法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2010年1月〜12月分
 
 
2010年5月発行 掲載分
 
 

長い手紙
 

映画「おくりびと」の「石文」のエピソードに触発されたせいか知れませんが、最近、ふとこんなことを考えました。

もしかしたら人は、その人生の営みを通して、長い長い一本の「手紙」を書いているのではないだろうか、と。

近年では、いわゆる「自分史」としておのれの半生を書き遺していかれる方もありますが、たとえ文章にはならなくても、また本人がそれと意識してはいなくとも、誰もが、日々様々な出来事に出遭い、時には一喜一憂、時には七転八倒しながら、その人なりの長い「手紙」を書いているのではないでしょうか。

手紙ですから当然「誰か」に読んでもらうことを前提として書き始めます、
その「誰かに」とは言うまでもなく家族や友人、そのほか自分と縁のある人たちに、でしょう。

また、手紙とは「何か」を伝えるために書くものです。
「何か」伝えたいことがあるから手紙を書くのです。

ただ人生という「手紙」の場合、伝えたい「何か」が必ずしも明確ではないのではないでしょうか。

人は日々の暮らしの中でほとんどの時間を目の前の所用をこなしていくことに追われています。
難題を前に頭をひねり、時に「ああでもない、こうでもない」と右往左往しながら暮らしています。
それが良いとか悪いとかいう以前に、頭と体をフル回転させなければ乗り切っていけないほど私たちの日常は忙しく、また厳しいとさえ言えます。

そうこうしていくうちにあっという間に一年一年が経ち、気がつけば人生の大半が過ぎ去っていた。
これが私たち「凡夫」の偽らざる実感ではないでしょうか。

けれどそんな日々の中で、私たちは「何か」を遺したい、後に続く者たちに「何か」を伝えたいと心の奥底で思っているのではないでしょうか。

自分の人生がただ過ぎた、ただ長かった、ただ苦しかったというだけで終わりたくない。
「何か」を、自分の「足跡」「生きた証」をこの世に遺したい。

おそらくは私たちの誰もがそれと気づかないながらも、このような想いに突き動かされて日々を生きているのではないでしょうか。
(「自分史」の流行もそのような動機が影にあるのではないでしょうか。)

その証拠に人は時としてこんなことを考えます。

「自分の一生とは何であったのか。
 何のために生まれ、何を大切にして生きてきたのか。
 そして後に続く者たちに何を遺し、何を伝えていけるのだろうか」と。

この「何か」を、自分の人生の「意味」や「目的」を明確にできた人、「自分はこのためにこの世に生まれてきたのだ」と言い切れる人はある意味で大変幸せな人ではないでしょうか。

人生とは言わばそれを見つけるための暗中模索であると言えるのかも知れません。

また「手紙」には始めと終わりがあるように、人生にもそれがあります。

「オギャア」という産声が書き出しの「拝啓」「冠省」といった言葉に当たるとしたら、終わりの「敬具」や「かしこ」に当たる言葉は何でしょうか。

親鸞聖人のご最期を、ひ孫である覚如上人は『御伝鈔』に次のように伝えておられます。

聖人弘長二歳壬戌仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。
自爾(それより)以来(このかた)、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。
声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。
しこうして同(おなじき)八日午(うまの)時、頭北(ずほく)面西(めんさい)右脇(うきょう)に臥したまいて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。
時に、頽齢(たいれい)九旬(くじゅん)に満ちたまう。

(弘長2年(1262)11月下旬、親鸞聖人は体調を崩し危篤となられました。
 以来世間の事柄を口にされることなく、ひたすら念仏を称えて阿弥陀仏のご恩を讃えておられましたが、28日の正午、ついにその「念仏の息」が絶え、頭を北に右脇を下に、阿弥陀仏のおられる浄土のある西に顔を向けてお亡くなりになられました。
 御歳90歳でした。)

この記述から、親鸞聖人の90年の御生涯が「南無阿弥陀仏」というただ一つの言葉―「南無阿弥陀仏」に救われ、その心を明らかにし、伝えること―に貫かれたものであったことが知られます 。

多くの先人が「手紙」を書き、それを読み解きながら自分もまた「手紙」を綴る。
そしてそれをまた次の人が糧としていく。
その連続が人間の「歴史」を形づくっていくのであれば、先人が、近くは自分の父母が何を伝えてくれたのか、自分が何を伝えることができるのか、何を本当に伝えなければならないのか、じっくりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2010年5月号掲載)
 

