法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2013年1月〜12月分
 
 
2013年2月発行 掲載分
 
 

死のうは一定
    偲び草には何をしよぞ
      一定、語りおこすよの

            (織田信長愛唱の「小唄」)


「今月の言葉」は戦国時代末期の武将織田信長が愛唱したといわれる小唄です。

信長の伝記『信長公記』(太田牛一作)には、次のようなエピソードが紹介されています。

尾張の国(現・愛知県)に住む天沢という天台宗の高僧が甲斐の国(現・山梨県)を訪れた時、それを耳にした武田信玄は彼を館に招き、当時頭角を現わしつつあった信長のことを尋ねました。

天沢にあれこれ尋ねるうちに、信玄の質問は信長の「趣味」に及びました。
この質問に対して天沢は、

「(信長公は)舞いと小唄がお好きで、幸若舞の『敦盛』を

「人間五十年、下天の内を較(く)らぶれば、夢幻の如くなり。……」

と口ずさみながら自らお舞いになり、

「死のうは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ。一定、語りおこすよの」

という小唄を好んで歌われます。」

と答えたといいます。※1

前者は、

「人の命はわずか五十年ばかりの短くはかない幻のごときものだ。」

という意味ですし、後者は、

「人は生まれた以上必ず死ぬのだから、「しのび草」―その人を思い慕うたね―として自分はこの世で何をしよう。
 もし『しのび草』として何か残すことができたら、後の人はそれをよすがに自分のことを思い出し語ってくれるだろう。」

という意味です。

このエピソードから察するに、信長という人は

「自分がこの世に生きていられる時間は限られている。
 だからこそ何らかの『しのび草』―『自分が生きた証(あかし)』をこの世に残したい。」

という思いを強く持ちながら生きた人のように思われます。
(まして時代は戦国、人の命など紙のように軽く、誰もが「いつ、どんな形で自分の命が終わるかわからない」と感じながら生きていた時代です。)

ところで、私は最近、これとよく似たエピソードを耳にしました。

iPadやiPhoneといった画期的な製品を数多く開発したアメリカ・アップル社の創設者スティーブ・ジョブズ氏(1955〜2011)は、17歳の時、

「一日一日を人生最後の日のごとくに生きなさい。」

という言葉を聞いて以来、毎朝鏡に映る自分の顔に向かって

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定を私は本当にやりたいだろうか」

と問いかけるのを習慣としていたそうです。
そして「NO」の日が何日も続けば、

「何かを変える必要がある。」

と考えたそうです。

いずれも、1日たりとも油断せず、ある目的のために自分の人生を燃焼させ続けた人たちならではのエピソードだと言えましょう。

ただ、そのような生き方は、人の評価や意見に左右されずに我が道をゆく「強さ」をもたらす反面、行き過ぎれば、人を人とも思わない、意に沿わない者を容赦なく切り捨てる「残酷さ」をもたらす場合もあります。

彼らは2人とも優秀なリーダーではありましたが同時に「暴君」であり、その「暴虐ぶり」は敵にばかりではなく味方にもいかんなく発揮されました。

信長は長年功績のあった重臣佐久間信盛・林秀貞(通勝)らを職務怠慢との理由で追放しました※2し、自分の留守中に無断で物見遊山に出かけた安土城の女房衆を手討ちにもしました※3

ジョブスも多くの社員のクビにしました。
それも社員食堂やエレベーターでジョブズと一緒になった社員が、担当している仕事の内容をうまく説明できなかった等の些細な理由で即座に解雇されたのです。
(社員はいつクビになるかと戦々恐々とし、エレベーターで彼に会わないよう階段を利用する者も多かったそうです。)

自らの「理想」を理解しない「愚かな」人間が彼らには許せなかったのでしょう。

前述したように彼らは自分の死を絶えず意識するよう習慣付けていました。
しかし、彼らは本当に「死」というものが分かっていたのでしょうか。
(私には疑問です。)

