「西念寺婦人会だより」2018年1月〜12月分 |
2018年2月発行 掲載分 |
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2018年4月発行 掲載分 |
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法然上人の哀しみ |
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先日、ご縁があって東本願寺伏見別院(京都市伏見区)の「春季彼岸法座」で、親鸞聖人のお師匠であります法然上人(1133〜1212)についてお話をさせていただきました。 法然上人は美作国(現在の岡山県)のご出身ですが、9歳の時、久米南条稲岡庄(現在の久米郡久米南町)の押領使(おうりょうし・地方の治安維持にあたる在地豪族)であった父漆間時国が対立していた荘園の預所 (あずかりところ・荘園領主から預かって管理する人)の明石源内武者定明の夜襲を受け亡くなってしまいます。 瀕死の床で父は息子法然上人(当時の名は「勢至丸・せいしまる」)にこう遺言します。 「ゆめゆめ私の仇(かたき・あだ)を討とうとしてはならない。 父の死後、この遺言に従って法然上人は母方の叔父観覚(菩提寺院主)の元で出家し、やがて母一人を故郷に残して京都の天台宗総本山・比叡山に上ります。 叔父が比叡山の持宝房源光にあてた紹介状には、何と「文殊菩薩、一体進上つかまつる」とあったそうで、このことから法然上人が、文殊菩薩(「智慧の文殊」と呼ばれる)になぞらえられるほど聡明な少年であったことが窺われます。 持ち前の資質と父の遺言に後押しされた上人は熱心に修学に励み、その結果、上人は持戒堅固の清僧(当時としては珍しい存在)として、かつ熾烈な念仏行によって、仏菩薩の姿や浄土の荘厳な相を見ることができたと言います。 しかし、どれほど修行を積んでも、どれほど経典を読み込んでも、どれほど多くの高僧の下を尋ねても上人の心は決して晴れることがなく、世間の高い評価とは裏腹に上人は自らを 「戒・定・慧の三学のうつわ物にあらず」 と嘆かれました。 当時でも比類ないほどの真摯さで仏道に邁進しておられた上人の心を惑わせたものは一体何だったのでしょうか。 おそらくそれは父の仇への消えることのない「恨み」であったかと思われます。 父が無残に討たれたために、自分は母と別れて一人叔父の寺に匿われなければならなくなった。 「怨みを捨てよ」「怨みは怨みによってやむことはない。怨みを捨ててこそ怨みはやむ」(『法句経』)という仏門の「教え」(父の遺言)と怨みを捨てることのできない「自分」との板挟みの中で法然上人は、 「この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。 と経蔵に入り浸ってひたすら孤独な読書に耽ります。 そんな中で出遇ったのが善導大師の 「一心に阿弥陀の名号を専念せよ」(『観経疏』) とのお言葉でした。 時に法然上人43歳。 消そうとしても消えない胸中の「恨み」、それを消せないままで超えていける道。 「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」(『歎異抄』) という本願念仏の道がそれだったのでしょう。 自分も、憎い仇も、阿弥陀仏の目から見れば、生きることに必死になって互いに傷つけ合い、怒り憎しみの虜となって、それでもその生存競争から降りることのできない哀れで悲しい凡夫でしかない。 そのことに気づかされた時、憎い仇もまた、いつ自分が殺した男の息子が目の前に現れるか、あるいは犯した罪の報いに死後地獄に堕ちるかと脅えつつも日々生きることに汲々としている、共に、念仏して阿弥陀仏の本願によってしか救われることのない悲しい存在ではないか、と見る目を法然上人は授かったのではないでしょうか。 (煩悩具足の凡夫の身の哀しさで、仮に直接相まみえることがあった時にはたちまちに怒りと殺意が吹き上がってくるかも知れないとしても) そんなことをお話しした数日後、ダライ・ラマ14世(チベット仏教の最高権威)の次のような言葉と出逢いました。 「あなたにひどいことをしてくる相手であっても、きっと、あなたと全く同じように苦しみにあえぎ、幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいるのです。 (「西念寺婦人会だより」4月号掲載) ≪参考ウェブサイト≫ |
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