法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2018年1月〜12月分
 

 
2018年2月発行 掲載分

 
 
「和を以て貴しとなす」(聖徳太子『十七条憲法』)

日本列島全域が厳しい寒波が襲われた今年の2月ですが、2月は仏教の歴史に欠かせない二人の方が亡くなられた月です。

お一人は、インド暦第2の月(ヴァイシャーカ月)の満月の日、すなわち陰暦2月15日にクシナガラの沙羅双樹の下で涅槃に入られた仏教の開祖、仏陀釈迦牟尼、お釈迦様です。

そしてもうお一人が、宗祖親鸞聖人によって「和国の教主」(日本国における釈迦)と讃えられた聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのみこ/574〜622)です。
冒頭に掲げた『十七条憲法』を始め、数々の政策を進めて、我が国の基礎を築かれた聖徳太子は、伝記『上宮聖徳法王帝説』に拠れば、西暦622年(推古(すいこ)天皇30年)2月22日、享年49歳で亡くなられました。
(『日本書紀』では621年(同29年)2月5日薨御となっています)
また、太子は『 勝鬘経』・『法華経』を講説し、『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』のいわゆる『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を著すなど、538年(もしくは552年)に公式に伝えられた仏教の深い思想性を理解し、それを広く紹介した最初の日本人であるとも言われています。

しかし、太子がなぜ深く仏教に帰依されたかといえば、当時の朝廷を舞台に繰りひろげられた血生臭い権力闘争がその背景にあったと思われます。

この頃、仏教の受容を巡って、仏教重視の政策を推進する「崇仏派」の蘇我馬子(そがのうまこ、太子の大叔父であり妻の父)と従来通り神道を重用して外来の仏教を排斥する「排仏派」の物部守屋(もののべのもりや)とが激しく対立していました。
(日本最初の尼僧の一人である善信(ぜんしんに)は物部守屋によって法衣を剥ぎ取られて全裸にされた上、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処されたと言われます)

587年、太子の父用明(ようめい)天皇が崩御(死去)し、皇位を巡って豪族間の争いとなりました。
蘇我馬子は物部守屋が推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺し、諸豪族諸皇子を集めて守屋の屋敷を襲撃します。
当時少年であった太子(14歳)も蘇我氏系の皇子としてこの軍に加わり、結果、馬子軍が勝利しました。
戦闘中、味方の苦戦を目にした太子は、戦勝を願って四天王の像を掘り、勝利の暁には仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓ったと言われ、これが現在の四天王寺(大阪府大阪市)の起源であると言われます。

しかし、戦後、馬子に擁立され即位した崇峻(すしゅん)天皇は馬子に実権を握られていることに不満を抱き、結局馬子に暗殺されてしまいます。
その結果、593年、女帝推古天皇が即位し、太子は摂政として馬子とともにその政治を補佐することになりました。

これらの権力闘争を目の当たりにした若き太子の心はどれほど傷ついたことでしょう。
しかも、いくらまだ若く、他に選択肢がなかったであろうとはいえ、守屋討伐の軍に参加した自分は間違いなく馬子の蛮行の「共犯者」なのです。

愛媛県松山市の道後温泉にはかつて太子が湯治に訪れた折に建立した石碑(伊予湯岡碑・いよのゆのおかのひ)があったと言われていますが、権力闘争に傷ついた太子の心の病(ノイローゼ)の治療が湯治の目的ではなかったと言う方もおられます。