ジョブズは48歳の時すい臓がんと診断され、余命宣告まで受けました。

手術を受けて復帰した彼は、ある大学でのスピーチの中で

「死を意識することは役には立ったが、単に頭の中の概念だった。
 死の淵から生還した経験から確かに言えることは『誰しも死にたくはない』ということだ。」

と語っています。

30年間、死を意識し続けてきたにもかかわらず、告知を受けた際、おそらく彼は痛切に、

「死にたくない」

と考えたのでしょう。

ただ、私は彼はスピーチの中で、ただ「死にたくない」ではなく、「誰しも死にたくはない」、「誰しも」と言っていることに注意したいのです。

自分だけが「死にたくない」のではない。
「誰もが」死に脅えながら生きている。
迷いながらもがきながら傷つきながら懸命に生きている。

頭の中で考えた「死」ではなく現実の「死」に直面した時、ジョブズの中で何かが、「人間に対する見方」が変わったのかも知れません。

ガンを患う以前、新製品の完成パーティーでジョブズは、文字通り不眠不休の中で開発に取り組んできたスタッフの前でこう言ったといいます。

「アップルは最高の砂場だよ。
 毎日来るのが本当に楽しい。
 これからも面白いものをいろいろと作っていこう。」
彼なりのスタッフへの賛辞だったかもしれませんが、疲労困憊のスタッフは顔にこそ出さないものの内心、

「オレには砂場じゃなくて職場なんだけどな……」

と思っていたそうです。

かつて立場の弱い人を理不尽きわまりなく痛めつけ、信頼すべき周りの多くの人たちですら平気で裏切って来た傍若無人な「独裁者」であったその彼は、また次のような言葉を残しています。

「知ってると思いますが、私たちは自分たちの食べる食べ物のほとんどを作ってはいません。
私たちは他人の作った服を着て、他人のつくった言葉をしゃべり、他人が創造した数学を使っています。
何が言いたいかというと、私たちは常に何かを受け取っているということです。
そしてその人間の経験と知識の泉に何かをお返しができるようなものを作るのは、すばらしい気分です。」

「世界にお返しをするつもりで生きる」。
彼がこの言葉をいつ口にしたのかはわかりません。

しかし、私にはこれが、病魔に侵され「死のうは一定」を本当に知った彼が、この世に何を「しのび草」に残そうかと考えた時、自然に生まれて来た言葉のように思えてならないのです。
ジョブズにとっての人生は自分だけの楽しい「砂場」から「世界にお返しをするための場所」に変わったのではないだろうか、と。

(『西念寺婦人会だより』2013年2月号掲載)


※1.『信長公記』首巻中参照。
※2.『同』第13巻(天正8年)参照。
※3.『同』第14巻(天正9年)参照。
 

《参考ウェブサイト》
「信長公記」
「スティーブ・ジョブズの名言厳選集」
「Steve Jobs の思い出 ガジェット通信」
「スティーブ・ジョブズの陰の部分に光を当てる!―Macテクノロジー研究所―」

「千日ブログ〜雑学とニュース〜 スティーブ・ジョブズの性格1 社内編 〜偉大なる独裁者〜 」
Youtube スティーブ・ジョブズ ス大卒業式でのスピーチ 前編
「Youtube スティーブ・ジョブズ ス大卒業式でのスピーチ 後篇」

 
 
2013年3月発行 掲載分
 
 

念仏の中の日暮し」とは?

故上人の教えあり。
『たとひ余事(よのこと)をいとなむとも、念仏ししこれをするおもひあるべき也。
 余事をしし念仏せんと思ふべからず』」
                      (『一言芳談』巻上)


ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者渡辺和子氏(ノートルダム清心学園理事長)は米国での修行時代、ボストン郊外の修練院で経験した出来事を次のように語っておられます。

「修練と言う言葉が示すように、朝5時の起床から夜9時の就寝まで、厳格な規律のもとに祈り、黙想、食事が行われ、その他の時間は主として草取り、洗濯、食事の下ごしらえ等の単純な作業に当てられていた。

その日は夏の暑い午後だった。
私は割り当てられていた配膳の仕事を食堂で果たしていた。
百数十の皿、コップ等を長机の上、パイプ椅子の前に一つひとつ並べてゆく仕事を、沈黙のうちに手早く行っていた時であった。