 


『恵信尼書簡』(西本願寺蔵)

《親鸞聖人の妻恵信尼公が末娘覚信尼にあてた手紙》
 

 
 
2010年9月発行 掲載分
 
 

蓮の華

浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来、阿弥陀(アミダ・無限のいのち、無限のひかり)という名の仏様ですが、その阿弥陀如来がどこに立っていらっしゃるのか皆さんご存知でしょうか。
(わからない方は御自宅のお内仏の御本尊をご覧になるなりなさってください。)

そう、蓮台(れんだい)、蓮の華の台座に立っておられるのです。

京都や奈良の観光寺院に行ったことのある方は思い出して下さい。
阿弥陀如来に限らず、大概の仏さま、菩薩さまは 、立像坐像を問わず、この蓮の台(うてな)の上におられます。
 

 


月輪と蓮台
(平等院鳳凰堂木造阿弥陀如来像内納入品)

Wikipediaからの抜粋》
 

 
 

あらゆる仏・菩薩がなぜ蓮華の上にいらっしゃるのかといえば、蓮の華の汚れのない浄らかさが仏の「悟り」を象徴しているからに他なりません。

お釈迦さまがインドのルンビニーの園でお母さまの摩耶(マーヤ)夫人の右脇からお生まれになった時、すぐさま7歩歩んで、天と地を指し、「天上天下唯我独尊」と語ったという伝説がありますが、そこではお釈迦さまが歩いたその 7歩の足跡から蓮華が咲いたとも言われています。

私たち真宗門徒の所依の経典である『大無量寿経』『阿弥陀経』にも蓮の華が登場します。

阿弥陀仏のおられる西方極楽浄土には冷たくきれいで澄み切った水をたたえた池があり、そこに色とりどりの蓮の華が大きな車輪のごとくに咲いていて、「青色の華は青い光を、黄色い華は黄色い光を、赤い華は赤い光を、白い華は白い光を放って輝いている」というのです。※1
そして、南無阿弥陀仏と称えて命終わった者がその蓮の華の中からお浄土に生まれてくるというのです。

このように仏教は伝統的に蓮の華を大事にしてきたのですが、それはなぜかといえば、蓮の華の咲く場所に大切な意味を見出してきたからなのです。

それを示すものが、『今月のことば』として挙げた『維摩経』(ゆいまぎょう)の

「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。
 卑湿の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず」

という一句なのです。

水の上に華開いた蓮は確かにきれいで汚れがありません。
しかし、その華の下の茎は必ずしもきれいとは言えない水の中にあり、そのさらに下の根はまさしく「泥」、腐った木の葉や魚の糞が溜まってでき た水底のヘドロ状の汚泥の中にあります。

蓮の華は「高原」の乾いた土地に咲くのではなく、「卑湿の淤泥」、水底の卑しく湿って汚れた泥から生まれながら、しかもその泥に汚れることなく水上に 浄らかな華を咲かせているのです。

「蓮の華」が仏の「悟り」の浄らかさを象徴するのに対して「泥」が象徴するのは何でしょうか。

親鸞聖人はこの『維摩経』の文を、

「これは凡夫、煩悩の泥の中にありて、仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり」
                                                                 (『入出二門偈頌』)

と解説しておられます。

「泥」、それはつまり「煩悩の泥」、私たち凡夫(ぼんぶ・生きることに迷い苦しむ者)が、日々の暮らしの中で、目の前の事柄(問題)の処理に身と心で煩わし悩みながら※2、そのほとんどを、「怒り、腹立ち、妬み、嫉み」といった負の感情にとらわれ、振り回されて生きている私たちの生きざまそのものを現しているのであり、「仏の正覚(しょうがく)の華」、汚れのない仏の悟りはそのような「凡夫の煩悩の泥の中」からこそ生まれるのだと説かれているのです。※2

お浄土の池に咲く蓮の華は、この私たちが生きているこの現世の穢土(えど)に根を張っているのです。

青、黄、赤、白……。
経典に説かれるお浄土の蓮華の色の違いはおそらくは私たち一人一人の人生の違い、性別や人種・国籍、性格といった個性や歩んできた人生の道のりの違いを現すものなのでしょう。

それがお浄土ではそれぞれの個性、人生を反映してそれぞれの色(自分色)の光を放って大輪の華を咲かすというのです。

私たちは皆人生の「泥」にまみれて悪戦苦闘しながら生きています。
生きるために、生き残っていくためにはきれいごとばかりでは済まされません。
時には嘘もつかねばなりません。
決して浄らかでも美しくも立派でもありません。
みっともなく卑しくちっぽけな自分でしかありません。