意見や利害の対立は武力行使によって解決するのみという、有史以来繰り返されてきた人の世の悲しい現実を味わった太子であったからこそ、自ら定めた『十七条憲法』に、

〔第二条〕
「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。
三宝とは仏・法・僧なり、
すなわち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。
何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴(とうと)ばざる。
人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教うれば従う。
それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(なお)くせん。」
現代語訳》
心から三宝(仏教)を信奉しなさい。
三宝とは仏と法理と僧侶のことです。
生きとし生けるもの最後によりどころであり、すべての国の究極の規範です。
どんな世の中であっても、どんな人であってもこの仏教(法理)を尊ばないものがあろうか。
人間にはなはだ悪い者は少ない。良く教えれば正道に従うもの。
仏教に帰依しないで、いったい何によって曲がった心を正すことができるであうか。
〔第十条〕
「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。
人皆心あり。心おのおのの執(と)れることあり。
彼(かれ)是とすれば、我(われ)非とす。
我是とすれば、彼非とす。
我必ずしも聖に非(あら)ず。
彼必ず愚かに非ず。
共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ。
是非の理、だれか能(よ)く定むべけん。
相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。
是(ここ)をもって、彼の人瞋(いか)るといえども、かえって我が失(あやまち)を恐れよ。
我独り得たりといえども、衆に従って同じく挙(おこな)え。」
《現代語訳》
心の怒りをなくし、憤りの表情を棄て、他の人が自分と違っても怒ってはならない。
人それぞれに心があり、それぞれに思いや願いがある。
相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。
自分は必ず聖人ではなく、相手が必ず愚かだというわけではない。
皆ともに凡人なのだ。
これがよいとかよくないとか、だれが定め得るのだろう。
互いに賢くもあり愚かでもあり、それは耳輪には端がないようなものだ。
相手が憤っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかと恐れなさい。
自分はこれだと思っても、人々の意見を聞き、一緒に行動しなければならない。
〔第一条〕
「和(やわ)らかなるを以(もっ)て貴しとし、忤(さか)うること無(な)きを宗とせよ。
人皆党(たむら)有り。
また達(さと)る者少なし。
是をもって、あるいは君父にわず。また隣里に違う。
しかれども、上和らぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)う時は、事理自(おの)ずからに通う。
何事か成らざらん。」
《現代語訳》
和を最も大切なものとし、争わないことを根本としなさい。

人は仲間を集め群れをつくりたがるものであり、悟った人格者は少ない。
だから君主や父親の言にしたがわなかったり、近隣の人ともうまくいかない。
しかし、上の者も下の者も調和と親睦をもって議論するならば、おのずから道理にかない、どんなことも成就するものだ。

と「武力」による統治ではなく、「対話」による平和を説かれたのではないでしょうか。 

太子の語る「和」とは、仏法に照らして自らを省み、互いの不完全さを認め、互いを尊重しつつ意見をぶつけ合う、そんな「関係」を言うのではないでしょうか。

しかし、後年蘇我入鹿(そがのいるか、馬子の孫)に攻められた太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、

「東国に落ち延びて兵を挙げ入鹿を討ちましょう。」

との側近の勧めに対して、太子の教えを思って

「戦乱になれば多くの民衆が苦しむことになる。」

と自ら死を選び、上宮王家(太子の一族)は滅びました。(643年)

蘇我氏の専横はいよいよ激しくなり、中大兄皇子なかのおおえのおうじ、後の天智(てんち)天皇)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる武力クーデター(645年、乙巳の変・大化の改新)まで続きました。

対話か、武力か。……

独裁者による核開発の進む北朝鮮。
中国共産党によるチベット・ウィグル地区への弾圧。……

今なお答えの出ない重たい課題であります。

(「西念寺婦人会だより」2月号掲載)

≪参考ウェブサイト≫
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm

http://www10.plala.or.jp/elf_/kenpou/2-1.html

 
 2018年4月発行 掲載分

法然上人の哀しみ


                 

先日、ご縁があって東本願寺伏見別院(京都市伏見区)の「春季彼岸法座」で、親鸞聖人のお師匠であります法然上人(1133〜1212)についてお話をさせていただきました。

法然上人は美作国(現在の岡山県)のご出身ですが、9歳の時、久米南条稲岡庄(現在の久米郡久米南町)の押領使(おうりょうし・地方の治安維持にあたる在地豪族)であった父漆間時国が対立していた荘園の預所 (あずかりところ・荘園領主から預かって管理する人)の明石源内武者定明の夜襲を受け亡くなってしまいます。

瀕死の床で父は息子法然上人(当時の名は「勢至丸・せいしまる」)にこう遺言します。

「ゆめゆめ私の仇(かたき・あだ)を討とうとしてはならない。
もしお前が仇討ちを果たしたとしても、今度はその息子がお前の命を狙うだろう。
恨みは恨みを呼び、恨みの連鎖は果てることがない。
それよりもお前は僧侶となった私の後生菩提を弔ってくれ。」

父の死後、この遺言に従って法然上人は母方の叔父観覚(菩提寺院主)の元で出家し、やがて母一人を故郷に残して京都の天台宗総本山・比叡山に上ります。
(その数年後に上人の母は、息子と再会を果たすことなく故郷の地で亡くなります)