突然、

「あなたは、何を考えながら仕事をしているのですか」

と問いかけられ、振り向くと、そこには厳しい顔をした修練長の姿があった。

「別に何も」

と答えた私は、

「あなたは時間を無駄にしている」

と叱責され、一瞬戸惑いを隠せなかった。
命ぜられたことを、命ぜられたようにしていたからである。

修練長は、そんな私に今度は優しくさとすのだった。

「時間の使い方は、そのまま命の使い方なのですよ。
同じ仕事をするなら、やがて夕食の席につく一人ひとりのシスターのために、祈りながら並べてゆきなさい」

何も考えないで皿を並べるなら、ロボットの仕事と同じだ。
「つまらない」と考えて過ごす時間は、つまらない人生しか残してゆかない。
同じ時間を費やすのなら、一つひとつの皿を並べる時に、「お幸せに」と、私にしかこめられない愛と祈りをこめて並べて、初めて私は愛と祈りの人生を送れるのだということを、その日、その時、教えられたのだった。……

時間の使い方は、いのちの使い方、この世に“雑用”という用はない。
用を雑にした時に、雑用が生まれるのだということを、心に叩きこまれた修練院での一コマであった。

果たして、私が「お幸せに」と祈りながら皿並べをしたから、夕食で坐ったシスターが幸せになったかどうかは、わからない。
わからないでいいのだ。これは私の時間の使い方、私の人生の問題だったからである。
しかしながら一つ、たしかに変わった事があった。
それは、私から仏頂面が消えたことだった。

生きていく上では、嫌なこと、したくないこと、欲しくないもの、気に入らない相手など、数々の自分にとって“有り難くない”ものごとに向き合わないといけないことがある。
つまらない仕事を、つまらなくない仕事に変える術を若くして修練院で教えてもらえたことを、私は、感謝している。

「しあわせは、いつも自分の心が決める」のであり、私たちは環境の奴隷ではなく、環境の主人となり得る人間の尊厳を取り戻さなくてはならない。……

仕事を“する”doingも大切だが、どういう自分かというbeingを忘れてはいけない。」

(「雑用はない」/『文芸春秋』2012年10月号)

「修行」あるいは「修練」と聞くと、私たちはすぐに、特別な「時」に、特別な「場所」でする、特別な「行為」を連想します。
座禅を組んだり、滝に打たれたり、……。
でも本当にそうでしょうか。
衣食住のあらゆる仕事が「心」のあり方一つで「修行」にも「雑用」にもなるのではないでしょうか。

『一言芳談』という書物に法然上人の

「たとい余事をいとなむとも、念仏ししこれをするおもいあるべき也。
  余事をしし念仏せんと思うべからず」
(たとえ他のことをする場合でも、念仏しながらそれをするのだと考えなくてはいけない。
  他のことをしながら念仏しようと考えてはならない)

という言葉が伝えられています。

念仏―口で「南無阿弥陀仏」と称えることは行為としては簡単ですから、何か他のことをしながらでも可能です。
「念仏をしながら他のことをする」のも「他のことをしながら念仏する」のも外見上は全く違いがありません。
ではなぜ「他のことをしながらの念仏」ではなくて「念仏をしながら他のことを」でなくてはならないのでしょうか。

善導大師は「私たちは愚癡(ぐち)の身である」と言われます。

「愚癡」とは人間の「無明」(むみょう)―真理真実が見えない―という意味の仏教語ですが、具体的には、それこそ「愚痴っぽい」、自分の置かれた場所・環境を素直に受け入れることができない、私たちの在り方を言います 。

私たちは日頃すぐに

「つまらない。面白くない。何かいいことないかな」

を連発します。
時には

「自分の人生、こんなはずじゃなかった」
「いつまでこんなことを続ければいいのか」

と愚痴り、時には

「自分がこんな目に遭うのはあいつのせいだ」

と責任転嫁し逆恨みの虜となる場合さえあります。

私たちは本質的に「幸せは自分の心が決める」ことを知らない存在(身)なのです。
私たちの眼は外にしか向いておらず、外しか見えない。
だから自分の不幸の根が自分の内側(心)にあるなどとは考えが及ばないのです。
ましてや自分の眼そのものが濁っているなどとは。

私たちにそのことを教え、

「環境の奴隷ではなく、環境の主人になりなさい」

と呼びかけて下さるのが阿弥陀さまであり、その阿弥陀さまの願いを絶えず自分の心に留めておく。
それが「念仏する」という行為の意義―「憶念弥陀仏本願」(弥陀仏の本願を憶念)する(「正信偈」)―なのでしょう。

次の言葉はインターネットでたまたま見つけたものです。

おそらくは仕事上のトラブルを乗り越えるための心得として書かれたものかと思われますが、これもまた、人生全般に通用する、阿弥陀さまからの私へのメッセージと言えるかも知れません。

