「西念寺婦人会だより」2011年1月〜12月分 |
2011年3月発行 掲載分 | |
人生の「完全燃焼」 最終回(第48話)には、慶応3年(1867)11月15日の夜、京都近江屋に潜伏中の龍馬が、来訪中であった中岡慎太郎共々刺客に襲われ、命を落とすシーンが放映されました。 瀕死の重傷を負った龍馬が苦しい息の下、これも血まみれの中岡慎太郎に次のように語りかけます。
中岡の返答に龍馬は小さく笑い、そのままこと切れてしまい、まだ息のある中岡は、龍馬の名を叫びながら懸命に這いずって行きます……。 私はこの場面の龍馬の「この(自分の)命を使い切る」という言葉に大変心惹かれました。
といった言葉も伝えられているように、坂本龍馬はもともと「事―しごと―を為す」、それも自分ならではの「事」、自分にしかできない「事」を為すために自分の命を使い切っていく、という強い意志をもった人であったようです。 坂本龍馬のことはひとまず措くとして、この「命を使い切る」ですが、この言葉は言い方を換えれば「与えられた命を燃やし尽くす」「人生を完全燃焼する」と言うこともできるのではないでしょうか。 私たちそれぞれが為す具体的な「事、しごと」は個々別々です。
末期の肝臓がんで亡くなったある新聞記者は、自らの闘病記を所属の新聞に連載し、その壮絶な闘病の顛末は多くの読者の心を揺さぶったそうです。 その彼がいよいよ最期を迎えた時、彼は病室で妻の手を取り、
と声をかけ、続いて残された最後の肉親である妹に
と寂しそうに笑いかけ、近しい仲間の一人には
と告げ、それからゆっくりと「身内」と称する仲間たちで一杯となった病室を見回して、静かに眸を閉じました。 医師が死亡時刻を告げるために時計を見た時、誰かが小さく拍手をしました。 一瞬あって、また誰かが拍手を続け、病室はたちまち拍手の渦に包まれたのだそうです。 末期がんという過酷な境遇を受け止め、文字通り「懸命」に新聞記者としての「事」を為し、自らの命を生き切った「完全燃焼」の見事な生きざまは、残された人たちに深い悲しみと同時に、何かしらの「鮮やかさ・爽やかさ」すら感じさせたのではないか、と私は想像するのです。 「完全燃焼」の反対語は「不完全燃焼」です。 自らの境遇をひたすら嘆いて、
といった愚痴と怒りと不平不満を撒き散らす人生。 実際の「不完全燃焼」が有害な一酸化炭素を発生し、知らないうちに人間の体を蝕むように、「不完全燃焼」の人生は、その人の命ばかりではなく周りの人の命をも蝕んでいくのではないでしょうか。 仏教の伝統ではこの「不完全燃焼」の人生を「空過」の生―空しく生死を流転する生として人間の最も悲 しい、傷ましい在り方であるとしてきました。 たとえどんなに苦しい、悲惨な人生であっても
と決断できれば、おのずから自らの「為すべき事」が明らかになってくるのではないでしょうか。 そしてその「決断」は、独りぼっちで苦しみと戦っているこの自分に、
という「思い」が、阿弥陀仏の「願い」がかけられていることに目覚めた時、初めて可能となるのではないでしょうか。 親鸞聖人は、
と説いて、その阿弥陀仏の本願を私たちに伝えることに90年の生涯を費やされました。 来る3月19日(土)より、本山東本願寺において宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されます。 (『西念寺婦人会だより』2011年3月号掲載) 《参考文献》 |
2011年11月発行 掲載分 |
たとえ明日、世界が滅びるとしても、
という作者不詳の言葉を掲示しています。 実際の西念寺の山門の掲示板には8月に、若干のアレンジを加えた
という文を貼っていました。 この文の「世界が滅びる」も「リンゴの木を植える」もひとつの喩えです。 要は、それらの収穫を自分が目にし口にすることができそうにもないような時、言い換えれば、身に降りかかった様々な事柄によって自分自身が打ちのめされて未来に希望が持てない、前途に何らの期待も展望も持ち得ない状況の中で、それでも人が自分の足で立ち上がり、一歩足を踏み出すことができるかどうか、という話なのだと思うのです。 「リンゴの木を植える」も、特別に何か変わったことを始めなければならないという意味ではありません。 でも、時として、それらをすらなす意欲を失ってしまう時が私たちにはあります。
でも、そんな私たちをして「それでも、私はリンゴの木を植える。いや植えなければならない」と励まし、勇気づけ、時には突き飛ばすかのような強い力で背中を押してくれるものがあります。 それは他でもない、人の口から出る「言葉」であり、その言葉に託された「想い」ではないでしょうか。 去る3月11日に東北地方は未曾有の大震災に見舞われ、多くの人命が喪われ、運好く命永らえた人たちも今なお塗炭の苦しみを味わっておられます。 震災直後の被災者の方の言葉の中で一番私の耳に残っているのは、
という言葉でした。 考えてみれば、今ある私たちがここにこうして生きているのは、間違いなく亡くなった先人たちが、それぞれの人生において「明日、世界が滅びる」ような思いを何度も味わいながらも必死に「リンゴの木を植えて」くれたおかげではないでしょうか。 また、震災以来、多くの人たちがボランティア等で現地に入られましたが、その人たちの多くがこんな言葉を口にされました。
私自身、新聞・テレビ等を通して被災地の様子を漏れ聞くしかない身ですが、そんな私でさえ被災者の方から励まされた、いやむしろ頬を叩かれたような思いを抱いたことがあります。 大阪・難波別院発行の月刊新聞である『南御堂』6月号掲載のある記事を読んだ時のことです。 その記事には、 「宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌法要には大勢のご門徒が参拝する予定だったけれども震災のために中止せざるを得なかった。 とありました。 この記事を読んだ私は岩手県大船渡市在住の旧知の住職―彼もまた震災当日、海辺のご門徒宅にお参りに行っていて危うく難を逃れ、眼下で多くの家々が津波に呑まれていくのを目の当たりにしたそうです―に連絡をとりました。 それを聞いた時、私は恥ずかしくなりました。 まだまだ苦しい日々の生活の中で、この方たちはどんな想いで本山に行かれるのだろうか。 私たちの宗門はこれらご門徒の想いに本当に応え得る内実を持っているのだろうか、と。
耳を澄ませば、沈黙する死者の、寡黙な生者の「声無き声」が聞こえてきます。 (『西念寺婦人会だより』2011年11月号掲載) |
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