露の世は 露の世ながら さりながら
(小林一茶)
この句は、江戸時代の俳人小林一茶(こばやしいっさ1763〜1827)の作で、現代語訳すれば、
「この世は、消えやすい露のように、はかない世であるが、それでも……。」
という意味になります。
この「消えやすい露のように、はかないこの世」を意味する「露の世」という言葉ですが、この人の世を「露の世」、「脆く儚いもの」と見る見方はそのおおもとを尋ねれば、「諸行無常」(しょぎょうむじょう)という仏教の思想に行きつきます。
『平家物語』冒頭の一節
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。
驕れる人も久しからず。
ひとえに風の前の塵(ちり)に同じ。
猛き者もついには滅びぬ。
ただ春の夜の夢の如(ごと)し。」
にも登場するこの「諸行無常」ですが、
「この世のあらゆる事物・現象(行)は永久不変(常)ではなく、すべては移ろい変わっていく」
という意味の仏教語で、「諸行無常」であるがゆえに形あるものはいつか必ず滅び、出逢った人達とはいつか必ず別れていかなければならないのです。
なぜ諸行が無常かと言えば、
「あらゆる存在(法)にはそれ自体に固定不変の「実体」(我)があるわけではない。
また自分のもの(自分の自由にできるもの)は一つもない」(諸法無我)
からであり、
「あらゆるものは、縁(条件)によって刻々と生滅変化していかざるを得ない」(縁起)
ものだからです。
「露の世」の何が儚いか、何が無常かと言えば人の命です。
様々な縁によって私たちの身体が刻々と変化していくがゆえに、私たちは老い、病み、そして死んでいかねばなりません。
命は、私たちの身と心は不変のものではなく、自分の自由意志でどうこうできるものではありません。
それゆえに私のものであって実は「私のものではない」と言わざるを得ません。
様々な縁には地震や台風といった自然災害も含まれます。
大災害によってそれまでの日常が一瞬にして壊されるのを目にした時、私たちはこの世の無常さをいやおうなしに痛感するのですが、私たちの感覚からすればあくまでそれは非常事態(あってはならぬこと)であって、何も事件が起きていない状態の方が普通(通常・当たり前)であると考えます。
ところがこれに対して仏教では、何かが起きるということの方が「当たり前」なのであって、何も起きていないことの方が異常、言い換えれば、たまさかの「僥倖」であるとするのです。
この世は「無常」であることが事実(本来)であるのに対して私たちは「常」であると錯覚(顛倒・てんどう)している。
私たちが無常の事実を前に苦しいと感じるのは、実はこの「無常」「無我」「縁起」の「法」を知らない(無明・むみょう)で、この世を「常」「楽」「我」と執著することによって人間は苦しんでいるのであって、本当に「無常」であることを覚(さと)れば苦しみから逃れられる、というのが仏教のおおもとの考え方なのです。
この点から仏教は「究極のマイナス思考」(五木寛之)と評されたりもします。
しかし、家族を捨てた古代インドの出家修行者ならいざ知らず、家族を持つ私たち在家者は、いざ実際に「諸行無常」を思い知らされる場面に出遭った時、決して冷静ではいられません。
冒頭に挙げた小林一茶の句は、文政2年(1819)、一茶57歳の時の句ですが、この年の6月、一茶は前年5月に誕生した長女を疱瘡(ほうそう)で亡くしています。
一茶はもともと家族との縁が薄い人で、3歳で実の母と死別し祖母の手で育てられました。継母との折り合いが悪かったこともあって、祖母の死後15歳の時に、長男であるにもかかわらず江戸に奉公に出されます。
江戸で俳句と出逢い、その道に精進し、50歳で帰郷。以後故郷信濃・柏原宿に定住します。
52歳で24歳年下の娘と結婚し三男一女をもうけますがいずれも早世でした。
54歳の時に長男が誕生しますが、生後一月足らずで死亡。
その2年後に生まれたのが長女です。
新年には
「這え笑え 二つになるぞ 今朝からは」
と呼んでその成長を喜んだ最愛の長女を亡くしたその年に詠んだのが、この「露の世は露の世ながら……」の句なのです。
「57歳まで生きてきてたくさんの死別を経験してきた。
この世が露の世であることは充分に承知している。
承知してはいるけれども、それでもなぜあの子はこんなにも早くに……」
という一茶の辛い心情がこの句からは伝わってきます。