自分の中の「何か」が、この事態を招いている。
自分の考え方か。ものの言い方か。
物事の捉え方か
自分は被害者意識が強くなかったか
相手を責めてばかりではなかったか
落ち込みの原因をつくったことから考えてみる。
するときっと自分のやり方の何かが出てくるだろう。
そこで学ぶのだ。
そのやり方ではもう通用しないということを。

       『「わたし」を変える言葉123』(吉元 由美 著/三笠書房)

(『西念寺婦人会だより』2013年3月号掲載)


※善導大師『観経玄義分』

我等愚癡の身 曠劫より來流轉して
今釋迦佛の末法の遺跡 彌陀の本誓願 極樂の要門に逢へり
 
 
2013年5月発行 掲載分
 
 

「随所に主と作()る」(『臨済録』)


前回私は、渡辺和子氏(ノートルダム清心学園理事長)の米国修行時代のエピソードを紹介しましたが、この話を聞いて私は、鎌倉時代の高僧道元禅師(1200―1253・曹洞宗の開祖)の若き日のエピソードを思い出しました。

(当時の中国)への留学を志した禅師は、1223年5月、浙江省寧波に到着しました。
到着後、しばらくの間、禅師は港内に停泊中の日本船に留まっていましたが、そこへ、近くの寺(阿育王山寺)で典座(てんぞ)―禅宗寺院で修行僧の食事、仏や祖師への供膳を司る役職―を勤める老僧(6 1歳)が日本から積んできた乾シイタケを買い求めにやってきました。
聞けば翌日の法会の際にふるまう食事の材料として必要なのだと言います。

道元禅師は、

「折角の機会だからいろいろとお話を伺いたい。
 ぜひ船に泊まって下さい。」

と頼みますが、老僧は、

「明日の法会には私が食事の準備を指示監督しなければならないので、帰らなければならない。」

と断ります。
禅師は、

「寺には典座が何人もおられるのだから、貴方お一人おられなくても差しさわりはないでしょう。」

と重ねてお願いするのですが、老僧は、

「この典座の仕事こそが私の修行なのだから、他の者に任せるわけにはいかない。」

と首を縦に振りません。

そこで禅師が、

「貴方ほどの高齢の方が、なぜ座禅を組んだり、古人の公案(禅僧の言行録)を読んで考えたりすることもしないで、わずらわしい典座の仕事を勤められるのですか。」

と尋ねたところ、老僧は大笑いして、

「外国の人よ、貴方は大変勉強熱心な人だが、禅の修行や文字の何たるかがいまだ分かっていないようだね。」

と言って帰ってしまったそうです。

また、入国後、禅師が天童山景徳寺で修行しておられた時のことです。
昼食の後、廊下を歩いていた禅師は、「用」(ゆう)という名の老典座(68歳)が仏殿の前でシイタケを乾しているのを見かけました。
強い日ざしの焼けつくような暑さの中で、用典座は笠もかぶらず汗びっしょりで、いかにも苦しそうでした。

禅師が、

「どうして下働きの者にやらせないのですか。」

と尋ねたところ、用典座は、

「他人がやったのでは自分がしたことにならない。」

と答えました。

禅師が、

「それはそうでしょうが、何もこんな暑い時にやらなくても。」

と言うと、用典座は、

「では、いつやるのだ。(今でなければいつ、乾す時があるのか。)」

と逆に問い返してこられたそうです。
禅師は答えに窮して引き下がられる他なかったそうです。

道元禅師は著書『典座教訓』の中でこれらの「失敗談」を紹介した後、

「自分がわずかながらも禅というもの、その修行や文字の意味を理解できるようになったのはこれら両典座のおかげだ」

と語っておられます。

禅の悟りというものは私にはよくわかりませんが、前回も書いたように、「修行」とは特別な「時」と「場所」を設けて行う特別な「行為」ではなく、日常生活のあらゆる場所、あらゆる仕事の中で行う「心」のトレーニングとも言えるのではないでしょうか。

若き道元禅師の眼から見れば、座禅や公案こそが「修行」―「つまらなくない仕事」であり、典座の仕事(食材の買い出しや準備)は「雑用」―「つまらない仕事」であったのかも知れません。しかし、実はそのような考えこそが、一つのものの「見方」「考え方」に凝り固まった「執著(しゅうじゃく)」だったとも言えるのではないでしょうか。
二人の老典座は禅師のそんな「とらわれた心」に痛棒を喰らわせたのでしょう。

