い」が本当に私達の中にあるのでしょうか。

つい最近、私はあるマンガを読みました。それは、ギラン・バレー症候群という難病に侵されたある若い女性マンガ家の闘病記(『ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!』/作・たむらあやこ)でした。

ギラン・バレー症候群とは、細菌やウイルスの感染をきっかけに、抗体が自分の神経を攻撃してしまう病気(自己免疫性疾患)で、神経が攻撃されることで感覚障害や筋力の低下・麻痺などが起こり、これを施せば完全に治るという決定的な治療法がない難病だそうです。

日本全体では年間で約2000人程度の人が発症し、大抵の場合は3〜6カ月以内に回復するそうですが、髄膜炎と共にこの病気を併発した作者の場合は重症で、あっという間に寝たきり状態になりました。
限られた治療法も効果がなく、全身の痛みや吐き気に悩まされながらもリハビリに取り組んでいたある日(発病から1年数か月後)、主治医から

「これ以上、良くなることはない」

との宣告を受けたそうです。

その時の心境を作者はこう語っています。

(いやそうだ…
 私が先生でもそう言うわ…
 お医者さんは医学的見地に立った事実しか言わないからな…
 むやみに期待を持たせるようなこと言えないって言うし…
 でも…
 事実って冷たい……
 つらい…
 突き放された感じする……)

それでも気丈に、

「私は大丈夫、受け入れますから」

と母親に宣言した直後、作者は心の中で自問自答を始めたそうです。

(どうする?もう諦めるか?
 ここで諦めても誰も文句言わねーぞ?
 まてまて…
 諦めるのは簡単だが、その先も長いぞ!
 たしかに病気のせいにして投げやりに生きるのはたやすい…
 しかし!すぐ死ぬ病気じゃないから下手すれば80、90歳まで生きる。
 その場合一番損するのは自分だ!
 60年間も自堕落に人を妬み嫉み生きたいか?
 ノー。)

次に作者は自分にこう問いかけます。

(どうしても諦めたくないものは何だ?
絵です!)

現在マンガ家になっていることから知られるように作者は子供のころから絵を描くことが大好きで、実際、友人から「美大に進んだら」と言われるほどの腕前でした。
発病して絵が描けなくなったと気づいた時には他のどの肉体的機能が失われた時よりも大きなショックを受けたそうです。

(なら、まず絵を描けるようになるのを目指そう!
 そして細々とでも絵で仕事になる道を探ろう!
 時間ならいっぱいある。)

そう決心してリハビリを続け、最初は指で、次にボールペンで、やがて筆で絵を描けるようになり(ここまでで発症から4年)、病院のリハビリ室に飾ってもらうことに始まり、やがて依頼を受けてペットの肖像画や法廷画を描くようになり、そして友人からの

「マンガ描きなよ!
 珍しい病気だから、励まされる人いっぱいいるよ!」

という勧めを受けて

(マ、マンガかぁ… 
自分の闘病記なんて思ってもみなかったけど… 
もう〔発病前のように〕看護師としては人を支える手伝いはできないからな……マンガだったら違う形で一瞬でも支える手伝いができるかもしれない……)

とそこからさらに6年。
マンガの緻密で繊細な技法を駆使できる筋力を10年かけて身につけて闘病記を描き上げたそうです。

もちろん、その10年間、作者は必ずしも順調に回復してきたわけではありません。

発病して3カ月経った頃、24時間続く全身の激痛と吐き気に消耗して、付き添いの母親に

「明日までに1コも症状良くならなかったら……殺してほしい」

と懇願したそうですし、退院後数カ月して激しい体調の悪化に襲われた時には、「再発」の恐怖に震え、

(またあの苦しみを一からやるとなったらどうしよう…
 もう耐えられる自信ない…)
「1回目は何が起きるかわからないから耐えられたけど……2回目は何が起きるかわかるから、耐えられないっっっ!!」

と文字通り泣き叫んだそうです。

それでも作者はこう言います。

(「もし病気にならなかったらどんな人生だったろう……」ということをたびたび考える。
 しかし、何回考えても、今よりくだらない人間だったと思う。
絵もこんなに描かなかったはずだ。)

そしてまた、こうも言われます。

(病気して良いことも悪いこともあって、何でも無駄じゃなくて、何でもありがたくて
…そう思えるようになっただけでも成長できたと思う、自分なりに。
また明日から丁寧に、ただ生きていこう。)

私は「婦人会だより」2月号でこう書きました。

「転ぶ」の言葉だけでは表現し切れない程の深刻な体験であっても、人はそこから起き上がろうとします。
人はそれすらも単なる悲劇としてだけで終わらせたくはないのです。
そこに私は
「たとえどんな出来事に出遭っても私は自分の人生を空しいまま終わらせたくはないのだ」
という執念にも似た人間の根源的な願いと、
「それこそがお前の真の願いである。
 どうかその願いを満足させてくれ。
 そのためにこそ仏法を聴聞して、あらゆる悲劇から何かを学び、糧とし、悲劇の《意味》を転じて、起き上がり続ける人生をこそ歩んでくれ」
と命じてくださる釈迦・弥陀二尊の悲心とを感じずにはいられないのです。

と。

阿弥陀仏の四十八願」とは、私達自身の奥底からそれぞれに湧き上がってくる「折角の人生を諦めてくれるな」という呼びかけであります。
そして、お釈迦様の説法(経典)とはそれを仏様の願いだと言い当て、それを満足するための「智慧」を得ることを勧めたものなのではないのか。
こう私は考えるのです。    

(『西念寺婦人会だより』2017年5月号に掲載)

【参考文献】
たむらあやこ『ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!』(講談社・2016)