しかし私は、この一茶の句はただひたすらこの「露の世」を嘆いているばかりではないようにも思えます。
なぜなら「露の世」を生きているのは何も他者ばかりではありません。
他ならぬ自分自身が「露の世」を生きているのです。
平安時代の歌物語『伊勢物語』には、
「病して弱くなりにける時よめる
ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」
という作者在原業平(ありわらのなりひら・825〜880)の辞世とも伝わる歌が載っていますが、この歌からは、急病によって死を目前にした業平の驚きと恐れ、あるいは、「こんな最期が来ると解っていたならもっと別の生き方もあったかも知れないのに。(思えば愚かな生き方を……)」といった後悔すら読み取ることができます。
日本史上、一番の立身出世を遂げたと言われる豊臣秀吉(1537〜1598)の辞世の句は
「露と落ち 露と消えにしわが身かな 難波のことも 夢のまた夢」
と伝わっていますし、最後の気がかりは愛児秀頼の行く末だけだったと言います。
「自分の死」という圧倒的な現実を前にした時、それまでの人生において重要な意味を持っていた事柄──平安貴族の業平と太閤秀吉に共通するものと言えばさしずめ「恋と出世」(色と欲)でしょうか──が一挙に色褪せて、全くの無価値・無意味にしか感じられなくなってしまったということでしょうか。
西洋の哲学者に言わせれば、人がそれなりに一生懸命に取り組んでいることは、要は死の恐怖、あるいは死によってそれまでの営為のすべてが無に帰していく悲惨さから目を逸らすための「気晴らし」(パスカル)※1や「一時しのぎ」(ショーペンハウアー)※2の連続に過ぎないと言います。
「浄土へいそぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆる……
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里は捨て難く、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからずそうろう。……
名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力無くして終わる時に、かの土へは参るべきなり。」※3
といった親鸞聖人の言葉も伝わっていますし、死の直前、
「自分には遺してやれる財産(土地)もないので娘や息子のことをよろしく頼む。」
とその行く末を案じた遺言状を関東の門弟に宛てて認めておられます。※4
(また、親鸞聖人の教えを伝え広めるために生涯を捧げ、結果、本願寺を全国的な大教団へと発展させ、私生活では27人の子供―十三男十四女を遺したあの蓮如上人でさえ、58歳の夏に体調を崩し、「死期が近づいたかと思えばまことに味気なく、名残惜しい」、つまりは「まだ死にたくない」と述懐しておられます。※5
親鸞聖人でさえ、死を恐れ、この「露の世」「露のごときわが身」に執著する煩悩(ぼんのう)から自由ではありませんでした。
しかし、だからといって聖人は与えられた自らの課題・使命から逃げることはなさいませんでした。
はからずも出遇うことのできた
「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」
との法然上人の教え、
「本願を信じて念仏を申さば仏になる」
と誓われた阿弥陀如来の本願。
値遇の感動と報謝の念とに促されて、本願念仏の教えを自ら信じ人にも教えて信ぜしむる(自信教人信・じしんきょうにんしん)という一事に生涯を捧げられたのが親鸞聖人です。
例えば、今現在生きている人たちのほとんどは、若干の例外を除いて、50年100年先にはその名前すら忘れ去られているでしょう。
でも「それで良いじゃないか」とおっしゃられたのが親鸞聖人ではないでしょうか。
おそらく親鸞聖人はご自分の名を後世に残すことには関心がなかったと思われます。
その証拠に私事を一切──自らの出自も来歴も──語ることはなく、ただ法然上人と出遇いその弟子と認められたという一事のみを語り遺されました。
たとえ私の名が消えても、念仏は残る。
自らの人生と真剣に格闘し、惑い苦しみ、仏法に心を寄せる人がある限りは。※6
人々は、それぞれの人生の課題・役割を担って、その中で何かを生み出そう、何かを遺そうと懸命に頑張っています。