ある会社に就職した女子社員が、ろくな仕事も与えられず、「お茶くみ」ばかりやらされて腐っていました。

「お茶くみなんて取るに足らない仕事だ。
 どうして周囲はもっと私のことを評価してくれないのか。」

ところがあることをきっかけに、

「同じお茶を淹れるのならば、飲む人が喜ぶような美味しいお茶を淹れよう。」

と考えを変えて、いろいろと工夫をするようになりました。
そんなある日、その会社を訪れた別の会社の重役がそのお茶の美味しさに感激し、わざわざその人を呼び出してお礼を言い、「こんな美味しいお茶を出してくれる人のいる会社ならば……」と会社そのものまでが大変高く評価された、というのです。

お茶くみという一見ちっぽけな仕事が、一人の人間の主体的な取り組みによって、大きな貢献と評価を生んだのです。

「随所に主と作(な)る」―とらわれた心の在り方を翻して、どのような場所・状況に 置かれても、その所に随って、主体的に考え物事と取り組んでいくことを通して、「つまらない仕事」を「つまらなくない仕事」に変えていく営み、自身を環境の「奴隷」から環境の「主人」へと変えていく営み、渡辺氏の言葉を借りれば「置かれた場所で咲こう」とする営み、それこそが「修行」と言えるのではないでしょうか。


(『西念寺婦人会だより』2013年5月号掲載)


《参考ウェブサイト》
「典座ネット〜禅と精進料理〜」
「HIRO'S HOME PAGE:典座教訓全文」
「典座教訓(てんぞきょうくん)始めに」

 
 
 
2013年9月発行 掲載分
 
 

「愚者は教えたがり 賢者は学びたがる」(チェーホフ)


「今月の言葉」としてご紹介するのは、ロシアの短編小説家アントン・チェーホフの、いささか耳の痛い言葉です。

愚かな人は自分を賢く見せることばかりに気を取られて物事を深く学ぼうとしない。
とかく知ったかぶりで生半可な知識をひけらかしたがる。
それに対して賢い人は、「自分が何も知らない」ということを知っている。
言葉を換えれば、自らが「不完全」、あるいは「未完成」であることをよく知っているから、新しい事柄を、既知の事柄をもより深く学ぼうとする、という意でしょうか。 

私はこの言葉を聞いて仏典の、ある一つのエピソードを思い出しました。

お釈迦さまの在世中、「天眼第一」と賞されたアヌルッダ(阿那律あなりつ)という弟子がおられました。
出自に関しては諸説あり、釈迦族の貧しい食事運搬人であったとも、お釈迦さまの従弟であったとも伝えられています。

祇園精舎でのお釈迦さまの説法中、不覚にも彼は居眠りをしてしまいます。
お釈迦さまにそれを叱責された彼はそれ以後、不眠・不臥の誓いを立てて修行に励みました。
お釈迦さまは彼に眠ることを勧めますが、彼は誓いを曲げず、ついに失明してしまいます。

ある日、アヌルッダは法衣を繕うため針に糸を通そうとしますが、盲目であるためうまくいきません。
彼は心の中で呟きます。

「どなたか私のために針に糸を通して功徳を積もうとする方は居られませんか。」

すると、

「では私が功徳を積ませていただこう。」

という誰かの声とともにアヌルッダの手から針と糸が取り上げられました。
その声の主は何とお釈迦さまでした。

「私はあなたに申し上げたのではありません。
 すでに悟りを開かれた、もはや功徳を積む必要のないはずのあなたが、なぜ。」

と驚くアヌルッダに対して、お釈迦さまはこう答えられました。

「この世の中で私ほど功徳を積むことを求めているものはいない。
 私は道を求めるにあたって飽き足りることがないのだよ。」

後世の仏教徒はお釈迦さまを神格化して「無学むがく」(学ぶべき事柄のない、学ぶ必要のない人の意、現代とは逆の用法)と褒め讃えましたが、現実のお釈迦さまは自分を「完成者」の高みに置くことなく、あくまで一求道者、一修行者、それこそ一介の「乞食坊主」であろうとなさっていたのでしょう。

