法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2012年1月〜12月分
 
 
2012年2月発行 掲載分
 
 

現在(いま)を生きる
                 ―「『抽斗』で勝負するな」(岡本喜八)―


今月2月19日は平成17年(2015)に亡くなった米子市出身の映画監督岡本喜八(1924―2005/本名・岡本喜八郎)さんのご命日です。

監督として手がけた39本の劇場映画を始め、生涯に数多くの作品を世に送り出した岡本監督が自らに課していた信条が、副題に挙げた「『抽斗(ひきだし)』で勝負するな」だったそうです。

ここで言う「抽斗」とはタンスや机のそれで、衣類や様々な品物がたくさん仕舞い込まれていることから転じて、「臨機応変に活用できる、隠れ持った多様な知識や豊かな経験のたとえ」( 『大辞泉』)を意味します。

映画監督で言うならば、長年の監督生活で蓄えた経験や知識、映画作りのノウハウなどを指し、作品をたくさん撮れば撮るほど自分(抽斗)の中にそれらが蓄積されていきます。

しかし、岡本監督は「それを使うな(既得の知識や経験に頼るな)」と言われたわけです。

「ゼロから始まり、ゼロに戻るのが映画づくり」
「一本作ったら、それを全部忘れ、またゼロから出発する」

とよく口にされていたそうですが、だからこそ39本もの、それも戦争映画・時代劇・サラリーマンもの・アクションといったバラエティに富んだ、ジャンル(分野)に縛られない作品を作り続けてこられたのでしょうし、亡くなられる直前まで次回作 (山田風太郎原作『幻燈辻馬車』)への準備を怠ることがなかったそうです。

とは言え、「言うは易し、行うは難し」です。

映画がヒットすればするほど、評判が良ければよいほど、それを忘れて違うものに挑戦する。
言うなれば、たえずそれまでの自分を壊していくわけですから、築き上げてきた地位や名声に執着していたらとてもできることではありません。

また、監督自身が冒険したくても周りがそれを許さないような場面もあったでしょう。

何より自分自身が、絶えず新しくなっていかなければならない。
絶えず学び、アンテナを張り、新しい何かを吸収し続けなければならないのです。

聞けば監督は、暇な日にはご自宅近くの駅前(神奈川県川崎市・小田急線生田駅)に出かけて道行く人を観察しながら、思いついたことをメモされていたそうですし、俳優の仲代達也さんによれば、ヒマさえあればシナリオを、それが映画になるかならないかは別として、とにかく書いていらしたそうです。
 
 


故岡本喜八監督
 

 


「抽斗に頼るな」

これは何も映画づくりに限った話ではありません。

ただ、人間年齢をとればそれなりの「抽斗」を持ちますし、それを頼りにもします。
積み上げてきた業績を誇りたくもなります。
そして何より、新しいものを吸収し続けることに疲れてしまうのではないでしょうか。

「いまどきの若い者は……、それに引き換え自分らの若い時は……」と言っておけばある意味楽ですらあります。

でもそれは本当の意味で生きていることにはならないのではないでしょうか。

以前「住職日記」で紹介した話ですが、ある人が自分が、

「この方は昔○○をなさっていた方です。」

と紹介されたのを聞いて、

「失礼な」

と怒られたそうです。

 「間違った経歴を伝えたわけでもないのにどうして ?」と不審に思ったところ、その人曰く。

「肝心なのは『昔何をやったか』ではなく『今何をしているか』でしょう。
 私はまだ死人ではありませんよ」 

昨年の宗祖親鸞聖人750回御遠忌に併せて開催された『親鸞展』(京都では聖人直筆の『教行信証』 (国宝坂東本)が展示されていましたが、全編にわたっておびただしい推敲の跡がありました。
60歳頃にいったん脱稿されたそれに、聖人は90歳で亡くなられるまで「より良いものに」と手を加え続けられたのです。
(親鸞聖人のこの姿勢は『教行信証』以外の著作でも同様で、『三帖和讃』を始め多くの著作がいったん完成して門弟に与えられながら、その後も改訂が繰り返されています。)
 