でもそんな泥にまみれて生きるしかない人生なのだけれども、泥を泥のままで終わらせるのではなく、その泥の中から、ちっぽけならちっぽけななりの自分色の蓮の華を咲かせて欲しい。
これが仏さまが私たちにかけてくださっている願いではないでしょうか。

先日亡くなられたあるお婆さんのことを御遺族からお聞きしました。

死病を宣告されたあるお婆さんは、それから亡くなるまでの2年半、周囲の人たちにひたすら「ありがとう」と言い続けられたそうです。
1日何十篇も、それも毎日毎日。

人は苦しければ苦しいほど、自分のことしか考えられなくなってしまう生き物です。

「なぜ自分だけがこんな目にあうのか」
「私の苦しみをなぜ誰も理解してくれないのか」
「なぜ病人である自分のことを一番に考えてくれないのか」……

長い闘病生活の間にこのお婆さんにそんな思い(愚痴)が何度も心中をよぎったとしても不思議ではありません。

それでもそんな思いをあえて口には出さず、「みんなのおかげで」と、半ば自分に言い聞かせながら、繰り返していかれたのではないでしょうか。

このお婆さんの態度(人生における姿勢)が周りの人たちにどんな影響を及ぼしたかはわかりません。
しかし、この行動を通してこのお婆さんは、自分の人生を「泥」のまま終わらせることなく、残された人たちの心の中に、肩書や業績とはまた別の意味の 、「大きな華」を咲かせていったと言えるのではないでしょうか。

(『西念寺婦人会だより』2010年9月号掲載)

※1『大無量寿経』巻上

「又衆寶蓮華、周滿世界。一一寶華、百千億葉。其華光明、無量種色。青色青光。白色白光。玄黄朱紫、光色亦然。暐曄煥爛、明曜日月。」
(また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一一の宝華、百千億の葉あり。その華、光明、無量種の色なり。青き色には青き光、白き色には白き光あり。玄黄朱紫、光色もまた然なり。暐曄煥爛として、日月よりも明曜なり。)

 『阿弥陀経』

「又舍利弗、極樂國土、有七寶池。八功コ水 充滿其中。……池中蓮華、大如車輪。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光。微妙香潔。」
(また舎利弗、極楽国土には、七宝の池あり。八功徳水その中に充満せり。……池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし。青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。微妙香潔なり。)

※2 善導大師『観経序分義』(『教行信証』「信巻」引用)

「また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり、と。抄出

※3『一念多念文意』

「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。
 かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。……
 二河のたとえに、一分二分ゆくというは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。」
 
 
2010年10月発行 掲載分
 
 

「この人を分陀利華と名づく」(「正信偈」)


前回の「婦人会だより」で私は、『阿弥陀経』の中に、阿弥陀仏の国である西方極楽浄土の池には大輪の蓮の華が「青色の華は青い光で、黄色い華は黄色い光で、赤い華は赤い光で、白い華は白い光」でそれぞれに光り輝いて咲いており、「南無阿弥陀仏」と称えた者はその華の中からお浄土に生まれてくる、と説かれていることをご紹介しました。

そしてその記述は、単なる「絵空事」―古代インド人の空想の産物などではなく、「凡夫の煩悩の泥」にまみれて生きるしかない私たちが、泥のままで終わるのではなく、泥の中からそれぞれに自分なりの、自分色の蓮のを咲かせて欲しい、という仏さまの願いを物語っているのではないか、とも書きました。
ところが親鸞聖人は驚くべきことに、私たちが蓮の華を咲かすのは何も亡くなった後のお浄土での話ではなくて、まさにこの世の、生きているうちの出来事であると説いておられるのです。

聖人がお作りになった「正信偈」の中には次のような一節があります。

 一切善悪凡夫人  (一切善悪の凡夫人、
 聞信如来弘誓願   如来の弘誓願を聞信すれば、
 仏言広大勝解者   仏、広大勝解の者(ひと)と言(のたま)えり。
 是人名分陀利華   この人を分陀利華と名づく。)