大国の王さえお釈迦さまに帰依していたのです。
望めば名誉と裕福な生活を手にできたにもかかわらず、お釈迦さまは29歳で出家し80歳でクシナガラの地で亡くなるまで、終生ボロ布を縫い合わせた衣と托鉢の鉢(三衣一鉢)のみを携えての遍歴・流浪のご生涯をおくられたのでした。

そんなお釈迦さまはまた、こんな言葉を遺しておられます。

「もし愚かな人が「自分は愚かである」と知っていれば、それは賢い人である。
 愚かであるのに「自分を賢い人間だ」と思う人こそ、本当に「愚か者」だと言わなければならない。」(『ダンマパダ』※2

もしかしたらお釈迦さまは、自分を「賢者」ではなく、あくまで学び続けるべき「愚者」である、と考えていらっしゃったのかも知れません。

お釈迦さまが亡くなってから約2000年後、15世紀の日本で活躍された蓮如上人は、

「それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
 たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。
 しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。」
                         (『御文』第5帖2)

として、智者と愚者との分かれ目は知識の量などではなく、「後世を知る」「一念の信心のいわれを知る」か否かがである、とおっしゃっています。

「後世」「信心のいわれ」を知るとは、言わば阿弥陀仏の本願の慈愛の中にある自分に目覚めることです。
つまり本願を信じて念仏する人こそが真の智者であると蓮如上人はおっしゃるのです。

しかし、本願に目覚めることはまた自らの「愚かさ」に深く知ることでもあります。

そして、その自分の「愚かさ」、自分の「本当の姿」を親鸞聖人は例えば次のようにおっしゃいます。

「われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。
 賢人というは、かしこくよき人なり。
 精進なる心もなし。
 懈怠の心のみにして、内は、むなしく、いつわり、かざり、へつらう心のみ、つねにして、まことなる心なき身なりと知るべしとなり。」(『唯信鈔文意』※3)                         

善人でありたい私たち、賢人・精進の人と見られたい私たちにとって、自分を知ることは決して嬉しいこと楽しいことではありません。

しかし、この愚かな自分を全面的に受け入れてくれる如来の本願に目覚めた時、人はいたずらに自分を飾り衒う必要もなく、愚かであることに安んじて生きていける。
愚かである自分の分を尽くしていくことができるのではないでしょうか。

そして、そのような生きざまをこそ親鸞聖人は「往生」――浄土に往き生まれるべき生と教えて下さっているのではないでしょうか。

「浄土宗の人は愚者になりて往生すべし。」
「浄土門は愚痴に還りて極楽に生まる。」

親鸞聖人の師法然上人はこんな言葉を遺して下さっているのです。

(『西念寺婦人会だより』2013年9月号掲載)


※1『雑一阿含経』巻31、力品
   (『大正新脩大蔵経』第2巻718頁c段〜719頁b段)参照。

※2『ダンマパダ』(訳:中村元)

「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」(岩波文庫『真理のことば・感興のことば』19頁) 

※3『唯信鈔文意』

「「不得外現 賢善精進之相」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。」

※4『末燈鈔』第6通

「故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。」

※『三心料簡事』

「凡そ聖道門は智慧を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生る。所以は聖道門に趣くの時は智慧を瑩として禁戒を守り、心性を浄むるを以て宗と為す。然れども浄土門に入るの日は智慧を憑まず、戒行を護らず、心器を調えず、只々甲斐無し。無智者と成る者本願に憑 往生を願う也。」(『昭和法然上人全集』451頁)

※『諸人伝説の詞(信空上人傳説の詞)』

「もし智慧をもて生死を離れるべくば、源空なんぞ聖道門をすてて、この浄土門におもむくべき。まさにしるべし。聖道門の修行は、智慧をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴に返りて極楽にむまると。」(『同』672頁)

 
 
2013年11月発行 掲載分
 
 
「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」
「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死を離れ、

 浄土門の修行は、愚痴に返りて極楽にむまると。」
                                  
(法然上人)
 

前回の「今月の法話」の文中、私は上記の法然上人(親鸞聖人の師、1133〜1212)のお言葉を紹介しましたが、この中の「愚者(おろかもの)」についてもう少し解説してみたいと思います。

おそらく大概の人は自分のことをこう考えているでしょう。
自分はそれなりに人生経験もあり、知識も積んでいる。常識もある。
「賢い」とは言えないまでも馬鹿ではない。
決して「愚か者」ではない、と。