露の世は露の世ながらさりながら──無常の世・無常の身であることは充分承知の上で、それでもなお、悲しみに耐えて、この身を精一杯尽くして、この世で与えられた務め・託された役割を果たさせていただこうではないか。
「露の世は」の句からは、娘を喪った悲しみばかりではなく、一茶のそんな「覚悟」をも読み取ることができるのではないか。私はそう考えるのです
※1「もし我々の在り方がほんとうに幸福であるならば、その在り方を考えまいとして気をほかへそらせて我々を幸福にしようと計る必要はないであろうが。」(パスカル『パンセ(瞑想録)』165)
「人々は死を、みじめさを、無知を、いやすことができないので、自己を幸福にするためにそういうものを考えずにいようとした。」(168)
「そんなに惨めであるにもかかわらず人間は、幸福でありたいとおもい、幸福でのみありたいとおもい、また幸福でありたいと望まずにいることはできない。
しかしどう振る舞えばよいのであろうか。
自己を不死のものとしたらよかったかも知れぬ。
がそれはできないものだから死のことを考えずにいようとした。」(169)
「我々を我々のみじめさから慰めてくれるただ一つのものは、慰戯(気晴らし)であ。
しかし慰戯は我々の持つみじめさのうち最も大きなものである。
なぜならこのものは、何よりも、我々が我々のことを考えるのをさまたげ、我々を知らずしらずのうちに亡びさせるからである。
慰戯がなかったら我々は退屈するであろう。
そうしてこの退屈は我々をしてそこからのがれうるもっと確実な方法を求めさせるであろう。
しかし慰戯は我々を楽しませる。
そうして我々を知らずしらずのうちに死にいたらしめる。」(171)
※2「たいていの人は、人生を振り返ってみたとき、自分が一時しのぎの連続で生涯を暮らしてきたことを発見する。」(ショーペンハウアー)
※3「……また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。
いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」(『歎異抄』第9章)
※4「このいまごぜん(今御前)のはは(母)の、たのむかたもなく、そろう(所領)をもちて候わばこそ、ゆずりもし候わめ。
せんしに候いなば、くにの人々、いとおしうせさせたまうべく候う。
このふみ(文)をかくひたち(常陸)の人々をたのみまいらせて候えば、申しおきて、あわれみあわせたまうべく候う。
このふみをごらんあるべく候う。
このそくしょうぼう(即生房)も、すぐべきようもなきものにて候えば、申しおくべきようも候わず。
みのかなわず、わびしう候うことは、ただこのこと、おなじことにて候う。
ときにこのそくしょうぼうにも申しおかず候う。
ひたちの人々ばかりぞ、このものどもをも御あわれみあわれ候うべからん。
いとおしう、人々あわれみおぼしめすべし。
このふみにて、人々おなじ御こころに候うべし。
あなかしこ、あなかしこ。
十一月十二日 ぜんしん(花押)
ひたちの人々の御中へ 」
※5「そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、いかんと、案じ候えば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。
まことにもってあじきなく、名残おしくこそ候え。
さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、油断なくそのかまえは候う。」(文明5年2月25日、『御文』第1帖・第6通)
※6「我が歳きはまりて、安養浄土に還帰(げんき)すといふとも、和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思ふべし。
二人居て喜ばは三人(みたり)と思ふべし。
その一人(いちにん)は親鸞なり。
我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦
あをくさ人のあらんかぎりは
弘長二歳十一月
愚禿親鸞 満九十歳」
(伝親鸞聖人作『御臨末の御書』)
(『西念寺婦人会だより』2016年10月号に掲載)
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