叔父が比叡山の持宝房源光にあてた紹介状には、何と「文殊菩薩、一体進上つかまつる」とあったそうで、このことから法然上人が、文殊菩薩(「智慧の文殊」と呼ばれる)になぞらえられるほど聡明な少年であったことが窺われます。

持ち前の資質と父の遺言に後押しされた上人は熱心に修学に励み、その結果、上人は持戒堅固の清僧(当時としては珍しい存在)として、かつ熾烈な念仏行によって、仏菩薩の姿や浄土の荘厳な相を見ることができたと言います。
またその深い学識によって「智慧第一の法然房」として、比叡山のみならず京畿の仏教界においてその名を轟かす存在となられました。
長年典籍を訪ね歩いた上人の学識は、教えを乞うために尋ねた高僧から逆に弟子入りを申し込まれるほどにまで達し、もはや尋ねる師もなく、同等に語り合える朋輩もいない孤高の域にまで達していました。

しかし、どれほど修行を積んでも、どれほど経典を読み込んでも、どれほど多くの高僧の下を尋ねても上人の心は決して晴れることがなく、世間の高い評価とは裏腹に上人は自らを

「戒・定・慧の三学のうつわ物にあらず」
(自分は仏道修行の落第生である)

と嘆かれました。

当時でも比類ないほどの真摯さで仏道に邁進しておられた上人の心を惑わせたものは一体何だったのでしょうか。

おそらくそれは父の仇への消えることのない「恨み」であったかと思われます。

父が無残に討たれたために、自分は母と別れて一人叔父の寺に匿われなければならなくなった。
やがて自分は郷里を離れて京に上り、間もなく母も亡くなった。
武士の子として自分は父の仇を討ちたい。
まして相手は父の仇であるばかりではなく、一人寂しく亡くなった母の仇でもある。
憎んでも余りある相手に何とか一矢報いたい。
しかしそれでは父の遺言に背くことになるし、まして今の自分はもはや俗人ではない。

「怨みを捨てよ」「怨みは怨みによってやむことはない。怨みを捨ててこそ怨みはやむ」(『法句経』)という仏門の「教え」(父の遺言)と怨みを捨てることのできない「自分」との板挟みの中で法然上人は、

「この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。
わが身にたえたる修行やあると、よろずの智者に求め、もろもろの学者にとぶらいしに、教える人もなく、示す輩(ともがら)もなし。
しかる間、なげきなげき経蔵に入り、かなしみかなしみ聖教に向いて、手づからみずから開きて見しに…」

と経蔵に入り浸ってひたすら孤独な読書に耽ります。

そんな中で出遇ったのが善導大師の

「一心に阿弥陀の名号を専念せよ」(『観経疏』)

とのお言葉でした。

時に法然上人43歳。
9歳で父を喪ってから実に34年後、聖人は自分が本当に聞きたかった教えの言葉、求めて得られなかった自分のための仏法に出遇われたのでした。

消そうとしても消えない胸中の「恨み」、それを消せないままで超えていける道。
法然上人にとっては

「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」(『歎異抄』)

という本願念仏の道がそれだったのでしょう。

自分も、憎い仇も、阿弥陀仏の目から見れば、生きることに必死になって互いに傷つけ合い、怒り憎しみの虜となって、それでもその生存競争から降りることのできない哀れで悲しい凡夫でしかない。

そのことに気づかされた時、憎い仇もまた、いつ自分が殺した男の息子が目の前に現れるか、あるいは犯した罪の報いに死後地獄に堕ちるかと脅えつつも日々生きることに汲々としている、共に、念仏して阿弥陀仏の本願によってしか救われることのない悲しい存在ではないか、と見る目を法然上人は授かったのではないでしょうか。

(煩悩具足の凡夫の身の哀しさで、仮に直接相まみえることがあった時にはたちまちに怒りと殺意が吹き上がってくるかも知れないとしても)

そんなことをお話しした数日後、ダライ・ラマ14世(チベット仏教の最高権威)の次のような言葉と出逢いました。

「あなたにひどいことをしてくる相手であっても、きっと、あなたと全く同じように苦しみにあえぎ、幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいるのです。
相手にも『望まぬ苦しみ』が存在しているのだと理解することができたなら、相手に対する怒りの心も少しは鎮まっていくのではないでしょうか。」

(「西念寺婦人会だより」4月号掲載)

参考ウェブサイト≫
「浄土宗とは? 〜 法然上人の生涯《誕生〜開教まで》」




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