◆「分陀利華」(ふんだりけ)とは、「白い蓮華」を意味する古い印度の言葉(梵語)プンダーリカの音をそのまま漢字に写したものです。

【意 訳】
阿弥陀如来の「すべての人をお浄土へと生まれさせずにはおかない」と誓われた本願を聞き、信じ、念仏する身となった人を、釈迦牟尼仏(お釈迦さま)は「広く大きく勝(すぐ)れた解(げ、さとり・目覚め)を獲た者」、あるいは「白き蓮華」(仏のごとき汚れのないさとりを得た者)と呼んでほめたたえておられます。

こう親鸞聖人はおっしゃられるのです。

「煩悩」のない人間など一人もおりません。

人は日々の暮らしの中で、実にさまざまな問題にぶつかり、心を煩わせ、身を悩ませ、喜び、悲しみ、怒り、泣き、時に腹立ちや妬み嫉み、不平不満の虜(とりこ)となりながら生きています。
その意味において私たちは一人の例外もなく「煩悩具足の凡夫」と呼ばれなければなりません。

この煩悩まみれ、「泥」まみれの私たちのいったいどこに、仏さまから「白き蓮華よ」と呼ばれる資格があると言うのでしょうか。

前回私は、癌の宣告を受けた後、一日何十回も、ひたすら「ありがとう」と言い続けて亡くなっていかれたお婆さんのことを書きましたが、そのお婆さんがそれを始めたきっかけは、告知の 際、息子さんが言ったあるひと言だったそうです。

息子さんはその折、お母さんに向かってこうおっしゃったのだそうです。

「お母さん、いろいろ思いもあるだろうが、あなたも80何年と生きさせてもらったんだから、最後はみんなに「ありがとう」と言って、感謝していきなさいよ。」

闘病期間中、死への不安や悲しみ、我が身に巣食った病いへの憤りや愚痴、周囲への不平不満といったさまざまな思いが、それこそ日に何度も何度もこのお婆さんの胸の中をよぎったことでしょう。

しかし、そういった「煩悩」をあえて口には出さずに、おそらくは息子さんの「言葉」に、そして自らが繰り返す「ありがとう」の言葉に、

「おかげさまの中で今日もまた生かされている。」

と日々教えられて、感謝の言葉を繰り返して亡くなっていかれたのでしょう。

私たち真宗門徒は「聞法」―仏法聴聞を何よりも大切にしてきました。親鸞聖人は「如来の本願を聞きなさい」と説かれましたし、蓮如上人も「身をたえず仏法の水に浸しておきなさい」※1と教えられました。

法然上人は一日六万回乃至七万回の念仏を日課としておられたそうです。※2
(それを見て、「あんなにまで念仏を重ねなければ極楽に往けないのか」と惑われたお弟子もあったようですが、そうでしょうか。)

法然上人は「智慧第一の法然房」「持戒堅固の清僧」として世間の尊敬を集めながら、自らを「十悪の法然房」「愚痴の法然房」※3(罪深く愚かで智慧のない私)と述べ、その自分を摂め取って下さる如来の本願の尊さを語り続けられました。

上人は誰よりも深く大きな迷いを抱えておられたがゆえに、煩悩の泥の中でもがき喘ぐご自分をよく知っておられたからこそ、たえず自分を「南無阿弥陀仏」の法に浸しておられたのではないでしょうか。

そしてその念仏する法然上人のお姿を親鸞聖人は、「あの方こそ分陀利華」と心中深く仰いでおられたのではないか、と私には思えてなりません。

もし念仏の者(ひと)、当(まさ)に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり。
                                            (『観無量寿経』)

(『西念寺婦人会だより』2010年10月号掲載)


※1『蓮如上人御一代記聞書』第89条

人の、こころえのとおり、申されけるに、「わがこころは、ただ、かごに水を入れ候うように、仏法の御座敷にては、ありがたくもとうとくも存じ候うが、やがて、もとの心中になされ候う」と、申され候う所に、前々住上人(注・蓮如)、仰せられ候う。「そのかごを水につけよ」と、わが身をばほう(法)にひてておくべきよし、仰せられ候う。

※2『和語灯録』巻5

源空(注・法然)は、大唐の善導和尚のおしへにしたがひ、本朝の恵心(注・源信)の先徳のすゝめにまかせて、称名念仏のつとめ、長日六万遍也。死期やうやくちかづくによて、又一万遍をくわえて、長日七万遍の行者なりと。

※3『和語灯録』巻5

故上人(注・法然)のの給はく、われらはこれ烏帽子もきざるおとこ也。十悪の法然房が念仏して往生せんといひてゐたる也。又愚痴の法然房が念仏して往生せんといふ也。


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