 


親鸞聖人真蹟『教行信証』
(国宝・坂東本)
 

 
これも「住職日記」に載せた話ですが、以前、山門に、

「『これから』が『これまで』を決める」

という一文を掲示したところ、

「『これまで』が『これから』を決める、の間違いではないのですか?」

と尋ねられたことがありました。

確かに「これまで(過去)」によって「いま(現在)」が、そして「これから(未来)」も決まってしまいます。
過去に制約されない現在も未来もあり得ません。
また、過去に起きた出来事そのものもなかったことにはできません。

しかし、「これから」の自分の生き方一つで、過去の出来事のもつ「意味」は変わっていきますし、変えることもできるのではないでしょうか。

どんなに輝かしい過去があっても、今が惨めであったならば、それは自分を苦しめるものでしかありませんし、どんなにつらい過去であっても、今が幸せならば、あの経験があったからこそ、今のこの私がある」と思えるのではないでしょうか。

肝心なの「現在(いま)をどう生きるか」なのです。

(『西念寺婦人会だより』2012年2月号掲載)
 

 

 〔お・ま・け〕

 

 


上の言葉を教えて下さった方Who is she? 〉
 

 

同席の某氏

 
 
2012年9月発行 掲載分
 
 

一期一会


みなさんは「一期一会」(いちご・いちえ)という言葉をご存じでしょうか。
(くれぐれも「いっき・いちかい」とは読まないでください。)

「一期」も「一会」も、もともと仏教に縁の深い言葉で、「一期」とは、人が生まれてから死ぬまでの間、つまりは「一生」を意味します。
「一会」とは、法要などの一つの集り、会合の意味ですが、転じて「ただ一度の機会、ただ一度の出会い」を示します。

つまり「一期一会」とは、

「人と出会う時には、『今この場所でのこの出会いが、実は一生でただ一度の機会かも知れない。ここで別れたらもう二度と会うことがないかも知れない』と考えて、その出会いを大切にしなさい」

という意味の言葉です。

もともとは茶道の世界で大切にされてきた言葉で、

「茶会に臨む際は、どんな茶会でも、たとえそれが毎回同じような顔ぶれであったとしても、一生に一度の機会と心得て、主客ともに 誠心誠意を尽くすべし。」

という「心得」、あるいは「覚悟」を表すのだそうです。
(茶室の床の間掛けで御覧になった方もおられるのではないでしょうか。)

私は、この言葉を知らなかったわけではありませんが、今回あえて取り上げたのは、最近この「一期一会」を 痛切に感じる機会があったからなのです。

それは、この8月に開かれた母校の同窓会でした。

高校卒業から5年ごとに開かれてきた会も7回目、ちょうど35年目の同窓会で、幹事さんの尽力の甲斐あって会場は満杯。約90名が集まりました。

集った人たちはみな笑顔で、それぞれの席で談笑し合い、ひと段落つけば席を変え、相手を変えて昔話に、あるいは現状報告にと花を咲かせていました。
その雰囲気は二次会へと場所を変えても一向に変わらず、気がつけば日付も変わろうとしているのにまだまだ大勢の同窓生が残っていました。
(次の日に仕事を控えていた私は、名残り惜しくはあったもののその時点で退散せざるを得ませんでした。)

私も、この年齢になってみると、

「同級生って良いな。
 同窓会って嬉しいものだな。」

と心から思いますが、最初からこうだったわけではありません。

石川啄木(1886―1912)に、

「友がみな 我よりえらく 見ゆる日よ
  花を買い来て 妻としたしむ」

という歌がありますが、若い頃には競争意識ばかりが先に立って、在学中にはそれこそ

「あいつのあの偉そうな顔が気にくわない。」

だのと下らない理由で腹を立て、卒業直後には「誰それが頑張っている」という評判を聞いても、

「なぜあいつばかりが評価される。」

と、素直に「頑張れ」と思えなかったものですが、お互いにひと歳とってそれなりの曲折を経てくれば、ただ、ただ懐かしく 、嬉しい。

同じ時代を過ごしてきた、同じものを見、同じようなことを感じ考えてきた「連帯感」というやつかなとも思いましたが、参加者の楽しそうな顔を見ているうちに、こんなことが頭をよぎりました。