しかし、ここで法然上人がおっしゃっている「愚か」とは、必ずしも「賢い」に対する「愚か」という意味ではないのではないでしょうか。

前回私は、お釈迦さまの弟子のアヌルッダ(阿那律・あなりつ)尊者のことを紹介しました。

不眠・不臥の誓いを立てて激しい修行を続けた結果、目が見えなくなった代わりに「天眼通(てんげんつう)」――あらゆる事象を自由自在に見通すことのできる神通力――を得たとされるお弟子です。
(おそらくは視力を失ったかわりにそれ以外の感覚器官の働きが増し、観察力・洞察力が並はずれて鋭くなった方ではないかと推察されます。)

ただ、アヌルッダ尊者が盲目になるほど修行に没頭された発端は、祇園精舎でのお釈迦さまの説法中、不覚にも居眠りし、それを大衆(だいしゅう・修行僧たちの集団)の面前でお釈迦さまに叱責されたことにあります。

説法中に居眠りをした弟子を叱責するのは指導者としては当然のことです。
それを放置しておくことは本人のためにならないことはもちろん、他の修行者たちにも悪影響を与えかねません。

しかし、その後の一睡もしないアヌルッダの常軌を逸した修行ぶりと、ついには視力を失ってしまった姿を目にした時、お釈迦さまの心中にはどんな思いがよぎったことでしょう。

もちろんお釈迦様も彼の目が潰れていくのを手をこまねいて見ていたわけではありません。

「張りつめ過ぎた糸は切れやすい。
修行も厳しさ一辺倒ではなく、緩めるべき時は緩めるというメリハリが必要だ。」

と説得し、休息を勧めましたがアヌルッダは聞き入れませんでした。

アヌルッダ尊者の「自業自得」とはいうものの、

「あの時、自分が彼を叱らなければ……、
 同じ叱るにしても大衆の面前でなければ……、
 あるいはもっと別のことばで……。」

こういった思いがお釈迦さまの心をよぎらなかったでしょうか。

また、その晩年、従弟であるデーバダッタ(提婆達多・だいばだった)が教団を自分に委譲してお釈迦さまに隠退することを求めた際、

「シャーリプトラ(舎利弗・しゃりほつ)やモッガラーナ(目連・もくれん)のような優秀な弟子にさえ譲ろうとはしていないのに、ましてやお前のような野心家に教団を任せる気はない。」

とお釈迦さまは彼を面罵されます。
怒ったデーバダッタは新参の弟子多数を引き連れて教団を飛び出し、その後お釈迦さまの殺害を試みるなど種々悪行を重ねました。

デーバッダッタの悪逆を目にしたお釈迦さまの胸に同様の思いがよぎらなかったでしょうか。

〈自分はただの凡夫、愚か者に過ぎない。〉

おそらくは皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。

人生の様々な場面であれかこれかの選択を余儀なくされ、その時でき得る限りの最善の道を選んだにもかかわらず、その後幾度となく後悔に心をさいなまれたことが。

また、たとえその道が間違いなく破滅に向かっているとわかっていても、絶望しか生まないとわかっていてもその道を進むしかない、その道からそれることができない、他に選択肢がないという場面も人生にはあります。

悲しいことに私たちには未来を見通す智慧はありません。

法然上人がおっしゃる「愚者」とは、精一杯に頭を働かせ、体を使い、その時その時最善を模索しながら、結局は想像もつかない世の中の動き、不可解な人の心の動き、さまざまな「縁」に翻弄されていくしかない者、すなわち私たちを指すのでしょう。
多少人より頭の働きが早い、目端が利くとはいっても所詮私たちは誰もが皆この厄介な世を喘ぐように生きていかざるを得ない愚か者・凡夫なのです。

そしてその私たちは皆等しく阿弥陀仏からその在り様を悲しまれ、救い遂げずにはおかないと願われている存在であります。
「阿弥陀仏に南無せよ」(私の願いを聞き届けよ)の呼び声に出逢い、「阿弥陀仏に南無します」と念仏することを通して、失敗と後悔を繰り返しながらそれでもこの世を生き続けようという勇気を与えられる者、それが私たちなのです

(『西念寺婦人会だより』2013年11月号掲載)

《参考文献》
瀬戸内寂聴『釈迦』(新潮社・2002年)
定方 晟(さだかた・あきら)『阿闍世のすくい―仏教における罪と救済―』(人文書院・1984)


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