 
2017年9月発行 掲載分

 
 
 「可哀想は時に人を傷つける」
       ― 「上から目線」の「レッテル貼り」 ―


先日、インターネットをぼんやりと眺めていたところ、ある記事にであいました。
それは、とある新聞に載った次の「投書」が大層話題になっている、との記事でした。

「可哀想は時に人を傷つける(会社員、(44歳・静岡県)
足をけがした6歳の息子が
「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」
といった。
片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから
「あんな足で歩かせて可哀想に」
という会話が聞こえてきた。
息子に妹ができ、おむつを買いに行った。
「僕が持つよ。
 お兄ちゃんだから」
と頼もしいことを言ってくれた。
任せたら
「あんな小さな子供に荷物を持たせて。
 可哀想に」
と他人から非難された。
息子の頑張りが「可哀想に」という一言で全否定された気がした。
「可哀想に」と言う人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。
しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。
そのことを知ってほしい。」

この投書を読んだとき、私は以前お勤めしたある少年の葬儀を思い出しました。

その少年は先天性の疾患によって、産まれてすぐに医師から

「この子は10歳まで生きられません」

と宣告されていたそうです。
誰かの見舞いで大学病院の病棟を尋ねた際、偶然「院内在学級」(長期入院の子供たちが勉強する場所)の部屋から飛び出してきたその子と出逢ったこともありました。
たまに街で見かけることもありましたが、目の下に文字通り「真っ黒」な隈が出来ていたりで、

「あんまり良い調子じゃないな」

と思ったりもしていました。

そして、ある日寺にお父さんがその子の葬儀を依頼にみえました。
中学2年生でした。

葬儀の終りにお父さんが喪主として挨拶され、体調が悪い中にも

「将来お金持ちになって、お父さんお母さんに楽させてあげる」

と言って励ましてくれた、等々の在りし日のエピソードを語られ、最後にこう締めくくられました。

「息子は可哀想な子ではありません。
 立派な子です」

今にして思えばあの時のお父さんの言葉は 、

(一生懸命に頑張って生きた息子の人生を、「可哀想」のひと言で終えてくれるな。
生まれながらの病気で入退院を繰り返して、学校にもろくに行けず、友達ともろくに遊べず、わずか中学2年生で死んでいかなければならなかった「可哀想な子」、そんな安直なレッテルでこの子のことをわかったような気にならないでくれ)

といった「叫び」であったようにも思えます。

冒頭の「投書」を読んだ時には投稿者のお父さんに肩入れをして、

「ああ、こんな人、いるいる」
「なまじっか「良いことしてる」つもりの分だけ、『善意の第三者』ってのは本当に厄介だよな」

などと思ったりもしたのですが、何のことはない、それと気が付かないだけで、どこかで似たようなことを私も結構やってしまっているのではないでしょうか。

私たちのこういった知らず知らずの振る舞いは、当節風の言い方をすれば、「上から目線」の「レッテル貼り」とでも言えるのでしょうか。

例えば、私たちは折々に亡き人を偲びながら仏前で手を合わせ、お勤めをします。
でももしかしたら、そんなお仏事の場においてさえも、私たちはこの「可哀想」という「上から目線のレッテル貼り」をやってしまっているのかも知れません。

幼い息子を亡くしたあるお父さんが毎日、お仏壇でお勤めをしていたそうです。
そのお勤めの中には

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず。
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。」

といった、人の命のはかなさ、無常さを詠った蓮如上人の「白骨の御文」もありました。
ある日お父さんの目がこの「御文」の中の、

「我やさき、人やさき」

の一句にとまったそうです。
その時、このお父さんは、亡くなった息子さんから

「お父さん、あなたは僕のことを可哀想だと思ってお勤めしてくれているんでしょうけれど、お父さん、もしかしたら人の命は無常だというのを、あなたは僕のこと、僕だけのことだと思っているのではありませんか。
人の命がもろく儚い、それは他でもないあなたのことでもあるんですよ。
そのことがわかっていますか。
わかって生きていますか。
わかった上でどう生きていこうとしていますか。」

と、こう問いかけられているような気がしてきたそうです。

お父さんは亡くなった子供を「可哀想」に思い、その子のためにとお勤めしていたのですが、実は拝読しているそのお聖教(しょうぎょう)の方から、他ならぬお父さん自身が問われていたのです。

私たちは亡き人のためと思って仏事を営みますが、その仏事を通して実は私たちが亡き人から思われ、仏さまから思われ、お聖教の言葉から問われているのです。

妙好人・讃岐の庄松と呼ばれた谷口庄松(1799―1871)さんが、京都の本山で帰敬式(おかみそり)を受けていた折、突然ご法主の衣の袖を掴んで、

「兄貴、覚悟はよいか」

と尋ねたそうです。
余りの無礼さに周りにのみんなは大層驚き、慌てふためきましたが、ご法主に呼ばれて訳を尋ねられた庄松さんは、

「立派な緋の衣を着ていても地獄を逃れることはできないので、後生(ごしょう)の覚悟を聞いてみたまでのこと」

と答えたそうです。

この「後生の覚悟」とは、言葉を換えれば「死の覚悟」でしょう。

「長いように思っていても人生は短い。
 最期の時になって、
『自分の人生は失敗だった。
こんなはずじゃなかった。
もう一回やり直させてくれ』
などという、みっともない『愚痴』をふりまかないでもいいように、今をしっかりと生きていますか」

ということにでもなりましょうか。

さてみなさん、お互いいつなんどき果てるとも知れぬこの身。
お覚悟はよろしいでしょうか?

(『西念寺婦人会だより』2017年9月号に掲載)



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