それは、

「今日のこの同窓会に来られなかった人がいる。
 どんなに来たいと思っても絶対に来られなかった人、つまり「亡くなった人」がいる。」

というものでした。

まだそれほど目立ちはしませんが、『同窓会名簿』の私たちの「期」に もすでに数名の物故者が載っています。
これから『名簿』が改訂される度に、その数は間違いなく増えていくことになるでしょう。 

もしかしたら、出席者の中にも一病を抱えながら参加した人もあったかも知れません。
(もちろん本人がそれを口に出すことはなかったでしょうが。)

「また、5年後に会わいや。(米子弁「会おうよ」の意)
 元気にしちょけよ。(「元気でいろよ」の意)」

と笑顔で別れたものの、本当に元気で出席できる保証などどこにも、誰にも、他でもないこの私自身にも、「ない」と言わざるを得ません。

だからこそみんな、

「今日は笑って。
 この場を精一杯楽しく、にこやかに賑やかに過ごそう。」

それが会に参加した同級生たちの、30数年を経たからこその、人生の酸いも甘いも辛いもそれなりに味わってきたからこその、誰しもの思いではなかったか、と思うのです。

お盆(旧暦)には、故人を偲んで多くの方々がそれぞれのお家のお墓に、西念寺の本堂にお参りになられました。
みなさん、別れの悲しみを通してその人の存在の大きさを知り、その人から頂いたものの大切さを知り、そしてその人と出会えた喜びを改めて噛みしめていらっしゃったように思います。

肉親を亡くした方からは、

「『聞き残したこと』『伝え残したこと』があまりにも多いことに驚く 。」

いう声をよく耳にします。

一期一会……。

出来るならば、今すでに出会っている人たちとの、そしてこれから新しく出会う人たちとの出会いを少しでも大切にしていけたら。
そんな思いを新たにした一夜でありました。

(『西念寺婦人会だより』2012年9月号掲載)

 
 
2012年10月発行 掲載分
 
 

「当たり前」は「当たり前」ではない


先月の「婦人会だより」に私は「一期一会」(いちごいちえ)という題の一文を載せました。
今年の夏に開かれた高校の同窓会で感じた、「この会もまた『一期一会』の―今日のこの出会いが一生でただ一度の出会い。ここで別れたらこの人たちとも二度と会うことがないような貴重な場所かも知れない」という思いを認(したた)めたのですが、私がそのように感じたのも「自分の死」というものを意識せざるを得ない年齢になったことと無縁ではないと思います。

2500年の昔、インド・クシナガラのサーラ双樹の下で、死を目前にしたお釈迦さまは、つき従ってきた弟子たちに対して

「さあ、比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。
 形あるもの(諸行)は滅びゆく。
 怠ることなく努めよ(不放逸であれ)」

