頼めば 仏も 神となり、
拝めば 神も 仏となる。
大晦日、参拝の皆さんと除夜の鐘を撞いていた時のことです。
ある人からこんな質問を受けました。
「神さまと仏さまってどう違うんですか?」
と。
ここで言う神とは、キリスト教やイスラム教でいう唯一神、ゴッドではなく、あくまで神道のカミ、神社で祀られている祭神―出雲大社ならば大国主命・オオクニヌシノミコト、伊勢神宮ならば天照大神・アマテラスオオミカミ―のことです。
神社と寺院の違いならば話は簡単です。
神社ならば参道には鳥居、祭殿には注連縄(しめなわ)があり、境内や祭殿は玉垣(たまがき)で囲われています。
これらは、ここから中は清浄の地であって、「穢れ・不浄」を持ち込んではならないという言わば「結界」を示しています。
最も大きな違いは、神社の御神体が祭殿の奥深くにあって見られないのに対して、寺院の御本尊は、よほどの「秘仏」でない限り、誰もが目にでき、参拝することができます。
もう一つ付け加えると、拝礼の仕方も違います。
神社では願い事を神に伝えるべく音を立てて神を呼び出す「柏手(かしわで)」。
これに対して寺院では静かに手を合わせ、対象に対する深い尊敬や信頼を表する「合掌」です。
これら外見上の違いはともかく、神と仏の本質的な違いはそう簡単ではありません。
日本に仏教が初めて伝わって来た時、仏は「異国の神」と見做されました。
また、明治以前は多くの神社と寺院が「同居」していました。
(大山寺は同時に大神山神社でもありました。)
仏教の側からは、根本(本地)である仏が私達人間の様々な要求に合わせて仮に姿を現わした―迹(あと)を垂れた―のが神道の神である、といういわゆる「本地垂迹(ほんじ・すいじゃく)」が説かれてきました。
神道側からは逆に「神こそが本地で仏が垂迹」という説明がされたこともありました。
しかし、明治政府の政策(神仏分離)によって二つが強制的に区別され、現在のような寺院と神社、別々の形ができたのです。
今でも「神も仏も同じ」という声を耳にしますし、大抵の人はその違いを深く考えることもなく暮らしていますが、その裏にはこういった「神仏習合」の長い歴史があったのです。
では神と仏は本当に同じものなのでしょうか。
「人間の生活の様々な要求に合わせて現れたのが神」と書きましたが、お正月の初詣に代表されるように、私達は神前でさまざまな願い事をします。
健康長寿、交通安全、縁結び、受験生であれば合格祈願……。
神社と言えばお守りが付き物ですが、先に書いた事情もあって実に多くの寺院が「お守り」を出しています。
(出していないのは浄土真宗の寺院ぐらいのものです。)
つまり私達日本人は神仏を、私達のいろいろな頼みごとに応えてくれるモノぐらいにしか考えていないのではないでしょうか。
もちろん、「天は自らを助くる者を助く」という言葉もあるように、何の努力もなしにそれらが実現できるはずはありません。
「家内安全」という言葉が示すように、私達は健康で平穏な日常を望んでいます。
しかし一見ささやかで当たり前に見えるそんな願望でさえ、その実現、維持のために私達自身がどれだけの労力と注意を費やしているでしょうか。
私達の快適な日々の生活の陰でどれだけの人たちの汗が流れているでしょうか。
ただし残念ながらどれだけ努力しても達成できないことはありますし、細心の注意を払っていてもアクシデント(事件・事故)は起きます。
そんな時、往々にして私達は「神も仏もない」と愚痴をこぼすのですが、本当に「神も仏もない」のでしょうか。
神はさておき、仏は人間の願望にハイハイと答えてくれる都合の良い存在ではありません。
子供が受験に失敗したのを嘆く母親に対してある僧侶は
「よかったですね」
と声をかけたそうです。
血相を変えた母親に向かってその僧侶はさらにひと言、
「人間、順風満帆に過ぎると『天狗』になりますから」
と答えたそうです。
本当に人間を成長させるのは痛い、恥ずかしい「失敗」ではないでしょうか。
失敗したことのない人間ほど恐ろしいものはありません。
うまくいくことが「当たり前」と思ってしまえば、人間天狗になって人を見下します。
そんな人にとって成功は自分の手柄でしかなく、周囲に感謝する謙虚さもありません。反対に失敗はすべて他人や世の中のせいになり、終いには人を引きずりおろすことしかできなくなってしまいます。
かつて徳島県池田高校を率いて甲子園で旋風を起こした蔦文也監督が連戦連勝、向かうところ敵なしの自チームを見ながら、
「この子たちの将来を考えれば、エースの水野が打たれて負けるのがいい。」
とコメントしたと聞いて、「誰よりも勝ちたいはずの監督が凄いことを言うなあ」と思ったのを覚えています。
チヤホヤされることに慣れて自分が特別な人間であるかのごとく慢心した選手たちを、教育者として危惧されたのかも知れません。
目先の成功が長い目で見れば後に取り返しのつかない結果を招くことすらあるのが人生です。
失敗を通してしか見えないこともあります。
人生において本当に無駄な出来事は一つもないのかも知れません。
仏の本質は智慧と慈悲にあると言います。
そしてその仏の智慧と慈悲は具体的な人の言葉として私達に働きかけてきます。
目先の幸福や成功しか目に入らない私達からすれば仏の智慧の言葉は時に耳に痛い、腹立たしいものです。
しかしその根底には、たとえ反発されても「いつか気付く、必ず迷いから覚めてくれる」という人間に対する深い慈愛と信頼とがあります。
私達がもしこの人生を「迷い」と感じ「痛み」を覚えるのであれば、私達は私達に向けられた仏の心を信じ、その言葉に心を澄ませ、虚心に耳を傾けていかねばなりません。
本来、仏とは、「頼む」ものではなく、「拝む」べきものなのでではないでしょうか。
(『西念寺婦人会だより』2015年2月号掲載)
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