と説かれました。

この「形あるものは滅びゆく」「諸行(しょぎょう)は無常である」とは、言い換えればつまり

「命ある者は必ず死んでいかなければならない」

ということです。
そしてその冷厳な事実の前では、真理に目覚めたブッダ(覚者)であるお釈迦さまも例外ではなかったのです。

ただ、この「諸行無常」ですが、

「形あるものが滅び、命ある者は死に、出会った人とはいつか必ず別れていかなければならない」

と聞けば私たちはどんな反応を示すでしょうか。

一つは、

「そんなことを考えたら何もやる気がなくなってしまうから、なるべく考えないようにしよう。」

というものです。
今までの努力や営み、営々と築き上げてきた成果が全部無駄になるか、と思えば無理もない反応と言えます。

もう一つは、

「どうせ死ぬのだから、後悔のないよう生きている間は好きにやろう。」

と、時には他人の都合や迷惑をかえりみないやりたい放題の生き方を選ぶという反応です。

織田信長は、

「人間五十年、下天の内にくらぶれば、夢幻のごとくなり。
 ひとたび生を受け滅せぬ者のあるべきか」

という幸若舞の『敦盛』を愛唱していましたが、その信長が自身の理想実現(天下布武)のためにどれだけ多くの人を殺したでしょうか。
敵対した武将や寺院(比叡山・本願寺)はもちろんのこと、弟や一族、はては自分の留守中にちょっと外出した配下の女房衆までをも、です。

しかし、これらの反応は本当の意味で自分の死を実感しているのではない、あくまで頭で考えた死に対してのものだったのではないでしょうか。

本当の意味での「諸行無常」とは

「私たちの考える『当たり前』は実は本当は『当たり前』ではない」

ということへの目覚めではないでしょうか。

癌のため32歳の若さで亡くなった医師の井村和清(1947〜 1979)さんは、遺著『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の中で「あたりまえ」という詩を記しておられます。

「あたりまえ。
 こんなすばらしいことをみんなはなぜよろこばないのでしょう、
 あたりまえであることを。
 お父さんがいる。お母さんがいる。
 手が二本あって、足が二本ある。
 行きたいところへ自分で歩いていける。
 手を伸ばせばなんでもとれる。
 音が聞こえて声が出る。
 こんなしあわせなことがあるのでしょうか。
 しかし、誰もそれをよろこばない。
 あたりまえだ、と笑ってすます。
 食事が食べられる。
 夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる。
 空気を胸いっぱいに吸える。
 笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
 走り回れる。
 みんなあたりまえのこと。
 こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。
 そのありがたさを知っているのは、それを失った人たちだけ。
 なぜでしょう。あたりまえ。」

そして、癌の肺への転移を知り「歩けるところまで歩いていこう」と決心したその時、「世界が輝いて見えた」と記しておられます。

「癌が肺への転移を知った時、覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬凍りつきました。
 その転移巣はひとつやふたつではないのです。
 レントゲン室を出る時、私は決心しました。歩けるところまで歩いていこう。

  その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
 世の中がとても明るいのです。
 スーパーへ来る
買物客が輝いてみえる。
 走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までもが輝いてみえるのです。
 アパートへ戻ってみた妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえました。」

これは決して特殊な状況下に置かれた人間の異常な体験なのではありません。

死を覚悟して故郷カピラバストゥを目指して旅を続けておられたお釈迦さまもまた、その途上に立ち寄られたヴァイシャーリーの町を出発する際、

「ヴァイシャーリーは楽しい。
 ウデーナ霊樹は楽しい。
 この世界は美しいものだし、
 人間のいのちは甘美なものだ」

という述懐を残しておられます。

死を前にしたお二人の眼には、「無常」の生を懸命に生きるあらゆる命の、苦しく悲しく切ない営みが、この上なく尊く美しく、そして愛おしく感じられてならなかった、ということではないでしょうか。

諸行無常と知ること、「当たり前」が本当は「当たり前」でないと知ること、そこに本当に自分自身の命を、そして他人の存在をも尊重して生きていける道があるのではないか、と私は思うのです。


   一期一会

一期一会の みんなかなしく なつかしく

    なつかしき

みんな死ぬる  人とおもえば  なつかしき

(以上、木村無相)


(『西念寺婦人会だより』2012年10月号掲載)

《参考文献》
安藤嘉則「末期の眼」(『在家仏教』2012年10月号)
『ブッダ最期の旅―大パリニッバーナ経』(岩波文庫)
井村和清『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社黄金文庫)
木村無相『念仏詩抄』(永田文昌堂)他


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